いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

戒厳令ですか?

2007-06-26 | Weblog

 最近、H司祭問題とそれに対する京都教区の対応の問題について、いろいろなサイトが静かになっていますが、戒厳令が出たのですか?箝口令の時もそうですが、箝口令や戒厳令そのものが、神学的に問われていく必要があると思います。これは、日本という社会の中でキリスト教がどのように見られているかということを考えると、実に大切なことだと思います。

 思想統制とか、思想検閲、ひいてはメールの検閲までしている国があるようですが、それと同じ過ちを日本聖公会がしないことを願っています。「キリスト教は行ってることと、やってることが滅茶苦茶だ」と言われないためにです。
 また、フィリピンでは、聖公会の司祭達も軍の圧政のもとで苦しんでいるのですが、そうした方々を支援している他のプロテスタント諸教会から非難を浴びてしまうことになりませんか?フィリピンの実状は本当に悲惨なものです。WCCなどの活動に関しても、ほとんどネットに出てきません。しかし、真剣に対応しないと、被害者が増えることはあっても、減ることはありません。既に、何人の牧師や司祭が暗殺されているか。あるいは、公然と射殺されているか。牧師や司祭だけではありません。狙撃された人に水を運んでいった人までもが銃撃されています。

 日本聖公会は、他国の聖公会がどうなっているのかを知ろうとはなさらないのですか?少数民族が圧政に苦しんでいる中で、そうした少数民族と共に生きようとしている牧師や司祭を見殺しにするのですか?
 この問題には、日本も大いに関わりがあるのですが、マスコミはほとんど触れていません。何故触れていないのかということは一目瞭然なのですが、誰もそれを問題にしようとしません。フィリピンでは、そうした牧師や司祭は「共産主義者」というレッテルを貼られています。アングリカン・コミュニオンの一画が傷ついているのですよ。殺されるかもしれないという恐怖の中にいるのですよ。
 一連の不正事件や準強制わいせつ事案を見ると、聖公会はどうも社会の動きに対してまったく無頓着なようですね。あそこまでの判決が高裁で出され、普通なら上告しないのですが、あえて最高裁に上告して上告棄却され、確定した判決の内容からして、裁判所は明らかに準強制わいせつが行われていたと判断しているのではないでしょうか。これの関して行われた京都教区の対応の過ちを何故素直にお認めにならないのですか?

 すべて、教会の内側が平穏であることだけを願っているかのように見えてしまいます。教会の内側が平穏であるためには、一部の人々には出ていってもらおうとされているようですね。箝口令も戒厳令も、そこから出ているようにしか見えませんが如何でしょうか。
 苦しめた人々は安穏と過ごしていらっしゃるようですが、苦しめられた方はいまだに苦悩の日々を送られているのではないでしょうか。ネット上が静かになれば、すべては解決したと思ってしまわれる方が多いのではないでしょうか。「糾す会」のサイトにある九州の姉妹の苦しみは、いまだに癒されていませんし、癒さなければならないと意識を教団側は持っていないように見えます。
 こうした事態を、主イエスは望んでいらっしゃるのでしょうか。

 裁判記録を読みに行きたいと思っているのですが、仕事が忙しくて、まだしばらくは無理そうです。永久保存されると言う判決文に添付された裁判記録を読みに行かなければならないかもしれません。しかし、村岡氏や某司祭の閲覧報告を読んだ限りでも、この問題はキリスト教会にとってきわめて重要な問題であることを認識させられています。
 このブログを読んで下さっている方はそう多くはないと思いますが、皆さん、沈黙しないで下さい。皆さんが沈黙すると利を得るのは誰かと言うことを考えて下さい。はっきり申し上げて、いまの聖公会の上層部が考えていること、していることを見ていると、正に中国共産党が自らのために中国国民を虐げているのと同じことをしているようにしか見えません。
 かつて、天皇のための祈りを祈祷書から削除した日本聖公会がしていることは思えないことが、公然と行われているように見えます。
 主の平和

御衣に触れなば

2007-06-23 | Weblog

 マタイ福音書9章19節~22節
 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たち
も一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いてい
る女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この
方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気に
なりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女
は治った。


 退院する時というのは、何とも言いしれぬ想いになります。
 「治って出ていくのだから、何故‥‥‥」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、本当に辛いものがあります。隣のベッドに寝ていらっしゃる方々、足下の反対側にいらっしゃる方々、皆さんの顔にある種の憂いが見えてしまうと、不思議な想いに駆られます。

 「そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て」
 12年間、ずっとずっと病み続けていらっしゃったのでしょう。彼女は何としてでも治りたいと思い、様々な治療を受けていたかもしれません。しかし、彼女は12年間、この病の中で苦しんでこられたのです。「出血が続いてい」たと記されています。ご婦人にとっては、重い重い病だったと思われます。誰にも話すことが出来ません。誰もこの病のことを癒すことが出来る医師を知りません。
 時の流れがいたずらに過ぎていくように見えたかもしれません。

 そして彼女は、人々から噂を聞いていたのでしょうか、病を癒すことの出来るお方が偶然に目の前を歩いてこられたのです。彼女は恐る恐る主イエスの身元に近寄りました。この時のことをルカ福音書は次のように記しています。

 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、
その長血がたちまち止まってしまった。イエスは言われた、
「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではない
と言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、
ひしめき合っているのです」と答えた。しかしイエスは言われ
た、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行った
のを感じたのだ」(ルカ福音書8章44節~46節)

