いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

人権と日本聖公会

2009-02-25 | Weblog


 あの問題はどうなったんだろう。例の、『正論』に投稿した司祭に対する退職勧告の件だが、俺の仕事場にもほとんど情報が流れてこない。どこかからか理にかなった指導があって、沈黙したのならいいのだが、退職勧告を撤回していないのであれば、日本聖公会は二度と人権を口に出せないだろう。それでも、人権を口にするようであれば、彼らの考えている人権というのは、自分たちが自由に何でも言ったり、したりすることが出来る権利でしかないということがはっきりしてくる。

 日本は、憲法や法律あるいは条例に違反しない限り、言論の自由が国家によって保証されている。あの『正論』という雑誌に投稿することが、憲法や法律あるいは条例に違反しているとでも言うのだろうか。それならば既に、発売禁止とか、回収命令とかが出てもいいはずなのだが、いまだに書店の店頭に並んでいる。それにしても、あの退職勧告をした聖職者達は一体何を考えているのか。

 それとも、日本聖公会では、『正論』に投稿するということが教理的に問題になるとでも考えているのだろうか。確かに、日本聖公会の中には、日本の自衛隊は憲法違反だとか、イージス艦の海外派遣は憲法違反だとか、まるで頓珍漢なことを口にしているのがいるようだが、最高裁の判断を読んだことがないのか。最高裁の判断があるのだから、まずそこから出発して、あの判断がおかしいということであれば、また裁判を提起しなければならないだろう。なのに、彼らはそうした手続きを踏むことなく、自衛隊は憲法違反だとか、海外派兵は憲法が禁じている侵略行為だとか、まるでおかしなことを言い続けている。以前は、こうした発想を「左翼小児病」と呼んでいた。

 現実を直視せず、それ故、現実をまったく理解しないで、イージス艦の海外派遣を「侵略だ」と考えること自体、あまりにも無知すぎる。イージス艦でどうやって海外侵略するというのだ。たった数隻の輸送船で、外国を侵略できると思っているのか。いまの日本の防衛力で、仮に外国が軍事侵略してきたとしても、まったく歯が立たないということを彼らは知っているのだろうか。それだけではない。日本の自衛隊の継戦能力がどれくらいあるか知っているのだろうか。たとえば、新潟に陸上自衛隊の一部を結集させるとしよう。5000人の陸上自衛隊員が重装備して新潟県内に移動するのに、どれくらいの時間が掛かるかを判っているのだろうか。戦車や装甲車を伴った移動であれば、想定外の障害が起きるであろうから、どれだけ時間が掛かるか未知数だ。

 そうした日本の防衛力で、どうやって海外侵略するのか。イージス艦の海外派遣=海外侵略ということを口にする日本聖公会の司祭は、具体的に、実証的にそれを証明してみろと言いたくなる。平和運動というのは、そんな生半可な論理や情熱で出来ることではない。首相などの靖国神社参拝や伊勢神宮参拝に関しても同じことだ。伊勢神宮の参拝に関しては、最近になって言い出したようだが、日本聖公会の教会で葬儀が執り行われた大平元首相も、在任中には伊勢神宮に参拝していたのを日本聖公会は知らないのだろうか。それとも、靖国神社を国営化することを考えている人々がいることには蓋をして、政治家の参拝だけを問題にしているのか。原発にしてもそうだっただろ。日本聖公会の司祭で、原発反対運動をしていたのもいたよな。偶然だが、俺もあるところでそれを見かけたことがある。しかし、某大学にはかつて、実験用原子炉があっただろう。インターネットにもそれが公開されていたことがあったよな。

 日本聖公会はポーズで平和運動をするな。日本聖公会はポーズで原発反対運動をするな。そして、来週行われる管区小審判廷の結果如何では、二度と人権のことを口にするな。日本の中では、一般大衆には目立たないところで、実質的な差別が起こっているが、日本聖公会は何故それに目を向けないのか。俺が知っているあるところでは、その差別の存在を日本聖公会のある司祭は知っていたそうだ。にもかかわらず、日本聖公会の中ではそうしたことが発言されないのは何故なのだ。

 あの性的虐待の加害司祭は、片方で九条の会の設立総会でスピーチしたかと思えば、片方では自民党の国会議員の選挙事務所に幼稚園の職員を派遣していたそうだが、結局はみな、どれもこれもポーズでしかなかったのだろう。しかし、あの性的虐待の被害者はいまでも苦しんでいるし、その家族は毎日それを見続けているのだということに、何故、目を向けようとしないのか。

