いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

NCCと日本聖公会

2008-11-28 | Weblog


 NCCにも人権問題に関する委員会があるが、あの委員会は何を考えているのか。NCCの議長などに日本聖公会の司祭がなっているから、一切口を挟めないのか。女児に対する性的虐待をし続けていた司祭を裁くことが出来ないだけではなく、あの問題に誠実に対応しているかのように振る舞っている日本聖公会に対して、NCCは何故何も言わないのか。日本聖公会京都教区の主教を始め、どれくらいの聖職者があの裁判記録を閲覧したのか。NCCはあの裁判記録を閲覧しているのか。あの裁判記録にある「被害手記」とでも言える部分を、高等裁判所は全面的に認めているのだが、NCCの人権に関する委員会は、それを知っているのだろうか。

 そして、裁判が民事裁判だったから、加害者である司祭はいまも自由に生活していることが出来ている。あの裁判記録にある被害状況を記している部分を読んだら、あの事件が如何に重大な問題を含み、そしてその司祭を正式に処分しないばかりか、「いい加減で赦してあげるべきだ」という信徒に対して、日本聖公会京都教区は道対応しているのかを、NCCの人権に関する委員会は把握しているのだろうか。あるいは、日本聖公会京都教区は、事件そのものを「個人情報の守秘義務」を盾に事件の概要さえも秘匿している。そもそも、あの加害司祭の辞職を撤回した日本聖公会京都教区常置委員会の議事録を、被害者のご家族にいまだに公開していない。

 県庁での記者会見では、日本聖公会京都教区は最高裁の上告却下を受け入れ、確定した高裁判決を認めているにも関わらず、一番重要だと思われる常置委員会の議事録公開をなぜ日本聖公会京都教区は拒否し続けているのか。あるいは、あの記者会見で、日本聖公会京都教区主教や常置委員にたいする減給処分の具体的な数字さえも彼らは明らかにしていない。「冤罪」「最高裁判所に抗議する」という声明まで、一般のジャーナリズムに出していたのだから、それを反省しているのであれば、減給処分の額を公開する義務があるだろう。こうした一切の責任を回避し続けている日本聖公会京都教区に関して、NCCはどう考えているのか。オキナワの問題には積極的に関わっていながら、なぜ日本聖公会京都教区の重大な問題に関して沈黙し続けているのか。

 加害司祭は、いまだに、二人の被害者に対する性的虐待行為は「事実無根だ」と主張している。だから、もちろん謝罪もしていない。オキナワで米軍の兵士が女性に対して性的虐待をした時には、そのニュースが伝わると同時に、NCCは抗議声明を出していたと思うのだが、日本聖公会京都教区での女児に対する性的虐待行為に関しては一切、口を閉ざしているらしいが、日本聖公会もNCCの一員であるのだから、NCCは日本聖公会京都教区に対する抗議声明をなぜ出さないのか。仕事場で集めている最近の資料ファイルにある日本聖公会のある教区の機関誌には、この問題に対して日本聖公会京都教区が「並々ならぬ決意」を見せているように記されているが、日本聖公会京都教区の決意とは一体何をしようとする決意なのか。あの被害者はいまもPTSDに苦しみ、そのご家族は日々そのお嬢さんを介護し続けていると聞いている。これに対して、日本聖公会京都教区は一体何をしたのか。NCCは、日本のキリスト教界とその関係団体のために、こうしたことを正確に調べ上げ、問題が問題であるだけに、誠実に対応すべき義務があるのではないのか。


日本聖公会ならどうする?

2008-11-15 | Weblog

 あるキリスト教の教派で、フリー・コミュニオンをする教会が出てきた。その教派内でも用語が混乱しているようだから、若干説明しておくが、自分たちの教会及びその教派の教会に属していないクリスチャン以外は、聖餐式のパンとぶどう酒を受けられないというのを「クローズド・コミュニオン」といい、他教派であってもどこかの教会に属していてるクリスチャンであればパンとぶどう酒を授けるというのが「オープン・コミュニオン」で、聖餐式のパンとぶどう酒を受ける条件に、クリスチャンであるかどうか、つまり洗礼を受けているかどうかを考えないというのを「フリー・コミュニオン」と一般的には言われてきている。

 多くのクリスチャンの方は、「どうして洗礼を受けていない方が陪餐出来るのですか?」と質問されるかもしれないが、聖書には「未受洗者の陪餐禁止」を明言しているか書はない。「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである」という第1コリント書11章27節の言葉を「未受洗者の陪餐禁止」と考えている教会もあるが、文脈からしてそれに妥当性はない。にもかかわらず、ある教派では、フリー・コミュニオンを行ってきた牧師に対して、常議員会が「戒規申し立てを行う件」を採択していたのだが、それを無効とする件をその教派の総会で決議した。この教派の教憲教規には「未受洗者の陪餐禁止」は規定されていない。

 そもそも「聖書のみ」を標榜しているプロテスタント教会にとって、「未受洗者の陪餐」問題は極めて難しい問題であることは、一部の聖職の中では以前から問題にされていたことだったらしいが、「聖書のみ」という神学が根底にあるので、「未受洗者の陪餐禁止」を神学的に主張することは極めて困難なことだったのだろう。しかし、ある神学者の見解によれば、聖書そのものから演繹されることだけでなく、教会の歴史(伝統=tradition)から考えれば、「未受洗者の陪餐禁止」は当然のことなのだろうが、「聖書のみ」の神学からでは、この問題を根底から解決することは出来ないとのことだ。

 日本聖公会も世界の聖公会の「綱憲」の中で「聖書のみ」を主張しているが、もし日本聖公会の司祭がオープン・コミュニオンを行ったとしたら、日本聖公会は道判断するのだろうか。少なくとも、「綱憲」や「法憲・法規」からは判断出来ないし、聖書からも判断不能である。そして、万が一にも、主教の判断は綱憲を超えられるとしたら、その主教は世界の聖公会が認めた主教ではなくなるだろう。世界の聖公会は既に、同性愛に関して分裂しかけている。日本聖公会も法規第190条で「聖婚式は、その成立に関する準拠国法に反しない結婚について、執行することが出来る」と規定しているが、日本国憲法では明らかに、結婚は男と女の間で行われることが規定されているから、日本聖公会は同性愛者の結婚は認められないはずなのだが、それに関して、非常に寛容な司祭がいるということを聞いている。