 驚きです。途轍もない驚きです。
 主イエスが気が付いていらっしゃらない、主イエスが見てもいない一人の婦人が、主イエスの後ろから近寄って、その御衣に触れたにもかかわらず、病が癒されているのです。主イエスは言い給いました。
 「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ。」
 この婦人を主がお招きになったのでもありません。
 この婦人を主がご存知だったわけでもありません。
 人々もこの婦人が病を背負っているということを知りません。
 彼女は身を隠すようにして、主イエスの後ろから近づいて、主におすがりしたのです。「もうこのお方にしか癒されるところはない。」彼女はそう思っていたのでしょう。

 マタイ9章22節
 「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、
元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』その
とき、彼女は治った。」
 マタイとルカとでは治った瞬間が異なっています。おそらく、この奇跡物語が伝わっていく過程で順序が入れ替わったものであろうと思われます。言い換えれば、癒しがいつであったかは問題ではないということです。大事なことは、誰もが知らないこのご婦人が主の御衣に触れることによっていやされたという事実です。そして、この出来事は「ある指導者」の娘さんが亡くなられて、そこへ主イエスが行こうとされている道すがらでの出来事です。

 教会はいつも、この主イエスを人々に伝えていかなければなりません。
 この指導者は、この主イエスの癒しの御業を止めていません。自分の娘を早く死から救い出して欲しいと願いながらも、主イエスを自分の家に駆り立てようとしていません。

 主なる神よ
 あなたの御子主イエス・キリストの御業を感謝いたします。
 あの主を、私たちも人々に伝える信仰をお与え下さい。
 主イエス・キリストの御名によって、アーメン。

1年3ヶ月を経ても

2007-06-20 | Weblog
 2006年3月13日、宇野首座主教は日本聖公会各教会教役者及び同各神学校校長宛に文書を送付されました。その前半部は、京都教区主教高地主教からの定期主教会宛の報告でした。そして、後半部は主教会がこれから歩もうとしている道を証言しています。

 「当該牧師は2005年に辞職したが、今なお事実をほとんど否認しているため、教区主教は、教会的な和解が成立したと認められるまで、牧会的な指導の意味で『陪餐停止』とすることを当人に通告した。関係者に明確な謝罪を行うよう今後も当人に求めていく」
 高地主教の報告の最後の部分ですが、実に曖昧なものでしかないのではなでしょうか。「教会的な和解が成立したと認められるまで」とあるのですが、この教会的和解というのが、具体的には何を指しているのかまったく判りません。おそらく、主教会の中では共通理解があると思われるのですが、しかし主教会構成員以外の人々にとっては、その具体的な内容は何一つ判りません。主教会はそのことを判っていながら、首座主教の名前でこの文書を公にされたのでしょうか。それとも、主教会は既に「教会的な和解」の内容は周知のことであると判断されていたのでしょうか。
 また、「牧会的な指導の意味で『陪餐停止』とする」と高地主教は述べていらっしゃいますが、日本聖公会法規第201条にある聖職の陪餐停止は、同条5.によれば、あくまでも「職務の一部執行停止または停職の懲戒を受けた聖職」に対する付帯事項でしかありません。同第197条で「日本聖公会に所属する教役者または信徒は、この法規その他の日本聖公会の法規に基づく審判廷の審判によらなければ、懲戒されない。」とあるのですが、同第203条では、懲戒の具体的なものとしてとして「陪餐の停止」が記されています。だとすれば、「牧会的な指導の意味で」の陪餐停止自身は明らかに懲戒の一部であると考えざるを得ないと思われます。なぜなら、「牧会的な指導の意味の陪餐停止」という言葉は、日本聖公会法規には見受けられないからです。
 つまり、陪餐停止は、日本聖公会法規に照らし合わせて考えれば、準強制わいせつという違法行為をした司祭に対する懲戒であったはずであるということです。にもかかわらず、「牧会的な指導の意味の陪餐停止」という言葉が平然と素通りしてしまっていることに対して、大きな疑問を抱かざるを得ません。ところが、前述のように、こうした懲戒はすべて、審判廷が裁定しなければならないことが同第197条に明記されているわけですから、この陪餐停止処分はその効力を持っていないのではないでしょうか。
 あるいは、この文書に好意的な視点から考えて、主教の独自の判断として陪餐停止という指導をしたとしても、それが指導である限り、H司祭が何らかの形で陪餐したとしても、主教権限でH司祭を裁くことは出来ないのではないでしょうか。

 また、後段においてこの文書は「主教会はこの事態を重く受け止め、被害者とご家族の尊厳が回復され、一日も早く心の傷が癒されますよう願い、京都教区の聖職団と共にまことの悔い改めに至ることをできるよう神の導きを祈り求めます。」と書き始めて一らっしゃいますが、聞くところによりますと、この文書が出された後も「京都教区に任せてありますから」という発言をした主教がいらっしゃるようですが、もしそれが事実であるとすれば、明らかにこの文書に対して逆行した発言であるように思えるのですが、如何でしょうか。また、続けて、「長年に渡って被害者を苦しめ、なおかつ聖職等が適切に対応しなかったことによって苦しみを更に増し加えたことは、日本聖公会の信徒の皆様に困惑と失望を与え、キリスト教界全般の信用傷つけてしまうことになっりました。このことにつきまして、私たちは日本聖公会の聖職団を代表して、日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」とも述べられていますが、日本聖公会外に対してこの文書は送付されているのでしょうか。少なくとも、この文書の宛先は「日本聖公会各教会教役者及び同各神学校校長」にしかなっていません。つまり、日本聖公会に属する信者や他教派の教会に対する文書ではないということになります。「日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」と書かれているにもかかわらず、宛名は「日本聖公会各教会教役者及び同各神学校校長」でしかないという矛盾はどう説明されるのでしょうか。
 これは重大な問題で、他教派の教会に属している人々がこの問題に対して声をあげていることについて、虚偽のことを記されたり、他教派の人々を排除しようとする発言が聞こえてきたりしていました。「日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」という言葉の内容とはまったく異なっていますが、このことをどうお考えなのでしょうか。
 そしてこの文書は次のように結んでいます。
 「この書簡の意図するところをお酌み取りいただきまして、各教会の牧師、神学校校長の皆様の牧会的ご配慮の下に信徒、神学生の方々にお伝えいただきますようお願いいたします。」
 「私たちは日本聖公会の聖職団を代表して、日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」と謝罪しておきながら、そしてこの文書は日本聖公会内の教役者や神学校の校長にしか送付されていないのですから、この謝罪は、日本聖公会内の教役者や神学校の校長にしかなされていないことにはならないでしょうか。
 『キリスト新聞』の取材記事や裁判記録閲覧レポートが事件の内容やそれに対する京都教区の対応を詳細に伝えてはじめてもまだ、日本聖公会としてこの事件とそれに対する対応の稚拙さを解明しようとする動きが見られません。

