seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

鉄の女たち

2012-04-23 | 映画
 この1カ月ほどの間に観たミュージカルと2本の映画について書いておきたい。
 まるで関連のないように思えたこれらの作品が記憶のなかで混ぜ合わされると、一本の筋が通るようにそれなりに意味を帯びてくるのが面白い。

 まず、3月中旬に天王洲銀河劇場で観たのが、ミュージカル「9時から5時まで」である。
 翻訳・訳詞は青井陽治、振付上島雪夫、演出は西川信廣。草刈民代、紫吹淳、友近の3人が大企業で働くOL役、石井一孝がセクハラ&パワハラ・パワー満載の上司役で出演している。
 この舞台のもとになったのが、1980年公開のアメリカ映画「9時から5時まで」(Nine to Five)で、コリン・ヒギンズが監督。ジェーン・フォンダ、リリー・トムリン、ドリー・パートンの演じる3人のOLが、日頃の仕打ちに腹を据えかねてボスに復讐しようとするブラック・コメディである。
 この映画をもとに、ドリー・パートン作詞・作曲でミュージカル化され、2007年のワークショップ、2008年のLAトライアウトを経て、ジョー・マンテロ演出で2009年4月7日よりブロードウェイのMarquis Theatreで初演された。私が観たのはそのミュージカルの日本での初演である。

 次に観たのが映画「マーガレット・サッチャー~鉄の女の涙」で、言うまでもなく、イギリス史上初の女性首相で、その強硬な性格と政治方針から「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャーの半生をメリル・ストリープ主演で描いたドラマである。
 監督は「マンマ・ミーア!」のフィリダ・ロイド。マーガレットを支えた夫デニス役をジム・ブロードベントが演じている。
 第84回アカデミー賞ではストリープが主演女優賞を受賞、「クレイマー、クレイマー」(79)、「ソフィーの選択」(82)に続く3つ目のオスカー像を手にしたのは周知のとおり。

 そしてもう一つ、ごく最近になって観た映画が、「ヘルプ~心がつなぐストーリー」である。脚本・監督・製作総指揮:テイト・テイラー、原作:キャスリン・ストケット。オクタヴィア・スペンサーがアカデミー助演女優賞を受賞、ヴィオラ・デイヴィスが主演女優賞にノミネートされている。
 原作は2009年に発表された同名小説で、世に出るまで60もの出版社から断られたが、刊行されるや口コミが広がり、映画の高い評価もあって全米で1130万部突破、42か国で翻訳出版という異例のロング&ミリオンセラーになったという作品である。

 これらの3本に共通するものは何か……。
 まず、女性が主人公であること、そろって男性の影が薄いということ。そして、いずれも何らかの差別がテーマとして扱われているということ、と言ってよいだろう。
 「9時から5時まで」は、以前共演したことのあるTさんがアンサンブルで出ている縁で観に行ったのだが、実をいうと、この時代に30年以上も前の企業が舞台になった話をなぜやるのだろうと思ってしまった。紫吹淳はさすがに舞台女優としての実力を見せていたが、ほかの二人がはっきりいって期待外れだったこともあり、あえて記録しておこうという気にもならなかった。だいたい、今や女性たちは十分強くなって、こんなセクハラ上司退治の話など、もはやおとぎ話ではないのか……。
 まあ、これが男の浅はかさというか、鈍感さの証なのではあるけれど、3本の作品を通しで続けて観ると、ここに描かれた問題がまさに今も社会の根底に根を張って、決してなくなってはいないのだということに気づかされる。

 これら作品の背景となった年代や舞台を見ると、「ヘルプ」は1960年代初頭のアメリカ南部の田舎町であり、「9時から5時まで」は1970年代終わり頃のアメリカの大都会である。「サッチャー」は、それと同じ時代の1979年にイギリス初の女性首相となり、80年代をとおして「鉄の女」と呼ばれながら国を変えるため男社会の中で奮闘した。
 「ヘルプ」で描かれたその時代、特に保守的な地域の女性たちにとっては働きに出ることなど夢のまた夢であり、早く結婚して子供を産み、良妻賢母となることが最良の生き方だった。ほぼ同時代の英国に生きたマーガレットは、そうした生き方に反旗を翻し、父の影響もあって政治家を志し、社会的な階層差別や女性蔑視の世界を戦い抜く。
 改めてそうした視点から見直すと、「9時から5時まで」は時代錯誤の作品などではなく、そうした女たちの戦いを鼓舞し、自分よがりな男どもを笑いのめした痛快な作品なのである。

 「ヘルプ」は、黒人差別という視点を基点としながら、彼らを差別する者が差別される者でもあり、差別される者がさらに弱い立場にいる者を差別し搾取するという現実をも描いている。
 それを観たあとの印象が思いのほか爽やかであるのは、作劇の妙だろうか、あるいは時代を経て、差別への抵抗や戦いの成果が少しは実りつつあることの証左なのだろうか。

 「マーガレット・サッチャー」では、今の日本の何も決められない政治状況を嘲るように強烈なリーダーシップを持った女性政治家の姿が描かれるが、同時にその危うさをもしっかり描きこんでいる。絶対の強者は存在せず、絶対の正義もあり得ないのだろう。
 それにしても「鉄の女の涙」という邦題は疑問である。「涙」はいただけない。


エリックを探して

2011-01-02 | 映画
 昨年末に観てしみじみ映画を観ることの幸せを感じたのが、英国の名匠、ケン・ローチ監督の最新作「エリックを探して」だ。(於:Bunkamuraル・シネマ)
 大まかな筋立ては次のとおり。
 マンチェスターの郵便局員エリックは、パニック障害で失敗し、別れた最初の妻リリーを心の底で今も愛しながらも何もできず、2度目の妻が置いていった連れ子の少年2人は手が焼けるばかりか、彼らにも冷たくあしらわれる始末。何をやってもうまくいかない人生を送っている。
 そんなある日、夜中に思わず自室の壁に貼ったあこがれのサッカー選手エリック・カントナのポスターに愚痴をこぼすと、暗がりから声がして、何とカントナ本人が現れたのだ。
 マンチェスター・ユナイテッドの大スターだったこのカントナはその後もたびたびエリックの前に現れ、サッカーにちなんだ格言とともにアドバイス、エリックを奮い立たせていく・・・・・・。

 この映画の見所は何と言っても往年の名選手エリック・カントナ本人がカントナの役で画面に現れ、重要な役どころを演じていることだろう。
 主人公が窮地に陥るたびに現れ、シンプルな言葉で勇気づけ、問題を乗り越えていく姿に観客も感情移入していくに違いない。
 主人公エリックの回想とともにいくつも挿入されるカントナのゴールシーンは見るものを高揚させてやまない。
 「サンダーランド戦、あのシュートは素晴らしかった。バレエみたいだった。一瞬、自分のクソ人生がどこかに消えていた・・・・・・」
 だが、カントナ本人は自分が目立ったシュートにまったく興味を示さない。「すべては美しいパスから始まるのだ」
 その言葉どおり、主人公エリックは郵便局の仲間たちの応援を得ながら、問題に立ち向かっていく・・・・・・。

