いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

傍若無人

2010-01-15 | Weblog


 先日、「糾す会」からのメールが転送されてきたが、日本聖公会京都教区はあのメールをプリントアウトして読んだだろう。そして平然とした顔をして、何のためらいもなく関連文書と一緒にファイルしただろうと思うが、日本聖公会というところにはそうしたことを平然と出来る聖職者がいるそうだ。先日、新撰組の近藤さんと電話で話をしていたが、どうも、巷では日本聖公会というところはかなり悪評が高いそうだ。それだけではない。日本聖公会の「宣教150年記念礼拝」をローマ・カトリック教会の大聖堂を借りて行ったそうだが、アメリカ聖公会(Protestant Episcopal) の女性主教が「聖餐式」を司式したということも耳にしている。

 司式しなかったとしても、少なくともその女性主教はサンクチュアリに上がっていたという。これに関してはローマ・カトリック教会の方から猛烈な批判が出ているそうだが、日本聖公会というところはここまで他社に対する配慮に欠けているところなのだろうか。ローマ・カトリック教会でサンクチュアリに女性が上がることがあるのだろうか。ローマ・カトリック教会には女性の聖職はいない。第二ヴァチカン公会議でもそれを認めていないし、これからも認めることはないだろう。日本聖公会が女性に司祭按手を授けるのは自由だが、女性の聖職がいないローマ・カトリック教会の大聖堂で、女性主教が「聖餐式」を行いということはどういう神経をしているのか。

 ローマ・カトリック教会はそれを前もって承認していたのだろうか。しかし、そうしたことは耳にも目にも入ってきていない。そして、日本聖公会がローマ・カトリック教会には女性の聖職はいないということを知らないとはいわせない。主教の中にはローマ・カトリック教会の某有名大学で修士号を取得した人物がいる。っそれも専門は礼拝学だそうだ。ローマ・カトリック教会が前もってそのことを了解していなかったとしたら、正に、知っていながら他人の家に土足で入り込んでくること以上のことをしたとしかいいようがない。傍若無人という言葉では言い尽くせないほどの理不尽な行為だ。神社に入って、正面のご神体を手にとって、それを畳の上に投げ出すようなことをしたとしか言いようがない。

 日本聖公会の独善性の表れかもしれないが、ローマ・カトリック教会が正式な抗議文を出しているということも聞いていない。あの「宣教150年記念礼拝」が行われた時間帯だけは、大聖堂の聖別解除が行われたのだろうか。それとも、まったく寝耳に水で、抗議することも出来ずに、ただ唖然としてしまったのだろうか。日本聖公会はあまりに非常識すぎるが、彼らはそれを認識出来ているのだろうか。日本聖公会内部からも批判が上がっているが、それに対する日本聖公会としての弁明も聞こえてこない。批判者に電話したということでお茶を濁したのだろうか。もう一度書くが、日本聖公会が女性聖職を認めるか認めないかということは、日本聖公会の内部では自由なことだ。しかし、その自由は、女性聖職を認めていない他教派の教会(プロテスタント教会にも女性の牧師はいない教派がある)の聖壇に聖公会の女性聖職が無許可で上がっていいことを意味していない。もし、日本聖公会は正しいことをしているから、女性主教がサンクチュアリに入ったことに間違いはないと主張するのであれば、まさにそれはカルト以外の何ものでもない。


謹賀新年

2010-01-01 | Weblog

 

 先日、近藤勇さんと天狗と三人で話をしたが、その中で日本聖公会京都教区の教会の風評を知ることが出来た。近藤さんの所には、何故か風評がよく聞こえてくるそうだが、最高裁で上告却下されたことに関しては、皆さんもその意味を判っていらっしゃるようだ。そして、刑事・民事相互不介入の原則があるから、刑事責任は問われないが、刑事事件になっていれば、あそこまで否認していたら実刑判決だっただろうということも判っている人が多いという。それでいながら、日本聖公会京都教区は性的虐待の加害司祭(それも現職の牧師であり、常置委員長)を即座に処分せず、「最高裁に抗議する」という声明文まで出していたのだから、多くの方々がその対応に唖然としていたようだ。

 そして、こっそりと他の教派の教会の礼拝に出席している日本聖公会京都教区の信徒がいらっしゃるらしいが、転会するつもりはないらしい。何でも、教会墓地に先祖を葬っているので、転会したらそれを移せと言われると困るからというのが理由らしい。かつて仏教で同じことが起こって裁判になったが、日本聖公会京都教区が教会墓地に先祖が葬られていることで信徒を引き留めようとしているのだとしたら、言語道断だと言わざるを得ない。そして、葬儀の時に聖職者に支払われる謝礼の額を聞いて、天狗が唖然としていた。

 日本聖公会の教会の中には。多額献金者でないと教会の役員になれないという不文律みたいのがあるという風評も聞こえてきているという。近藤さんは、「プロテスタント教会には、多かれ少なかれそれが残っているし、多額献金者の発言力が大きいことは、『ひとの世の常だ』とも言っていた。まるで、明治時代の選挙権のようなもので、代々、特定の家の方が教会の役員になっているケースもあるらしい。しかし、さすがにイギリス国教会の伝統を受け継いでいる教会だけのことはある。イギリスにはまだ王がいるし、貴族もいる。そして、政治的には貴族院なるものが、仰々しい衣装を身にまとってしているらしいが、そう言えば、日本聖公会の教会ではいまでも煌びやかで仰々しい衣装を着た聖職者が、礼拝堂に行列して入ってくる儀式をいまでもしているようだ。

 こうしたことを考えると、日本聖公会京都教区が差し戻し審で出した審判の内容に関しても理解できる。地方の小さな教会の信徒やその家族よりも、聖職者である自分たちの仲間を庇うことはよくあることだ。しかし、何事にも言えるのだが、よくあることだからそれが間違っていないということは絶対に言うことが出来ない。日本聖公会京都教区はこうしたことをまったく理解できていないのだろう。聖職者はあらゆる場面で権威を持っていると考えているのだろう。性的虐待行為を女児にしたとしても、それを帳消しに出来る権威を持っていると考えていなければ、あるいはそうした性的虐待行為を庇った聖職者も、その権威によって正当化されると考えているのだろう。管区の小審判邸がこの大きな過ちを審判できなければ、日本聖公会には最早、現実の社会で起こっている人権侵犯や、様々な差別に関して口を出す資格はなくなってしまう。