 ローマ・カトリック教会のセクハラ事案は、不起訴になったそうだな。たったいま、うちの事務所からメールが転送されてきた。しかし、日本聖公会京都教区の性的虐待事案は、民事裁判ではあっても、被害者の主張がすべて認められ、請求額全額の慰謝料支払いを命じた高裁判決が確定している。それも、仮執行宣言付きの判決だった。それが確定した後も、京都教区は主教をはじめ司祭が「冤罪」「事実無根」を口にしていただろう。それが、被害者をどれだけ傷つけたか判っているのか。判っていないから、京都教区の審判廷で申立を却下したのだろう。こうした性的虐待の加害司祭と、その司祭を擁護した京都教区を、日本聖公会の管区小審判廷が裁けないとしたら、最早、日本聖公会は得体の知れないカルト教団でしかなくなる。


ソドムとゴモラ

2009-02-18 | Weblog


 ソドムとゴモラというのは、創世記18章16節から19章29節までに記されている有名な物語に出てくる町の名前だが、<京都の影>というブログにすごいことが書いてあった。俺は、あれはてっきりTERAさんが書いているのだと思っていたが、TERAさんではないとのことで、鞍馬天狗に電話したが、彼奴も、あのブログの設置者が誰かは判らないそうだ。ただ、なぜか彼奴のメールアドを知っていて、たまにメールが来ると言っていた。

 審判廷の前に、主教会が全員で懺悔の祈りをしろという内容なのだが、それほど強烈なことをあのブログの設置者は意図も平然と書いている。これだけの長い年月にわたって、被害者とその家族が苦しみ続けてきたのだから、その全責任は、京都教区の主教だけでなく、日本聖公会全体の責任だということなのだろう。主教会は、法憲法規にあるように、その組織の頂点に立っている人々だ。彼らの過半数が首を横に振れば、管区総会の決議も無効になる。

 実は俺の所にも嫌なことが書かれたメールが転送されてきた。内容は、「加害司祭を復職させるための審判廷」ということだった。時効で押し切る可能性もあるという。日本聖公会の審判廷は二審制だから、管区小法廷で時効が宣言されれば、もう二度とあの性的虐待行為に関して声を上げることは出来なくなる。日本聖公会法規第210条にはこう記されている。「懲戒を求める申立は、第198条から第200条までに規定する行為または一定の行為をしないことが終わった時から3年を経過した後は、することができない。」

 あの加害司祭は、過去3年間に同じような性的虐待行為をしていなければ、そしてその被害者が現れていなければ、時効が成立するということなのだろう。あの<京都の影>というブログの設置者は、それを知っていて、あえてあのように書いたのだろうか。確かに、この210条の規定では、年数が書かれているだけであって、それ以前に犯した過ちを悔い改めることは条件として含まれていない。3年間、同じ過ちをしていないということは、悔い改めているということだという判断があるのかもしれないが、もしそうだとしたら、教会の時効に関する考え方からは逸脱しているように思えてならない。

 聖書が告げる罪ということに、時効はない。しかし、悔い改める者には罪の赦しが宣言される。3年間、性的虐待行為をしていないのだから、悔い改めたと考えられるというのであれば、時効が完成していると言えるのだろうか。しかし、聖書の中には、罪と赦罪の関係をそのように考えているところはない。日本聖公会の審判廷は、法憲法規によって開かれたとしても、その審判の基準に根底には聖書がなければならない。3年間性的虐待をしていないから悔い改めている、という判断は、聖書のどこからも出てこないのだから、日本聖公会の法規そのものに問題があるように思えて仕方がない。しかし、聖書は綱憲によって最高規範であると定義されているのだから(「第1 新約および旧約の聖書を受け、之を神の啓示にして救を得る要道を悉く載せたものとしんずる。」)、法憲法規よりも、聖書が上位規定としてあることは間違いない。

 それでも、日本聖公会の管区小審判廷が「時効」を宣言したら、管区小審判廷は、全世界の聖公会が「遵奉」している綱憲を無視したことになる。そんなことをしたら、世界の聖公会から大きな問題提起が起こるかもしれない。アフリカの国々の中には、いまでも少女に対する強制わいせつが続いているところがあるが、アフリカの諸教会はそのことに対して、声を大にして叫び続けている。その中には、アフリカの聖公会も含まれているようだ。ただ、残念なことだが、アングロ・アフリカニズムが提起している問題に関して、日本聖公会が独自の見解を示したということを知らない。昨年行われたカンタベリーの集まりに、世界中に広がっている聖公会の教会で、参加しなかった所はなかったのだろうか。日本聖公会は、公の場でそのことを信徒に告げているのだろうか。それでいて、差別や性的虐待あるいは人権などの問題に国内では積極的に発言しているのはなぜなのだろう。「アングロ・アフリカニズム」を英語で検索すれば、詳しく書かれているサイトがヒットしてくる。英語の読める方々は是非読んでいただきたい。