 そもそもこの映画の企画はカントナ自身がケン・ローチ監督に持ち込んだそうで、彼は製作総指揮にも名を連ねている。
 サッカー好きで知られるローチ監督がその申し出を受け、うまく乗ったということなのだろうが、新たなアイデアを加え、肉付けしながら、いささか荒唐無稽ではあるけれど、この暗く景気の低迷した時代に希望と勇気を与えてくれる佳品である。
 この映画を通して、英国の抱える社会的問題や労働者階級におけるサッカーゲームの位置づけなど様々なことを知ることができる。

 さて、話は少し変わるが、こうした優れた映画を上映するミニ・シアター系映画館の経営が低迷しているとのことだ。
 観客の嗜好が変わりつつあるということなのか。顕著なのは、若い世代の観客の減少だという。
 そう言えば、私が「エリックを探して」を観た時も回りは圧倒的にシニア層の観客ばかりで、しかも公開直後だというのに、客席には空席が目立っていた。
 これはどうしたことか。若い観客は一体どこに行ってしまったのか。映画館から若者の姿が消え、シニア料金で入場する観客ばかりでは映画産業は成り立たない。結果的に優れた映画を生み出す環境の枯渇につながってしまいかねないわけで、これは文化の危機なのだ。
 これは映画産業にとどまらない現象でもある。例えば自動車産業だが、クルマに乗らない若者が増えているという。環境問題を考え合わせれば、一概に悪いことばかりとも言えないのだが、日本経済を牽引してきた自動車産業にとって憂慮すべき状況だということは言えるだろう。何か大きなパラダイムの転換が起こりつつあるのである。
 それにしても映画を観ず、クルマにも乗らない若者たちを嘆かわしいと思うのは、そのこと自体、私が歳をとったと言うことなのかもしれない。

 帰途、少し回り道をして原宿を通ってみたのだが、そこには息が詰まるほどに溢れかえった若者たちの姿があった。

ぼくのエリ

2010-07-31 | 映画
 いつの間にか7月も最後の日になってしまった。この1ヶ月に間に自分がどんな仕事をしてどんな成果をあげたのかと振り返ると、記録的な猛暑続きの日々だというのにいささか背筋が寒くなってくる。
 なにもビールばかりを飲んでばかりいたわけではなく、あちらこちらに出かけていたのだから記憶しておくべき事柄は今もしっかりと胸の拍動となって息づいているはずなのだ。

 もう2週間ほども前に観たスウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」のことを書いておかなくてはならない。
 公開直後の新聞の映画評がこぞって大絶賛していたので是非観なければと思って出かけたのだった。
 その感想としては、映画史に残る大傑作かというと決してそんなことはないのだが、いつまでも心の奥底で疼くような感情をしっかりと刻み込む、忘れ難い初恋のような味わいの映画である、とでも言っておこうか。
 監督はトーマス・アルフレッドソン。原作・脚本は、スウェーデンのスティーヴン・キングと評されるヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト。
 
 この映画の紹介はかなり難しい。
 うっかりするとネタばれになりかねないし、多様な側面を持った映画なので、簡単な感想だけでは語り尽くすことなど到底できない。結果、ありきたりのことしか書けなくなって情けなくなる。
 「孤独な少年が初めての恋に落ちた。恋の相手は謎めいた少女。だが彼女は12歳のまま、時を超えて生き続けるヴァンパイアだった……」
 こんな惹句がプログラムには書かれていて、まあ、そのとおりなのだが、この映画を傑作たらしめているのは、何と言っても丹念に積み重ねられたシーンの一場面一場面であり、主役となる二人の12歳の息づかいや肌触りを写し撮った映像の素晴らしさなのである。
 さらには、萩尾望都の「ポーの一族」に世過ぎ身過ぎの生活感や血の匂い、肉の発する生臭さを加味した「現実」の物語といった側面もある。
 二人の初恋は自らを投げ打って相手を護ろうとする愛へと昇華し、同時に、獲得されたその永遠性は残酷さとなって観客の胸を打つ。
 もっともこんなことを書いても何も語ったことにならないのは百も承知なのだけれど・・・・・・。

 原作は「モールス」というタイトルの小説だが、原題は「Let the Right One in」(正しき者を中に入れよ)というのらしい。
 いずれも映画を観ればなるほどという含意を持った意味深いタイトルだ。これは異なる世界と時間を生きる孤独な者同士のコミュニケーションの物語でもあるのだ。

 いま大阪で起こった育児放棄による幼児の放置死事件が大きく報道されている。
 いたいけな幼児2人が、かばい合うようにして食べるものもない部屋の中で孤独に死んでいった状況は、到底受け容れることはできないし、理解もできない。語る言葉さえない。
 そんな悲惨な状況下にいる子どもたちがまだどこかにいるのではないか。
 そうした彼らからの「信号」を察知する手段を私たちはどうすれば持つことができるのだろう。


オーケストラ!を観る

2010-05-26 | 映画
 映画「オーケストラ!」はとてつもなく面白い作品だ。第一級の悲劇であり、社会派のドラマであり、大メロドラマであり、ドタバタ喜劇でもある。
 一流オーケストラになりすましたニセモノ=実は手練の演奏家たちが、パリの一流音楽ホールで演奏会を大成功させるという話なのだ。その設定だけで何となく胸がわくわくするではないか。
 監督:ラデュ・ミヘイレアニュ、脚本:ラデュ・ミヘイレアニュ+アラン=ミシェル・ブラン。主人公アンドレイ・フィリポフ役にアレクセイ・グシュコブ、その妻イリーナ・フィリポヴナ役にアンナ・カメンコヴァ・パヴロヴァ、ヴァイオリニスト、アンヌ=マリー・ジャケ役に今をときめくメラニー・ロランが配されている。

 2001年のこと、偽のボリショイ管弦楽団が香港で公演するという出来事が本当にあったのだそうだ。その話をもとに二人のフランス人作家が書いたストーリーのうちから、偽のオーケストラが香港で公演するというアイデアだけを抜き出し、新たに肉付けをしたのがこの映画なのだそうである。

