いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

理解不能

2007-07-31 | Weblog
1983年~88年 「性的虐待」
2001年 PTSDにより自殺未遂・入院
       原田文雄司祭は土下座して謝罪
       数日後、常置委員会で退職決定
      その翌日、原田文雄司祭「被害手記」を事実無根と主張
      10日後、常置委員会が退職撤回に同意、主教は退職撤回を決定
      3ヶ月後、被害者が奈良地方裁判所へ損害賠償慰謝料請求提訴
2003年 高地敬司祭、主教按手を受ける(京都教区主教)
2004年 奈良地裁で判決  原告(被害者)敗訴
      被害者は大阪高裁に控訴
2005年 大阪高裁で判決  原告(被害者)勝訴
        仮執行命令付き「損害賠償・慰謝料の支払い命令」
      加害者は最高裁に上告(4月15日)
      最高裁で上告棄却・不受理(7月19日)
 8月27日京都教区総務局長名で「大阪高裁と最高裁に抗議する」旨の声明文
 9月 3日新聞報道をみて別の女性が性的虐待受けたと教区に訴え
 9月 5日原田司祭、金沢聖ヨハネ教会を自主退職、だが事実無根を主張
      その後、さらに3人の女性が原田司祭から性的いたずらを受けたと訴え
      教区がやっと対応の誤りに気づき原告被害者と他の4女性に謝罪
12月 9日教区が謝罪記者会見 (さらに4女性の被害者があったことを・・・)

 事件があったのは1980年代です。それが公になったのは、2001年です。そして、奈良地裁に加害者が民事裁判を提訴したのは、同じ2001年ですが、2003年には京都教区現主教・高地敬主教は主教按手を受けています。高地主教は前教区主教からこの裁判に関することは引き継いでいないとおっしゃっているそうですね。
 理解不能です。何を指して引き継いでいないとおっしゃるのでしょうか。
 この裁判に関して、教区は原田文雄司祭から何も報告を受けていなかったということになってしまいます。つまり、新任の主教は自分の教区の司祭が民事訴訟を提訴されているということを知らなかったということになってしまいます。聖公会の主教制という教会制度はこの程度のものなのでしょうか。

 だから、「謝罪の記者会見」を奈良県庁で開いたのが2005年の暮れ近くになってからなのでしょうか。しかし、この間のことを日本聖公会京都教区の信者さんはどの程度知らされていたのでしょうか。あるいは、高地主教は被害者との和解に関して、どれだけのことをされていらっしゃるのでしょうか。

 和解ということは、何事もなかったかのように隠蔽することではありません。聖書においてもそうではないですか?私は聖公会の会員ではありません。しかし、ディアスポラには発言権がないのでしょうか。もしそうだとしたら、マスコミは一切の活動が出来なくなりますよね。政府・与党の支持者以外は、発言するなということですか?だとしたら、日本は民主主義国家であることを止めなければなりません。今の聖公会に、今までの聖公会に、自浄能力がありますか?あるとしたら、既に問題は解決しているはずです。最高裁の上告棄却を不当だと主張している加害者が、被害者に謝罪するまで努力しなければならないのではないですか?それが司牧者としての勤めではないのですか?


削除しました

2007-07-30 | Weblog


 友人から削除依頼の電話があったので、
 午後7時頃の書き込みは削除しました。
 あしからずご了承下さい。
 風来坊


なぜK主教は主教で居続けられるのか

2007-07-28 | Weblog
 最高裁判所の上告棄却・不受理が決定した後、「冤罪だ!」と大声で叫んでいた主教は、他にも被害者がいたことが明らかになって、「謝罪の記者会見」を開いたにもかかわらず、原田文雄司祭の裁判に関する裁判記録を閲覧することもなく、被害者やそのご家族に誠実な対応をとることもしてこなかった。これは紛れもない事実だ。にもかかわらず、日本聖公会はこの一連の過ちについて、沈黙し続けている。沈黙は看過に等しいということをまったく理解できないでいるのかもしれない。
 実に愚かなことだ。

 女子児童に対する準強制わいせつ事件が、どれくらい恐ろしい事件であるかということを日本聖公会は知らないのだろうか。知らないはずはない。新聞やテレビでも今まで散々論じられてきたことだ。そして、何よりも大きな問題は、事件の被害者は少なくとも5人いるということだ。この5人もいるということが何を意味しているのか、常識のある人々ならば誰でもすぐに気が付くだろう。「私は被害者です」ということを申し出た人だけで5人だということだ。言い換えれば、本当の被害者の数は、原田文雄司祭と神様しか知らない。

 こうした事件とその後の経緯をすべて知っているはずのK主教が、未だに問題解決の鍵を握っているということ自体、実におかしなことだ。社会保険庁の長官が居座り続けているよりももっと破廉恥なことであるとしかいいようがない。多くの女性の魂が深く傷つけられたという事実を、K主教はどうして直視しようとしないのだろう。あるいは、直視しないK主教を主教会はなぜ看過しているのだろう。

