いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

荒らしが好きな御仁へ

2008-05-27 | Weblog
 「とりあえず、聖公会は、ことごとく消滅してくれればよい。一般人の取ってはそれで十分。ビラまき無神経内紛大好きテロリスト信徒も一緒に消えてしまえ。」と、アメリカの日系人教会の牧師のブログにコメントを書き込んだのは、『[内紛]迷惑団体 聖公会 - 迷惑信徒 聖公会[出て行け] 』というブログを書いている人だろうと思うが、まったく見当違いも甚だしいことを書いている。「ビラまき無神経内紛大好きテロリスト」と書いているが、まっとうな読解力もないのだろう。おまけに俺のことを勝手に聖公会の信徒だと思いこんでいる。俺は日本聖公会の信徒ではない。キリスト教徒であるには相違ないが、日本聖公会の教会には通っていない。「なんとも、惨めな想像力と同情するとともに、原田元牧師に対する聖公会内部の『考える会(糾す会)』が一般市民を巻き込んだ迷惑な活動に対し批判をするのは日本聖公会京都教区以外に無いと思い込み、上記で引用した部分以下にも延々日本聖公会京都教区に対すると見られる批判分が記されている。」と前回の記述を批判している。

 ご丁寧に<myocor_319>と俺のブログの筆名まで引用して批判してくれているが、思いこみが激しいからか、勝手に俺を日本聖公会の信徒にしてしまっている。そして、あのブログの設置者が言いたいのは、「日本聖公会を解散し、『糾す会』を解体したいということなのか。日本聖公会を解散したら、被害者とその家族は心が安まると思っているのか。被害者とそのご家族が要求していることは、M主教とK司祭が教育関係の仕事から身を引くことと、H司祭の復職を認めた常置委員会の詳細な記録を提示することなのだが、あの『[内紛]迷惑団体 聖公会 - 迷惑信徒 聖公会[出て行け] 』というブログの設置者は、それが理解できていないようだ。それなのに、俺のことを「視野狭窄」と言っているところを見ると、あのブログを書いているのは、H司祭もしくはK司祭のような気がするがどうなのだろう。おまけに、問題は日本聖公会の内部問題だということを言っておきながら、「告発しろ」と書いているところがあるが、「告発」の意味が判っているのか?それとも「告発」されることを怖れているのか?

 ビラ撒きを「無差別テロ」だと言うような御仁だから、反論するのもアホらしいが、あえて一つ聞きたいことがある。あなたは日本聖公会の信徒ではないのか?もし日本聖公会の信徒なら、日本聖公会が解散したら困るだろう。「迷惑信徒は出行け」と言いたいようだが、日本聖公会が解散したら、信徒も当然教会籍がなくなる。というか、最早、信徒でなくなってしまう。どうもあのブログの設置者は、ビラ配りを止めさせることが目的のようだ。それだけではない。日本聖公会に対する憤りを持ち続けてきた人物だろう。「聖公会は、しようもないエロ牧師がいただけではなく、しようもない想像力が欠如した内紛好きでキリスト教徒以外(いや聖公会以外の人間)の迷惑も顧みない内向き志向の信徒が次々と自らの軽薄さを自白することを恥じない、どうしようもないところのようだ。」と書いていることからもそれが理解できるし、かなりネットに慣れているというか、ネット中毒になっている人物だろう。「自己中」という訳の分からないネット用語までブログで使っている。