 「主教会はこの事態を重く受け止め、被害者とご家族の尊厳が回復され、一日も早く心の傷が癒されますよう願い、京都教区の聖職団と共にまことの悔い改めに至ることをできるよう神の導きを祈り求めます。」という後段の文言は、今からすれば正に、世間体を取り繕おうとしたものでしかないように思えます。
 ことは、現職司祭による準強制わいせつであり、しかも被害者は12歳以下の時から長年にわたって準強制わいせつをされていた事件です。にもかかわらず、この文書には事件に対する認識が極めて甘いものであることを露呈しています。おそらく主教会の構成員は誰一人として裁判を傍聴したり、あるいは裁判記録を閲覧していない、ということが明らかになっています。
 別の観点からすれば、主教会ご自身がこの事件に関して事実を知ろうとする努力をせずに、他だ一方的にこの事件を隠蔽しようとしているとしか思えません。使徒継承は人間的な権威を継承するものなのでしょうか、それとも聖書と教会の伝承による主イエス・キリストの福音が正しく継承されるためのものなのでしょうか。
 「この書簡の意図するところをお酌み取りいただきまして、各教会の牧師、神学校校長の皆様の牧会的ご配慮の下に信徒、神学生の方々にお伝えいただきますようお願いいたします。」という結びの言葉は、「牧会的配慮」によってあまり広めないようにということにならないでしょうか。もしそうだとしたら、被害者とそのご家族が望んでいらっしゃる和解への道程とは、まったくかけ離れたもののように思えてしまいます。
 この文書が送付されてから、既に1年3ヶ月を経ています。
 主の平安

奈良行きの準備

2007-06-19 | Weblog
 近いうちに休暇を取って奈良まで裁判記録を読みに行きたいと上司に言ったら、一週間の出張を命じられた。遠いところまで出張すると、有給以外に三日休みが取れる。丸一日裁判記録を読んで、残りの二日はあの周辺を歩いてこよう。斑鳩とか、いいところがたくさんあるからな。友人は信州へ行くと言っていた。何ヶ所か行ってきたいところがあると言っていた。

 「みんなで裁判記録を読むのは如何なものか」という意見があるみたいだが、普通はそう考えるだろうな。しかし、裁判所がどう判断したかを正確に知るためには、裁判記録を読むしかない。大きな事件の判決はジュリストに載るが、こうした民事裁判はほとんど載らない。それに、読みたいのは判決文だけじゃない。裁判記録そのものだ。ある意味では、傍聴するのと同じだ。そうすることによって、被害者の痛みのごく一部だが共有できるかもしれない。

 「最高裁に抗議する」と声明を出した京都教区は、当然読みに行くべきだ。というか、何故傍聴に行っていなかったのか不思議でならない。京都教区常置委員長の裁判だろ?会社の重役が勤務中のことで訴えられているのであれば、会社は必ず傍聴に誰かを行かせるんじゃないのか?一度も傍聴に行ってないのに「最高裁に抗議する」というのは、まったく理解できない。俺は何人もの友人や知り合いにこの話をしたが、一番強烈な返事は、「キリスト教って、カルトなのか?」という返事だった。そして、半分以上は、初めはまったくこの話を信じなかったな。現職の牧師が準強制わいせつ行為をしたこと、それに対して上層部は何の処分もしていないこと、「陪餐停止」という、規則にない処分で「お茶を濁した」こと、こうしたことは、主教はまるで指揮権発動でも出来るかのような権威をもっているのだろうかということが彼らの共通した理解だった。

 造船疑獄はいまだに闇の中だ。そして、あの時のことを記憶している方々のほとんどは亡くなられている。生きていらっしゃる方はごく一部で、それもかなりご高齢になられている。日本聖公会の主教は、法務大臣以上の権威を持っているようだな。まるで、明治体制の天皇制のようだ。ある聖公会に詳しいのが言っていた、「京都教区主教は御所の前に鎮座ましまして居られるから、天皇と同じ権威を持っていると考えているんじゃないのか?」とね。しかし、このジョークがジョークとして聞き流せないところにも問題があるような気もする。
 俺の友人はこう言っていたよ。「造船疑獄に関わっていた方たちは、おそらく一生涯その問題を背負って生きていらっしゃった。なかには、教会に深い関心を持っていらっしゃった方もいる」とね。あの事件が法務大臣の指揮権発動で闇の中に消えてしまったのだが、歴史の皮肉なのだろうが、「外航船建造利子補給法」によって日本の戦後復興が始まったとも言えると友人は言っていた。船会社と造船業が息を吹き返す前に、鉄鋼関連の会社が息を吹き返した。船に使う鉄の量は半端なものじゃないからな。
 しかし、京都教区主教の「指揮権発動」で教会は成長したか?
 最悪は、被害者が教会から出て行かざるを得なくなったということだろ。あの時の犬飼法務大臣は、検事総長に逮捕の延期と任意捜査を命じた翌日、辞任したよな。それが他からの圧力によるものなのか、本人の意思なのかは誰にも判らない。残された記録が犬飼法相の心であったとは思えないからな。それに、あの時の関係者は一斉に口を噤んだ。末端の社員までもだ。