 本来であれば、主教会の責任において審判廷を開き、明確で福音に適った審判をすべきであるにもかかわらず、日本聖公会は沈黙を続けている。主教も司祭も執事もだ。この沈黙は、日本聖公会というカルト集団を護るためではあっても、被害者とその家族を守るものでないことは誰にでも判ることだ。

 何故、K主教は教区主教で居続けられるのか。
 審判廷を開かない主教会は何を考えているのだろう。審判廷という近代的法制度による裁判を理解できているのだろうか。そもそも「近代法治国家はイギリスのマグナ・カルタに始まる」と言っているのは、アングリカンの人々ではないのか。私は不思議でならない。「アングリカン・コミュニオンの一員」ということを声高らかに宣言し、ランベス会議に主教たちが出席しているにもかかわらず、国内における行動や思考は、まるで中世封建制度そのものではないのか。「アンシャン・レジーム」という言葉と共に教科書に載っている絵には、王と貴族と僧が農民を踏みつけている姿が描かれているが、今の日本聖公会は正にあの姿ではないのか。裁判を一度も傍聴に行かず、裁判記録を読むこともなく、被害者が納得する形で謝罪することもない主教、そして準強制わいせつを問われ、それが認定された司祭が被害者に謝罪していない現実を看過している教区。
  世界の聖公会は、これをどのように判断するだろう。

日本聖公会は権威主義の塊

2007-07-22 | Weblog
 朝日新聞のサイトにこんな記事が書かれていました。

   ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

コートジボワールPKOで性的虐待が横行
2007年07月21日18時10分

 コートジボワールの国連平和維持活動部隊の一部で深刻な性的搾取や性的虐待が横行していたとして、国連は20日、北部ブアケに展開中のモロッコ兵ら約800人の部隊を外出禁止にしたと発表した。内部調査の結果、部隊の兵士の多くが幼い少女と性的関係を持ったり、虐待したりしていたことが分かったという。国連は今後、本格的な調査を実施し、実態解明に乗り出す方針。

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 こうした対応が普通だと思いますよ。
 何ら独自の調査らしい調査もせずに、加害者の「事実無根」という言葉だけを信じて、最高裁の上告棄却が決定され、高裁判決が確定したら、今度は「冤罪だ!」とか「最高裁に抗議する!」とかいう言葉を発しておいて、被害者が他に4人も出てきたら、京都教区の教務所ではなく、奈良県庁で「謝罪の記者会見」。謝る相手が誰であるかということをはっきりさせずに、H司祭の「陪餐停止」、主教と常置委員の減給処分を発表されていましたが、その後、被害者とH司祭及び京都教区との和解は達成されていないままです。
 こうしたことからも、謝罪の中身は極めて薄っぺらなものでしかないということが誰の目にも明らかであるにもかかわらず、ただひたすら自分たちの正当性だけを主張し続けている京都教区は、正に権威主義の塊であるとしか言いようがありません。

 そして、こうした事態を看過している日本聖公会の主教会も、その権威主義を自らも露呈しているのではないでしょうか。5人の女子児童に対する準強制わいせつがあったということが確実であり、その責任はすべて加害者の側にあるということが裁判所で認定されているにもかかわらず、京都教区は被害者とその家族に対して誠実な対応をしてきませんでした。K主教は被害者宅を訪問されるときに、クラジー・シャツではなく私服を着て行かれたそうですね。何をお考えになっていらっしゃったのでしょうか。あの紫色のシャツに権威主義を感じていらっしゃったのでしょうか。それとも、主教が行ったということが判らないようにするためだったのでしょうか。私が認識している範囲では、K主教が被害者宅を訪問したのは、謝罪のためというよりは、「事を荒立てない」ようにして欲しいということを伝えるためだったように思えます。何回も何回も、誠実な謝罪のために行っていたとすれば、被害者とその家族が教会を離れるということは起こり得なかったのではないでしょうか。

 聞くところによると「K主教や京都教区の司祭は4次被害者だ」という見解があるように耳にしていますが、加害者を被害者ということほど恐ろしいことはありません。交通事故ではないのです。どちらにどれだけ責任があるかということではないのです。ここまで行くと、権威主義というような生やさしいものではなく、自己絶対化という、信仰とはまったく正反対の状態のようです。あのK主教の誤った聖書解釈がその典型ではないでしょうか。準強制わいせつの損害賠償・慰謝料裁判と交通事故の民事訴訟を同じように考えているところに、重大な判断ミスがあるということさえ、権威主義が覆い隠しているとしか思えません。明治期に入ってきたアングリカン・チャーチがそうした権威主義を持っていたとは思えません。あるいは、神学教育に大きな問題があったとも思えません。こうした議論を理解できる主教さんや司祭さんはいらっしゃったようです。
 女性司祭按手という発想の蔭にフェミニズムが潜んでいることを見抜けなかった方々ですから、何とも仕方がないと思っています。そして、フェミニズムが聖書の信仰とはまったく油と水だということさえ見抜けなかった主教や司祭に、準強制わいせつという行為の犯罪性を認識しろという方が無理なのかもしれません。そしてあの時、女性の人権ということを口にしていた主教や司祭や執事の意図がどこにあったのかは、ある意味では火を見るより明らかなことだと友人がいっていました。彼らは日本の社会が培ってきた女性の人権に対する敏感さを、近代的都会的発想で切り捨ててしまったのです。それは、女性司祭按手ということが目的ではなく、他に目的があったからだとしか思えません。