「聖公会が京都で、教会と信徒の内紛で地域社会に迷惑行為を行っています。
 >>自己中心・粘着信者集団  エロ聖職者」
 とタイトルの下に書いているが、ビラ撒きが迷惑行為なら、あなたのブログも迷惑行為だ。俺を勝手に日本聖公会の信徒だと思いこんで批判しているだろう。女児に対する性的虐待行為・準強制わいせつ行為は、日本聖公会の内規=法憲法規に抵触するだけでなく、日本という国家の法律に明らかに違反した行為なのだ。日本聖公会の信徒でなくても、十分に問題に出きることなのだ。いや、すべきことなのだ。確かに、日本聖公会には「他教派の人は黙っていろ」という意見があるようだが、女児に対する性的虐待行為が、極めて再犯性の高い犯罪であるが故に、社会全体がいま、この犯罪をどう考えるかということが世界中で議論されているところで、日本はそうした意味ではまだまだ国民の意識が低くて困っている。911が無差別テロで、「糾す会」のビラ撒きも無差別テロだというのであれば、その共通性をはっきりさせろよ。テレビや新聞やネットが、小学校の教頭のわいせつ行為を日本中に知らせたら、それは小学生に対する無差別テロなのか?

 最後に、一つだけはっきりさせておく。<myocor_319>というハンドル・ネームから、俺を鞍馬天狗と同一人物だと思っているのがいるようだが、<myocor_319>は鞍馬天狗から、彼奴がいまは使っていないアドレスを借りただけだ。適当に勘ぐってメールを出しても、鞍馬天狗しか読めない。そして、鞍馬天狗は神学徒だが、俺は神学に興味はあるが専門は別だ。そして、鞍馬天狗も日本聖公会の聖職ではないし、信徒でもない。

暴言

2008-05-26 | Weblog
 <祈りの有無>というブログに、「ビラ撒きをしているのはテロリスト」ということを言った人物がいるようなことが書かれているが、本当だろうか。日本聖公会京都教区なら言いかねないだろう。自分たちの人権無視を棚に上げておいて、あのビラを撒いた方々をテロリストと言ったとすれば、それを言った人々はテロリズムとは何かということが判っていないのだろう。

 しかし、日本聖公会京都教区というのは、何でこんなにおかしなことを言うのが大手を振るって歩いているのか。ある意味では仕方がないのかもしれない。日本聖公会では、聖職按手によって、それを受けた人物は「神に近い」人になるそうだからな。ただし、聖書にどこにそんなことが書かれているのか、日本聖公会で読まれている聖書には、俺たちが読んでいる聖書とは違うことが書かれているようだ。それとも、「聖職」というのを、あの中世的アンシャン・レジーム下の教会の僧と同じように考えているのだろうか。

 それで日本聖公会京都教区は、いつまで経ってもH司祭を復職させた経緯を記した詳しい報告書を被害者に提示していないのだろうな。裁判記録を読みもしないで、「S幼稚園時代は何も悪いことをしていない」と言える常置委員もいるようだから、日本聖公会は明らかに近代民主主義的法治国家の秩序を無視しているとしか言いようがない。そうした意識の中から、自分たちに都合の悪いことを発言されると、発言した人々を「テロリスト」とその意味も判らずに言うのだろう。

 それにしても、この暴言は本当なのだろうか。<祈りの有無>というブログの設置者の方は、「テロリスト」という言葉を、誰が、いつ、どこで使ったのかを次回にでも明らかにして欲しい。俺の郵便受けにも、仕事場の郵便受けにも、毎日たくさんの宣伝用ビラが入れられている。宅配ピザのが一番多いかもしれない。日本聖公会京都教区では、あれを撒いている人々も「テロリスト」なのだろう。そして、誰かを勝手に「テロリスト」と非難しても、特権階級の「聖職」者にはそれが許されていると考えているのかもしれない。まぁ、法秩序に違反して、女児に対する性的虐待を長期間し続けてきたH司祭を擁護しているのだから、彼らにとって、ビラを撒いた人々を「テロリスト」と言うのは当然のことかもしれない。情けない話だ。

法憲法規無視

2008-05-20 | Weblog
 今夜は、鞍馬天狗の「隠れ家」で、パウロ桂小五郎さんTERAさんと4人で話をしてきた。その中で、「糾す会」の代表とS幼稚園の元監事さん(当時は現職監事)とM司祭の話し合いの録音テープを聞いてきた。全部ではない。天狗がテープにダビングしたものの中から重要だと思われる部分を抽出して、音声ファイルに再変換したもののいくつかを聞いてきた。

