いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

飯が食えなくなっても福音に生きろよ

2007-08-31 | Weblog
 「糾す会」からのメールを読んでいると、頭の中が混乱して来ます。日本聖公会の中には「正義と平和」を叫んでいる主教や司祭がいたはずですし、「人権」を口にしていた司祭たちもいたはずです。あるいは「差別」を語り続けてきた司祭たちがいたはずなのに、原田文雄司祭の準強制わいせつに関しては、口を噤むどころか、原田文雄司祭や京都教区の過ちに関して、自らもそれに荷担してしまっているように見えます。何かを怖れてそうしているとしか思えないのですが、日本聖公会はこうした問題に関して発言すると殺されるのでしょうか。

 しかし、殉教者のための祈りが祈祷書にあったのではないかと思うのですが、私の記憶違いでしょうか。聖公会も教名を付けているようですが、あの中には殉教者がいたのではないでしょうか。主教や司祭という聖職者であるということは、殉教する覚悟がなければ出来ないことなのではないですか?司祭にとって、主教は神様なのですか?「信徒を迷わせてはいけないから」という理由が聞こえてきそうな気がしますが、迷わせた張本人の味方をしてどうするのですか?

 「飯が食えなくなっても福音に生きろよ。」
 パウロはどう生きたのですか?ペテロはどう生きたのですか?初代教会や古代教会のキリスト者たちはどう生きていたのですか?信仰と自分の命とどちらが大切なのですか?
 ことに京都教区の司祭たちがこの問題に対して沈黙しているということは、被害者とそのご家族を足蹴にしていることにしかならないのですよ。
 「聖公会の信者でなければ発言するな」とおっしゃった方もいるようですね。あなた方の主張している「正義」は、教会の中だけにあるのですか?「ミッシオ・デイ」という言葉をご存知ですか?神様は教会の外でも、今もお働きになられているのですよ。日本聖公会の教会の中にしかキリストはいらっしゃらないのですか?もしそうだとしたら、他教派との合同聖餐式は是非お止め下さい。口先だけの「共生」は何の意味もないどころか、社会の差別構造を根底で支えている意識を覆い隠してしまうことにしかならないのではないでしょうか。

 このブログを読んでいる聖公会の信者様方へ、僭越ながら申し上げさせていただきます。今の日本聖公会に福音があるとは思えません。あの事件は、明らかに準強制わいせつ事件です。それをひた隠しに隠し続け、一旦は「謝罪の記者会見」を開いておきながら、被害者に対して加害者である原田文雄司祭はまったく謝罪していないのです。日本聖公会京都教区を正常なキリストの教会に立ち帰らせることが出来るのは、最早、健全な信仰を持っている信者様方しかいらっしゃいません。皆様が、声をあげて下さい。聖書を読んで、祈って下さい。
 被害者の方は今でもPTSDに苦しんでいらっしゃるのです。

信徒にはひた隠しですか

2007-08-30 | Weblog

 「蒸し返すな」と「糾す会」の方におっしゃった信者さんがいらっしゃるそうですね。あるいは、「糾す会」が文書を配布しても、事件のことをまったくご存知ない方がいらっしゃるようですね。おそらく、大都市以外の教会ではそうした情況が続いているのだろうと思います。これは他の宗教集団にもよく見られることで、本部の問題は地方には伝わらないシステムになっているようです。

 しかし、これがアングリカン・コミュニオンを標榜する世界的な組織に属し、ランベス会議にも主教が出席している教会のすることとは思えません。事件は現職司祭による女子児童への準強制わいせつなのです。しかも、民事裁判ではあるものの、最高裁判所が上告棄却・不受理を決定することにより、被害者の主張を100%認めた高等裁判所の判決が確定した事件なのです。ここが一番重要だと思っています。
 主教や司祭が「事実無根」と叫んでいた時があったのですが、彼らは一度も裁判を傍聴しに行っていませんし(一人だけ1回、傍聴しに行ったようですが)、高等裁判所の裁判記録をどの程度ご覧になっているのでしょうか。

 「糾す会」から出される情報を信者さんには極力見せないようにしているようにも聞こえてきます。愚かなことです。裁判所の裁判記録をご自分の目で確かめてきて下さい。決して難しいものではありません。むしろ、ショックが大きいかと思いますから、それに耐えられるだけの信仰と祈りを持って行って下さい。
 裁判ですから、当然のこととして準強制わいせつの実態がそこには記されています。教会の中で、あるいは個人の家でそれが行われたわけですから、誰もが相当なショックをお受けになることは間違いないと思います。裁判記録閲覧の方法については「FH司祭問題を駁す」というブログの2007年6月09日16時13分43秒の」「裁判記録閲覧の手引き」というところに鞍馬天狗氏が書き込んでいます。原文は「糾す会」のメールです。