 日本聖公会は、様々な事件を握りつぶしてきたが、今度はそうはいかないだろう。いまだに、M主教やK司祭、あるいは最高裁判決時の京都教区主教K主教は沈黙を守っている。誰かが沈黙を守らせているのか、それとも自分の意志で沈黙しているのか。しかし、彼らが沈黙している間も被害者はPTSDに苦しんでいる現実を、俺たちは絶対に忘れるべきじゃない。

 もう昼休みだな。俺が書いた報告書を早く校正しろと上司が持ってきた。うちの事務所は上司が奥で鎮座ましましていないからな。そろそろ、奈良行きの準備を始めるか?その前に仕上げて置かなくちゃならない仕事が山積みになっているが‥‥

主の十字架を見つめて

2007-06-12 | Weblog
  あるご婦人のメールを読ませていただきました。

> でも、そのことを糾弾する会の方の文章を拝見する限り、
> 被害者の代弁というよりも
> この事件をことさらに取り上げ、
> 関係者の人間性を貶める表現に私は正直、胸が悪くなりました。

 準強制わいせつ行為が身の回りで起きたことがない方々がほとんどであろうかと思います。ですから、この事件に対して、こうした感想を持たれるのは当然であろうと思われます。しかし、「糾す会」の方々が「この事件をことさら取り上げ」なければ、事件は闇に葬られていたのではないでしょうか。「糾す会」のホームページに書かれている「★『性暴力対策室設置とそのネットワーク化の実現に向けて』宮本晴美の発信 (その1~その15)2006.8.26~」をお読みいただければ、同じような事件が黙殺されていることをご理解いただけるのではないかと思っております。
 事件が社会的に黙殺されるとき、被害者は孤立し、その家族もまた孤立した被害者と共に苦しまなければならないのではないでしょうか。はっきり申し上げて、小生もこのような事件のことを耳にしたくありません。しかし、自分がそう思ってしまったとき、実は被害者とそのご家族を苦しめている側に立ってしまっているのだと、聖書の御言葉が叱咤しているように思えるのです。

 エリコへの路で強盗に襲われた人を見過ごしにした祭司とレビ人の心理描写をルカ福音書の著者はしておりません。ただただ、通り過ぎ、見過ごしにしたという事実だけを私たちに伝えています。そして、あの傷ついた旅人は現実に、エリコへの道の傍らにジッと倒れているのです。旅人は無言です。もはや口を開くことが出来ないほどに打ちのめされ、苦しめられていたと福音書記者は伝えたいのではないでしょうか。

> 司祭や主教、大学や神学校の教員の「聖職」性を強調し、
> いかに個々の人間がそれにそぐわないか、ということを
> 暴き立てることが、この事件の解決に何らかの益となったのでしょうか?

 あの時、エリコに向かう商人が立ち止まらなかったら、傷ついた人はどうなっていたでしょうか。砂漠の夜は冷えます。傷ついた人は飢えと渇きと寒さに苦しんだ末に命を失っていたかもしれません。目の前で起こっていることから眼をそむけ、沈黙することは、時として人の命を奪うこともあり得るのではないでしょうか。イジメのために自らの命を断つ子供たちに、大人達は目を閉じていていいのでしょうか。

 あの商人は、何のためらいも感じていません。傷口に葡萄酒を注ぎ、オリーブ油を塗っています。(日本語訳の聖書では油が先になっていますが、ご降誕のところにある『黄金・乳香・没薬』は『没薬(鎮痛剤)・乳香(葬り)・黄金(御復活)』と訳すべきであるのと同じように、葡萄酒を注いでからオリーブ油を塗ったことは、当時の薬学(ハーバリズム)を考えると間違いないと思われます)そして、商人は自らのために持っていた葡萄酒とオリーブ油を惜しげもなく使ったのです。アルコール度数がそれほど高くない葡萄酒には殺菌作用があります。オリーブ油には収斂作用があります。

 この商人は豊かな人です。旅をする時に、これだけの準備が出来ているからです。当時の葡萄酒は高価でした。冷蔵庫のない時代、葡萄酒を葡萄酒のまま保存することは非常に難しいことでした。すぐにビネガーになってしまいます。そして、傷ついた人を宿屋に連れて行き、デナリオン銀貨を2枚も差し出して、こう言っています。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」

> 私には、これもまた「虐待」の上重ねに過ぎないと思います。

 主は言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
 「糾す会」の方々が沈黙を守っていたら、「私には関係がない」と通り過ぎていてしまったら、被害者とそのご家族はどうなっていたでしょうか。祭司やレビ人は、強盗に襲われていた人のところに戻ってきていたでしょうか。
 多くの方々は、このご婦人と同じことを感じていらっしゃるかもしれません。しかし、主は「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃって居給うのです。そして、その主ご自身は、あの日、あの丘の上で十字架に死に給うたのです。私たちは、毎主日の御ミサで、あの主イエス・キリストの御体と御血に与っているのではないでしょうか。

 あの丘に立つ十字架を見つめ続けていたいものです。
 主の平安

見えたよ

2007-06-10 | Weblog
 京都教区の主教や聖職常置委員は裁判記録を読んでないな。原田司祭空の報告を聞いているくらいだったんじゃないのか?原田司祭の弁護士とも話をしていなかったんじゃないのか?
 だから、高裁の判決を耳で聞いて、最高裁への上告を勧めたんじゃないのか?普通の弁護士だったら、あの判決での上告は意味がないとすぐに判るからな。もしかすると弁護士はそれを指導したんだろうが、体裁を繕うために「上告」」の道を選んだんじゃないのか?

