いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

不埒なこと

2009-01-30 | Weblog


 TERAさんから昼過ぎに電話があった。日本聖公会の管区小審判廷は、申立人に非公開を告げてきたそうだが、その理由がはっきり記されていないらしい。すぐにでもここに書き込もうと思っていたのだが、夕方までの締め切りの仕事があったので、今頃になってしまった。

 日本聖公会は正気なのか?聖職者は法憲法規を熟知しているのか?そして一番大事なことだが、日本聖公会がどのような教会であろうとも、法憲法規に定められていないことは、会議であれば国会法、こうした審判廷であれば刑事訴訟法や民事訴訟法の規定に沿って考えられなければならないはずであるのに、そうしたことを一切無視しているのだろうか。日本聖公会の法規では、審判廷は原則公開になっている。それを崩して非公開に出来るのは、被害者を保護するためだけだろう。日本聖公会というところはこんな簡単な理屈が通らないのだろうか。

 いま鞍馬天狗から電話があった。TERAさんが今夜あいつの隠れ家に行くとのことなので、自分も行くことにした。この非公開という問題に関して、じっくりと話し合ってそれをここにまた書こうと思っている。そもそも、この非公開にするために、審判員全員の署名捺印を得ているのかどうかも疑問らしい。そして、原則公開の審判廷を理由も開示せずに非公開にするということは、日本聖公会が考えている主教制は、一体何かと言わざるを得ないだろう。

 そう言えば、「牧師は神に近い」とか「主教は神に近い」ということを、日本聖公会の人々が考えているという話を聞いたことがある。信徒がそう思いこんでしまっているのかと思っていたが、もしかすると、主教を頂点とした聖職者全体がそう考えているように思えてきた。

 「聖公会は祈祷書で一致している」ということを聞いたことがあるが、日本聖公会法規第170条には、「公祷、聖奠およびその他の諸式の執行は、総会の認許した祈祷書によらなければならない。ただし、正当な事由がある場合において教区主教の許可があるときは、総会の認許した祈祷書によらないことが出来る。」と記されている。ということは、主教の判断は総会の判断を超えられるということなのだろうか。そして、主教はその認許について、管区もしくは主教会に対して報告義務があるとは記されていない。つまり、主教は日本聖公会の一致の根底にある祈祷書をも超えられるということになる。

 これは、極めて神学的に問題があるだろう。世界の聖公会は「教皇無謬説」を否定してきたはずなのだが、日本聖公会はその法規の中で「主教無謬説」を唱えていることにならないだろうか。主教会への報告義務がなければ、主教の判断を抑制し、あるいは補強する機関がまったくないことになる。


年が明けて何かが変わっただろうか

2009-01-02 | Weblog


 今日は鞍馬天狗のところでじっくり話をしてきた。TERAさんは来られなかったが、鞍馬天狗の友人というのがいた。歳は俺達と同じだそうだが、日本聖公会のことをかなり知っている人物だった。そしてその友人が言うには、日本聖公会は確実に中世封建制度下の教会のように、強烈なヒエラルヒーを保持し続けているという。按手日が少しでも早ければ、その上の人物が上になり、その上に逆らうことは、家族を路頭に迷わせる結果を導くという。それだけではない。女性司祭按手を否定していた司祭達は、絶対に主教になれないとまで言っていた。

 最近はもうないそうだが、主教選挙での裏工作などは公然と行われていたそうだ。弱みを握られれば、それで主教選挙の時に誰に投票するかを依頼されれば、そうせざるを得ないらしい。無記名投票なのだが、何故か、誰が誰に投票したかが判るらしい。実に奇妙な話だ。何のための無記名投票か判らなくなるが、日本聖公会の中にはその意味が判っていない司祭もいるという。

 そして、3年間しか神学教育を受けていないから、神学レベルは極めて低いらしい。いまだに、ヨハネ福音書は弟子のヨハネが書いたと信じている司祭がいるという。ある教派の聖職試験で「フィリオ・クエ論争について知ることを記せ」という問題が出たことがあるそうだが、その時の正解率は極めて低かったという。日本聖公会だったらどうなのだろう。「東西の教会における、三位一体論の相異に関して記せ」と言う問題になったら、どうなるのだろう。イギリス国教会は、少なくとも大きな神学論争の中で生き抜いてきた教会ではなかったのだろうか。

 そうした神学的脆弱さが、現職司祭による女児への性的虐待事件を裁くことが出来ない状況を生みだしていることは、外から見るとはっきりしているように見える。教会制度、つまり主教制度をどのように法的に規定しているのかが、あの「法憲法規」を読んでも見えてこないのは俺だけだろうか。「法憲法規」と主教のどちらが上にあるのかということでもある。彼らは、象徴天皇制をも否定した。祈祷書から天皇への祈りを削除したことがそれを示している。にもかかわらず、彼らは「法憲法規」を主教は超えられると発言したという司祭を審判廷にかけていない。

 もはや、日本聖公会は無秩序の中にあるとしか言いようがないのだろうか。鞍馬天狗の友人は、「それに近いことは間違いないだろう」と言っていた。「思想の自由」「言論の自由」を標榜しながら、『正論』に投稿した司祭に退職勧告のようなことをしたが、それがどのように矛盾したことなのか判っていないのだろう。俺は、『正論』には基本的に、というか、原則としてまったくあの考え方を受け入れないが、しかし、『正論』を読んだり、『正論』に投稿することは自由だということは判っているつもりだ。こうした思想弾圧・言論弾圧を平気でしている人々が、憲法や自衛隊や人権のことを口にすることは、俺にとっては信じられないことだ。やはり、上からの強圧的なものがあるのだろうか。

 そして何よりも、被害者とその家族に対する配慮が、まったくと言っていいほど為されていないのは何故なのか。信徒の中には、「H司祭は無実の罪で慰謝料を支払わされた」と考えているような信徒も、数は少ないがいるそうだ。そうした信徒に対して、主教や教会の司祭は何故、問題の中心部分を説明していないのか。おそらく、こうしたことも審判廷で問題になるのだろうが、本当に秩序だった審判廷が開かれるのだろうか。被害者の人権が抑圧されることのない審判廷を開くことが出来るのだろうか。一番の問題はそこにある。そして、少なくとも審判長は、あの確定した高裁判決を閲覧してくるだろうと思うが、他の審判員はどうなのだろう。その裁判記録に残っている被害者の申立と加害者の弁明が、一番重要な裁判史料ではないかと思えるのだが、審判員はそれをどう考えているのか。

 年が明けて、何かが変わっただろうか。それとも、京都教区の審判廷の二番煎じが演じられるのだろうか。「主よ、被害者とそのご家族を昼も夜も守り続けていて下さい」という鞍馬天狗の友人の祈りが、腹の底から出てくるように感じられたが、その時、俺も心と体が震えた。