 現実を現実として認識することから信仰が始まるのではないでしょうか。悲しいこと、痛ましいこと、恥ずかしいことを避けて通ったら、神様が造り、今も支配して居給うこの世の現実を見失ってしまいます。そして、何が神様の御旨であるかも考えられなくなってしまいます。仲の良い信者さんで誘い合って、複数で行かれてもいいかと思います。そして、じっくり考え、聖書の御言葉を思い出して祈って下さい。
 主教さんや司祭さんでお読みになったことがある方はごく少数だそうですね。是非、信者さんが裁判記録をお読み下さい。そして、ご自分の思ったことを声にして下さい。インターネットは、匿名で声をあげられることが出来ます。
 聖職の方々がひた隠しに隠してきたことを、是非知って下さい。そして、被害者とそのご家族のために泣いて下さい。その涙を拭って下さるのは神様だけですから、涙がどうしたら乾くかを祈って、祈って、考え抜いて下さい。
 主の平和。

この際、すべての膿を出しきっては如何ですか?

2007-08-24 | Weblog
 京都教区は結局、事件を隠蔽しようとする方向にしか動いていないのでしょうか。原田文雄司祭の退職を承認した時の常置委員会の内容と退職撤回を承認した時の常置委員会の内容を、事実に即して公表する以外に、問題解決への糸口を見いだすことは出来ないのではないでしょうか。糸がグチャグチャにこんがらがっているわけではないと思えるのですが。高裁で、原田文雄司祭が犯したとされた準強制わいせつは、冤罪だと言い切れるだけの証拠は一つもないはずです、だからこそ、あの二回の常置委員会の内容が問われているのではないでしょうか。

 この問題を語るには、聖公会の教会員であるかどうかはまったく問題ではありません。日本聖公会の法憲法規に違反しているかいないかが問題ではなく、日本国憲法のもとに定められた刑法に違反しているかどうかの問題ですから、日本人であれば誰でもが問い質すことが出来ることであろうと思われますし、加害者が日本聖公会の現職の司祭であった事件ですから、外国からの問い合わせや意見に対しても、日本聖公会京都教区は誠実に答えなければならないのではないでしょうか。アメリカ聖公会にも、日本語のお出来になる方はいらっしゃると思いますし、私が存じ上げているアメリカ聖公会の司祭の奥様は四国出身の方です。日本語はぺらぺらです。
 そうした方々が日本聖公会の実状をご存知ないわけがありません。イギリスにも同じような方がきっといらっしゃると思います。

 最高裁判所で上告棄却・不受理とされた上告の内容だけでなく、高等裁判所が明らかにした事実関係を無視して、いまだに教区主教や常置委員会が積極的に謝罪と懺悔をしていないというところに、問題の一つがあります。勿論、原田文雄司祭が女子児童に対して行ったことは、教区主教と常置委員会もそれが事実と認定したからこそ、あの「謝罪の記者会見」があったのではないでしょうか。友人はまた、明日上京するそうなので、また会って話をしたいと思っています。日本聖公会は、こんな単純な論理が判らないのかと私には訝しくて仕方がありません。
 原田文雄司祭を教区審判廷にかけることもなく、主教の一存で陪餐停止という処分にしたこと。そして、日本聖公会法憲法規には司祭の「陪餐停止」という懲戒はないのですから、その処分自体が日本聖公会法憲法規に抵触しているにもかかわらず、京都教区はいまだに原田文雄司祭を審判廷にかけようとはしていません。

 日本聖公会はこの際、すべての膿を出しきっては如何ですか?
 沖縄教区問題では、この問題を記事にした『聖公会新聞』編集長のKF氏を退職させたのですよね。あまりにも傍若無人ではありませんか?こういうことを容認している日本聖公会が「正義と平和」と口にされると、腹が立ってきます。日本聖公会では、主教会が正義なのですか?平和とは、その正義を誰も脅かさないことなのですか?
 沖縄教区の問題だけではなく、京都教区や北関東教区、あるいはしばらく以前のことになりますが、北海道教区でも不思議なことがありましたよね。東京教区の使途不明金問題では、その時のスタッフを告発しておきながら、他の教区での経済的問題に関しては沈黙されていました。勿論、蔭で動きがあったことは想像に難くありませんが、日本聖公会の多くの信徒はこの問題をご存知ないと思います。

