いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

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天狗と会ってきた

2011-11-08 | Weblog

 一昨日、天狗と会ってきた。土曜日の夜に駅について、近くのホテルに一泊し、次の日に南会津と呼ばれているところを一周してきたが、なかなか素晴らしい旅だった。彼奴は運転していないと車酔いを起こすそうで、助手席のオレは途中から缶ビールを片手にドライブを楽しんできた。オレが持たせている簡易線量計をもう片方の手に持って助手席に座っていたが、彼奴が今まで報告してくれたのとほぼ同じ数値を表示していた。しかし、放射線量を調べるために行ったのではなく、天狗の研究に出てくるものを見てみたかったからだが、会津にあんなにキリシタンのものが残っているとは思っていなかった。

 彼奴がブログや著書で発表しているのは、それらの中のごく僅かだと言うことがよく判った。そして、肝心なことになると、彼奴は必ず誤魔化す。特に伝承に関しては、どこのどのような人から聞いたのかをまったく教えない。それでいて、連れて行かれたところには、子安観音像があったり、十字架のシンボルの付いた錫杖を手にした地蔵菩薩像があったりする。そして、確実に類族の墓だと思われるものもあった。

 このブログのブックマークに「会津キリシタン研究所」という彼奴のブログがあるから、関心のある人は是非一度読んで欲しい。日本のキリスト教会の多くは、日本の仏教をかなり誤解しているが、そうしたことを彼奴なりに解説している。「仏教が自ら葬式仏教になったのではなく、幕府が仏教を葬式仏教にした」ということはオレも知らなかった。そして、檀家制度がキリスト教の教会制度のコピーであるとも、ブログで彼奴は言っていたが、少し話を聞いただけでそれがよく判った。

 残念だったのは、彼奴がしているレクイエムに出席することが出来なかったことだけだったが、レクイエムの式文を一冊プレゼントしてくれた。自分で作った式文だと言っていたが、あの中の共同祈願に彼奴の信仰が隠れていた。日本聖公会は、キリシタンの苦しみの、その欠片でもいいから感じて欲しい。転んだことにして隠れ続けていたキリシタンたちの苦しみを、日本聖公会京都教区の主だった聖職者たちがどれだけ理解できているか。そして、「転切支丹類族」という言葉によって、今でも苦しんでいる人々がいることを考えて欲しい。放射線は見えないが、あの方たちの苦しみははっきりと見えている。

糾す会のHPが再開された

2011-10-29 | Weblog

 糾す会のHPが再開されている。一時、閉鎖していたがまた再開された。そして、去る10月25日(火)に行われた公判での弁護人最終弁論・被告人最終陳述が掲載されている。非常に興味深い内容だが、いままでの公判を考えるとこうした最終弁論や最終陳述が出てきて当然だろう。

 判決公判は11月24日(木)だそうだが、どのような判決が出てくるかはまったく分からない。裁判官が、事実関係をどのように判断するかだけの問題だからだ。検察側の証人の証言と被告側の証人の証言が大きく食い違っていることは間違いない。この証言を裁判官がどのように考えるかは、憶測の範囲を出ないから記さないことにするが、検察の求刑は罰金刑だった。これ以上の求刑をすることは出来ないと検察が考えたことも間違いない。勿論、被告は無罪を主張しているから、この求刑と被告の無罪の主張のどちらかが選択されることは間違いないだろう。

 問題は、被害者が訴えているような行為が行われたかどうかなのだが、これまでに二人の医師が証言している内容からすると、被害者が主張しているような暴力行為があったとは考えられないし、それを実証できるだけの医師の所見もない。そして、検察側の証人も決定的な瞬間を見ていないと証言している。常識的に考えれば、これで有罪には出来ないだろうと思うが、判断するのは裁判所だから、予断を許さない。

 有罪だった場合には、被告は控訴すると言っているようだが、無罪だった時に検察が控訴するかどうか‥‥‥。そして、日本聖公会京都教区はどのような発言をするのだろうか。ある意味では、傷害事件として告発した内容が、事実ではないと判断された場合、国法上の問題よりも、キリスト教会として重大な責任を負わなければならないだろう。勿論、被害者が控訴することは出来ない。控訴するのは検察であって、被害者ではない。

転送メールを読んで、愕然!!

