いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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審判廷への申し立て

2008-07-10 | Weblog

 いまから少し前の午後1時30分、2人の方々がH司祭を審判廷に申し立てる書面を日本聖公会京都教区の教務所で、教区主教であるK主教に渡したという一報が入りました。その申し立て書の内容に関しては、糾す会のサイトに近々載せられるだろうから、俺もそれを読むことにしたいが、実際に申し立てに行ったのは3人だった。しかし、糾す会の代表の方は日本聖公会京都教区の顧問弁護士からの通達で、教務所の敷地内に立ち入ることを禁止されたという。理由はよく判らない。糾す会の代表者は、事を荒立てないために、教務所前の歩道で待機していたという。

  当然のこととして、多くのジャーナリズムが取材に来ていたらしい。そして、申立書を渡すことが終わった後も、彼らは取材を続けているという。当然だろう。女児に対する性的虐待行為をした司祭を、懲戒免職処分に相当する処分をしていないのだから、誰が考えても、おかしなことだと思うのは当然のことだ。それも、被害者側の主張が全面的に認められた高裁判決が、最高裁の却下で確定しているのだ。  ところが問題はそれだけではない。

 聞くところによると、日本聖公会の司祭の中に、被害者はH司祭に対して好意を寄せていたのだから問題はないということを言っているのがいるそうだが、これが事実だとすると、日本聖公会の司祭の中には、あまりにも非常識なのがいるということになる。好意を持っていようがいまいが、18歳未満の児童に対してわいせつな行為をしたり、させたりすれば、それは当然犯罪になるのだということを知らないらしい。しかし、もしかすると彼らはこういうかもしれない、「聖書の中でそれが罪だと明確に論じているところがあるか」と。

 まさかとは思うが、こうした反論にならない反論が出てくるのが日本聖公会だということを、俺は以前から日本聖公会に対して感じている。聖書の中には、確かに、様々な細かい規定が記されているが、児童に対する性的虐待に関する規定は記されていない。しかし、それはあまりにも当然のことであり、極めて日常的な常識であるから、聖書といえどもそれを記していないのだ。旧約と新約を通して、日常的な規定はほとんどと言っていいほど出てきていないし、「ミシュナー」という口伝の律法にもそうしたことは記されていない。むしろ、日常的な禁止事項は、当該社会が保持してる不文律であることが圧倒的に多いのだ。  また、H司祭に対する赦しを考えろという司祭もいるそうだが、懺悔のないところに赦罪はあり得るのだろうか。これは教理学の範疇にはいるのだが、こんなキリスト教の聖職者として常識的なことさえ日本聖公会の司祭の中に知らないのがいるのだろうか。日本聖公会の祈祷書にある「罪の赦しの宣言」は、会衆と司祭の懺悔の祈りの後に続いているはずなのだが、日本聖公会の司祭で、こうした祈祷書の神学的基盤を理解できていないのがいるのだろうか。H司祭はウイリアムス神学館の説教学の教授をしていたそうだが、H司祭自身はこうした祈祷書の根本にある神学的見解を理解していたのだろうか。

 そして、糾す会を排除した理由は何だったのか。「教会の敷地内に入るな」ということが何を意味しているか、日本聖公会京都教区は判っていたのだろうか。糾す会の代表者がいては都合が悪かったのだろうか。他のお二人の方々と糾す会の代表者の方との間に、それを区別する明確な根拠があったのだろうか。糾す会の代表者の方の教会籍が、日本聖公会京都教区の教会に残っていることを示す正式な文書があるのだから、「日本聖公会以外の人には会わない」という理屈は通らないだろう。もしそうだとしたら、最近の日本聖公会はローマ・カトリック教会やルター派の教会と積極的な関係を持とうとしていることと矛盾してしまうだろう。

 これで、日本聖公会京都教区は審判廷を開廷せざるを得なくなった。審判廷を開く前に京都教区主教が独断で「時効」を宣言することは出来ない。「時効」を決定できるのは審判廷だけだ。だから、H司祭は裁判所で時効を主張していたのではないのか。しかし、いままでの日本聖公会京都教区の動きからすると、申立書を受理しても、数日後には弁護士と相談して「時効」を通知してくるようにも思える。最高裁判所の上告却下(棄却ではない)によって確定した高裁判決や、その最高裁判所の却下に対して抗議声明を出した日本聖公会京都教区も、あの赦罪の記者会見でH司祭の性的虐待行為が事実であったことを認めている。それでも時効を主張するのであれば、6人目の被害者がH司祭から性的虐待を受けた日時を明らかにすべきだ。

 日本聖公会京都教区は審判廷を開廷し、H司祭を日本聖公会の法憲法規に従って裁くべきだろう。日本聖公会の主教制というのは、主教の一存で日本聖公会の法憲法規を超えて判断が出来るというものなのだろうか。