 反対するものは、どこまで痛めつけても構わないと考えている聖職たちがいるようです。私もそろそろ出掛けます。田舎の小さな教会の現実を認識していない聖職がいる日本聖公会のために祈ってきます。この事件が、京都以外のところで広まったら、そうした教会の幼稚園の生徒は激減するでしょうね。園長先生である司祭さんや教会委員さん方が血みどろ、汗みどろになって幼児教育に献身して来た歴史を、愚かな都会の主教や司祭が踏み潰していくのですね。
 京都教区のあまりにも非常識な対応にあきれ果てていますが、地方の小さな教会のために祈り続けていましょう。日本聖公会の教会員数など、日本のキリスト教徒の数など、国民全体の数からすれば微々たるものです。しかし、こうしたことを書いても、井の中の蛙の群の総大将たちは、まったく理解できないでしょうね。下々の生活を理解できない人々が、平気で弱い人々を虐げているのと同じかもしれません。

上告棄却・不受理から2年

2007-07-20 | Weblog
 H司祭による女子児童に対する準強制わいせつの慰謝料請求裁判で、大阪高等裁判所で判決を不服として、H司祭が最高裁に上告したのですが、その上告が棄却され、不受理とされてから丸2年が経ちました。この時に、K主教は「冤罪」という言葉を使い、「最高裁に抗議する」とおっしゃったそうですね。地方裁判所の裁判の時も、高等裁判所の裁判の時も、一度も傍聴に行っていらっしゃらないそうですが、本当でしょうか。
 事務所の資料で見たら、H司祭は小生よりも一つ年上、K主教主教は5つも下なのには驚きました。いい加減いい年をして、自らが犯した過ちを認めないというのもみっともない話ではありませんか?高裁の裁判記録報告を読むと、法廷で神学議論を裁判長にしたそうですが、何を考えていたのでしょう。訴えに対する誠実さが皆無ではないかと思います。裁判は、準強制わいせつを長年にわたって行っていたことが事実であるかどうかを裁いているというにの、神学議論をしても意味がありません。聖公会の司祭によくある権威主義的なものがそういうことをさせたのでしょうか。

 小生にはそうは思えません。裁判記録に眼を通していないので、あの報告書から推測するしかないのですが、自らの犯した過ちを何とか覆い隠そうとしてのことだったのではないでしょうか。K主教はそうした現実を、傍聴に行かないということによって無視しています。裁判所は、法廷で証言されたことで判断します。控訴審では、被害者は事件の内容についてかなり細かく証言したようですね。そして、その証言に虚偽はないと判断しました。裁判官は、裁判のプロです。しかも高裁判事は裁判官の中でもプロ中のプロです。証言の真偽を見抜くことに関しては高い能力を持っています。判決は、請求されている慰謝料の満額、裁判費用は被告が全額支払うというものでしたが、準強制わいせつが原告が証言しているとおりに行われたと判断したからこの判決なのだろうと思います。しかも、3人の裁判官の全員一致による判決です。
 誰が聞いても、準強制わいせつが行われたのは事実であると考えられるのに、H司祭が上告することを引き留めてもいません。

 一般的な考え方からすれば、まったく信じられないことです。
 そして、被害者が他にもいるということが判って、奈良県庁で謝罪の記者会見が行われました。あの記事については、いくつかの資料で確認していますが、小生はあの頃にこの事件を最初に耳にしました。被害者のPTSDが明らかになった直後、「一旦退職させたのにすぐ復職を認めた」にもかかわらず、「神学校教授、常置委員長の要職」をはずことなく「裁判に出廷させ」、「主教候補に」もなっています。(「 」内は「糾す会」のブログへの書き込みから引用)
 理由は加害者の「事実無根」を信じたからだとしていますが、信じるに足りるだけの調査や聴聞が行われたのでしょうか。K主教の資質が問われて当然だろうと思います。先日、「FH司祭問題駁す」というブログに、「その時主教が仰った言葉は今も忘れることが出来ません。それはマタイ伝21節から26節までを引用されて説明されました。加害者と被害者との間に和解が無いのに教会で祈りを捧げてはならないということでした。」という書き込みがありましたが(マタイ福音書5章21節~25節と思われます)、あの聖書の個所をこの事件にあてはめて、「加害者と被害者との間に和解が無いのに教会で祈りを捧げてはならない」という発言は、どう考えてもおかしいのではないでしょうか。あの個所は、刑事事件の加害者と被害者を問題にしているのでしょうか。「教会で祈りを捧げてはならない」ということを命じるために、「和解」という言葉がでてくるあの個所を引用したのではないでしょうか。恐ろしいことです。本当に恐ろしいことです。長いキリスト教の中で、こうした権威が罷り通ると教会はいつも堕落してきました。
 主教がこれではどうしようもありません。主教は教会の信仰の守護者ではないのですか?それとも、日本聖公会では、主教に按手された瞬間に超越的出来事が起こって、神学的思考が正確に出来る能力を神から与えられるとお考えなのでしょうか。恐ろしいことです。もしそうだとしたら、日本聖公会はアングリカン・コミュニオンから抜けるべきです。アングリカン・チャーチが中世ローマ・カトリック教会から離脱するためにどれだけの血と汗と涙が流されたのかをご存知ないとしか思えません。