 その中でM司祭は「陪餐停止は追放だ」と暴言を吐いていた。この人は、まったく神学をしていない人なのか、それとも徹底的にH司祭を擁護しようとしているのか、その論理の稚拙さにほとほと呆れ返ってしまった。教会法の中に、追放という考え方があるのか?「法憲法規が想定しないことが起こっているから、法憲法規の規定を考えて欲しいと管区の法規委員会にお願いしている」と言っていたが、今回の事件のどこが法憲法規の想定外のことなのか。そのことに関してはまったく何も語っていない。そもそも、「終身停職というのはない」と断言しているような人だから、法憲法規を熟読したことがないのだろう。いや、一度サラッと読んだだけでも、終身停職についての規定があり、確かに「5年後に」復職願いを出せることになっているが、それが必ずしも復職に繋がることではないことが判るはずだ。あの規定は、あくまでも、復職願いを出せるということだけであって、復職願いを出したら必ず復職できるという規定ではない。

 「陪餐停止は追放だ」とM司祭はいっているが、一旦追放した者を復帰させることもできる。何しろ、陪餐停止ということは、聖職に対してそれだけを科すことが出来るという規定は、法憲法規にはまったくない処罰だから、主教の一存で陪餐停止にした後、主教の一存で解除することが出来る。そして、「終身停職は主教の横暴を防ぐためのもの」であるというようなことを言っていた。(この部分、一部にノイズがかかっていて聞き取りにくい。はじめからノイズがあったのか、天狗がノイズをかけたのかは判らない。問い質しても、「僕にはそんな技術はない」と惚けるだろう)
 もし、法憲法規の終身停職という規定がM司祭のいうようなことであれば、なぜ司祭や執事に対しても終身停職という懲戒をすることが出来るのか。こんな法憲法規理屈が通るわけがないだろう。法憲法規には、はっきりと聖職=主教・司祭・執事に対する懲戒として、法憲法規が定められている。管区に法規委員会というのがあるのであれば、こうした誤った知識を持っている司祭を指導する義務があるのではないのか。
 それにしても「法憲法規には終身停職という規定はない」と断言している部分には、前からそうした発言があったと聞かされてはいたが、天狗以外の3人か腰を抜かした。

 新撰組の誰だったかが前に書いていたような気がするが、日本聖公会は法憲法規を教会法として厳密に考えていないのだろうか。と同時に、法憲法規を超えて主教の判断が優先するということであれば、2000年の教会の歴史を無視していることにならないだろうか。それとも、日本聖公会は「使徒継承」ということを、主教が按手を受けることだけで使徒と同じになることが出来ると考えているのだろうか。会談の一部を聞いただけだが、M司祭という人はずいぶん威張っている人だな。「糾す会」の代表や監事さんは年長者だろう。自分は何もかもを判っているんだと言わんばかりの姿勢が、録音されたものから伝わってきたのは、俺だけではない。「この人は本当に天狗さんや風来坊さんと同じ歳の方ですか?」とTERAさんが何回も確かめたほどだ。少なくとも、日本聖公会京都教区内の司祭が、教会員である姉妹に対して、足掛け9年間もの期間にわたって、性的虐待=準強制わいせつをしていたことを深く痛んでいるとは思えない。背後に、H司祭を擁護しようとしていることが見えるようだ。終身停職ではなく、陪餐停止という「懲戒」にしたことの、教会的神学的根拠がまったく示されていない。むしろ、教会法を無視し、聖書の御言葉さえも無視しようとしているとしか思えない。

