あの問題はどうなったんだろう。例の、『正論』に投稿した司祭に対する退職勧告の件だが、俺の仕事場にもほとんど情報が流れてこない。どこかからか理にかなった指導があって、沈黙したのならいいのだが、退職勧告を撤回していないのであれば、日本聖公会は二度と人権を口に出せないだろう。それでも、人権を口にするようであれば、彼らの考えている人権というのは、自分たちが自由に何でも言ったり、したりすることが出来る権利でしかないということがはっきりしてくる。
日本は、憲法や法律あるいは条例に違反しない限り、言論の自由が国家によって保証されている。あの『正論』という雑誌に投稿することが、憲法や法律あるいは条例に違反しているとでも言うのだろうか。それならば既に、発売禁止とか、回収命令とかが出てもいいはずなのだが、いまだに書店の店頭に並んでいる。それにしても、あの退職勧告をした聖職者達は一体何を考えているのか。
それとも、日本聖公会では、『正論』に投稿するということが教理的に問題になるとでも考えているのだろうか。確かに、日本聖公会の中には、日本の自衛隊は憲法違反だとか、イージス艦の海外派遣は憲法違反だとか、まるで頓珍漢なことを口にしているのがいるようだが、最高裁の判断を読んだことがないのか。最高裁の判断があるのだから、まずそこから出発して、あの判断がおかしいということであれば、また裁判を提起しなければならないだろう。なのに、彼らはそうした手続きを踏むことなく、自衛隊は憲法違反だとか、海外派兵は憲法が禁じている侵略行為だとか、まるでおかしなことを言い続けている。以前は、こうした発想を「左翼小児病」と呼んでいた。
現実を直視せず、それ故、現実をまったく理解しないで、イージス艦の海外派遣を「侵略だ」と考えること自体、あまりにも無知すぎる。イージス艦でどうやって海外侵略するというのだ。たった数隻の輸送船で、外国を侵略できると思っているのか。いまの日本の防衛力で、仮に外国が軍事侵略してきたとしても、まったく歯が立たないということを彼らは知っているのだろうか。それだけではない。日本の自衛隊の継戦能力がどれくらいあるか知っているのだろうか。たとえば、新潟に陸上自衛隊の一部を結集させるとしよう。5000人の陸上自衛隊員が重装備して新潟県内に移動するのに、どれくらいの時間が掛かるかを判っているのだろうか。戦車や装甲車を伴った移動であれば、想定外の障害が起きるであろうから、どれだけ時間が掛かるか未知数だ。
そうした日本の防衛力で、どうやって海外侵略するのか。イージス艦の海外派遣=海外侵略ということを口にする日本聖公会の司祭は、具体的に、実証的にそれを証明してみろと言いたくなる。平和運動というのは、そんな生半可な論理や情熱で出来ることではない。首相などの靖国神社参拝や伊勢神宮参拝に関しても同じことだ。伊勢神宮の参拝に関しては、最近になって言い出したようだが、日本聖公会の教会で葬儀が執り行われた大平元首相も、在任中には伊勢神宮に参拝していたのを日本聖公会は知らないのだろうか。それとも、靖国神社を国営化することを考えている人々がいることには蓋をして、政治家の参拝だけを問題にしているのか。原発にしてもそうだっただろ。日本聖公会の司祭で、原発反対運動をしていたのもいたよな。偶然だが、俺もあるところでそれを見かけたことがある。しかし、某大学にはかつて、実験用原子炉があっただろう。インターネットにもそれが公開されていたことがあったよな。
日本聖公会はポーズで平和運動をするな。日本聖公会はポーズで原発反対運動をするな。そして、来週行われる管区小審判廷の結果如何では、二度と人権のことを口にするな。日本の中では、一般大衆には目立たないところで、実質的な差別が起こっているが、日本聖公会は何故それに目を向けないのか。俺が知っているあるところでは、その差別の存在を日本聖公会のある司祭は知っていたそうだ。にもかかわらず、日本聖公会の中ではそうしたことが発言されないのは何故なのだ。
あの性的虐待の加害司祭は、片方で九条の会の設立総会でスピーチしたかと思えば、片方では自民党の国会議員の選挙事務所に幼稚園の職員を派遣していたそうだが、結局はみな、どれもこれもポーズでしかなかったのだろう。しかし、あの性的虐待の被害者はいまでも苦しんでいるし、その家族は毎日それを見続けているのだということに、何故、目を向けようとしないのか。
ローマ・カトリック教会のセクハラ事案は、不起訴になったそうだな。たったいま、うちの事務所からメールが転送されてきた。しかし、日本聖公会京都教区の性的虐待事案は、民事裁判ではあっても、被害者の主張がすべて認められ、請求額全額の慰謝料支払いを命じた高裁判決が確定している。それも、仮執行宣言付きの判決だった。それが確定した後も、京都教区は主教をはじめ司祭が「冤罪」「事実無根」を口にしていただろう。それが、被害者をどれだけ傷つけたか判っているのか。判っていないから、京都教区の審判廷で申立を却下したのだろう。こうした性的虐待の加害司祭と、その司祭を擁護した京都教区を、日本聖公会の管区小審判廷が裁けないとしたら、最早、日本聖公会は得体の知れないカルト教団でしかなくなる。