 主教や聖職常置委員が事件の実態を知ったのは、裁判の閲覧レポートが公開されてからだろ。あのレポートを読んで、「糾す会」のメールに書かれていることが正しかったということを知ったんじゃないのか?ひどい話だ。原田司祭から聞かされていたことを信じたと言うよりも、原田司祭から聞かされたことを主教の権威で押し通せると思ったんじゃないのか?聖公会の今までの歩みを見ていると、それが一番考えやすいよな。

 もしそうだとしたら、主教や聖職常置委員に教会を教導する能力はない。現実認識の過程で、あまりにも大きな過ちを犯している。そして、主教や司祭の権威を、聖公会という枠を越えたところでも主張しているように見える。愚かなことだ。その主張が正しいとか、教会はそうあるべきだと考えたら、それがカルトなんじゃないのか?教会の権威はこの世の法律に優先するということを、教会の枠組みを越えて主張したら、それはある種の犯罪になるんじゃないのか?むかし、皇居遙拝を拒否した牧師達がいただろ?あの先生達を苦しめた日本のプロテスタント教会のなかの最大教団は、後になって、そうした先生方やその教会やそのご家族に対して、謝罪行脚をしていたよな。やれよ、この事件でその内容と対応に対する判断を誤ってしまった主教や司祭は、すべての被害者と「糾す会」に対する謝罪行脚をしろよ。

 但し、審判廷が終わってからだ。
 審判廷でなければ、日本聖公会も事件に白黒決着を付けられないからな。それが人間にとって誠実という言葉で言い表されていることなんじゃないのか?俺たちは、いや少なくとも俺は見てるからな。この後の聖公会を。ACCを散々非難していた主教や司祭がいただろ?そうした人々が、司祭の性犯罪に対して沈黙し続けてきたんだよな。俺もそろそろ御ミサに行って来る。聖公会の主教や司祭達は、徹底的に懺悔してから御ミサをした方がいいな。


絶対に自主退職させるなよ

2007-06-08 | Weblog
 またまたすごいメールが転送されてきた。
 友人と電話で話しもした。TERAさんの<キリスト教カルトを切る>というブログも読んだ。一番の中心は次の個所だな。

 「堀江メ-ルが高田教会の礼拝堂、祭壇の再聖別をしてほしい、と記しておられましたが、礼拝堂、祭壇横、信徒の食事するテ-ブル上での詳細な陳述と絵図を見て、心情的に理解できました。」

 最悪だ。原田司祭に神学はないだろ。もしかすると信仰もないかもしれない。俺と同じことを考えている人は、意外と多いんじゃないのか?「普通じゃない」どころじゃないだろ。準強制わいせつを礼拝堂のしかも「祭壇横」でしたんだろ?あそこはサンクチュアリじゃないのか?
 俺の友人は知ってたみたいだ。俺たちにまで隠していた。彼奴はまだ、もっと他のことを知っているだろう。散々締め上げたが、メールに書かれてあること以上は何も答えなかったな。まだ他にもあるんじゃないのか?「汚された場所」が他にもあるんじゃないのか?

 「準強制わいせつ」で検索してみてくれよ。グーグルが一番いい。
 それから、刑法の準強制わいせつをしっかり読んで欲しい。この前も提示したが、「強制わいせつ」も含めてもう一度引用しておく。

 刑法第176条(強制わいせつ)
 13歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、6月以上10年以下の懲役に処する。13歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。

刑法第177条(強姦)
 暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫(かんいん)した者は、強姦の罪とし、3年以上の有期懲役に処する。13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

刑法第178条(準強制わいせつ及び準強姦)
 1 人の心神喪失(しんしんそうしつ)若しくは抗拒(こうきょ=抵抗し拒否すること)不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、わいせつな行為をした者は、第176条の例による。
 2 女子の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、姦淫した者は、前条の例による。

 刑法は去年の今頃、改正された。この条文で言えば、刑は「6月以上7年以下の懲役」が「6月以上10年以下の懲役」になった。
 可決成立:06年4月25日
 公  布:06年5月 8日法律第36号
 官報掲載:06年5月 8日(号外第106号)
 施  行:06年5月28日

 これを犯した司祭を、その司祭の「事実無根」発言を理由に退職撤回をした主教や常置委員の責任は大きい。「大きい」なんてものじゃないかもしれないが、とりあえずそう言っておく。こうした事件の隠蔽工作を計り、それに荷担した主教や司祭は、全員が審判廷で裁かれるべきだ。彼らは旧「考える会」の人々を非難していたからな。
 「堀江メ-ルで言及されている裁判記録は、かなり抑制されたものであることを確認しました。(原文には詳細な行為の陳述と絵図あり)」
 さっきのメールにこう書かれていただろう。俺の友人が言っていたとおりだった。「あの方達は優しい人たちだよ、原田司祭がしたことは半端なことじゃない」と俺たちに話してくれたことがあった。俺はその内容が判らなかったから、想像するしかなかったが、彼奴はその情景まで知っていたようだ。
 犯罪だろ、原田司祭がしたことは。それをかばい続けてきた主教や司祭は、これまた大きな過ちを犯してきたんだ。そういえば、古賀司祭がパトカーを呼んだことがあったよな。自分のために呼んだのか?関西のお笑いは面白いが、司祭が茶番劇をしても仕方がないだろ。