 モスクワのボリショイ劇場で清掃員として働くさえない中年男のアンドレイが、管弦楽団宛てのパリ・シャトレ座からの出演依頼のFAXをたまたま手に入れて横取りし、かつての仲間を集め、ニセのオーケストラを編成してパリに乗り込み、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏、観客を熱狂の渦に巻き込む。
 そして、彼がソリストとして選んだのが、若手ヴァイオリニストとして人気のアンヌ=マリーだった・・・。
 実は彼は30年前の旧ソ連時代には世界にその名を知られた天才的な指揮者だったのだが、ユダヤ人排斥のため、多くの楽団員を解雇しようとした当時のブレジネフ政権の方針に逆らったがために失脚し、今ではしがない劇場の清掃員となっている。一時はその失意からアルコール依存症ともなり、今は立ち直ったもののその痕跡は心理的な傷となって消えることはない。
 彼の仲間たちもみな意に沿わない職業に身をやつしながら、それぞれたくましく生き抜いている。そして、誰もが音楽を捨ててはいなかった。
 その一筋縄ではいかない彼らがいかにしてパリの一流劇場の舞台に辿り着くかというスッタモンダがまた見どころではあるのだが、荒唐無稽で突っ込みどころ満載のようでいながら、骨太のストーリーがドラマをしっかりと支えている。
 
 この映画がいまシニア層を中心に多くの観客を集めてヒットしているのは何故なのだろう。3週間ほど前、私がこの映画を見ようと銀座に行った際には、上映時間の30分も前というのに長蛇の列で入ることができなかった。日を改めてネット予約のできる映画館で観ることにしたのだった。
 恐らくは、とびきりの腕前を持ちながら、今は世をしのぶ仮の姿で報われない日々を暮らしている者たちが、王位の正統性を簒奪者から勝ち取るといった物語性が観客の感興をいやがうえにも高めるのか。
 そんな単純な話ではないだろう。これは壮大な民族の戦いと政治ドラマをありったけの荒唐無稽さでくるみ込み、メロドラマの味付けをふんだんに盛り込んだ映画なのだ。

 「のだめカンタービレ」の千秋センセイの指揮者ぶりのほうが余程うまいと思わせるほど不器用に見えるアンドレイ役のアレクセイ・グシュコブなのだが、それすらも計算しつくされた演技なのかも知れない。
 案の定、ラスト10分間の演奏シーンのクライマックスは比類のない感動に包まれる。

 さて、アンドレイがなぜソリストにアンヌ=マリーを選んだのかがこの大ドラマの眼目なのだけれど、これ以上はネタばれ必至なので書くことはできない。
 それにしてもこのような往時の政権批判と思われる映画にロシアの俳優たちがこぞって出演し、その映画がヒットしているということそれ自体が素晴らしいことだと思える。

 個人的には、アンドレイの妻イリーナを演じたアンナ・カメンコヴァ・パヴロヴァに泣かされた。
 身すぎ世すぎでたくましくしたたかな生活スタイルを身に付けた彼女がアンドレイからこのパリで演奏するという突拍子もない夢物語を聞かされた瞬間、「ぶっとばすわよ!」と言い放つ。
 思わず、またこっぴどく怒られるのではと身をすくめたアンドレイに向かい、彼女はこう続けるのだ。「それを実現しなかったら許さないから。何年その日を夢に見てきたことか」と。
 人はこんな言葉に励まされるのだ。

映画の中の少女たち

2010-05-13 | 映画
 少女たちの成長が主題となった2本の映画について話してみよう。

 「17歳の肖像」(原題:AN EDUCATION)は、1961年の英国を舞台としたまさに時代そのものが主題となった作品である。
 監督はロネ・シェルフィグ。英国の人気辛口ジャーナリストとして知られるリン・バーバーの短い回想録に基づき、ベストセラー作家ニック・ホーンビィが脚本を書いている。
 はじめ利発で無垢な16歳だった主人公が、ちょっぴり大人の17歳となり、それまで知らなかった人生のほろ苦い側面に触れて成長する。
 その主役ジェニーを演じるキャリー・マリガンはまさにこの映画で花開いた新星といってよいだろう。まるで映画の宣伝文句のようで気が引けるけれど、それほど彼女の魅力はこの作品全体を通して横溢しているのだ。(簡単にいえば、要は私の好みのタイプということにつきるのだけれど)
 一方、アルフレッド・モリーナ演ずる父親ジャックは打算的で家族には専制的にふるまう小市民であるが、娘が直面した危機に際して、気弱さと無力さをさらけだしながらも精一杯の思いやりを見せようとする。同年代の私としては、そうした父親像に思わず共感を覚えてしまう。
 さらに、ジェニーの相手役となるデイヴィッドは、世慣れていながらもどこまでも好感の持てる年上の男性である。その魅力にジェニーはもちろん、両親までもが幻惑されてしまう。観客にはその危うさが見て取れるというギリギリのところで、もしかしたらこいつは詐欺師の色悪なのではないかと思わせる面をしっかりと垣間見せながら、実に巧みなバランスの演技をピーター・サーズガードは見せる。
 彼もまた、ジェニーとのふれあいのうちに今は失われてしまった自分の中の何かを探し求める人間の一人なのだ。

 この映画の時代背景は、まさにビートルズやローリング・ストーンズが表舞台に躍り出ようとするその前夜といってよい。そうした新しい時代の胎動を感じながら、未知の世界に焦がれる人々の姿が描かれるのだ。
 その主人公たちも、今やもう前期高齢者と呼ばれる年齢にさしかかっている。
 懐かしいはずの過去の時代がなぜだかとても新鮮に感じられるのはなぜだろう。
           *
 さて、かたや19歳に成長した不思議の国のアリスを描いたのが、ティム・バートン監督作品「アリス・イン・ワンダーランド」である。
 その造形美にはいつもながらに驚嘆するけれど、正直なところルイス・キャロルの偏執的な夢の世界からはかけ離れた、常識的で、なおかつ教訓的な臭いすら感じられる作品に「堕してしまっている」と言えなくもないだろう。
 このあたりがディズニー映画の所以であり、限界でもあるのだろうか。
 原作が、少し変わったところのある独身数学者の夢見た「少女」の見る夢の世界であったのに対し、この映画のアリスは今や結婚を期待される年齢にあり、まさにある貴族の男性から求婚されているその場から逃れようとしてウサギ穴に落っこちる!
 彼女は常にここではない何処かへ旅立つことを求めている・・・ように思える。夢の世界に入ったのも、次の世界へ飛び立つための準備行為であったと言えなくはないだろうかと思えるのだ。
 その証拠に、映画のラスト、幼かった頃の自分の夢に落とし前をつけた彼女は、自分にまとわりつくあらゆるものを振り切るかのように別の世界へと旅立っていく。
 これは一人の少女が大人の女性へと生まれ変わろうとする成長物語でもあるのだ。まさにこれぞディズニー映画!
 反対にいつまでも幼児性を保ち続けようとするのが、ジョニー・デップ演じるマッド・ハッターのような男性であるというのはどういうことか。彼らは夢から覚めることを恐れるかのように《ごっこ遊び》に固執する。
 とはいえ、この役のしどころはあまりなかったのではないか。見ていてジョニー・デップは大変だったろうなと気の毒に思ってしまった。

 一方この映画の登場人物の中でもっとも親近感を感じたのがヘレナ・ボナム・カーター演じる「赤の女王」だ。
 いびつに歪んだ心と変形した体躯を持て余すかのように奇怪な声で叫び声をあげる彼女の、その成育の過程や背景までをも感じさせるその演技は、まさに真の俳優による仕事といえるだろう。
 その素晴らしい造形によって生み出された「赤の女王」の姿には、誰もが同情にも似た共感を抱くのではないだろうか。