2011-08-24 | Weblog

 しばらく前に転送されてきていたメールをじっくり読んでみたのだが、あまりの愚かしさに憤慨すら憶えている。これを書くと、日本聖公会のどこの教区か分かってしまうだろうが、仕方がない。何しろ、あの街に建てられている教会でありながら、あの街だけでなく、あの地方全体が、殊に太平洋岸の県民がどのような想いで暮らしているのかまったく分かっていないとしか言いようがない。「・・基督教会では、殆ど無傷であった大聖堂の建替え・新築が粛々とすすめられています。POST3.11のなかで、被災者の苦しみが、放射能の恐怖が、瓦礫の山が、言い尽くせない惨状を目の前にしているにもかかわらず、大震災前に決められた大聖堂と教区会館の建て替え・新築工事が始まろうとしています。」(固有名詞は極力、隠蔽します)

 この街の東側部分は津波に襲われ、大きな被害を被っていることは、マスコミの報道で伝えられている。家族を失い、家屋は流され、家財のすべてを失ってしまった人々が、心の中にフラッシュバックする恐怖と戦いながら、それでも賢明に生きようとしていることは、テレビでかなり放映されているだろう。にもかかわらず、「『建て替えは待ってください。仮に、大聖堂が全壊していたとしても、教会建築は最後にしよう、被災の苦しみが和らぎ、瓦礫の山が少なくなったら建築しよう、たとえ教会がなくなっていてもその時がくる迄建物はいらない、テントで祈りをささげよう』と言い続けていますが、全く聞いてくれません。」とメールに記されている。そしてこうも記されていた。「大聖堂は東日本大地震に耐えて立派に建っています。--ステパノ教会のようにベルタワーが折れて危険な状態になったのではありません。素人目には殆ど無傷です。大聖堂は、**県沖、◇◇・**内陸(◎◎)、東日本の激震を生き抜き、『祈りの場として使ってください』、と言っています。」

 このメールを書かれた方とは面識はないが、この方は極めてまともな考え方をしている。というよりも、当然のことを言っているに過ぎない。「大聖堂の被災状況は、・・市の被災建物判定で一部損壊でした。この判定を不満とした執行部は、50万円をかけて建物調査団体に依頼し、『中破」という意味不明の判定を取り寄せました。」「私達は『教区外の方々は聖堂崩壊と言っているので、誤解のないよう大聖堂の状況を教区の震災ホームページの載せてください』、と言いましたが、執行部から無視されたままです。MLの皆様は・・基督教会の被災状況をどのように理解されているでしょうか。」「大聖堂は、震災後数週間は救援物資のデリバリーサイトとしてつかわれ、ボランティアさん達も大聖堂内で動いていました。4月7日余震の後もそうでした。
 執行部は、4月に入り、大聖堂を『危険である、老朽化している』、との理由をもって立ち入り禁止にしました。現在、大きな南京錠で閉じられており、教区外の方や信徒が『中を見せてください』といっても公開してくれません。」

 「傍若無人」とは正にこうしたことを言うのだろう。主教が絶対的権威を保持している教会では、こうしたことが平然と行われるのだろう。教区の総会などは「手締め」のために開かれるのでしかないのだろう。そして、それがキリスト教会として正しいと思っているのだろう。だから、「教区・教会の執行部は震災は震災、教会は教会とい」うのだろう。しかし、あの教会にしても、聖堂やそれの付属した建物などすべて、あの地域に住んでいる方々のために、主なる神から与っているものなのではないのか。キリスト教会はいつも、このことを肝に銘じておかなければならないのだが、日本聖公会はすべての権力が主教や司祭に集中しているからなのか、こうした極めて理不尽なことが起こるのだろう。「このまま教会が建替え・新築されたら、教会は、聖公会は、被災者を裏切ったことになります。私たち3人は、そうなったら『顔を上げて歩くことが出来ない』と思っています。」とも記されているが、この3人+1人の上に、主なる神のお守りとお導きを祈らざるを得ない。
 主の平和が皆さんと共に!

