いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

却下は誰のためか

2008-09-27 | Weblog


 日本聖公会京都教区は審判廷の申立を却下したが、その理由は誰が聞いてもおかしいと思うだろう。「補正命令書において求めている『いつ』、『どこで』、『だれに』『何をしたか』という事実が明記されておらず、補正されているとは判断できません。」と審判長であるK主教以下3名の審判員の連署されている文書に記しているが、道化なのだろうか。いつ、どこで、だれに、何をしたかということは、K主教や常置委員会は既に知っているところだ。去年の京都教区の教区会で配布された文書にしっかりとそれが記されている。ただし、被害者を守るために、被害者を特定できるような文面はないが、しかし、少なくともK主教と常置委員会は、被害者がどこの誰であるかを知っているし、K主教はその被害者に面会していることは、K主教自身が書いた文書から明らかなことだ。

 また、同時に被害者の家族の代理人から審判廷が申し立てられているが、それに関する「補正文書」は、その代理人のホームページで明らかにされている。「●●●●」となっているところは、当然被害者の氏名であろうと思われるが、これに関しては裁判記録で明らかにされているにもかかわらず、代理人はあえてこうしているのであろう。当然、被害者の人権を守るためであることは言うまでもない。ところが、先に出されていた審判廷申立に対する却下文書を読んでいると、被害者の氏名が明らかになっていないということが却下理由としてあげられている。ちょっと待てよ。被害者の人権を守るために、被害者の名前を公表していないK主教が何をいまさら被害者を特定しろと言えるのか。審判長自身は、あの仮名で書かれていた被害者に会っていることは、今まで経緯から明らかなことだ。

 京都教区ははじめから却下するつもりだったのではないのか。申立人が被害者の氏名を知っているはずはないという確信があったからこそ、氏名を明らかにしろという補正命令を出したのではないのか。何故なら、被害者の氏名だけでなく、被害者に関するあらゆる情報が京都教区自身によって秘匿されていたのだから、申立人が知る由もないことは、京都教区のK主教は判っていただろう。そう考えれば、京都教区ははじめから却下できると確信してあの補正命令を出したということになるが、それでは、被害者を守るといいながら、実は加害者を擁護していることにならないだろうか。むしろ、俺の周囲にいる人間は皆、その点に大きな疑問を持っている。

 あの民事訴訟を起こした被害者以外の被害者の方々は、氏名を公表しないで欲しいと要望しているのであろう。ある意味では当然のことだ。わいせつ事件では、被害者の方が弱い立場に立たされてしまうのが、今の日本の情況だからだ。世の中にはおかしなことを平気で口にするのがいるからなのだが、京都教区はそれを利用して、加害者を擁護しているのではないのか。少なくとも、結果としてそういうことになっていはしないだろうか。このままでは、日本聖公会京都教区は歴史に大きな汚点を残すことになるだろう。既に、この問題に関してはジャーナリズムが幾度となく報道しているし、これからも報道するだろう。そして、人々の目にとまり、記憶される。オキナワの問題での発言力が弱められるのは必至だろう。女性差別問題に関する発言が弱められるのも必至だ。性的虐待事案に関しては、被害者の出廷や氏名が明らかにされなくても、その性的虐待行為を証明できれば、審判廷を開けるはずだし、そうしなければ被害者はいつまで経っても心が癒されることはない。そして、加害者が安穏に暮らしていくことが出来てしまう。そうなると、あの審判廷申立を却下したことは、加害者のためにはなっても、まったく被害者のためにはなっていないことは明らかだろう。


審判廷 これからの展開

2008-09-21 | Weblog


 「審判廷 これからの展開」と題を付けたが、日本聖公会京都教区への審判廷申立がこれからどのような展開を見せるのか。一昨夜の話し合いは、他教派のことながら真剣な話し合いと祈りだった。

 まず第一に問題になったのは、日本聖公会にとってこれが初めての審判廷になるということだ。日本聖公会の各教区では、いままでに審判を申し立てられたことがない。ということは、日本聖公会の法憲法規及び審判廷規則をどのように解釈し、どのように審判廷を進めるかということの見本がないということになる。

 これは、ある意味では「糾す会」などにとって非常にいいことなのだが、しかし、日本聖公会では主教は法憲法規及び諸規則を超えて判断することができると日本聖公会京都教区は考えているようだから、まったく想像もしていないようなことが起こる可能性がある。このことに関しては、主教は日本の憲法をも超えられると考えていることなのだろうか、という疑問が昨日出されていた。あのFH司祭は、地元の九条の会の設立総会で冒頭の挨拶をしたそうだが、衆議院議員選挙では、幼稚園の職員を自民党の候補者の事務所にボランティアとして参加させていたそうだ。これは、後でも述べるコトになるだろうが、東京教区で起こっている重大な問題とも関連してくる。

