「糾す会」の「日本聖公会 京都教区 教区会 代議員の皆さんへ」という題の文書、私も読みました。この文書、各教会宛に送られているそうで、各教会の信徒代議員に渡されるかどうか、「糾す会」は心配していらっしゃるようですね。自分たちにとって都合の悪い事件や文書を隠蔽するのは、中国共産党や北朝鮮労働党が得意ですが、まさか日本聖公会京都教区がそれをするとは思えません。彼らは「粛正」という殺人さえしてきたのです。ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)も同じことをしてきましたよね。労働刑務所へ送られるのはまだいい方で、「国家反逆罪」のレッテルを貼られる前に消された人もいました。
日本聖公会京都教区があの「糾す会」の文書を握りつぶしたら、ある意味では中国の社会主義とも同じことになってしまいます。都合の悪い文書や人物は、握り潰したり消してもいいと考えているのが中国共産党であることは、既に明らかにされています。北朝鮮は、それ以上に厚いベールに包まれています。横田めぐみさんの拉致に関する情報は徹底的に隠蔽されています。ですから、わずかに漏れ伝わってくる情報だけしか日本には伝わってきません。同じようなことを日本聖公会京都教区がするとは思えません。主教制度は使徒職の継承に関わることであって、主教がすべての権力を持つことではありません。
しかし、現在の日本聖公会京都教区主教だと、何をするか判らないので、日本聖公会の一部ではかなりそれを怖れている人々がいらっしゃるようです。それもそうでしょうね。11月23日の教区会を前に、京都教区の一部の司祭たちは、2ちゃんねるへの書き込みをしなくなりました。おそらくどこかからか指令が出たのだろうというのが、うちの事務所の大方の意見です。しかし、その指令の理由は何だったのでしょう。2ちゃんねるの掲示板は今でもそのまま残っています。
日本聖公会は恐ろしいことを平気でする教派のようです。それも信じられないようなことです。「昔は、子供の時に片親になった人は司祭になれなかった」と小学生の時に母親が病気で亡くなった人に対してへいきで発言するような人が主教になっているのです。一人では日常生活に不自由な病気の奥さんを子供と一緒に実家に帰し、単身赴任を打診するような教派です。こうしたことは、聖職の中だけにあるわけではありません。信徒の中にも同じような感覚を持っている方々がいらっしゃるようです。これは間違いなく事実です。私は、何回もこのことについて確認しました。しかも、こうした事実を知っていながら、他の聖職たちは一切口を噤んでいるのです。
日本聖公会の中では、中世封建制度が確実に生きているのではないでしょうか。最早、彼らは人権も自由も平和も語ることが出来ません。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ.7:3以下、日本聖書協会『新共同訳聖書』)
「糾す会」や被害者とそのご家族を支援する人々に対する誹謗中傷を繰り返す日本聖公会京都教区の主教や司祭に、この聖書の御言葉を贈ります。事件は、現職司祭による準強制わいせつが、複数の女子児童に対して行われ続けていたということなのです。裁判記録を閲覧された方々の報告を読めば、すぐに判ることです。いや、それ以前に日本聖公会京都教区こそが裁判記録を閲覧しなければならなかったのではないでしょうか。
そして問題は、こうしたことが日本聖公会京都教区だけに限られたものではなということです。他の教区でも、使途不明金問題や幼稚園の会計からの無断借用、あるいは教区資金の不正使用などがあちこちで起こってきたのではないでしょうか。沖縄の問題の時は、それを記事にした『聖公会新聞』の編集長が解雇されました。あるいは、別の教区では、ある日突然、幼稚園の子供たちの前に園長である司祭が女装で現れ、「今日から女になりました」と言ったそうですが、これに対して、日本聖公会は何の議論もしていないと聞いています。黙認です。私が知る範囲では、「性同一性症候群」だとのことですが、精神科医の診断書はあるのでしょうか。「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」に合致することなのでしょうか。日本聖公会では、こうした事例を問題にしていないということは、戸籍上は同性である二人の人物の結婚式を、教会はすることが出来るとお考えなのでしょうか。
きちんとした神学的な議論を遮り、一方的な議論だけを受け容れ、結局は教会として無秩序になっていないでしょうか。