NINE

2010-04-05 | 映画
 今週はまさに花見のピークなのだが、いささか寒すぎるのが難点である。
 日曜のテレビニュースでも各地の花見の様子を映し出していたが、私は冬物のコートを着込んで駒込辺りから西巣鴨まで道々サクラを愛でながらぶらぶらと彷徨い歩いた。もう少し太陽の光があればと思わないでもなかったけれど、まずは気持ちのよい一日である。
 駒込では「ソメイヨシノ発祥の地」ということで商店街をはじめ地元の人々が売り出しに懸命だが、実はそれを立証する文献は見つかっていないのだそうである。
 ところが昨日のニュースでは、千葉大学の研究チームがサクラの遺伝子を分析した結果、ソメイヨシノは上野公園あるいは今は駒込となっているかつての染井村辺りで生まれたであろうということがほぼ確実と思われるとのことだ。まずはめでたい。

 外を歩いているうちに映画館の暗がりが恋しくなって、ロブ・マーシャル監督のミュージカル映画「NINE」を観に行った。
 ご存知のとおり、1982年にブロードウェイで初演されたミュージカルの映画化であるが、もともとは1963年にアカデミー賞を受賞したイタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニ監督の傑作映画「81/2」にインスパイアされたものだ。
 錚々たる女優陣のむんむんするような官能美と迫力に気圧されながらも十分に楽しめたが、反面、ダニエル・デイ=ルイス演じる主人公の映画監督グイドはいささか繊細に描かれすぎて弱々しい。
 ほぼラスト近く、さながらカーテンコールのように居並ぶ出演者の最後に登場するソフィア・ローレンの存在感は際立って他を圧倒する。
 家に帰ってから、昔録画しておいたフェリーニの「81/2」を観直したのだが、グイドを演じるマルチェロ・マストロヤンニの素晴らしさを再認識した。
 かつて、このソフィア・ローレンとマストロヤンニのコンビがイタリア映画の黄金時代を築き上げたのもむべなるかなと思われる。
 同時に、「NINE」を観たことで、それまではあまり感じられなかった、あるいは見逃していた「81/2」の新しい魅力を発見するということもあったのである。
 それは、一つの芸術作品が時代を経てその影響力が次々に伝播しながら新しいものを生み出すということの素晴らしさでもあるだろう。

 こじつけめくけれど、これはサクラが花開いた途端あっという間に散りながら、種子を次の時代に着実に伝え、時に変容しつつ新たな花を咲かせるということとどこか似てはいないだろうか。

スポーツと政治と映画

2010-03-20 | 映画
 もうひと月も前に観ていながら、いまだに感想を書けないでいる映画がある。
 クリント・イーストウッド監督作品「インビクタス 負けざる者たち」だ。
 先日の米国アカデミー賞主演男優賞にモーガン・フリーマンが、助演男優賞にマット・デイモンがそれぞれノミネートされていたのでご存知の方も多いだろう。
 封切り直後の新聞評では、「今年有数の傑作」と早々と断言する評者もいたほどだ。それは、イーストウッド監督への無条件といってよい信仰の告白に似ていた。
 南アフリカに誕生したマンデラ大統領がラグビーのワールドカップを通して、黒人と白人の融合、さらには国家の統合を果たそうとする過程を描いたこの作品は、ラグビー試合の巧みな映像化やCG加工された観客席の熱狂ぶりと相俟ってたしかに映画的興奮を観るものにもたらすに違いない。
 しかし、そこに何ともいえない既視感と違和感のあることも否定できない。
 これは、紛れもなくスポーツの政治利用を正当化することを前提とした娯楽映画なのだ。

 青白い神経やこんがらがった思想は大衆向けの映画にはなじまないが、美しく躍動する筋肉は映像化にうってつけの素材である。
 たとえば、レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」「美の祭典」は、その映像があまりに美しいがゆえに、政治と映画、映画とスポーツの関係において極めて傑出しつつも《危険》な作品だったのである。
 私たちは、文化芸術が政治に《利用》されるようなことがあってはならないと考えている。それはいつのまにか身についた信仰でもある。
 ヒトラーをはじめとする独裁者に許されないことが、マンデラ大統領には許されるとどうして考えることができるだろう。

 スポーツ(ラグビー)によって、南アフリカは真に統合されたのか。この映画「インビクタス」によって世界はどのようなメッセージを受け、何を感じ、どのように変化したのか。あるいは映画は所詮娯楽でしかなく、世の中を変革するなどというのは妄想に過ぎないのか・・・。
 この映画は、実に厄介な問題を私たちの前に提示しているのである。

 話は変わって、いまホットな話題となっているのが、今般の米アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を獲得した「ザ・コーヴ」である。
 高度な隠し撮りの技術を駆使し、日本のイルカ漁を記録したこの映画は、「略奪と汚染で生物が危険にさらされている海のことを考えてほしい。日本だけではなく、みんなの問題だ」と監督が発言する一方、映画を観た地元の人からは、「太地の景色を美しく撮り、住民はこんなに残酷なことをしていると巧妙に対比していた」「映画は一方的で紳士的ではない」との意見も聞かれる。
 
 はじめに主張があり、シナリオに合う場面を当てはめた映像で構成されたドキュメンタリーとの見方は一方的に過ぎるかも知れないが、もし仮にそうした面が多少なりとも否定できないとするならば、これまた美しい映像が政治的主張に奉仕した作品と言えなくもない。

 「ザ・コーヴ」もまた、厄介な問題を私たちの前に提示した映画なのである。

ニューヨーク,アイラブユー

2010-03-17 | 映画
 日比谷の映画館で「ニューヨーク,アイラブユー」を観る。
 私の周りにいる若い人の間ではあまり評判は芳しくないようなのだけれども、街そのものをテーマに一編の撮影期間が2日間という制約のもと切り取られた10+の視点からなるこのフィルムは、それなりに面白く楽しめることのできる作品なのだった。

 製作者のエマニュエル・ベンビイが言うように、この映画は「1本の長編がたまたま複数の監督よって撮られたような作品」である。
 世界各国から集まった11人の監督によって撮られた11のストーリー・・・。日本からは岩井俊二が参加している。
 脚本に関してはいくつかのルールがあったようだ。いわく、
 ○視覚的にニューヨークと特定できるようであること
 ○広い意味での愛の出会いが描かれていること
 ○ストーリーの終わりや始まりに「徐々に暗転」を用いないこと などなど。