それにしても不可解だ

2011-05-22 | Weblog

 先日、例の刑事裁判の後半が開かれて、証人尋問が行われたそうだが、被害者は傍聴していなかったそうだ。傷害に関する刑事裁判を被害者は何故傍聴していなかったのだろう。こうした事案に関する裁判の多くでは、被害者が傍聴していることが多いのだが、それが不思議でならない。特に、先日の証人は被害者を最初に診断した医師なのだから、大いに被害者に関係のある人物なのだが、その証言内容を聞こうともしないというのはどういうことだろう。

 それだけではない。この裁判に対する被害者の意識も問われてしまう。自分に危害を加えた人物を告発したからあの裁判が行われているのにも拘わらず、被害者は何故それを傍聴していないのか。そして、第一通報者である京都教区主教も傍聴していなかったそうだが、裁判官の心証はどうなっているか心配にならないのだろうか。

 先ほど、天狗と電話で少し話をしたのだが、「彼らは刑事裁判の意味を知らないかもしれない」と言っていた。おまけに、「無罪判決が出たら控訴すればいいと思っているかもしれない」とさえ言っていたが、俺には信じられない。そうした事を知らないで、大学のチャプレンをしていたのだろうか。中学校の教科書にさえ載っていることだ。控訴するかしないかは、被害者が決めることではなく、検察が決めることだ。それとも、検察に圧力をかけられると自負しているのだろうか。

 例の証拠の改竄事案があって以来、検察はかなりピリピリしているという話が聞こえてきている。しかも、事件の内容は、現職の司祭だった人物が起こした、女児に対する性的虐待事案が絡んでいる。加害者とされている人物は、その事案に関する女児のご家族の法定代理人になっている人物だ。それだけに、検察もかなり慎重にならざるを得ないだろう。それにしても、被害者が裁判を傍聴せず、第一通報者の教区主教も傍聴していないとは、実に不可解だとしか言いようがない。

ミッシオ・デイの神学

2011-04-12 | Weblog

 しばらく前から気になっていることがあります。それを多くの方々に知っていただきたくて、これを書き始めています。それは東日本大震災や福島第一原発の事故に関することで、日本のキリスト教会が様々な支援活動を始めているのを見ていて、気になる非常に大きなことがあるからです。それは二つあります。

 一つは、それぞれの教派が、被災地にある同じ教派の教会を列挙して、そうした同じ教派の教会を助けようとしていることです。これには本当にガッカリしました。やはりキリスト教会は閉鎖的な社会だったのだと痛感させられています。クリスチャンは被災者の中のごく一部でしかありません。まして、同じ教派の教会員ということになれば、その数は被災者全体の中から見れば米びつの中の数粒の米でしかないのではないでしょうか。

 そしてもう一つ、これは特に気になって仕方がないのですが、被災地に対する義援金を集めたり、あるいは物資を提供することを、「伝道」もしくは「宣教」だと考えている教会があることです。何故、地震や原発事故に苦しんでいる方々に対する援助の手を差し伸べることを「伝道」「宣教」に結びつけてしまわれるのでしょうか。「教会は社会問題には関わらない」というまことしやかな屁理屈が日本の教会の中で脈々と続いて来たことは事実です。ですから、オキナワの問題にしても、万博キリスト教館の問題にしても、教会は、それに反対する人々を強引に排除してきたのではないでしょうか。ですから、「被災地を支援することは、伝道なのだ」と言えば、共感する人々が増えるからなのか、義援金や支援物資を集められると考えられたからなのでしょうか。

 ヨハネ福音書15章10節以下に「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」とあります。私たちキリスト者が、被災地のために祈り、義援金を捧げ、支援物資を供出することは、主が命じられたことをただ実行に移すだけのことなのではないでしょうか。