 最高裁の上告棄却・不受理から2年。日本聖公会はこの事件に対して、社会的責任をまったく感じていらっしゃいません。現職司祭による準強制わいせつ事件の被害者が教会を離れたということに関しても、主教会はまったく痛みを感じていないようです。H司祭はどこで何をしていらっしゃるのですか?まさかどこかの教会で聖餐式をしていませんよね。京都教区にも、司祭が常駐していない教会いくつもあるようですが、まさかそこで聖餐式を司式していないですよね。陪餐停止になっている司祭がサクラメントを執行できるということはあり得ませんよね。

主教は何も判ってないのでは

2007-07-16 | Weblog

 「FH司祭問題を駁す」というブログに、「悩める者」さんからの書き込みがあったので眼を通していて、後頭部をハンマーで殴られたような感じがしました。それは「主教は当該教会に来て事情を説明した時のことです。他に四名の被害者が居たことを公表された時のことです。‥‥‥(中略)‥‥‥加害者と被害者との間に和解が無いのに教会で祈りを捧げてはならないということでした。従ってH氏は和解無くして教会に出るのは困難であるとの事でした。」と書かれていたからです。

 これは、M主教のことなのか、K主教のことか記されていませんが、「被害者が訴訟を始めた時から何故主教は和解の世話をしないで常置委員長の地位にも園長の地位も牧師の地位もそのままにしていたのか解りませんでした。」とありますから、前記の発言をしたのはK主教だろうと思います。恐ろしいことです。一つのものを獲り合っている兄妹喧嘩の仲裁じゃないのです。準強制わいせつという行為の加害者と被害者の間のことなのです。また、和解が成立するために祈ることが何故間違っているのか、小生にはまったく判りません。明らかに事件を隠蔽しようとしていたのではないでしょうか。そして、「悩める者」さんは「それ以降、教会から離れよう思いました。それは自責の念からでもありますが、私の感じ方と主教や信徒との感じ方とが余りにも距離が大きくかけ離れていたからです。被害者の心の傷家族の方々の心の傷のことを考えるととても教会に出ることが出来る状態ではありませんでした。」と告白されています。
 「悩める者」さんが「マタイ伝21節から26節までを引用されて説明されました」と記されているのは、5章21節から26節のことであろうと思われますが、これを引用して、「加害者と被害者との間に和解が無いのに教会で祈りを捧げてはならない」とK主教が発言したとすれば、聖書の誤読であるとしか言いようがありません。あの裁判は確かに民事裁判でしたが、内容は刑法に違反する行為の慰謝料請求裁判です。マタイ福音書の当該個所は、どう読んでもそうした状況下でのメッセージではないとしか考えられません。

 傷害罪の加害者と被害者がいて、二人の間に和解がなければ被害者は陪餐出来ないのですか?同時に、K主教を初め、常置委員の司祭達は加害者の「事実無根」地有主張を支持していたのです。つまり、加害者の側に立ってこの事件を考えていたのです。ここに大きな問題があるのです。慰謝料というのは、法律に抵触する行為があったと裁判所が認定するので、支払い命令が判決として出されるのではないでしょうか。あの裁判記録を閲覧された方の報告書を読ませていただくと、明らかに刑法が規定する準強制わいせつ行為があったから、請求額の満額が認められ、裁判費用の全額を加害者が支払うという判決が出されたのではないでしょうか。そして、その判決を不服として上告し、上告棄却がだされ、高裁の判決が確定した後も、「冤罪だ」とか「事実無根だ」と加害者の側に立ち続けたです。「最高裁に抗議する」とまで言ったそうですが、余りにも理不尽すぎませんか。準強制わいせつの加害者と被害者を「反感を持つ者」と「反感を持たれる者」と同列に置いていませんか?

 主教会のメンバーはあの書き込みを読んで、何ともお感じにならないのでしょうか。これでもなお「K主教に任せてありますから」とおっしゃるのでしたら、主教会はあの聖書の御言葉をどう理解されているのでしょうか。K主教と同じように解釈していらっしゃるのでしょうか。恐ろしい話です。聖書を自分たちに都合のいいように解釈して、それを信者さんに押し付けているのですから。聖書をカノン(正典)としたあの「綱要」に主教会自身が抵触していませんか?
 小生の仕事場は休みではありません。「海の日」が何で休みなのかを考えたら、休みに出来ないのは当然のことです。上司が、「K主教に『旧約略解』と『新約略解』をプレゼントして差し上げようか」と言ってましたが、無駄なように思うのは小生だけでしょうか。日本聖公会は神学しないことが主教や司祭の仕事のようです。

被害者の実際の数は?