 今頃「原田に騙された」と思っている主教や司祭がいるんじゃないのか?
 はっきり言って騙された方が悪い。自分たちでしっかりと事実を確認しようとしてこなかったんだからな。人間を信じちゃダメだろ。俺たちが信じているのは神様だ。無条件に人間を信じることはもちろん信仰じゃはないし、愛でもない。その簡単なことが判っていない司祭が常置委員になるとこういうことになるんだ。被害者の手記を100%否定し、原田司祭の「事実無根」を100%信じてしまったんだからな。絶対に自主退職させるなよ。審判廷で白黒はっきりさせろよ。でなければ、日本聖公会は永遠にこの重荷を背負っていくことになるぞ。

 TERAさんは面白いことを言ってるな、聖公会自身のレクイエムか。
 主教と司祭たちのレクイエムだな。信者さんはむしろ被害者かもしれないぞ。騙され続けてきたんだからな。女性司祭は、一連の裁判記録閲覧報告を読んでさぞ愕然としていることだろうな。しかし、これが現実だったのです。信じられないだろうと思われるかもしれませんが、大阪高裁はこれをすべて事実と認定したから、満額の慰謝料を認めたのです。満額の慰謝料というのは、俺が知っている限りでは、かなり珍しいことだと思いますよ。被害者とそのご家族のために、一働きも二働きもして下さいませんか?
 祈ってます。

世の中、殺伐としているな

2007-06-08 | Weblog
 町会議員が強制わいせつをしたり、警察官が買春行為をしている。少年が母親を殺してその首を持って自首したと聞いた瞬間、俺は何とも言えない気持ちになった。そして、社会保険庁の単純なミス。謝ればいいという問題じゃない。極めて単純なミスだ。データベースを作った時に、何回も確認しなければならないのに、それを怠ったのだろう。おそらく、部長以上の人間はパソコンを操れないんじゃないのか?データベースのシステムも判ってないだろうな。
 どこかに下請けさせたのだろうが、それを庁内で再確認することもしなかったんだろう。年金が何たるかを認識していないのだろう。そして、帳簿をデータベース化したら便利になるという程度のことしか判っていなかったんじゃないのか?そして、問題はそのデータベースが外に漏れていないかどうかだ。個人情報保護法の意味をどの程度認識しているかな。
 日本聖公会は大丈夫か?メーリング・リストとやらがあるらしいが、漏れていないか?パソコンにガードが掛かっていなかったら、俺なら1分以内に抜けるぞ。勿論そっくり全部だ。教会のパソコンに入れていないだろうな。遊んでいる振りをして、アッと言う間に抜けるからな。それも、フロッピーやCDRにコピーしないでだ。こんなことは誰でも、ちょっとパソコンを知っていれば簡単に出来る。パソコンは一台一台別々のパスワードを掛けておかなくちゃ駄目だ。2kでもXPでも同じだ。そして、そのメーリング・リストは影で取り引きされる。内容によってはかなり高額なものになる。

 日本聖公会の現職司祭の準強制わいせつ事案。民事裁判だとあまり関心が持たれないのだろうが、かなりの人が関心を持ち始めている。俺のこのブログ、先週は1113のアクセスがあった。一日平均約160だ。今週はもっと増えている。一昨々日は189、一昨日は244、昨日は186だった。「FH司祭問題を駁す」はもっと多い。245、282、202だ。この中には、毎日見に行ってる人がどれくらいいるかな。全員が三日に一度だとすると、729人が見ていることになる。俺みたいに、朝から晩まで、インターネットに接続されたパソコンの前で仕事をしている人はそうはいないだろう。仕事場でガードが掛かっているだろうから、自由にインターネットにアクセスできないだろうからな。俺たちは、インターネットに接続されていないパソコンでは仕事にならない。

 日本聖公会の信者さんが問題意識を持ち始めているようだな。だとしたら箝口令は逆効果にしかならない。2ちゃんねらー司祭を黙らせることは出来ても、一般民衆は真剣だよ。自分たちにとって一番大切な部分だろうからな。京都教区の主教や司祭はその認識がないんじゃないのか?聖公会手帳というのがあって、そこには信徒の「有名人?」の名前が載っている。電話をしまくってアンケートでもとるか。と書くと、またメーリング・アドレスで「電話に出ても何も言うな!」という主教命令がネット上を飛び回るんだろうな。だったら、聖公会手帳に信徒の名前なんか載せるなよ。

 また北朝鮮から漂流船みたいだな。この前のには人が乗っていたが、今度は無人で長期間海流に流されていたみたいだな。独裁国家だからな、あそこは。独裁者とその支持者に睨まれたら、後は餓死するだけらしいな。軍人が多いのは徴兵制によるものらしいが、軍隊へ行けば飯が食えるというのが脱走者が少ない理由だって説もあるぞ。日本聖公会みたいだな。司祭や執事は、脱走どころか、独裁者を批判することもしないからな。飯が食えると、考え方が変わってしまうのか?
 不思議なところだ。さぁ、俺はまた仕事の続きだ。

箝口令?