 避難所には様々な宗教の方々がいらっしゃいます。空腹で苦しんでいたり、必要なものがなくて困っている人々も大勢いらっしゃるのですが、「キリスト教」ということを耳にして、差し出した食料や衣類、あるいは日用品を受け取らないということがあったとしたら、それは主が被災者を救おうとされていることに背を向けてしまうことにならないでしょうか。
 主イエスの御衣房にこっそりと触って出血の止まらない病を癒された婦人に、主イエスがおっしゃったのは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」という言葉だけでした。「私に従ってきなさい」とはまったくおっしゃっていないのです。そして聖書は、この後、この女性がどこでどのように生きていたかをまったく問題にしていないのです。
 主が今、この時に、どこで何をしていらっしゃるかを考え、祈り、主から勇気を与えられて、こっそりと、あの「タイガーマスク」のように教会が歩めたら、それで十分なのではないでしょうか。

 先日あるところで、ある方の文章を読みました。これまでずっと、原発のことには発言されてこなかった方が、やにわに原発の危険性について書いていらっしゃいました。エアコンを効かせて暖かくなっている研究室で書かれたのかもしれません。申し訳ないのですが、「厚顔無恥」という言葉を久しぶりに思い出しました。被災地ではまだ、体育館の中で石油ストーブを焚いて暖を取っていらっしゃる方々が大勢いらっしゃいます。原発を批判する前に、エアコンを止める勇気を持っていただきたいと思っています。


註 引用聖句は、日本聖書協会『新共同訳聖書』からです。

先日は残念だったが

2011-03-04 | Weblog

 天狗が上京しているので、近藤さんと沖田さんとTERAさんが天狗のところで集まったのだが、仕事があって行けなくて残念だったが、今日、だいぶ長いこと天狗と電話で話をした。一番不思議なことは、日本聖公会の管区なり、主教会なりが、何故告発を止めなかったのかということだ。彼らはこれで、靖国神社問題に関して一切、口にすることが出来なくなった。知り合いに、右翼的な人物がいるのだが、彼が猛烈に喜んでいた。国家の裁判所に告発するということは、日本聖公会は国家に隷属していることを自ら告白したようなものだ。事件の内容やその事件がどのように引き起こされたかは問題ではない。あの程度のことを何故、日本聖公会の審判邸に懲戒申立をせずに、警察に告発したかということにも疑問がある。

 日本聖公会はそもそも、イギリス国教会の伝統を引き継いでいると看板に書かれているが、教会と国家の関係に関して、途轍もない誤解をしているか、まったく考えていないのかのどちらかとしか思えない。<[内紛]迷惑団体 聖公会 - 迷惑信徒 聖公会[出て行け]>というブログがあるが、ここ一年近く沈黙している。何かあったのだろうか。それとも、誰かが書くのを止めさせたのだろうか。沖田さんを批判している書き込みもあったが、「せめて、聖公会京都教区を他教区と併合しなさい。」とか、「信仰を失った聖職者たち」というタイトルの書き込みは、かなり的を射ていると思っていた。そして、そうした教会として重大な問題を含んだ状況が日本聖公会の中で起こってきたことを、日本聖公会自身は最早解決することが出来ないところまで来ているのかもしれないと思いはじめた。

 こうしたことを考えると、日本聖公会の教会の中で、実は同じような悲惨なことが起こっていたことを知っている。聖職者による「イジメ」なのだが、イジメられた人物は結局は泣き寝入りせざるを得なかったし、それこそ警察に告発することもなかった。それは、日本聖公会のとある教区が自ら過ちを認めて謝罪することを願ってのことだったのだが、結局は日本聖公会からは何らの謝罪もなく、損害賠償もなかった。そして、そのことに関してその人物とかなり話をしたのだが、「もういい、しかし、いつか化けの皮が剥がれる時が来る」と言っていた。ある意味では、いまがその時なのだろう。日本聖公会の管区も、日本聖公会の主教会も、性的虐待をし続けた司祭を終身停職にしたまではいいが、被害者とそのご家族に対する直接の謝罪をしていない。