2007-07-10 | Weblog

 「FH司祭問題を駁す」というブログに「四名の方々と潜在被害者の心の傷 」というタイトルで書き込みがされていましたが、その内容が気になって仕方がないので、また友人に会いに行ってきました。あの書き込みをされた方は「四名の方々と泣き寝入りの方々」とはっきりおっしゃってるからです。
 しかし、こうした事件の多くがそうであるように、真実は闇の中のようです。TERAさんもこれについて書いていらっしゃいますが、この闇の部分の存在を無視しては、問題は解決できないような気もします。確かに、「潜在被害者」の方々のことは、絶対に表面に出てきてはいけないだろうと思っていますが、しかし、そうした方々もいるであろうことは十分に考えられますから、そのことを捨象して考えることもできません。

 「一番の問題は、教会は国家の法秩序とどのような関係にあるべきかということが、実に曖昧だから、こうした準強制わいせつという犯罪行為に関しても、日本聖公会京都教区はきちんとした対応が出来ていないのだろう。京都教区はあの『謝罪の記者会見』で謝罪は済んでいると考えているのかもしれないが、謝罪というのは、被害者が納得してはじめて謝罪になるのであって、被害者とその家族が納得していない謝罪は、謝罪にはならない。」
 私の友人はそう言ってました。
 『39ヶ条』の中で、日本聖公会が認められないのはどの条項なのでしょうか。第37条でしょうか。日本聖公会は、以前の祈祷書を「礼拝式文」とし、新しい祈祷書を制定する前に、旧祈祷書にあった、天皇や皇室のための祈りを削除してしまいました。天皇制否定からだと聞かされていますが、これもおかしいです。日本国憲法では、天皇は「日本国の象徴」であり「日本国民統合の象徴」ですから、象徴天皇制が憲法の土台にあります。象徴とは言え、天皇は生きた人間ですから、その人のために祈ることを拒否するということは、ある意味では日本国憲法を無視していると言わざるを得ません。
 「聖公会は天皇制を廃止して、首座主教を天皇の位置に据えたいんじゃないのか?」と友人は笑いながら言ってました。そもそも、日清戦争以降の日本の戦争は、天皇がいたから起こったものなのか、それとも戦争をすると儲かる人がいたからなのか。ここに大きな問題があると思っています。「現人神」として祀り上げられていた人を責めるよりは、戦争で巨大になった財閥を何故問題にしないのか。天皇や皇室のための祈りを否定しておきながら、太平洋戦争の本当の意味を問い直そうとしないのか。私には判りませんでした。

 そして、最も重要なことは、この天皇や皇室のための祈りを削除することに賛成した人々の多くが、H司祭による準強制わいせつに関して沈黙しているのは何故なのでしょうか。
 「今すぐには無理だが、この問題の奥にもっともっと陰惨なことが隠れていないかを、じっくり調べてみる。何かが隠れているような気がして仕方がない。でなければ、準強制わいせつという、ある意味では問答無用の事件に対して、ここまで京都教区が卑劣であり続けられる理由はないから。」
 友人の今回の上京の目的の一つはそれを調べることにあったのかもしれません。今日も昨日も、彼の携帯の電源が切れていました。「携帯電話は不便だ。周囲の音で、自分がどこにいるか判ってしまうことがある」と彼はよく言っています。しかし、彼が考えていることが何であるかはまったく判りません。しかし、京都教区の対応とそれに対するその後の迷走は、奥に何かがあるとしか思えないほど激しい迷走を繰り返してきたのではないでしょうか。ある時には焦りまくっているとしか考えられないような、常軌を逸した行動をしています。

 来週の木曜日、つまりあと一週間と二日で最高裁判所の上告棄却が言い渡されて丸2年になるのですね。この2年間に何があったのか。少なくとも、被害者とそのご家族は教会を離れたことは間違いありません。この「教会を離れた」ということの重大性を日本聖公会京都教区はどう受け止めているのでしょうか。そして、問題解決に何か進展があったのでしょうか。H司祭はいまだに「事実無根」を主張し続けているそうですね。京都教区は「謝罪」という言葉を口にはしていても、被害者とご家族の心は静まっていないどころか、ますます悲しみと苦しみに包まれているようです。
 そして、日本聖公会京都教区内の諸教会では、何事もなかったかのように御ミサが挙げられ、信者さんがその御ミサのお恵みに与っているそうです。現職司祭、しかも教区常置委員長による準強制わいせつの被害者の痛みをまったく無視しているとしか思えません。私も"ex opere operato"の考え方をしていますが、しかし、そこで祈られる共同祈願の言葉が実に空しく聞こえてしまいます。
 日本聖公会京都教区が、もう一度考え直すことは不可能なのでしょうか。被害者の実際の数は、最低でも5名だということを考えると、痛み以外のものは心の中から消えていきそうです。