2007-06-07 | Weblog

 「箝口令」とTERAさんのブログに書かれていたが、日本聖公会はここまで来てもまったく悔い改められない人たちの集まりなんだな。司祭達は自分たちのことが判ると困るから沈黙してるんだろうが、これって中国共産党がしていることと同じだぞ。北朝鮮もな。要するに国家社会主義の国の「政府」=支配者が、国民の言論統制をして、自分たちの立場を正当化しようとしていることだろ。日本聖公会の教会員は何故黙っているんだ?葬式をしてもらえなくなったら困るからなのか?それとも、陪餐停止にされると困るからなのか?大丈夫、審判廷を開かない限り陪餐停止に出来ないことになってる。日本聖公会法憲法規にちゃんと書いてある。しかも、これには主教権限による指揮権発動はない。あると思っている主教はいるかもしれないが、日本聖公会は管区総会でこの法憲法規を決めたんだ。知らない主教は、病気か何かで出席できなかった人かもしれないが、主教室には必ず法憲法規が置かれているだろうから、すぐに理解できる。

 それから、<FH司祭問題を駁す>というブログのアクセス数、すごいな。一昨日あたりから急に増加しはじめている。一日に200件以上のアクセスがあるんだな。なかなかもんだよ。日本中のクリスチャンが気にしているだろうからな。だから、日本聖公会は箝口令など出さない方がいい。自分の墓穴を掘るだけだ。IT社会というのはそうした社会なんだ。国民全体が自由に様々な情報に触れることが可能になってきている。そして、光通信がそれを同時化している。俺がここに書き込んだ瞬間に、地球の裏側から俺が書いたものを読むことが可能なんだ。若干の遅れはあるが、それは通信経路の問題ではなく、サーバーの速さや混雑程度によるものだ。光は1秒間に地球を7周り半する。秒速30万キロだ。携帯電話が若干遅れて聞こえるのは、デジタル信号をアナログ信号に変換している時間が長い?からで、通信速度そのものは電話と一緒だ。電気が導線内を移動する速さは、というか導線内の自由電子の移動が伝わる速さは光とほぼ同じだ。

 箝口令などという前近代的、封建社会的な野蛮な行為は止めた方がいい。
 ネット上を飛び回っている情報の発信源を探知することは、犯罪性のあるものでなければ出来ないことだ。日本の政府はその道を選んだ。中国共産党はすべてを監視しているがな。中国にいる日本人にメールを出すときは気を付けた方がいい。政治的な表現はタブーだ。全部読まれていると考えてメールを出さないと大変なことになる可能性がある。これは冗談じゃない。中国との貿易をしている企業では常識的なことだ。日本聖公会は、中国共産党並みの箝口令を敷いているのか?だとしたら間違いなくカルトだな。
 H司祭による準強制わいせつ事件とそれに対する教区の対応の過ちについて、信者が耳にすることを止めさせようとすればするほど墓穴を掘るぞ。今のIT社会ではあらゆる情報が流れてしまう。だから、個人情報に関してその漏洩を厳しく監視しようとしているんだ。これが自由主義・民主主義社会の動きなんだ。まぁ、日本聖公会は封建制度かもしれないが、外の世界はまったく異なっているんだ。

 TERAさん、随分法律に詳しいんだな。それから、「考える会」の公開質問状を載せた新聞、確か俺の事務所にあったぞ。あの編集長、止めちゃったのかよ。ってことは、この前のH司祭問題の記事は新しい編集長が取り上げたのか?なかなかやるな、どっちも。一般紙にすっぱ抜かれたらみっともないだろ。しかし危ないぞ。このブログでさえ昨日は244のアクセス数があった。何千何万という数ではないが、それなりに広まっている。5月27日から6月2日までの間に1113件のアクセスがあった。それまでの倍近い数字だ。サードパーティーの週刊誌にすっぱ抜かれないように気を付けないと、ネット上でかなり有名になってしまうぞ。今までのネットの掲示板などの流れでは、H司祭などは「師匠」というニックネームが付きそうだ。そんなことになったら日本聖公会の恥だろ。そうなる前にきちんと謝罪と事実確認を公開でするべきだし、審判廷で裁かれるべきものはきちんと裁かなければならないだろうな。ジャーナリズムの取材は当然あるだろうが、それが社会的責任というものだ。


シンジラレナァ~イ!!

2007-06-06 | Weblog

 日ハムのヒルマン監督、メジャーからの誘いを断って日ハムに残った理由を知ってますか?日本聖公会の人は知らないだろうな。彼は福音派系のクリスチャンで、日本の伝道のために残ったのではというのがもっぱらの噂です。そして、その噂は、彼の言動からするとどうも本心はそこにあったのではと思われます。

 聖公会は正統派だから、福音派の教会には興味はないですか?まさか「異端」とはいわないでしょうが、それに近い発言は何回も耳にしてきた。しかし、この原田司祭による現職司祭の準強制わいせつ事件とそれに対する対処を誤った主教や常置委員会のその後の行動を考えると、もはやあのヒルマン監督の信仰を否定できるだけのものは、今の聖公会にはないと言わざるを得ないでしょ。

 村岡氏のレポートにこんなことが書かれていたな。
 「京都教区は2005年12月9日に奈良県庁で、この事件の謝罪記者会見を行ないました。ところが、それから少なくとも8ヶ月が経っても、京都教区の事件対応に当る関係者の誰ひとりとして裁判記録を閲覧していませんでした。とりわけ、加害者原田文雄司祭手紙2通や当事者証言速記録は、両当事者の言い分を裏付ける重要な証拠です。京都教区は裁判内容を加害者から逐一聞いていたのかもしれませんが、加害者側からの情報だけでは裁判資料欠落の可能性が高いのであって、私には京都教区が極めて不注意な対策を行っていたのではないかと思わざるを得ませんでした。」