 「児童に対する性的虐待」がどれほどの犯罪であるかということを彼らは理解出来ていないのだろう。ネット経由で伝わってくるあの裁判に関する情報に目を通していると、それを痛感させられる。そして、2009年の秋にあった管区小審判邸の審判の内容に、極めて重大な問題があるにも関わらず、誰もが沈黙しているところを見ると、日本聖公会全体が不治の病に罹患しているとしか思えない。「教会と国家」の問題をどう考えるのか、というような「難しい」議論以前のことなのだが、<[内紛]迷惑団体 聖公会 - 迷惑信徒 聖公会[出て行け]>というブログの管理人の方に、もっとあからさまにそれを書いて欲しいと思っている。春一番が吹いて、日本聖公会が瓦解する前に。

意味不明

2011-01-28 | Weblog
 例の「殴打」事件の公判における証人の証言に関わるメモが転送されてきたのだが、メモなのではっきりしない部分はあるのだが、証人は被告人が鞄を振り上げたところは見ているが、それが振り下ろされたところは見ていないと証言したのだろうか。そして、鞄がぶつかる音がしたと証言しているようなのだが、被害者と加害者、そして証人の距離を考えると、たとえ逆光であったとしても振り下ろされたところがまったく見えなかったというのも合点がいかない。

 背後のドアのガラスに直射日光が当たっていて、しかもそこから太陽が見えていたというのであれば、別なのだが、証言では、証人はその窓ガラスと正対した位置に立っていたわけではなさそうだ。そして、あの教会の構造からして、被告人がたっていた位置の後ろの扉にあるガラスに、太陽光が直接当たることはあり得ないし、その扉の向こう側の部分は、道路に面したところにも扉があるそうだ。

 あの殴打事件が起こったとされている時刻は、午後3時から午後4時の間だという。天狗を通して、ある方にそれを確かめさせた。そして、今日は天気が良いから、事務所のスタッフを直射日光が当たっている窓際に立たせ、送られてきた傍聴メモにあるように腕を動かさせたが、すべてはっきりと見えた。不思議なことがあるものだ。あの礼拝堂の入口にあるスペースで、映画の撮影か何かで、強烈な光を発するライトを点灯していたのだろうか。

 天狗が上京しているので、今夜、TERAさんと一緒に天狗の所へ行くことにした。どうしてこうした証言が出てきたのか、非常に気になって仕方がない。そして、二人の証人が同じように、鞄が振り下ろされたところは見えなかったと証言していることも気になる。そして、事件の第一通報者が、被害者ではなく、その場にいなかった人物だというのも気になる。

日本聖公会は上告棄却と上告却下の区別がついていない

2010-11-09 | Weblog
 今日の日本聖公会管区小審判廷の審判の内容が伝わってきた。仕事が忙しくて、すぐには読めなかったが、「日本聖公会京都教区審判廷2008年第1号」を読みはじめて驚いた。最高裁判所が上告棄却をしているとされている。

民事訴訟法
第三百十二条
 上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があることを理由とするときに、することができる。
 上告は、次に掲げる事由があることを理由とするときも、することができる。ただし、第四号に掲げる事由については、第三十四条第二項(第五十九条において準用する場合を含む。)の規定による追認があったときは、この限りでない。
一 法律に従って判決裁判所を構成しなかったこと。
二 法律により判決に関与することができない裁判官が判決に関与したこと。
三 専属管轄に関する規定に違反したこと(第六条第一項各号に定める裁判所が第一審の終局判決をした場合において当該訴訟が同項の規定により他の裁判所の専属管轄に属するときを除く。)。
四 法定代理権、訴訟代理権又は代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと。
五 口頭弁論の公開の規定に違反したこと。
六 判決に理由を付せず、又は理由に食違いがあること。
 高等裁判所にする上告は、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があることを理由とするときも、することができる。

第三百十五条
 上告状に上告の理由の記載がないときは、上告人は、最高裁判所規則で定める期間内に、上告理由書を原裁判所に提出しなければならない。
 上告の理由は、最高裁判所規則で定める方式により記載しなければならない。