判りましたよ

2007-07-08 | Weblog
 前回書いた、日本聖公会のちぐはぐな行動の実態が判りましたよ。
 友人と2時近くまで話をしていて、やっと判りました。上京してきてたんで、さっきまでファミレスで話をしていたんですが、日本聖公会というのは摩訶不思議な集団なんですね。「日本聖公会正義と平和委員会」というのは確かに日本聖公会の内部組織なんですが、実際には、これに関わっていない司祭達はほとんど関心を持っていないそうですね。中には批判的な人たちもいるようで、主教会も自分たちがこれに責任を持っているという意識は薄いとか。一言で言えば、「聖公会もちゃんと社会の問題に目を向けていますよ」というポーズを示すために、この組織を存続させているというのが現実のようです。
 ですから、声明を出すという程度のことしかできていないし、最近はあまり活動していないんじゃないかとのことでしたよ。ローマ・カトリック教会の「正義と平和協議会」とは、まったくその内容が異なっているみたいですね。
 「聖公会は社会の問題には関わりを持たないのですか?」という質問を向けると、「その問題は、○○司祭さんがやっていますから」という答えが返ってくるそうですよ。日本聖公会の中で、誰かがそれに関わっていれば、自分たちもそれに関わっているというように思い込んでしまっているみたいで、ですから「それは京都教区に任せてあります」という発言は、「私たちには責任はありませんし、関心もありません」ということになるんじゃないかってことのようです。

 Afro-Anglicanismのことを知らない司祭がいても不思議じゃないんですね。自分が何かに没頭していれば、あとのことには関心を持たなくてもいいとか、「憲法問題は△△さんがしていますから」ということで、問題を自分なりに考えようとしていないみたいです。だから、京都教区の現職司祭、しかも常置委員長が犯していた準強制わいせつに関しても、女性の人権を守るということと結びつかなくても不思議じゃないんですね。一連の京都教区や主教達の対応がやっと理解できましたよ。
 社会委員会というのもあるそうですが、ある教区じゃずっと同じ司祭が担当していたから、その活動内容や意識が他の司祭たちに伝わっていない。それでいて、その司祭が担当していることによって自分たちもそれに関わっているという幻想を持ってしまっている。根本的には、問題を理解できていないにも拘わらず、いかにも自分たちもそのことを知っているかのように思い込んでしまっている。
 原因は勉強不足のようですね。今どき、インターネットで様々な情報を即時的に得ることが出来るのですが、そうした意識もないようですよ。一応本箱には神学書を並べているそうですが、読んでいるとは思えないと友人がいってました。説教を聞けば、どれだけ聖書釈義に時間をかけているかが判るとも言ってました。まぁ、これは日本の多くの教会の司祭や牧師にも言えますからね。普段からきちんと勉強して、本を読んでいないから、話がまとまらないし、閑話的な説教しか出来なくなる。教理史や教会史に関しては十分な理解を持っていないから、自分たちの教派がどのようなものであるのかということに関してさえ、説明するのが難しいんじゃないかとのことでした。
 ですから、「39ヶ条」をどう考えるかということについても、ほとんど判っていないみたいです。そうした問題に関して神学的議論をする時も場もないそうですよ。年に1回や2回の研修会では、まともな神学議論は出来ないでしょうね。驚いた話ですよ。それでいて、「自分たちはアングリカン・コミュニオンの一員ですし、主教はランベス会義に出席しています」と威張っているのがいるそうです。それでいて、「各国の聖公会はランベス会議の決議に拘束されることはありません」ともいうから、ランベス会議っていうのはお茶のみ話なのかと思わざるを得なくなります。

 「日本聖公会に自浄能力はないでしょ」というのが友人の意見でしたよ。準強制わいせつということは、「教会と国家」という言葉を出す以前の問題であるにも拘わらず、京都教区主教までもを「第三次被害者」とか「第四次被害者」とか言ってますから、話にならないのは当然のことだろうとのことです。「謝罪することもなく慰謝料を払ったということは、金を払ったんだからつべこべ言うなということなんだろうけど、準強制わいせつということの意味をまったく理解できていないんじゃないのかな」と友人は言ってましたよ。
 もしそうだとしたら、カルト教団というよりは、日本聖公会の聖職者集団は犯罪者を擁護する集団だということにしかならないですよね。愚かなことです。実に愚かだとしか言いようがありません。まるで中世封建制度です。いや、もっとひどいかもしれません。
 「糾す会」を批判しているご婦人がいらっしゃるようですが、主教を信頼しきっていらっしゃるんでしょうね。だとしたら、主教の責任は重大ですよ。そのご婦人を責めるよりも、そのご婦人を指導している主教や司祭に途轍もない責任を問題にした方がいいと思えます。彼らは、明らかに、「糾す会」に対する悪意を持っているのですから。責任がある側の人が大声を上げて怒鳴るというのは、被害者やその関係者が怒鳴るというのとは意味が異なります。
 H司祭による準強制わいせつとそれに対する教区の対応の過ちは明らかになっているのですから、加害者の側に立っている人が怒鳴るというのは問題外です。まぁ、日本聖公会はそうやって「秩序維持」をしてきたのでしょうが、話になりませんね。常識を逸脱しきっています。

 夜が明けてきました。
 この問題に夜明けはあるんでしょうか。黒を白と言いくるめてしまうような主教や司祭がいるのでは、当分夜明けは来ないのでしょうか。しかし、被害者とそのご家族は今でも苦しんでいらっしゃるのです。PTSDというのはいつ再発するか判らないという話も聞いたことがあります。にもかかわらず、京都教区は誠実な対応をしていないようですね。まぁ、ご自分達の責任を何とか回避しようとしかしていない方々ですから、尋常なことではどうにもならないかもしれませんが、それでも、ここで引き下がったら結局は彼らの思う壺ではないでしょうか。
 常置委員長が被告になっている裁判を傍聴することもなかった主教では、こうした考え方を理解できないかもしれませんから、またどこかで悪口の数々を振りまいて、「糾す会」を大声で怒鳴り散らすかもしれませんね。

いやぁ、驚きました!