 日本聖公会がまともな神学的思考が出来る教会であれば、3月3日の管区小審判廷で「時効」を持ち出すことはないだろうと思っている。もし万が一、管区小審判廷が「時効」を理由に申立を却下したとすれば、彼らの神学的思考の質が問われても仕方がないだろう。この管区小審判廷は衆目の視線を浴びている。ことに京都市内に居住している方々にとっては、重大な問題が残されているからだが、日本聖公会の主教会はそのことを認識しているだろうか。


日本聖公会京都教区が見えてきた

2009-02-13 | Weblog


 あるルートで、日本聖公会京都教区の「極秘文書」が俺の事務所に流れてきた。文書名を記すと、面倒なことが起こりそうだから、文書名を明らかにすることはしないが、「極秘文書」であることにかわりはない。日本聖公会京都教区の教区会で配布された文書だそうだが、これをある人物が入手したのはごく最近のことだという。送られてきた文書を早速テキスト・ファイルに変換し、解析をし始めたが、あまりにも見え透いたことが書かれているので、呆れ果てている。

 日本聖公会京都教区は反省していない。改悛などということは、その片鱗もない。ただひたすら、あの陰惨な性的虐待事件の責任を回避しようとしているとしか思えない。被害者がその被害を家族に話し、そして家族が京都教区主教に申立をしてから、慰謝料請求裁判が最高裁の上告却下で終わった後までのことが記されているのだが、そしてその間に主教が定年退職のために代わっているのだが、その後の新主教のこの問題に関する暴言に関しては一切記されていない。被害者の関係者に、電話口で「冤罪だ!」と大声で怒鳴ったことなど、まったく記されていない。しかも、怒鳴られたのは日本聖公会の信者なのだが、そうしたことをこの文書はひた隠しに隠している。

 日本聖公会の管区小審判廷は、こうしたことも含めて審判するだろうが、それにしても、開いた口がふさがらないとはこのことだ。「冤罪だ、最高裁判所に抗議する」と総務局長名で声明文を出していた京都教区の主教は、あの「謝罪の記者会見」で謝罪したのではないのか。そうしたことを一切記すことなく、あの極秘文書は如何にも反省しているように見せかけているが、反省どころか、すべてが日本聖公会京都教区の自己弁護でしかないことは、この問題を知っている人々が読めばすぐに見抜ける。だから、これを「極秘文書」にしたのだろうが、「蛇の道は蛇」だ。おまけに、情報は光の早さで世界中を駆けめぐる。

 しかし、考えようによっては、この文書を審判廷の申立をした方々が知っていれば、あの方々には実に有利に事を進められる恰好の証拠になるだろう。何しろ、自分たちの責任回避に終始している文書だから、あの性的虐待事件が未だに解決していない立派な証になる。それだけではない。被害者とその家族からの申立は一切載せられていない。これは、単純なミスではあり得ないことだ。事件を解決しようとすれば、被害者とその家族の申立を真摯に受け止めることから始めなければ、何の解決も得られないことは火を見るよりも明らかなことだ。俺ならこんなことはしなかっただろう。教区会で口頭で報告し、その場でその報告書は部外秘とする旨の決議をしただろう。当然議事録にも内容は記録しない。そして、文書そのものは破棄する。そうする理由などいくらでも考えることが出来る。

 日本聖公会京都教区の顧問になって、一儲けさせて貰った方がよかったかもしれない。勿論、顧問料は蔭で「糾す会」などの活動資金に全額カンパだ。惜しいことをしてしまった。しかし、それにしても日本聖公会京都教区は単純なことしか考えられないものだ。こうした文書で自己弁護しようとしたのだろうが、結局は墓穴を広げたことにしかなっていない。


閲覧依頼

2009-02-10 | Weblog


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異常な事態

2009-02-08 | Weblog


 次はローマ・カトリック教会だったな。詳しいこと判らないが、セクシャル・ハラスメントだということだけは新聞に載っている。しかし、それ以上のことが明らかになっているという話も、俺の仕事場には伝わってきているが、真偽のほどは判らない。そして、何故こうしたことになったのかということも、まったく解明されていない。

