いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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ミッシオ・デイの神学

2011-04-12 | Weblog

 しばらく前から気になっていることがあります。それを多くの方々に知っていただきたくて、これを書き始めています。それは東日本大震災や福島第一原発の事故に関することで、日本のキリスト教会が様々な支援活動を始めているのを見ていて、気になる非常に大きなことがあるからです。それは二つあります。

 一つは、それぞれの教派が、被災地にある同じ教派の教会を列挙して、そうした同じ教派の教会を助けようとしていることです。これには本当にガッカリしました。やはりキリスト教会は閉鎖的な社会だったのだと痛感させられています。クリスチャンは被災者の中のごく一部でしかありません。まして、同じ教派の教会員ということになれば、その数は被災者全体の中から見れば米びつの中の数粒の米でしかないのではないでしょうか。

 そしてもう一つ、これは特に気になって仕方がないのですが、被災地に対する義援金を集めたり、あるいは物資を提供することを、「伝道」もしくは「宣教」だと考えている教会があることです。何故、地震や原発事故に苦しんでいる方々に対する援助の手を差し伸べることを「伝道」「宣教」に結びつけてしまわれるのでしょうか。「教会は社会問題には関わらない」というまことしやかな屁理屈が日本の教会の中で脈々と続いて来たことは事実です。ですから、オキナワの問題にしても、万博キリスト教館の問題にしても、教会は、それに反対する人々を強引に排除してきたのではないでしょうか。ですから、「被災地を支援することは、伝道なのだ」と言えば、共感する人々が増えるからなのか、義援金や支援物資を集められると考えられたからなのでしょうか。

 ヨハネ福音書15章10節以下に「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」とあります。私たちキリスト者が、被災地のために祈り、義援金を捧げ、支援物資を供出することは、主が命じられたことをただ実行に移すだけのことなのではないでしょうか。

 避難所には様々な宗教の方々がいらっしゃいます。空腹で苦しんでいたり、必要なものがなくて困っている人々も大勢いらっしゃるのですが、「キリスト教」ということを耳にして、差し出した食料や衣類、あるいは日用品を受け取らないということがあったとしたら、それは主が被災者を救おうとされていることに背を向けてしまうことにならないでしょうか。
 主イエスの御衣房にこっそりと触って出血の止まらない病を癒された婦人に、主イエスがおっしゃったのは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」という言葉だけでした。「私に従ってきなさい」とはまったくおっしゃっていないのです。そして聖書は、この後、この女性がどこでどのように生きていたかをまったく問題にしていないのです。
 主が今、この時に、どこで何をしていらっしゃるかを考え、祈り、主から勇気を与えられて、こっそりと、あの「タイガーマスク」のように教会が歩めたら、それで十分なのではないでしょうか。

 先日あるところで、ある方の文章を読みました。これまでずっと、原発のことには発言されてこなかった方が、やにわに原発の危険性について書いていらっしゃいました。エアコンを効かせて暖かくなっている研究室で書かれたのかもしれません。申し訳ないのですが、「厚顔無恥」という言葉を久しぶりに思い出しました。被災地ではまだ、体育館の中で石油ストーブを焚いて暖を取っていらっしゃる方々が大勢いらっしゃいます。原発を批判する前に、エアコンを止める勇気を持っていただきたいと思っています。


註 引用聖句は、日本聖書協会『新共同訳聖書』からです。