2007-07-05 | Weblog

 グーグルで「日本聖公会正義と平和委員会」と入力して検索してみて下さい。かなりの数がヒットしますが、靖国神社への総理大臣の参拝は憲法に違反するとか、イラク派兵は憲法が否定している海外派兵だと記されているサイトが、目白押しに出てきますよ。おまけに、京都教区の司祭が講師になって勉強会をしていたんですね。
 沖縄の問題にも関わっているようですが、ちょっと待って下さい。

 京都教区の現職司祭による12歳以下の少女に対する性的虐待は、憲法に違反していないんですか?正義とか平和とかには関係がないのですか?
 驚いて、晩飯も喰わずに友人に電話してしまいましたよ。IPフォンなので、電話代は隣の家に電話するのと同じ料金です。小一時間話をしてましたが、日本聖公会は結局のところ、当たり障りのない活動しかしていないんですよね。表面的には「正義」とか「平和」という言葉を使っていても、具体的な政治活動はほとんどしていないみたいですし、アングリカン・コミュニオンの中で一番問題になっている、アフリカの教会のことには、ほとんど関心がないみたいです。Afro-Anglicanismという運動というか、考え方というか、教会の在り方というか、非常に大きな問題になっているのですが、それにはまったく関心を示していないようです。あるいは、フィリピンの教会が現在、アロヨ政権の軍部(実質的権力を持っていると考えられている)に大弾圧を受けている教会のことも、積極的には問題にしていません。この問題は日本のジャーナリズムさえ目を瞑っているように見えます。強制退去させられた少数民族の土地に建てられた工場の中には、日本の大手企業があるからかもしれません。

 片方では首相の靖国参拝を問題にしておきながら、明らかな日本の無法な経済侵略に対しては沈黙しているんですね。そして、他国の聖公会に同調しAfro-Anglicanismに関しても沈黙してしまっているようです。あるいは、あの巨大なハリケーンに襲われたアメリカ南部で、白人から避難していたという事実をも無視しているようです。日本聖公会の中には、アメリカの深南部(Deep South)の教区と姉妹教区になっているところもあるようですから。

 いくつかのホームページを読んでいると、彼らの仕事は声明やアピールを出すことのようで、現実に虐待を受け、差別され、疎外している人々と共に生きるということではないようです。まぁ、仕方がないかもしれませんね。友人から聞いた話だと、在日の人々の人権を問題にしていながら、彼らと共に生きようという姿勢を持っていない人々がいたそうです。痛みを負うということの現実的な意味を理解しようと思っていないのかもしれません。
 そうした姿勢では、京都教区の現職司祭による女子児童への準強制わいせつ事案に関して、真剣にそれと取り組むということなど出来るはずがありません。女性司祭を按手するということの歴史的意味を真剣に考えていなかったことも同じです。彼らの中の賛成派は、女性司祭按手を踏絵にしてしまっていたそうですね。女性の人権ということを盛んに口にしていたそうですね。それでいながら、被害者が納得できる解決をすることが出来ていない現状に対して、これまで何人の司祭が声をあげてきたでしょうか。

 北朝鮮による拉致に関しては、「日本聖公会正義と平和委員会」はかなり手厳しい非難をしていながら、北朝鮮の核やミサイルに関してはどの程度の知識を持っているのでしょうか。日本に対して、どれくらいの頻度で北朝鮮の軍用機が領空侵犯をしているか知っているのでしょうか。彼らが、何も搭載せずに遊覧飛行をしているとでも思っているのでしょうか。当然、搭載可能な量のものを搭載していると考えるのが普通です。でなければ、領空侵犯してまで、日本の重要な地域で飛行訓練するはずがありません。偵察飛行なら高々度を飛びます。
 彼らのミサイルは確実に日本の全域をカバーしています。命中精度はそれほど高い必要はありません。ピンポイントでなくてもいいのです。弾頭は核なのですから。そして、そのミサイルを作るためにはどうしても西側のチップが必要なのですが、それをいとも簡単に手に入れられるのは日本だけです。極東的顔立ちをして、日本語を普通に話せれば、誰もが日本人だと思ってしまうからです。IDカード=身分証明書なしで、何でも買うことが出来ます。そうした日本の社会を作り出した思想は何だったのでしょうか。はっきり言って、軽薄な自由主義です。国家という共同体の中で、あらゆることが自由だということを考えてきた結果です。国家が危機に瀕する可能性を一つ一つ潰していくことが、国民を守ることだということの認識がなかったからです。