 それぞれの監督がそれぞれのストーリーを勝手に作ったようでいながら、それが1本の映画としてまとまって見えるのは、もちろん個々の話をつなぐようなエピソードを挿入し、それぞれの登場人物が偶然にもすれ違って同じ画面上に映し出されるといった仕掛けがあるからではあるが、そればかりではなく、この映画の主役がなんと言ってもニューヨークという街そのものであることが大きいのだろう。
 加えて、一見無関係に投げ出されたように見える映像も、それを連続してつなげることで一定の秩序や効果が表れるという表現の特質に拠るのではないかと思える。

 これは小説や演劇など他の表現形式でも可能は可能だろうが、映画ほど柔軟にはいかないだろう。もちろん小説ではジェイムス・ジョイスの「ダブリン市民」をはじめ、フォークナーやマルケス、中上健次など、特定の地域に限定して展開される連作という先例はいくつもあるわけだけれど。

 それにしても、この作品における登場人物たちの喫煙率の高さはどうだろう。
 昨今の映画の中では群を抜いていると思えるほどだが、屋内施設での禁煙化、嫌煙化の進みつつあるニューヨークの街では、いきおい愛煙家の登場人物たちは建物の外や路上で寒風に身をすくませながら紫煙を冷たい空気とともに吸い込むことになる。
 けれど、そのおかげで何百万人ものニューヨークを行き交う見知らぬ男女の何組かが偶然に出会い、街の灯やビル群の夜景を背景とした物語がフィルムに写し撮られることになる。
 タバコは、この映画にとってはまさにうってつけの道具だったといえるのだろう。

ヴィヨンの妻

2009-10-20 | 映画
 すでに1週間ほども前のことになるけれど、今月12日、映画「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ」を観たので記録しておきたい。
 ご存知、太宰治の原作をもとに根岸吉太郎が監督し、第33回モントリオール世界映画祭最優秀監督賞を受賞した作品である。
 同名の短編小説のほか、いくつかの作品からの引用をもとに田中陽造が脚本を書いている。
 松たか子が主人公の妻役を凛とした美しさで映画全体を包み込むような大きな存在感を示し、その夫で放蕩三昧の小説家大谷(浅野忠信)と心中沙汰を起こすバーの女給・秋子を演じた広末涼子も新たな境地を見せる。
 飲み屋の夫婦を演じた伊武雅刀と室井滋も実によい味わいを出していた。
 総じて、男優陣の存在感の希薄さに比べ、女優たちの印象が際立つと思えるのだが、その濃淡のタッチは根岸監督の周到な計算によるものだろう。
 松の演じる佐知は、どこまでも明るく健気に、男の手前勝手な甘えやだらしなさを受け入れつつもひたすら尽くしぬくように見せながら、最後にはその男どもを食いつくし、したたかに肥え太る女王蟻のようにも見える。

 さて、太宰治と最も近しい立場にいた編集者・野原一夫氏の著書「回想 太宰治」によれば、太宰と最期をともにした山崎富栄さんは「ヴィヨンの妻」の奥さんのことを「倖せだと思うわ」と言っていたそうだ。
 「だって、あの奥さん、大谷をあたたかく包みこんで、甘えさして」
 「それじゃあ、倖せなのは大谷のほうだ」
 「あら、大谷を倖せにできたら、その奥さんも倖せなんじゃないの」
 「あなた、えらいんですね。しかしあんな女房、どこにもいやしないさ」
 「どこかにいます。きっと、どこかにいるわ」

 それはこの自分なのだと富栄さんは言いたかったのだろうか。

 ところで、「ヴィヨンの妻」の第一章を太宰は口述筆記したようだ。彼の書く文章の語り口の絶妙さは誰もが認めるところだが、生来の天才であるとはしても、多くの人々を魅了し惑わせたその才能はどのようにして養われたものなのだろうか。
 ちょうど、ある作家の作品集への解説文を太宰が口述筆記させているところに居合わせた野原氏は次のように書いている。

 「三十分か、四十分か、その時間は記憶していない。なんの渋滞もなく、一定のリズムをたもちながら、その言葉は流れ出ていた。私は目をつぶってその言葉を追っていた。はじめ私は、不思議な恍惚感に捉われていた。それは、美しい音楽を聴いている時の恍惚感に似ていた。やがて、胸をしめつけられるような感じに襲われ、そして、戦慄が私のなかを走った」

 このほかにも多くの作品を太宰は口述しながら奥さんに筆記させたそうだ。

 「『駆込み訴え』のときは、炬燵に当って杯をふくみながらの口述であったが、淀みも、言い直しもなく、言ったとおりを筆記してそのまま文章であった。
 『書きながら、私は畏れを感じた。』と奥さんは書いておられる。」

 あれほど勝手に生きた太宰を奥さんは愛していたのだろうか。分からないが、才能に惚れていたという月並みな見方もできるようだ。
 あるいは、「文化」と書いて「ハニカミ」とルビを振らざるを得ないような含羞のポーズに憎めなさを感じていたのかも知れない。
 いつもいつも飲んだくれてばかりいたような印象のある太宰治だが、彼は仕事用に別に一部屋を借りて、そこに弁当を持って通勤していたと「回想 太宰治」には書かれている。
 「太宰さんはそこに朝の九時すぎに出勤し、午後の三時頃まで仕事をした。まじめな勤め人の几帳面さである。書けても書けなくても、朝、机に向かうのだと言っていた。」
 「明るい昼間、醒めた意識で書く、その心構えをくずさなかった。興が乗ってきて筆がすべりすぎると、そこでストップをかけるのだ、とも言っていた。ものを書くということを、よほど大事にしていたのだと思う。」

 太宰の比類のない才能は、ある面、ストイックなまでの努力と原稿に向かう膨大な時間の積み重ねによって培われたものなのだろう。

 さて、再び映画であるが、原作と同様の時代背景を設定しながら、原作と異なる印象はやはり現代向けの味付けによるものなのだろうか。
 小説において大谷の存在はもっと巨大で、食うや食わずの時代を生き抜くずぶとさやこすっからさ、犯罪の匂いを纏っているようだ。
 また、飲み屋に集まる客にしても誰もが闇市に跋扈するような犯罪者であるに違いなく、映画でのようなのどかな明るさからは程遠い。
 妻夫木聡の演じた工員にしても、あんなふうに純情一途な青年などではない。それは原作で確認していただきたいが、私が連想するのは、太宰が大きな標的とした志賀直哉の短編「灰色の月」に出てくる工員ふうの青年である。
 終戦直後のやさぐれた野良犬のような目つきで、餓死寸前の欲望にぎらぎらしながら、その反面何もかもを放擲したような捨て鉢な気分の時代。
 そうした背景のなかでこそ「ヴィヨンの妻」は一層輝くように思える。