 ヒルマン監督じゃないが、「シンジラレナァ~イ!」と叫びたくなる。
 村岡氏は「極めて不注意な対策」と書かれているが、俺だったら「まったく不誠実で傍若無人な対応しかしてこなかった」と書いているだろうな。
 「2005年10月より教区執行部に対して電話・メール・手紙で抗議、糾弾をはじめたが、教区はすぐ受け入れると思っていたのに、翌年5月、6月になってもどうも教区の態度はおかしいと感じ始め、特に5月9日教区事務所に二人で乗り込んで行って、事務所の主事である”谷何がし”に水をぶっかけられる様な剣幕で追い払われそうになった時、初めて教区の隠蔽の意図を読み取った。」
 今日来ていた「糾す会」のメールにそう書かれていたが、京都教区の主教や常置委員の身勝手な行為には呆れてものが言えない。裁判を傍聴することもなく、裁判記録を閲覧することもなく、「最高裁に抗議する」と口にしたこと自体、自らの無能さを露呈しているんじゃないのか?「最高裁に抗議する」というのは、法廷で判決文のすべてを聞いた後でいう言葉なんじゃないのか?上告棄却に抗議したのだろうが、その理由が判っていたとは到底思えない。「事実無根」であるかどうかではなく、民事訴訟法上の規定によって上告棄却が為されただけのことだ。そもそも、あの大阪高裁の判決をしっかり理解していれば、最高裁に上告したところで上告棄却になることは判っていたはずだ。

民事訴訟法
第三百十二条 上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があることを理由とするときに、することができる。
 上告は、次に掲げる事由があることを理由とするときも、することができる。ただし、第4号に掲げる事由については、第34条第2項(第59条において準用する場合を含む。)の規定による追認があったときは、この限りでない。
1.法律に従って判決裁判所を構成しなかったこと。
2.法律により判決に関与することができない裁判官が判決に関与したこと。
3.専属管轄に関する規定に違反したこと(第6条第1項各号に定める裁判所が第一審の終局判決をした場合において当該訴訟が同項の規定により他の裁判所の専属管轄に属するときを除く。)。
4.法定代理権、訴訟代理権又は代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと。
5.口頭弁論の公開の規定に違反したこと。
6.判決に理由を付せず、又は理由に食違いがあること。
 高等裁判所にする上告は、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があることを理由とするときも、することができる。


 これらの規定のどれによって最高裁に上告したのか。
 素人の俺にでもその誤りが見えてるぞ。第二項の6つの条件のどれにも当てはまらないだろ。第三項は、今回の裁判には関係がない。第一審が地裁だったからな。こんなことは中学生でも理解できることだぞ。
 シンジラレナァ~イ!
 思わずそういいたくなるな。
 「最高裁に抗議する」と声明を出したが、この第三百十二条の上告理由に当てはまることがあったのか?この上告費用はまったく無駄だったんじゃないのか?

 はっきり言わせてもらうと、あまりにも愚かだ。弁護士は指導してくれなかったのか?上告棄却になるのは初めから判っていたはずだからな。これは、上告棄却の理由が第三百十二条にあるということが裁判記録に書かれているそうだから、間違いないだろ。教区の司祭が民事裁判に訴えられていたら民事訴訟法くらいは読めよ。素人の俺でも理解できるぞ。

 明日の夜、上京している俺の友人に会おうと思っていたが、明日の朝から出張になってしまった。さっき、電話で小一時間話をしたよ。彼奴は笑ってたな。「主教様はお殿様だから、民事訴訟法などという下々のものはお読みにならないだろう」と言って笑ってた。本当かよ。日本聖公会は、アングリカン・コミュニオンの一員だから、日本国内では治外法権を持っているのか?最高裁にも圧力をかけられるのか?
 本当におぞましいことだ。
 被害者とその家族に対して徹底的に謝罪しろよ。そして、原田司祭の退職から退職撤回に至る10日間の出来事を、事細かに文章化して被害者とその家族に提出しろよ。勿論、最高責任者である主教の直筆のサインと日本聖公会京都教区主教の印鑑を押してだぞ。主教の個人的な印鑑を押すなよ。常置委員の署名と捺印もあった方がいいな。
 俺の友人がそれを書けと言っていたよ。彼奴のところへ、両肩の手術に関する主教からの返書が来たそうだが、サインもなければ捺印もなかったそうだ。それで、何故署名捺印が為されていないのかと手紙を出したら、事務手続き上のミスだったと言い訳をして、署名捺印が為された文書が送られてきたそうだ。
 聖公会は恐ろしいところだそうだから気を付けた方がいい。署名捺印のない文書の意味を知っていて、そうした文書を送ってくるらしいからな。

 そして、ここまでこの問題のために労苦してこられた「糾す会」にも、謝罪と感謝の意を表せよ。他教派の人だなどと、醜い言い訳をするなよ。聖公会の内部の人間は恐ろしくて言い出せなかったんだからな。「糾す会」の方々は、このためにどれだけ時間と経費とかけてこられたのか判っているか?正にボランティアだろ。ご自分の出身教会であの忌まわしい事件が起こったんだからな。
 俺も友人からいろいろなことを聞いたよ。
 日本聖公会に影の大主教がいないか?正に「鶴の一声」を発する人物はいないか?その人が一言発すると、主教達も黙ってしまう人がいないか?ほとんどの信者はそれを知らないが、聖職達はみんな知っているんじゃないのか?

 今宵も被害者とそのご家族の上に主のご加護が豊かにありますように。