 こうしたことが日本聖公会全体で組織的に行われていたことは間違いないと思います。聖公会神学院の問題にしても、箝口令が敷かれているようですね。しかし、事実は事実としてはっきりしていることもあるのですから、これらの問題をきちんと解決しない限り、日本聖公会のこの汚点は末代まで語り継がれるのではないでしょうか。ことに、原田文雄司祭による女子児童への準強制わいせつ事件については、一から事態を見直して、誠実に謝罪し、責任をとるべき方はきちんと責任をおとりになるべきではないでしょうか。それなくして、問題の解決は不可能かと思われます。
 

最高責任者の責任

2007-08-19 | Weblog

 最高裁の上告棄却・不受理が決定されて、高裁の判決が確定した直後に、その判決に対して「冤罪だ」と高地主教は発言したことは、様々な情報を総合して考えると間違いなさそうだが、だとしたらここには途轍もなく大きな問題があります。「冤罪」という言葉を『広辞苑』では、「無実の罪。ぬれぎぬ。」と説明しています。つまり、高地主教は、高裁が事実であるということを明らかにしていることをすべて否定していることになるわけですが、「FH司祭問題を駁す」というブログに「糾す会」が書いているように、高地主教は「裁判の傍聴もせず、裁判記録の閲覧もしていない」のが事実であるとすれば、あまりにも非常識であると言わざるを得ません。

 これが日本聖公会が持っている「権威主義」の表れてあるとしたら、まさに法治国家としての日本の社会に対する挑戦であるとしか思えません。高裁がどのように考えているのかということをまったく知らずに、「冤罪」という言葉を使っています。同時に、裁判記録に残されている被害者の証言については、それを一切知ることなく全面的に否定されていることは、被害者が日本聖公会京都教区の信徒であるということからして、牧会という視点からも大きな間違いを犯しているとしか思えません。
 教区内の信徒はすべて、主教の「羊」だというのが日本聖公会の教会論であると思われます。ですから、「堅信礼」は主教自身が執行しているのではないでしょうか。実に不可思議なことだと、どなたもがお考えになるのではないでしょうか。それとも、高地主教は、ご自身が手にしている司牧杖は司祭や執事に対するものであって、信徒に対するものではないとお考えなのでしょうか。

 この夏の間、特に昨日までの一週間、東京は猛暑でした。お陰で私も体調を悪くしてしまいましたし、友人も東京で熱射病に苦しんでいるようですが、秋になったら裁判記録を閲覧しに行くことにしました。既に、有志の方によって報告されているように、裁判記録には事件の実態が赤裸々に記されているようです。裁判を傍聴することもなく、その後、裁判記録を閲覧することもしていない高地主教は、本当に司牧者賭しての自覚がおありなのでしょうか。一般的に言われている「社会的・道義的責任」ということをどうお考えなのでしょうか。
 民事裁判を提訴した被害者以外の被害者は、この事件に関しては黙っていて欲しいと思っていて、教会の名前さえ判って欲しくないと思っているということを理由に、この事件の解決をすべてご自分に任せて欲しいとおっしゃっているそうですが、これにも司牧者としての大きな間違いがあると思えます。それは、そう発言することによって、複数の被害者の間に明らかな差別を行っているからです。民事裁判を起こした被害者は法廷の証言台に立つという勇気と痛みを背負われた方であるにもかかわらず、そのことをまったく無視してしまっていらっしゃるのですから、他の被害者との間に差を認めていることは間違いありません。
 日本聖公会には、信徒の中にもヒエラルヒー(ハイアラキー)があるのでしょうか。その根拠は、年齢ですか?信徒になってからの年数ですか?何代目のクリスチャンかということですか?それとも社会的地位ですか?年収の差ですか?学歴ですか?それとも男か女かの相異ですか?