愛を読む人 朗読者

2009-08-17 | 映画
 書店の入り口、とりわけ人目につく場所に村上春樹著「1Q84」のコーナーがあり、いくつもの関連本が平積みになっている。
 ひと月ほど前から、チェーホフの「サハリン島」の何種類かの翻訳が並んでいるのも「1Q84」にチェーホフの同作品が引用されていることの影響だろう。きっかけはどうであれ、絶版になっていた作品が復刻され、多くの人に読まれるようになることは喜ばしい。
 それにしても、「1Q84」をめぐる出版界の動向をみていると、さながら「ムラカミ産業」とでも多少の皮肉をこめて呼んでみたくなるほどだ。
 今月になって、ちくま文庫から「チェーホフ短編集」(松下裕編訳)が出たのもそうした流れの一環だろうか。
 それはともかく、同書には私の大好きな「中二階のある家」や「犬を連れた奥さん」といった作品が収録されているし、活字も大きめのポイント仕様でうれしい限りだ。休日の楽しみとしてこの上ない。

 さて、その「犬を連れた奥さん」が重要な意味を持つ映画が、スティーヴン・ダルドリー監督作品「愛を読む人」である。
 この作品は主演のケイト・ウインスレットがアカデミー賞最優秀主演女優賞を獲得した記憶も新しく、原作本のベルンハルト・シュリンク著「朗読者」は40ヶ国語に翻訳された世界的ベストセラーであり、わが国でも海外文学としては異例のミリオンセラーとなっているから、多くの人がその概略は知っているのではないかと思う。
 映画は、実に素晴らしい作品であると同時に、多くのことを観客に感じさせ、考えさせる。
 中年となった主人公マイケルを演じるレイフ・ファインズが原作以上に脚本に惹きつけられ、「この脚本は非難、裁き、罪、愛、性についての非常に複雑な感情の問題をバランスよく捉えている」と評しているように、本作は映画が原作を凌駕してその意味を露わにした稀有な例ではないかと思う。
 原作では語り手のマイケルの視点から描かれているために曖昧だったり、ぼかされたりしている部分がより明確になり、深みが増しているのだ。

 裁判の場でケイト・ウインスレット演じるハンナが裁判長に向かって言う「あなたなら、どうしましたか?」という問いかけは重いが、これは単なる断罪が主題の映画ではない。
 マイケルがハンナを愛しながら裏切られたある種の被害者であると同時に、彼女に人間としての同情を抱き、さらには真実を知りつつも沈黙のまま裁く側に立たざるを得ないという立場に引き裂かれたように、この映画は、複雑な色合いをもって歩み寄ることも去ることもできない主人公たちの感情とその人生をくっきりと描き出しているのだ。

 さて、「犬を連れた奥さん」が映画の中でどのように現れるかは見てのお楽しみ。
 そこには単純に決め付けのできない謎がある。映画を観た人と一緒にじっくり話し合いたいテーマだ。

ココ・シャネルの流儀

2009-08-10 | 映画
 8日公開の映画「ココ・シャネル」を観た。
 監督はクリスチャン・デュゲイ、70歳になった1954年当時のココをシャーリー・マクレーンが演じて貫禄を見せ、自分のスタイルを確立するまでの若い時代の彼女をバルボラ・ボブローヴァが魅力たっぷりに演じている。
 ココの経営上のパートナーであるマルク・ボウシエを演じている白髪の老人が誰なのか、映画に関する事前情報を何も知らずに映画館に入ったので分からなかったのだが、あの「時計仕掛けのオレンジ」のマルコム・マクダウェルなのだった。容赦のない時の経過というものを感じさせる変貌ぶりで驚いてしまったけれど、この間のキャリアがその演技に幅と厚みを与えていると感じさせる。
 不思議なほど私はこれまで彼の出演作を観る機会がなかったのだが、最後に観たH・G・ウェルズ原作の映画「タイム・アフタータイム」でさえ1979年の作品なのだから、あれからもう30年も経っていることになる。それこそタイム・マシンに乗ってあの時代から一挙に現代まで来てしまったような気がする。

 さて、映画自体はおそらく星3つというほどの出来ではないかと思うけれど、私は個人的にファッションや20世紀初頭の雰囲気を楽しんだし、ココ・シャネルという人物に改めて興味を惹かれた。
 ファッションのそれまでの歴史を一挙に覆し、「皆殺しの天使」と呼ばれたシャネルだが、齋藤孝著「天才の読み方」によれば、彼女自身は芸術家と自分を混同することはなかったそうだ。
 20世紀初めのパリを彩るピカソやダリ、コクトーやラディゲ、ストラヴィンスキー、ディアギレフら綺羅星のような芸術家たちと親しくつき合い、あらゆるものを吸収し、時には経済的な援助とともに辛らつな批評を与えもしたのだったが、自分はあくまで職人であり、仕事はビジネスであることを冷徹なまでに自覚していた。
 シャネルが属する服飾業界では、コレクションで失敗して買い手がまったくつかないということは、そのままその人の仕事の評価に直結している。その彼女の服が流行らないことを意味し、それは世の中から消え去ることなのだ。世間に理解されない芸術家などという気取ったポーズをとることは出来ないのである。
 シャネルは常に自分を世間の評価にさらし続けることで、冷静に「自己客観視」することができていたということなのだろう。

 映画は、第二次世界大戦の開始とともに半ば服飾業界から身を引いていたシャネルが15年ぶりにコレクションを発表するという1954年から始まる。その発表は惨憺たる結果を招き、悪評にまみれるのだが、そこから彼女は決然と再起しようし、映画は少女時代の父親との別れ、孤児院での生活、お針子となってパリに出てからの様々な場面を回想しながら展開する。
 映画のラスト、復帰2回目のコレクションは大成功を収める。以後、彼女はアメリカに進出、不滅のシャネル帝国を築いていくのだが、87歳で死ぬ前日までコレクションの発表に備えて働いていたというほど、彼女自身はいつも鋏を手にし、働きに働いた人であった。
 「私は日曜日が嫌い。だって、誰も働かないんだもの」というシャネルの言葉があるが、映画の中の彼女も、たとえ恋人と愛し合っている時も別れに打ちひしがれた時も絶えず働き続けていた。
 全ては仕事に立ち向かうエネルギーやアイデアへと転嫁されていく。その有り様が素晴らしい。

 名言の多いココ・シャネルだが、映画にもいくつかメモしておきたい台詞があった。
 「素材は安価なものでかまわない。大切なのはビジョンよ」もその一つだ。
 それから次の言葉も記憶に価するだろう。
 「私は流行をつくっているのではなく、スタイルをつくっているの。流行は色褪せるけれど、スタイルだけは不変。流行とは時代遅れになるものよ」

 引用だらけになってしまうけれど、先ほどの齋藤孝氏の「天才の読み方」に私の好きなエピソードがある。
 ある時期、シャネルはピカソと親しく付き合っていて、そこにダリと夫人のガラが絡んでくる。ガラはピカソの評判に腹を立てていて、彼のことをこき下ろす。
 それに対してシャネルは言う。
 「彼は、あなたが言うほどばかでもないし、世間が言っているほど天才でもないわ」
 それに対してガラが、それではダリのことをどう評価するかと聞く。
 シャネルは自分の皿の上に一粒残っていたグリーンピースを指で弾いて「ほら、それよ」と言い放った。