 「陪餐停止は追放である」という見解は、洗礼を受けた人を教会から追放することが出来るという考え方から出てきたものなのだろうか。ローマ・カトリック教会においても、他のプロテスタント教会においても、陪餐停止が追放を意味しているとは考えられていないように思えるのだが、日本聖公会ではこうしたことが各教区の中で共通理解として存在しているのだろうか。少なくとも、陪餐停止は教育刑であって、排除するためのものではないというのが、多くの教派が継承してきたことではないかと思えるのだが、日本聖公会だけはそれとは異なった理解を保っているのだろうか。だとしたら、日本聖公会の教会や聖職は、死刑廃止論を主張できないはずなのだが‥‥‥

何故京都教区は議事録を提示しないのか

2008-05-02 | Weblog
 裁判で勝訴した被害者とそのご家族が提示している和解の条件の一つは、2001年4月7日から8日にかけて開かれた常置委員会で、H司祭の退職願を受理するということを決定しているにもかかわらず、同年の4月17日に退職撤回を認めると常置委員会が判断したと言われていることを詳細に説明して欲しいと言うことだと聞いている。ここで「言われている」というのは、この間のことがまったく秘匿されてしまっていて、なぜ退職撤回を決定したのか、M主教が「退職させます」と明言したにもかかわらず、常置委員会の決定に沿って、何故退職撤回を受け容れてしまったのか。

 これに関しては当該常置委員会の議事録をコピーして、被害者とそのご家族にお渡しすれば済むことではないのか。京都教区は何故こんな簡単なことを拒み続けてきたのか。常置委員会は密室で行われるものなのだろうか。H司祭による性的虐待行為は、明らかに法律に違反したものであり、「親告罪」であるが故に、被害者が申し立てなければ司直の手が入ることはない。しかし、教会では、聖書に記されていることからしても、この事件は明らかに重大な罪であることは間違いない。

 K主教は昨年の11月23日に行われた日本聖公会京都教区の教区会で「原田文雄元牧師については、2年前に一身上の都合を理由とする退職願を受理し、退職が決定しました。このような場合、『終身停職』の懲戒(法規第201条第4項)が相当と一般的には考えられると思いますが、『終身停職』でも5年後には復職願いを提出することが可能とされており(第217条)、一方、『一身上』という事由は止むことがありませんので、実質的な終身停職を貫くためにはこの選択の方が適当と当時判断しました。また、懲戒を行うには審判廷の審判によらなければなりません(第197条)が、日本聖公会の審判廷への懲戒申立には「3年の時効」(第210条)があって、現行法規では審判廷によって懲戒することは非常に困難であると思われます。」と書かれた文書を配布したが、日本聖公会では教区主教は、法憲法規を勝手にねじ曲げることが許されているのだろうか。復職願いが出されても、復職を認めなければいいだけのことではないのか。

 また、同じ文書の中で「原田文雄元牧師が、真実に悔い改めて、被害者及び関係者に心からの謝罪をし、被害者及び関係者が癒されることができますように、今後も教区を上げて働きかけるつもりです。」と最後に記しておきながら、いままでの間に、K主教はH司祭と何回会ったのだろうか。そして、何故議事録を被害のご家族に提示しないのか。加害者への気持ちが、公正証書のある代理人のホームページにこう記されている。「 加害者の謝罪は迷惑なので、お断りしている。会いたくもない。牧師の辞任を拒否して裁判にしたのだから、加害者は責任をすべて負わねばならない。裁判にして徹底的に争ったのだから、和解や赦しの余地はない。(マタイ5:26)」
 残るは、日本聖公会京都教区の主教と常置委員会がしなければならないことをするだけではないだろうか。被害者は「和解や赦しの余地はない」と明言しているのだから、H司祭を裁かなければならないのは、日本聖公会京都教区自身であろう。そして、ここまで問題を隠蔽したり、虚言を労した文書を全国の教会と関係団体に送付した責任を教区主教であるK主教や常置委員会は負わなければならないだろう。