 まず第一に考えられることは、審判廷申立を「証拠不十分」ないし、書面の不備で、審判長が却下してくる可能性があるということだ。あの「補正命令」という、まったく意味の通らない文書と一緒に申立書を送り返してきたそうだが、何故申立書を送り返してきたのか。「補正命令」による補正文書が送られて来ようが来まいが、申立があったという事実を記録するためには、申立書を保管しておかなければならないのだが、送り返してきた理由がまったく判らない。はじめから、審判廷を開くつもりがないのだろうかという見解も、一昨夜、出ていた。

 次に、補正命令による膨大な『補正文書』が提出されたが、少なくとも6人いる被害者の一人一人の人権を考えて、申立人は細かいことを書かなかったらしいのだが、日本聖公会京都教区の審判長はそれが理解できなかったようだ。もともと、日本聖公会には人権などということは考えられないだろうという意見も出ていた。鞍馬天狗の両肩の筋肉が3分の2も切除されてしまっても、日本聖公会のあの教区は何ら責任を感じていない。何故そのような事態になったかを、教区は勿論知っていた。あるいは、一昨夜に集まった者たちが知っている範囲では、日本聖公会の各教区で発行されている機関誌に、人権の問題が出てくるのは、「同性愛者の人権」に関することだけだ。そして、日本聖公会では、司祭や執事は主教の許可がなければ結婚することが出来ない。まるで中世に舞い戻ったような教派なのだ。

 そして、聖職試験は恣意的な判断で問題が作成されるという。受験者によって問題の質や難易度を変えることが出きるらしい。上司に睨まれたら、退職するしかなかった、戦前の日本の社会のようなことが、未だに行われているようなところで、人権の真実の意味を追求することなど到底不可能なのだろう。あの児童に対する性的虐待に関して、日本聖公会京都教区は明らかに加害者の主張だけを一方的に信じ、加害者は裁判所で、被害者を冒涜する発言までしている。これに関しては、初審が行われた地裁に裁判記録が保存されているから、近くにお住まいで、関心のある方は是非閲覧してきて欲しい。鞍馬天狗は朝から夕方ギリギリまで閲覧した後、被害者の関係者と会い、そのまま東京まで帰ってきたそうだが、普通の人はまずそうしたことをすることは出来ないだろう。彼奴は、学生時代、裁判所の関係者に、将来きっと役に立つことがあると言われて、東京地裁へ何回か出掛けたことがあったそうだ。

 しかし、日本聖公会京都教区の主教や常置委員は未だにあの裁判記録を閲覧しに行っていないのだろうか。そもそも、教区主教は一度も裁判を傍聴することなく、裁判記録を閲覧することもなく、あの謝罪の記者会見を開いたそうだが、最高裁判所の上告却下が決定されてから、あの謝罪の記者会見までの間、何をしていたのだろうか。それでいながら、昨年の11月2日には、新しく名乗り出た被害者と共に、「アポ無し」で加害者宅を訪問し、謝罪文を書かせている。京都教区がこうしたことをしたのはあれが初めてのことだっただろう。そして、慰謝料請求裁判を提訴した被害者と、もう一人の被害者以外の3人の被害者に対しても謝罪文を書かせている。そして、その報告文書には、「今後、どのようにしていくかについては、本人も混乱していると述べたので、10日間ほど考える時間を与えるとし、散会した。」と記されている。

 しかし、それから10日あまり経った14日の、加害者と京都教区の懇談では、あの確定した高裁判決の出ている被害者に対する加害行為にかんしては「否認を続けている」と書かれているが、それに対して常置委員会は次のように続けている。「2001年当時の退職撤回時の経緯については、明確でない点も多く、今後も事実確認の積み重ねが必要であることを伝え、特に被害者の方々の尊厳の回復こそが最も大切なことだということを強調した。」

 日本聖公会京都教区は被害者の尊厳の回復のために、この一年間近くの間、何をしてきたのか。我々の目や耳に入ってきている情報では、被害者に対するケアが為されているとは聞こえてこない。近藤勇師の耳に入ってこないくらいだから。TERAさんや俺のところに聞こえてこなくても不思議ではない。「被害者の方々の尊厳の回復こそが最も大切なことだということを強調した。」というのであれば、日本聖公会京都教区には、加害行為があった時に、FH司祭は間違いなく京都教区内の教会の牧師をしていたのだから、京都教区にも重大な責任があることは間違いないだろう。そして、京都教区はそれを認めたから、謝罪の記者会見で「自らに」減給処分を科したのではないのか。

 こうした経緯からすれば、審判廷は実に簡単に行えるだろう。そして、主教は法憲法規を超えて決裁できるのであれば、法規の時効に関する規定を超えて、加害者を正式に処罰することもできる。また、申し立てられたことを、日本聖公会京都教区は既に、事実として認定しているのだから、申立人の申立と、加害者の弁明が行われれば、結審することができる。