第三百十六条
 次の各号に該当することが明らかであるときは、原裁判所は、決定で、上告を却下しなければならない。
一 上告が不適法でその不備を補正することができないとき。
二 前条第一項の規定に違反して上告理由書を提出せず、又は上告の理由の記載が同条第二項の規定に違反しているとき。
 前項の決定に対しては、即時抗告をすることができる。

 俺が知っている範囲では、例の日本聖公会京都教区で起こった女児への性的虐待に関する慰謝料請求裁判の上告は、審理が行われていない。つまり、上告棄却の判決が出されたのではなく。民事訴訟法の規定によって上告が却下されたということなのだが、今日の管区第2小審判廷の審判の中では最高裁判所が「上告棄却」したとはっきり述べている。それとも被上告人が知らない時に審理が行われたのだろうか。
 あの審判を読んだ人は、民事訴訟で上告審が開かれたと思ってしまうだろう。これも日本聖公会の管区の姑息な手なのだろうか。しかし、ジャーナリストやマスコミ関係者はこうしたことをよく知っているから、その「姑息な手」を見抜くことは簡単に出来る。

 呆れたものだ。明日には、4件の申立に対する審判の、それぞれ全文が送られてくるだろうから、他にも姑息な手がないか確認してみたい。日本聖公会という所は、実に不思議なカルト集団のように思えて仕方がない。

最悪の事態

2010-10-30 | Weblog

 最早、まともな議論が出来る相手ではないことが判った。協会の建物の内部で起こった、それも同じ日本聖公会の聖職者同士のトラブルを、こともあろうに警察に告発するとは、正に最悪のことを日本聖公会京都教区はしでかしてしまった。これで、日本聖公会は教会と国家の関係において、正に国家に依存して存在し続けることを宣言したことになる。そして、教会に対する国家の介入を拒むことは出来ないだろう。靖国神社の例大祭に陪席を求められたら、首座主教が喜んで九段へ行くのだろう。沖縄で何があっても、「日本の国益」という言葉で沖縄の人々に「忍耐」を語るのだろう。世界が核廃絶に向かっている時に、国家が核武装すると言い出したら、核兵器のために献金を募り、それを国家に奉献するのだろう。

 オキナワ・ヒロシマ・ナガサキ、そして人権や平和に関して祈り続けてきた他の教会を足蹴にして、自らは国家権力に従属した教会として地位を高めて行くつもりなのだろうか。聞くところによれば、主教自身が性的虐待事案の被害者ご家族の代理人である司祭の腕を取って「警察へ行こう」と言ったそうだが(目撃証言があるという)、このことを読み、また耳にした時に、少なくとも俺は「最早、日本聖公会は正常な神学的思考が不可能な集団だということを再度、認識せざるを得なかった。あの主教はおそらく、裁判員として裁判所から指名されたら、喜んで、ついでに威張って、裁判員になるのだろう。日本聖公会の他の聖職者達のほとんどはそう考えるかもしれない。そして、最高刑が死刑である事案であっても、クラジー・シャツを着て出掛けていくのだろう。

 日本聖公会の聖職者達はまともに聖書を読んだことがあるのか。歴史の中で、教会と国家がどのような関係にあり続けてきたかを知り、そのことの是非を考えたことがあるのだろうか。あの大阪万博の時に、万博キリスト教館の欺瞞性を主張した神学生を神学校から追放するために、神学生全員を出身教区に帰してしまい、穏便で何でも素直に受け容れる神学生だけをもう一度、用賀に集めたのではなかったのか。あの時に、彼らが必死になって謄写版で印刷した文書が、いまでも残っている。それでいて、オキナワ・ヒロシマ・ナガサキに関しては「進歩的」な発言をしている聖職者がいるのだが、日本聖公会京都教区で起こった警察への告発を、彼らは一体どう考えているのだろう。そして、告発され被疑者とされている司祭に対して、まるで有罪が確定したかのように「暴力を振るった」と発言している聖職者がいると聞いている。

