いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

無法地帯

2009-08-16 | Weblog


 鞍馬天狗から電話があった。何でも京都周辺の牧師達と電話で話をするらしい。回線さえ繋がっていれば、複数の人間がヘッドフォンで受信することや、机の上のマイクから送信することもできる。鞍馬天狗が同じ装置を作って、京都へ送ったそうだ。ヘッドフォン持参で来いと電話があった。何でも、インピーダンス変換とやらをしないといけないそうで、ヘッドフォンの仕様書をスキャンさせて送らされた。

 日本聖公会の京都教区は惨憺たる事態になっているようだ。教区の幹部が裁判の意味をまったく理解していない。みんなの意見を、審判員が聞く場だとでも思っているかのようだ。まるで江戸時代の「お白州」のように思っているのかもしれない。それも大岡越前以前の「お白州」のようにだ。あの大岡越前が有名なのは、講談などの「大岡裁き」にあるわけではない。大岡越前守忠相の業績は、奉行が恣意的な判断をするのではなく、過去の判例に照らして断を下すという慣習を作ったことだ。しかし、なにしろ日本聖公会では初めての審判廷だから、何をどうやって考えていいのか判らないのだろう。

 いまだに「具体的な事実」を京都教区審判廷は申立人に要求しているようだが、それをする必要はないというのが管区小審判廷の審判ではなかったのか。言葉を換えてみたところで、行っている内容は、最初の京都教区審判廷と同じことだろう。転送されてきたメールに添付されていた文書を読んだら、日本聖公会京都教区審判廷は、「証人」の意味がまったく判っていないようだ。申立人が被申立人の証人を申請することはあり得ないということが判っていないのかもしれない。

 こうした人々が、教区を管理運営する権限を有しているのはどうしてだろう。日本聖公会にも「法憲法規」という立派な規則が存在しているのだから、それに照らし合わせて考えるべきであろう。あの英国聖公会でさえ、女王を頂点としていながらも、立憲君主制という国家体制の中に存在している教会なのだ。それとも、日本聖公会京都教区は、日本聖公会法憲法規だけでなく、日本の法体系をまったく越えて存在しているのだろうか。不思議なことだ。沖田総司氏が「完璧なカルト」だと書いているが、それをも越えて、アナーキーな集団になっているようにも見える。