いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

天狗と会ってきた

2011-11-08 | Weblog

 一昨日、天狗と会ってきた。土曜日の夜に駅について、近くのホテルに一泊し、次の日に南会津と呼ばれているところを一周してきたが、なかなか素晴らしい旅だった。彼奴は運転していないと車酔いを起こすそうで、助手席のオレは途中から缶ビールを片手にドライブを楽しんできた。オレが持たせている簡易線量計をもう片方の手に持って助手席に座っていたが、彼奴が今まで報告してくれたのとほぼ同じ数値を表示していた。しかし、放射線量を調べるために行ったのではなく、天狗の研究に出てくるものを見てみたかったからだが、会津にあんなにキリシタンのものが残っているとは思っていなかった。

 彼奴がブログや著書で発表しているのは、それらの中のごく僅かだと言うことがよく判った。そして、肝心なことになると、彼奴は必ず誤魔化す。特に伝承に関しては、どこのどのような人から聞いたのかをまったく教えない。それでいて、連れて行かれたところには、子安観音像があったり、十字架のシンボルの付いた錫杖を手にした地蔵菩薩像があったりする。そして、確実に類族の墓だと思われるものもあった。

 このブログのブックマークに「会津キリシタン研究所」という彼奴のブログがあるから、関心のある人は是非一度読んで欲しい。日本のキリスト教会の多くは、日本の仏教をかなり誤解しているが、そうしたことを彼奴なりに解説している。「仏教が自ら葬式仏教になったのではなく、幕府が仏教を葬式仏教にした」ということはオレも知らなかった。そして、檀家制度がキリスト教の教会制度のコピーであるとも、ブログで彼奴は言っていたが、少し話を聞いただけでそれがよく判った。

 残念だったのは、彼奴がしているレクイエムに出席することが出来なかったことだけだったが、レクイエムの式文を一冊プレゼントしてくれた。自分で作った式文だと言っていたが、あの中の共同祈願に彼奴の信仰が隠れていた。日本聖公会は、キリシタンの苦しみの、その欠片でもいいから感じて欲しい。転んだことにして隠れ続けていたキリシタンたちの苦しみを、日本聖公会京都教区の主だった聖職者たちがどれだけ理解できているか。そして、「転切支丹類族」という言葉によって、今でも苦しんでいる人々がいることを考えて欲しい。放射線は見えないが、あの方たちの苦しみははっきりと見えている。