 軍=侵略という発想によって、国民の安全を守る手段をどのように築き上げていくかということを無視したからです。日本の現在の自衛隊が海外侵略できますか?イージス艦がインド洋へ向かったことが何故海外派兵なのですか?もしそうだとしたら、特定の国々への輸出禁止製品を積載した船舶を、武装した海上保安庁の巡視船が公海上まで追いかけていくことも海外派兵ですか?不審船による銃撃は甘んじて受けていなさいということですか?そうした船に、あなた方の息子さんやお嬢さんを乗せられますか?他人が非武装の巡視船や巡視艇に乗ることを要求して、自分のお子さんやお嬢さんは困るということであれば、それは国家という人間共同体への反逆ということにならないでしょうか。日本国は、皆さんがパスポートを持って海外へ行かれるのを、税金を使って守っているのです。

 正義と平和、それはキリスト者にとって当然のことです。聖書を読んだことがない人々でもそれを知っていらっしゃいます。だからこそ、京都教区における現職司祭による女子児童への準強制わいせつに対して、毅然とした態度で声をあげていただきたいのです。そして、京都教区の上層部の方々の対応は、人権ということをまったく無視したものでした。そこには、正義や平和の欠片もありません。
 日本聖公会の正義と平和委員会は、真剣に正義と平和を考えていらっしゃるのでしょうか。ここまで人権を無視された事件をほとんど耳にしたことがありません。こうしたことは、すぐに世の中に広まってしまいます。
 憲法9条をどうするかという議論の中で、教会の発言がこのことによって弱められてしまいませんか?

エルサレムへの道で

2007-07-01 | Weblog

ルカ福音書9章51節~56
 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう
決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行っ
て、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しか
し、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指し
て進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、
「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょ
うか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、
一行は別の村に行った。

 わたしたちの周囲には、様々な宗教があります。あるいは、同じ仏教であっても、その教えや戒律が異なっているものがあります。神道と一般的に考えられるものになると、無数にその信仰や習慣があります。むかし、面白い4コマ漫画を見たことがあります。おそらくカトリック教会だと思うのですが、通りすがりの男の人が教会の壁に向かって用を足してしまうので神父様が困っていらっしゃいます。そこで、神父様は一つひらめきました。
 壁に鳥居の印を書きました。すると、そこで用を足そうとした男の人が慌てて身繕いをしてそこから立ち去ってしまうというものです。人間の現実をつぶさに描いているように見えました。

 前掲の聖書の個所は、エルサレムへ向かっていこうとする主イエス一行がサマリアの村で遭遇したことです。マタイ福音書10章5節で主イエスは「サマリア人の町に入ってはならない」とおっしゃっています。ルカ福音書17章11節では「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」と記されいます。
 福音書が記された時には既に、主イエスの歩かれた道に関する伝承が様々に変化していたのかもしれません。ヨハネ福音書では、明らかにサマリアを通過している記事が出てきます。この個所はその一つですが、
サマリアはエルサレムから分裂し、サマリア五書と呼ばれる聖書を作り上げ、神ヤーウェ以外の神々に犠牲を捧げていました。エルサレムを正統とすれば、サマリアは明らかに異端です。

 日本のキリスト教会の中では、キリスト教の教派同士の間に大きな誤解と偏見による対立が起きてきました。他教派の神学を知ろうともしないのです。そして、ご自分が生まれ育った教派の中だけに正しいものがあると考えてきました。
 「共同聖餐」においてさえ、「一致のために陪餐させてあげてるんだ」という意識が見えたり、他教派の聖職の方々をまるで異教徒のように扱うことさえあります。
 ある町で、三つの異なった教派が月に一度合同礼拝をしているそうです。そして、聖餐式を必ずしているそうですが、それぞれ他の教会の聖餐式でも、御聖体を「アーメン」といって受けていながら、しかし、別の場面になると、その教会が属している教区では同じ他教派の聖職位を認めないということがありました。片方で、他教派の牧師の聖餐を「アーメン」といって受けることを許しておきながら、別のところでは聖職位をまったく認めないという、実にちぐはぐなことが行われています。

 「『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼし
ましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そ
して、一行は別の村に行った。(55節・56節)

 ここには、主イエスが何とおっしゃって戒められたのか記されていません。もしかすると、人間的な想いを越えて、もっともっと高いところから人間の現実を見ていらっしゃるのかもしれません。ヤコブもヨハネも、少なくともあの金曜日、エルサレムから逃げ出してしまっているのです。主が十字架にお架かりになり給うた時に、その場から逃げ出してしまっているのです。
 他の教派の批判をする前に、わたしたちは自分自身の内側を改め続けなければならないのではないでしょうか。そして、他の教派よりも自らの教派が上位にあるなどと決して思わないことが、あの主の十字架への信仰なのではないでしょうか。
 あの金曜日、十字架に架けられている主イエスへの信仰を告白したのは、横に立てられた十字架に架けられていた罪人だけでした。

主なる神よ
 あなたの御子主イエス・キリストを心から受け容れることが出来る知恵と力と信仰をお与え下さい。
 主イエス・キリストの御名によって、アーメン。