 ローマ・カトリック教会では調査委員会のようなものを立ち上げたそうだが、果たしてどれだけそれで事態が解明できるかは未知数だろう。キリスト教であれ、仏教であれ、浮いた話は結構耳にしてきた。具体的に裏付けがとれているものもあるが、要するに、「聖人と痴人は紙一重」ということなのだろうか。

 ことに、カルトまがいの宗教集団には、こうした事態が頻繁に起こるように見えているが、伝統的な宗教集団には「起こり得ない」という幻想が渦巻いているようだ。TERAさんが、<キリスト教カルトを斬る>で言っているように、「あって欲しくないこと」は「起こり得ない」ということになってしまっているようだ。しかし、だれもが「起こり得ない」とは思っていないのも事実だ。ローマ・カトリック教会には、こうした問題を専門的に取り扱っている組織があるそうだが、問題はこうした組織の自浄を仕事にしている組織の見解を、その組織全体の上層部がどれだけ真剣に耳を傾け、それを真摯に考えようとしているかだろう。

 その組織に特別な、しかも独立した司法権を持たせない限り、まともに調査すら出来ないのは言うまでもない。まして、「不逮捕特権」にも似た権威が与えられていたら、被害者が出ても何も言えないのは目に見えている。仏教でも、総本山の統帥を離れた独自の司法組織があるという話を聞いたことがない。もしかしたら、そうした宗派もあるのかもしれないが、トップ-ダウン的な組織であったら、カルト教団とあまり変わらなくなるだろう。かといって、強大な司法権を与えられた組織が暗躍し始めたら、一人一人の僧侶は自由な発言や行動が出来なくなり、実質的に組織全体が弱体化してくる。

 日本聖公会などはそのいい例だろう。教区の常置委員会は主教の諮問機関でしかないのだが、下手をすると常置委員長が影の主教にもなりうる政治形態だという。その常置委員長が、女児に対する性的虐待行為をして、それが問題になっても、主教も他の常置委員も自由な発言が出来なくなったり、主教としての権威を発揮出来なくなる。あれだけ緻密な『教会法典』を保ち、教皇無謬説を保持しているローマ・カトリック教会でさえ、あの事件に即座に対処できなかった。「あって欲しくない」が「起こり得ない」ということになっていたのかもしれない。だからといって、教会法が無視されていいはずもないし、むしろもっともっと議論を尽くした後で、細かい規定を定めなければならないのだろう。そして、大事なことは、問題が起きたらすぐにそれに対処できる体制を組織が確立しておくことだ。

 聖職者の多くはすぐに、法律の専門家に依頼すればいいと安易に考えるだろうが、教会法は教会の神学そのものであるといっても言い過ぎではないはずだ。それを曖昧なままにしてきたある教団では、教団の法規にない理由である牧師に退職勧告をしている。彼らは既に、法治国家における自由ということの意味をまったく見失っているとしか言いようがない。日本聖公会などは、こうしたことさえ問題にならないほど、神学的に停滞してしまっているという。ケーキと紅茶で聖餐式の真似事をした司祭がいたそうだが、そこにいた司祭達は何故それを制止しなかったのか。教会の聖職者がサクラメントをパロってどうするのだ。若い人々が面白がってしたというのなら、主教が後で指導すればいいことだったのだろうが、司祭がそれをしたのでは、日曜日の聖餐式もパロディになってしまうだろう。

 あのローマ・カトリック教会の聖職者の拘置請求は通ったのだろうか。逮捕されてから既に48時間以上が過ぎている。釈放されたというニュースが流れてこないから、拘置請求が通ったのかもしれない。次は、起訴されるかどうかの問題だが、それに関する情報はまったく流れてこない。あの聖職者は高齢で、脳梗塞での入院歴があると聞いている。検察や裁判所がそれをどう考えるかでは、在宅起訴ということもあり得るだろう。拘置所で倒れたら大変なことになる。

 「あってはならないこと」は「起こり得ない」のではなく、「あってはならないこと」も起こりうるのだという視点から、そしてそれが人間の罪ということでもあるのだから、ローマ・カトリック教会や日本聖公会だけでなく、多くのキリスト教会が真摯にこの問題を考え、批判の対象としてではなく、自らの組織を健全に保つために役立てたらいいだろう。「二度あることは三度ある」とも言われているが、「二回、三回は隠せても、四回目を隠せることは出来ない」かもしれない。