いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

荒らしが好きな御仁へ 再び

2008-06-06 | Weblog
 もういい加減で止めた方がいいよ。

 あなたの書いた今日までのものはすべて、俺のHDDにホールドした。あんたがあのブログを閉鎖しても、こっちで確実にパソコンのディスプレイに復元できる。それにしても、思い込みの激しい御仁だ。他人に向かって「思い込みが云々」と言っているが、当のご本人が勝手に思い込んでしまっていることを事実としてあの「[内紛]迷惑団体 聖公会 - 迷惑信徒 聖公会[出て行け]」というブログに書いている。

 少し前に「京都の影」というブログについて書いているが、まるで頓珍漢な反応しかしていない。あの御仁はどこかで「糾す会」のビラを受け取ったのだろうか。

 「一般市民の私=エロ司祭という妄想図式が出来上がっているようです」と書いているが、ブログに書いた文章と裁判記録に残っているH司祭が書いた文章を比較すると、かなり似た表現がいくつも浮かび上がってくるという連絡が、知人からあった。聖書神学の基本的な作業の一つだそうだ。「様式史的研究」とも言うことがあるらしいが、パソコンが普及してからは、新しい形態に変わっているとも言っていた。特に日本語の場合、仮名漢字変換システムを入れ替えていない限り、ユーザーファイル辞書に変換定型が残るから、日本語の比較は極めて簡単に出来る。一番の基本は、漢字で表記するか、ひらがなで表記するかの違いだ。これは、俺も仕事で使っている。

 あのブログの設置者がH司祭と断定は出来ないが、そうした分析からかなりよく似た文章を書く人だということは判っている。特に、被害女性に関する考え方の中には、地方裁判所の「甲第4号証の1」=H司祭の謝罪書簡と比べると、共通した意識表現が用いられているそうだ。ここの表現に用いられている文字(漢字)列からそう判断できるらしい。これは、過去の小説家などが亡くなった後で出てきた原稿などを、本人のものであるかどうかを鑑定する方法でもあるらしい。

 「京都の影」というブログに「本当にそう思っていらっしゃるのだとしたら、H司祭なのかもしれません」と書かれていることに、あれだけ書いたら、かえって自分がH司祭だと思われても仕方がないでしょう。絵文字を使ったり、文字を拡大したり、そうとうネットへの書き込みに慣れているようだが、「聖公会は消えろ、糾す会も消えろ」とよくぞここまで支離滅裂なことを書けるものだ。俺も「京都の影」というブログの設置者の素性についてはまったく判らないが、あのH司祭による性的虐待事件に関して書き込んでいるブロガーを片っ端から非難したいようだが、H司祭以外にここまでそれに執着する人物がいるだろうか。

 日本聖公会が消えて、「糾す会」も消えたら、誰もH司祭のことを問題にする人々がいなくなると思っているのだろうか。少なくとも6人の被害者の中にある苦しみは消えないということを、あの御仁は何故気が付かないのか。自分のことを一般市民というのであれば、H司祭はどのように裁かれるべきかをしっかりと論じたらいいのに、H司祭に関しては「エロ司祭」と言っているだけで、ほとんど何も言っていないように思える。

 今日は仕事で疲れたからここまでにするが、あのブログこそ消えて欲しい。あれを被害者やその家族が読んだら、どんな思いをするだろうか。少なくとも、そうしたことが起きないように祈るばかりだ。