 シャネルはピカソのことを認めていた。彼はその強烈な個性と魅力で彼女をたじろがせた唯一の男であった。

レスラーという生き方

2009-07-14 | 映画
 守るべき生き方や自己像などというものとはとことん無縁だった「ディア・ドクター」の愛すべき主人公とは対照的に、自分の生き様に不器用にこだわりぬいたのが映画「レスラー」でミッキー・ロークが演じたランディ・ザ・ラムである。

 全盛期にはマジソン・スクエア・ガーデンを興奮する観客で埋め尽くし、雑誌の表紙を飾るほどのスター・プロレスラーだったランディが、20年を経た今はドサ回りの興業に出場し、わずかな手取りでその日暮らしのような生活を送っている。
 トレーラーハウスの家賃を支払うために近所のスーパーでアルバイトをしてしのぐような日々・・・。しかし、彼は誇りをもってレスラーであり続けようとするのだ。

 監督ダーレン・アロノフスキーが制作費を大幅にカットされてまでそのキャスティングにこだわったという主演のミッキー・ロークは、まさに彼自身のキャリアが滲み出たような好演で観る者の魂を震わせる。
 自らの生活を省みることのなかったツケなのか、心臓発作に倒れ、唯一心の拠り所にしたかった女性とは心を通わせることができず、娘からは決定的に拒絶されてしまうランディ。
 彼にはレスラー仲間こそが家族であり、帰るべき場所もリングの上でしかなかったのだ。たとえそれが死を意味したとしても。

 20数年前のミッキー・ロークを知っているものにとって、この映画で久々に観た彼の「変わり果てた」姿には胸を衝かれる思いがするだろう。それはまさに主人公ランディの姿と二重写しとなって観る者をドラマの中に引き込んでいく。
 それは私たち自身が投影された姿でもあるのだ。
 マリサ・トメイがいとおしいまでに好演した、ランディが心を寄せるストリッパー、キャシディもまた、まっとうな人生をと願いながら自分たちの居場所を探し続ける。
 彼らはともに闘う人間なのである。この映画は、何者かであろうとして闘う人々へのエールであり、檄でもあるのだ。
 闘いの先にある栄光とその意味を痛みの感覚とともに教えてくれる、とても勇気づけられる映画だ。

ディア・ドクター

2009-07-13 | 映画
 誰かが誰かになりすますことは犯罪なのだろうか。

 誰かになりすますことで相手を信用させ、そのことによって引き起こされる犯罪が決して珍しくないという事実はとても興味深い。そこにはおそらく人間心理をくすぐる何か秘密のようなものがあるのだろう。
 オレオレ詐欺もその一種であるが、高齢者を対象に近親者への愛を逆手にとったえげつない手口や組織的な犯罪という点で興を削がれる。

 以前、話題になったニュースで、グループサウンズの元ボーカリストと称した犯人がカラオケ大会の審査委員長をやっていたという事件があるが、これには興味を惹かれた。この人は他の場所でもまったくタイプの違うロックグループのボーカルになりすましていたという。
 この誰かになりすますこと自体を目的化したような性癖は何に起因するのだろう。
 これによって金銭をせしめた点は許しがたいにしても、彼を目にしていた聴衆はそれなりに楽しんだのだろうし、それほど目くじらを立てなくとも・・・などと考えるのは不謹慎だろうか。

 それにしても、昔からバラエティのテレビ番組では有名人にそっくりな人のショーがあり、物真似番組が高視聴率を得たりしているのを見ると、人は本質的にそうした「まがいもの」に心惹かれるものなのかも知れない、などと思ってしまう。

 西川美和監督の映画「ディア・ドクター」を観ながら、そんなことを考えていた。
 山あいの小さな村で、まるで神様のように慕われていた医師が、ある日突然失踪する。やがて事件は思わぬ方向へ進み、誰もが思ってもみなかったような事実が明らかになる・・・。
 「ディア・ドクター」についてはすでに多くの新聞評などでも紹介されているからネタはすでに明かされていると思うけれど、主人公の医師はいわゆる無資格医、すなわち医師になりすました人物なのだ。

 西川監督があるフリーペーパーのインタビュー記事で次のように話している。
 「(笑福亭鶴瓶が演じた主人公の医師)伊野という人間には、志というものについては一切匂わせず、ただ目の前にあることに対しての対応能力だけで書いていきました。ところがそういう人物が、相馬啓介(瑛太が演じた)のような人の目を通して見ると、志に見えてしまう。だけど実際は伊野は、根っこのところは全然空洞みたいな人間だと。そういうのがやりたかったんです」

 主人公には誰かになりすますという意図ははじめからなかっただろう。ただ、村人たちのこうあってほしいという願望に寄り添うようにして医師という役割を演じているうちにぬきさしならない状態となり、彼は神のような存在にまでなっていく。空洞のような彼は、村人の期待や願いを吸い込みながら、膨れ上がった風船のように大きくなっていくのだ。その容量がパンク寸前にまでなった時、彼は失踪を余儀なくされたのである。
 むしろ気弱で自己主張のない主人公が自分ではない別人になるという設定は、ウディ・アレンの映画「カメレオンマン」を想い起こさせる。

 刑事二人を狂言回しとして、村人や関係者の声が聞き込みの過程で明らかにされるが、誰も本心は明かさない。闇は深まるばかりで、刑事も主人公を捕まえることはできないまま物語は終わる。

 映画のなかで挿入される美しい田畑を風が走り、稲穂が揺れる光景について、登場人物たちの心理のゆれを表現したものとの批評があった。
 私には、宇宙的な視点から自然が人間にもたらした慰藉としての「そよぎ」でないかと思える。自然はあらゆる人の営為や欲望を否定することなく受け入れる。それは必要なことだったのだと。

 それにしても天性のコミュニケーターである笑福亭鶴瓶が造形した主人公像は本当に素晴らしい。登場人物たちの複雑な心理の綾をくっきりと描き出した西川監督の手腕も見事だ。勢いを増しつつある日本映画の実力を示したものとして評価したい。
 ちなみに西川監督が書いた原作本は今週にも結果が発表される直木賞候補作品でもある。楽しみな才能だ。

 ラストシーン、八千草薫演じる病床の老女が眼にしたものについては意見が分かれるだろう。
 私は、彼女の願望がもたらした美しい幻想と見た。現実でないからこそ救いがある。

再び、「グラン・トリノ」について

2009-06-08 | 映画
 クリント・イーストウッドが監督・主演した映画「グラン・トリノ」の素晴らしさについては、すでに多くの人が様々なメディアで発言をしている。
 そうしたなか特徴的なのが、エコノミスト誌をはじめ、経済関係の論説においてこの映画に言及する記事が多くみられるということだろうか。
 6月4日付け毎日新聞では、国際経済学専門の竹森俊平慶応大学教授が「『グラン・トリノ』と金融危機」という文章を寄せている。
 いかにも映画好きらしく、映画的表現にも目配りの利いたよい文章だと思うけれど、そのなかで「まるでアメリカそのものの『葬式』のような映画になっている」と評している部分が端的に表しているように、「グラン・トリノ」はまさに現在のアメリカを暗喩するものとして経済人の関心をも呼んでいるのだろう。
 