審判廷

2008-09-18 | Weblog


 日本聖公会京都教区は性懲りもなくまだ自己保身に徹しているようだが、神学的に破綻してしまったことを認識しているのだろうか。糾す会が書面を手渡しに行った時に、K司祭はなんと警察に通報したそうだが、どういうつもりで警察に通報したのか。自分の立場が危ういとでも思ったのだろうか。自分の司祭としての立場を守るためには、神学的な牙城を構築すべきだろうに、こともあろうに国家権力に援護を依頼するとは・・・・・。

 そして、FH司祭は弁護士を付けたと聞いているが、日本聖公会の聖職もしくは信徒でなければ審判廷での弁護は出来ないのではないのか。何故こうしたことが平然と行われてしまうのか、俺にはまったく判らない。聖光教会時代に、地元の「九条の会」の設立総会で冒頭の挨拶をしたそうだが、総選挙の時には自民党の候補者の事務所へ幼稚園の職員を派遣していたとか。どっちが本当なのか。まるで、都合のいい時には、自分たちはプロテスタントだといいながら、都合が悪くなるとローマ・カトリック教会系だと口にしてしまう司祭がいたのと同じだな。

 いま、FH司祭に対する審判廷が申し立てられているが、自分がしたことを深く反省しているのであれば、潔く自ら懲戒処分を受けることを申し出るべきではないのか。4人の被害者に対して謝罪文を書いたということは、そう言うことではないのか。そして、もし信仰が残っているのであれば、一日も早く陪餐停止を解除して貰うべく、それなりの悔悛の生活をすべきではないのか。そして、日本聖公会京都教区はFH司祭に対して、そうした道を歩めるように指導すべきではないのか。

 明日、また鞍馬天狗に会うことになった。TERAさんも一緒だが、もしかするとまた近藤勇師が来るかもしれないと言っていた。近藤師の関係の教会では、あの事件で困っているところがあるらしい。教会に行っていない人にとっては、日本聖公会も他のプロテスタント教会も同じキリスト教会だ。大した差しか感じていない。少子化の時代に、幼稚園の園長が、現職時代に高校生の女子に性的虐待をしていたということを聞いたら、キリスト教会と関係のある幼稚園は困るだろう。日本聖公会京都教区はそうしたことをどれだけ認識しているのか。まぁ、明日の話し合いが楽しみだ。


日本聖公会の体質

2008-09-03 | Weblog
 昨夜、久しぶりに鞍馬天狗と電話で長話をした。どうしても気になることがあったからなのだが、「子供の頃に片親になった人は司祭になれない」と口にした聖職がいたのは事実だそうだ。ただし、録音していないから証拠はない。しかし、そう聞かされて、彼は何人かの聖職にそのことを質問しているから、それを覚えている方がいらっしゃるかもしれない。その人が彼にそう言った時、その人は彼の母親が、彼が子供の時にガンで亡くなっていることを知ってのことだった。ただ、彼が女性司祭按手に関して、否定的な考え方をしていたからだったのだとすれば、最早、その聖職は神学を放棄しているとしか言いようがない。

 日本の中に、こうした発想が根深く残っているのは事実だろう。それを口にした人の年齢から考えると、戦前のことではなさそうだが、戦前のことを誰かから聞いた可能性もある。そして、彼が質問した聖職はすべて、そうした考え方があることをご存じなかったという。しかし、その聖職が口にしたということは、その人が勝手に作り話をしたのでなければ、日本聖公会には、法憲法規以外に「暗黙の了解」をもった不文律が存在しているのだろう。実に恐ろしいことだ。

 年輩の信徒の方々にも質問したそうだが、そうしたことを知っていた方は皆無だったという。勿論その方々は、彼の生い立ちを知ってはいない。しかし、そうした方々の口からも「片親」という言葉が出てきたそうだ。普段から、日本聖公会の教会が、こうした考え方が持っている社会的意味を考えること怠ってきたからだろう。あるいは、こうしたことに関する敏感な感性を聖職者が培ってこかなかったからのように思える。そうした意味では、京都教区の女児への性的虐待にも同じことが言える。女児への性的虐待行為が長年にわたって継続的に行われていたということを既に京都教区は認めているにも拘わらず、彼らはそれに対して積極的な懲戒の道を模索していない。それだけではない。京都教区の信徒の中から、そうした京都教区のあり方について批判の声が激しく湧き起こって来ないのは、一体何故なのだろう。

 教会が中世的な支配構造を保っているのだろうか。だから、教皇無謬説を否定しておきながら、主教が天皇のように崇められてしまっているのだろうか。常置委員会は枢密院なのだろうか。日本聖公会の中にも、天皇制を批判している司祭がいることは自分も知っている。片方で天皇制を批判しながら、片方で主教が明治体制下の天皇のような権力を持っているのだとすれば、そこには大きな矛盾が起きていることは明白である。その矛盾を矛盾として問題にすることがなければ、どちらかが単なるポーズでしかないということになる。日本聖公会の体質が、こうしたことに典型的に表れているように見える。