取りあえず、11月23日の日本聖公会京都教区の教区会に関する「糾す会」の文書を秘匿したり、回収することはお止め下さい。ただ、「やったらいいよ」という意見の方もいることは事実です。「やったら、キリストの教会であることを自ら否認することになるから」という説明が付いていますが。
日本聖公会京都教区があの「糾す会」の文書を握りつぶしたら、ある意味では中国の社会主義とも同じことになってしまいます。都合の悪い文書や人物は、握り潰したり消してもいいと考えているのが中国共産党であることは、既に明らかにされています。北朝鮮は、それ以上に厚いベールに包まれています。横田めぐみさんの拉致に関する情報は徹底的に隠蔽されています。ですから、わずかに漏れ伝わってくる情報だけしか日本には伝わってきません。同じようなことを日本聖公会京都教区がするとは思えません。主教制度は使徒職の継承に関わることであって、主教がすべての権力を持つことではありません。
しかし、現在の日本聖公会京都教区主教だと、何をするか判らないので、日本聖公会の一部ではかなりそれを怖れている人々がいらっしゃるようです。それもそうでしょうね。11月23日の教区会を前に、京都教区の一部の司祭たちは、2ちゃんねるへの書き込みをしなくなりました。おそらくどこかからか指令が出たのだろうというのが、うちの事務所の大方の意見です。しかし、その指令の理由は何だったのでしょう。2ちゃんねるの掲示板は今でもそのまま残っています。
日本聖公会は恐ろしいことを平気でする教派のようです。それも信じられないようなことです。「昔は、子供の時に片親になった人は司祭になれなかった」と小学生の時に母親が病気で亡くなった人に対してへいきで発言するような人が主教になっているのです。一人では日常生活に不自由な病気の奥さんを子供と一緒に実家に帰し、単身赴任を打診するような教派です。こうしたことは、聖職の中だけにあるわけではありません。信徒の中にも同じような感覚を持っている方々がいらっしゃるようです。これは間違いなく事実です。私は、何回もこのことについて確認しました。しかも、こうした事実を知っていながら、他の聖職たちは一切口を噤んでいるのです。
日本聖公会の中では、中世封建制度が確実に生きているのではないでしょうか。最早、彼らは人権も自由も平和も語ることが出来ません。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ.7:3以下、日本聖書協会『新共同訳聖書』)
「糾す会」や被害者とそのご家族を支援する人々に対する誹謗中傷を繰り返す日本聖公会京都教区の主教や司祭に、この聖書の御言葉を贈ります。事件は、現職司祭による準強制わいせつが、複数の女子児童に対して行われ続けていたということなのです。裁判記録を閲覧された方々の報告を読めば、すぐに判ることです。いや、それ以前に日本聖公会京都教区こそが裁判記録を閲覧しなければならなかったのではないでしょうか。
そして問題は、こうしたことが日本聖公会京都教区だけに限られたものではなということです。他の教区でも、使途不明金問題や幼稚園の会計からの無断借用、あるいは教区資金の不正使用などがあちこちで起こってきたのではないでしょうか。沖縄の問題の時は、それを記事にした『聖公会新聞』の編集長が解雇されました。あるいは、別の教区では、ある日突然、幼稚園の子供たちの前に園長である司祭が女装で現れ、「今日から女になりました」と言ったそうですが、これに対して、日本聖公会は何の議論もしていないと聞いています。黙認です。私が知る範囲では、「性同一性症候群」だとのことですが、精神科医の診断書はあるのでしょうか。「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」に合致することなのでしょうか。日本聖公会では、こうした事例を問題にしていないということは、戸籍上は同性である二人の人物の結婚式を、教会はすることが出来るとお考えなのでしょうか。
きちんとした神学的な議論を遮り、一方的な議論だけを受け容れ、結局は教会として無秩序になっていないでしょうか。
取りあえず、11月23日の日本聖公会京都教区の教区会に関する「糾す会」の文書を秘匿したり、回収することはお止め下さい。ただ、「やったらいいよ」という意見の方もいることは事実です。「やったら、キリストの教会であることを自ら否認することになるから」という説明が付いていますが。