いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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組織的問題だけではない

2010-07-24 | Weblog


 いい加減に解決できてもいいはずだと、何回も思ったが、最近になってローマ・カトリック教会の司教が書いたものを読んで考えさせられている。ローマ・カトリック教会の場合、教会内部の裁判権もまた聖職者に集中している。そして、最近になって、教皇自身も司教だった時代に性的虐待事案を隠蔽していた可能性があるという主張が浮上してきた。そのことに関して記されているのだが、そこにあるローマ・カトリック教会独自の組織的問題性を提起しているように読める。このことに関しては、日本聖公会においても同じことが言えるだろう。常置委員会は主教の諮問機関でしかない。最終的には、主教の裁量で決められる。そして、もうだいぶ前のことになるが、常置委員会で聖職者のことが議論になるときには、信徒常置委員は口を挟まないという暗黙の了解があったという。

 おそらくこれは、どの教区にも公然と存在しているのだろうが、この「聖職者のことに関する議論に信徒常置委員は口を挟まない」という暗黙の了解は、ローマ・カトリック教会よりももっと悲惨な状態だといい得るかもしれない。常置委員会という主教の試問期間に信徒委員が加わっていながら、教会として非常に大事な聖職者のことになるとその信徒常置委員は口を噤まなければならなくなるということは、ある意味では、信徒常置委員は飾りでしかないということになる。女児に対する性的虐待を行った司祭に関して口を挟めないのだから、主教の過ちに対して発言することなど、皆無なのだろう。そして、信徒常置委員はそうした非常に重要なことに関与できないのであれば、「単なる飾り」でしかなくなることは目に見えている。

 だが、飾りもそれなりの機能があるから添えられているものなのだ。つまり、「信徒も参加しています」という体裁を整えるためのものなののだろう。そして、信徒常置委員がある意味での名誉職であれば、その地位にある方々も自然と保守的にならざるを得なくなる。であれば、審判廷に審判員として参加している信徒はどうなのだろう。京都教区の審判を差し戻した管区小審判邸の信徒審判員は弁護士で、あの審判の原文を書いたのはその方であろうと言われているが(もちろん推測の域を出ない)、教区や管区の常置委員会ではどうなのだろう。何しろ、司祭按手を受けると、司祭として必要な神学的知識までもが付与されてしまうかのように誤解されていることがあると、日本聖公会の聖職者に関して耳にしたことがある。

 日本聖公会京都教区の女児に対する性的虐待事案を、京都教区自身がいまだに解決できていないのは、組織的な問題によることだけではない。組織の中で蠢いているもっと別のものがあることと、そして日本聖公会自身の神学が、あまりにも未熟すぎることにあるように思えてならない。ある人は「未熟なのではなく、神学する素地がない」とまでおっしゃっていた。確かに、神学的に秀でた方々もいらっしゃらないわけではないのだが、権力の中枢にいる人々がそうした方々の主張を理解できないだけのことだともおっしゃっていた。そして唯一の救いは、教区の審判であれ、管区の審判であれ、「綱憲」に関わることでなければ、主教会に拒否権はないという規定が、法規にあることだ。まさか、「主教会は法規を越えることが出来る」とは言わないだろう。