 日本聖公会は誰のための教会なのか。イギリス国教会が王のための教会であるように、日本聖公会は、主イエス・キリストの父なる神のための教会ではなく、天皇のための教会になり下がっているのか。それとも、天皇もまた伝道の対象だと考えているならば、「天皇に洗礼を」というスローガンを掲げて、都心でデモンストレーションをしたらどうだ。そのためには、日本中の聖公会の教会の中から、反体制的な言辞が記されているチラシやパンフレットをすべて撤去しなければならない。「女性の人権」などという言葉は禁句にしなければならないだろう。「弱者救済」など絶対に口に出すな。祈祷書から天皇家のための祈りをしばらく前に削除したそうだが、あれもポーズでしかなかったということが、同じ日本聖公会の司祭を日本聖公会の司祭が警察に告発したことで明らかになってしまった。日本聖公会京都教区にはもう悔悛しろということさえ言いたくなくなるほど呆れたとしか言いようがない。残るは、11月8日に出されるという管区の小審判廷の審判だけが最後の希望になってきた。

何が一番問題なのか

2010-10-30 | Weblog

 ここへの書き込みが252回目になった。書き始めた頃はすぐに決着するだろうと高を括っていたが、被害者にPTSDが発症してから既に10年が経っている。日本聖公会という教会は、あまりに無神経ではないか。この10年間に被害者が癒されたとでもいうのだろうか。冗談じゃない、まったく逆のことが行われていたのだ。加害司祭の「事実無根」という言葉だけを理由に、被害者の訴えを退けてきたことに対する反省が、日本聖公会京都教区ではまったく為されていない。そして、「謝罪の記者会見」は開いていても、教区主教と常置委員が被害者やそのご家族に頭を下げたこともないどころか、K主教に至っては、被害者のご家族を怒鳴りつけたと聞いたことがある。

 そして、加害司祭を終身停職にしたあと、そうした言動を直接謝罪するのかと思いきや、問題を回避しようと躍起になっているようにしか見えてこない。慰謝料請求裁判を一度も傍聴に行かなかったのは事実のようだ。司祭を監督する義務がある主教が、何故傍聴に行かなかったのか。この一点からでも、京都教区のこの問題に対するスタンスが見えてくる。ことを穏便に、何事もなかったかのようにしたかったのではないのか。それは、執拗なまでに「糾す会」を攻撃し続けて来たことからも判る。「彼奴らが騒がなければこんなことにはならなかった」というのが京都教区の本音ではないのか。

 今日、TERAさんと天狗の隠れ家へ行って話をしてきた。「主教会は一枚岩なのか」「交通違反を含めて、罰金刑以上の判決を受けた聖職者の処分はしているのか」「教会委員は公正な選挙によって行われているのか」「教区会の代議員選挙はどうなのか」等々、様々なことを質問したが、例によって「判らない」「知らない」の返事しか返ってこなかったが、某ルートからの情報では、何にでも裏があるようなことだけは判ってきている。そして、教区主教が絶大な権力を持っていることも事実のようだ。多くの司祭や執事は蛇に睨まれた蛙状態だともいう。しかし、中には、主教にとって目の上のたんこぶ的な存在の司祭がいるそうで、そうした司祭とは対立しないように気遣いが大変らしい。

 10年以上まえの京都教区の現職司祭(当時)による女児への性的虐待事案が、いまだにきちんと決着が付けられないのは、どうもそのあたりに理由が隠れていそうな気がしてきた。TERAさんは、他の聖職者達が沈黙していることが理解できないとおっしゃっていたが、一部の聖職者以外は誰も蛇の前で、戦いを挑もうとしないだけのことなのだろう。しかし、それがキリスト教界として正しいあり方かどうか、神学をしたことのない信徒でも、聖書を読んでいればすぐに理解できるはずだ。それでも、あの性的虐待に関して信徒が沈黙しているのは、あまりにも悲しすぎて声を上げることもできないからなのかもしれない。次回の日本聖公会管区小審判廷がどのような形で開かれ、どのような内容になるのか。場合によっては、日本の他のキリスト教界が日本聖公会のためのレクイエムをしなければならなくなるかもしれない。