 主人公が住んでいるのは、かつて自動車産業の生産拠点だった場所なのだが、いまは荒廃して白人のほとんどが居なくなり、マイノリティーの住民に占拠されるに至ったアメリカ中西部の町である。

 竹森教授は記憶に残った場面として次のように書いている。
 「老人がアジア人の青年に、自分が長い時間をかけて集めた自動車工具の素晴らしいコレクションを見せる場面。現下の経済危機、ことにそれに伴って起こったビッグ・スリーの経営危機と考え合わせるとまことに胸が痛む場面だ。アメリカもかつては『ものづくりの国』だった。その伝統が金融の思想が支配する経営戦略によって、めちゃくちゃになったことを想起させるのである」

 そしてもう一つの場面。老人と青年の「告別」の場面である。
 「老人は朝鮮戦争の時に受け取った自分の勲章を、青年の胸に刺す。寓意的な意味は言わずもがなであろう。アメリカが将来をアジアに託しているのだ」

 アメリカが将来をアジアに託している、という意味がこの映画の背後にあることはそのとおりだと思うけれど、このシーンの解釈については若干異議がある。
 殺す必要のなかった朝鮮人兵士を殺したことに心の底で深い罪の意識を持ち続けている主人公が、まさにそのことによって得た勲章を、夢や将来を託すためにアジアの青年に委ねるものだろうか。
 あえて言うなら、老人が遺言のなかで「グラン・トリノ」を自分の家族ではなく、青年に譲り渡したことにこそ、その意味は深く込められているのではないか。
 勲章を託す場面は、謝罪と融和を象徴するものと捉えるべきではないのだろうか、というのが私の感想である。

 いずれにせよ、そんなことを考えさせる深い社会性をこの映画は有している。
 それが単純な主義主張などではなく、すぐれた映画表現と娯楽性を兼ね備え、イーストウッドというスターが出演する興行的にも成功した作品たりえていることが素晴らしいのだ。

 舞台芸術は、果たしてこれに拮抗する作品を生み出しえているだろうか。

グラン・トリノの至福

2009-06-03 | 映画
 クリント・イーストウッド監督・主演の映画「グラン・トリノ」を観た。
 慌ただしい日々のなかでは稀有なことだが、ぽかんと空いた時間を縫って映画館に駆けつけ、まばらな客席に身を埋めてスクリーンに目を凝らすのは何ともいえない至福の時間である。ましてそれがこのうえないような素晴らしい映画である場合にはなおさらである。

 クリント・イーストウッド演じる主人公ウォルト・コワルスキーは自身と同じ78歳。頑固で口が悪く、偏見に満ち満ちた人格である。神を信じず、他人にも息子たち家族にも心を許さない。ギャングまがいの行動をとる無礼な若者たちには、それが白人だろうが、黒人、ヒスパニック、アジア系だろうがお構いなしに罵声を浴びせ、時に応じて銃を抜き、気に入らない相手には平気でつばを吐く。
 若い頃朝鮮戦争に出征した経験を持つ彼は、その後フォードの自動車工として定年まで勤め上げた。唯一の楽しみは、1972年に自らステアリング・コラムを取り付けたヴィンテージ・カー「グラン・トリノ」をピカピカに磨き上げ、ビール片手にそれを眺めること。
 その彼が、ひょんなことから隣家に引越してきたモン族の一家と知り合いになり、姉のスー、弟のタオと次第に心を通わせていく。
 きっかけはタオがウォルトの宝物ともいうべきグラン・トリノをこともあろうに盗み出そうとしたことなのだが、それはタオの従兄であるスパイダーたち不良グループに命じられてのことだった。
 自分の庭でいさかいを始めた不良どもに銃を向けて追い払ったウォルトは結果としてタオを彼らの手から救い出すこととなった。
 やがて、明るく機転の利くスーとの交流から、次第に心を通わせ、その一家に溶け込んでいくウォルトは、引きこもり状態で希望のない生活をしているタオの「父親=人生の師」ともいうべき存在となっていく。彼はタオに仕事を与え、挨拶の仕方にはじまるいわば「男の流儀」を仕込んでいくのだ。

 そうした物語の進展の過程で、ウォルトが朝鮮戦争のなかで癒すことのできない心の傷を抱えていることが明らかになる。スーやタオたちとの交流には、無意識ながらそうした過去への贖罪という意義もあったのかも知れない。
 そうした過去の消しがたい失敗という記憶を抱いたウォルトは、タオを不良グループから守ろうとするなかで再び大きな失敗をする。
 そのことが結果として取り返しのつかない暴力を呼び込んでしまうのだ。
 いきり立つタオをなだめ、こうした時こそ「冷静になれ。冷静になって考えるんだ」と諌めるウォルトはやがて大きな決断をし、ドラマは衝撃のラストを迎える・・・。

 この映画の大きな要素の一つとなっているのが、モン族の人々の存在である。
 一部の中国の人々からはミャオ族と呼ばれることもあるモン族は、中国をはじめとして、タイ、ミャンマー、ラオス、そしてベトナムと、歴史上移住を繰り返してきた流浪の民である。
 ベトナムに住むモン族は、中国における同化政策に抵抗し、19世紀に東南アジアのタイ、ビルマ、ラオス、ベトナムに移住していった。
 さらに、ベトナム戦争の時期、ラオス建国当時にアメリカ政府はインドシナの共産化を防ぐためにモン族を傭兵として戦略に使ったのだが、結果的に、モン族は敗北し、タイへと大量に流れ込んだ。
 難民キャンプを経て、その後、2004年からアメリカ政府がモン族をミネソタ州に受け入れると発表、30万人のモン族がアメリカへ移住したといわれる。

 この映画にはそうした歴史的背景があるのであるが、そうしたアジアの人々を見つめるイーストウッド独特の眼差しは限りなく温かい。
 映画には主人公の姉弟を演じる二人をはじめとして、プロフェッショナルの俳優ではない多くのモン族の人々が出演しているのだが、そうした彼らを演出する監督の手腕もまた見どころの一つである。

 主人公ウォルトが住む地域は、すでにアメリカの自動車産業の衰退を背景として荒廃した住宅地が並び、そこにヒスパニックやアジア人、黒人、イタリア系、ポーランド系など多様な人々が住み着いている。
 家族ですら理解し得ない状況のもと、この映画で描かれるのは、コミュニケーションが崩壊した中での人間関係の在り様である。生命を賭しても守り抜かなければならないものは何かということを主人公はその生き様を通して私たちに訴えかける。

 この映画は静かな興奮と覚醒、そして深い感動を観るものに与えてくれるまぎれもない傑作である。