 日本聖公会を外から拝見していると、ものすごく不思議な教派に見えます。
 これだけの重大な問題を抱えていながら、問題はすべて解決されているかのように思っている方がいらっしゃったり、正式な審判の場では、一切このことが議論されていないにも関わらず、この事件は解決しているかのようにお考えになっている方がいらっしゃるようですね。今日、礼拝の後で教会の仲間とこのことを少し話をしてきました。犯罪を犯罪として認識していらっしゃらないことが一番の問題だろうというのが、大方の意見でした。
 皆さんはどのようにお考えでしょうか。とりあえず「糾す会」がこの事件に対する京都教区の対応に対して問題提起しなければ、この問題はお蔵入りされてしまって、被害者とそのご家族は絶望と苦悩の日々を送り続けられていたであろうことは、誰にも想像できることだと思います。だとすれば、いまだに加害者である司祭に正式な謝罪をさせていない教区の最高責任者には、大きな責任があるのではないでしょうか。


コメントの書き込みを中止します

2007-08-13 | Weblog

 諸般の事情により、即時的にコメントを確認することが難しいので、申し訳ありませんが、当分の間、コメントの書き込みを停止します。あしからずご了承下さい。「諸般の事情」とは、仕事が忙しく、この時間もまだ仕事を続けている状態だからです。
 私は、日本聖公会がキリストの教会であることが出来るように、外から祈っているものの一人です。しかし、日本聖公会は他教派の人間を人間として考えていらっしゃらないようです。私の友人は、両肩の胸郭出口症候群で、2回手術を受けていますが、その原因を究明することもなく、間違った情報を流していることも既に確認しています。

 また、同性愛やゲイに関する寛容な態度をとり続ける日本聖公会に対して、私は怒りにも似たものを持っています。このことに関しては、まったく議論するつもりはありません。聖書に答えが書いてあるからです。
 社会的な人権を問題にすることと、キリスト教会が同性愛を認めるかどうか、つまり同性愛者の結婚式を執り行うかどうか問題は、別の次元の問題です。同性愛を容認し、女子児童に対する準強制わいせつ事件をきちんと解決できないでいる状態で、なぜキリストの教会でいることが出来るのか、私にはまったく判りません。
 日本聖公会が読んでいらっしゃる聖書には、モーセ五書が載っていないようですね。これは、神学議論以前の、クリスチャンとして極めて当然なことだと考えています。

 ここにコメントを書き込む時間があったら、K主教の責任をはっきりさせるように働きかけて下さい。よろしくお願いします。

聖公会の神学

2007-08-13 | Weblog

 東京は猛暑です。まぁ、北海道も暑いらしいから日本中で猛暑なのかもしれません。そんな中、お盆中と言うこともあって、今日は上京している友人のところへ行って話をしてきました。

 「日本聖公会は、神学をしている人としていない人の差があまりにも激しすぎるし、司祭として長年経験を積めば、神学書を読まなくても神学が判ってくるという考え方があるみたいだ。聖公会神学院の修学年数が3年というのも、ある意味では困ったものだよ。」
 友人は、会うなりそう言いました。例の「神様をイメージ」とか「イエス様を思い浮かべ」るということや、「聖書の会では『聖霊のイメージがわかない』と言う方が多くいらっしゃいました」という表現を気にしていたからです。そして、「三位一体とは、どのようにイメージされているのでしょうか」という表現に至っては、私としても開いた口が塞がりませんでした。日本聖公会には、かつて関係大学で教授を長年されていた教会史の教授がいらっしゃったはずなのですが、そうした方から、教会史や教理史を何故学ばないのかと訝しく思って友人に尋ねたら、「聖職じゃなくて、信徒の方だから、神学の講義は出来ないと思い込んでいる人たちがいるようだ」との答えが返ってきました。

 これが本当だとしたら、日本聖公会は神学的にも破綻しているとしか思えません。信徒であろうが聖職であろうが、神学的議論は対等の立場で為されるべきものであって、聖職按手が神学の条件であるとしたら、神学そのものが神学でなくなってしまうのではないでしょうか。神学は、常に神学自身において独立したものであると同時に、聖職按手の意味はサクラメントとの関係で考えられるべきものなのではないでしょうか。日本聖公会では、聖公会の綱憲によって、サクラメントは洗礼と聖餐だけだと考えられていますから、このところはあまり深く考えられていないのかもしれませんが、信徒は神学が出来ないということであれば、何故聖職候補生でない人が神学院で神学することが出来るのか、私にとっては実に不思議なところです。
 他の教派の神学院や神学大学では、聖職志願=献身をした人でなければ入れいないところが多いようです。いくつかの大学の神学部では、洗礼を受けていない人でも神学部に入学できるようですが、これは実に神学そのものの客観性を見抜いているようにも思えます。ことに、聖書神学においては、非常に重要なところでもあります。神学も「学」であるのだとしたら、クリスチャンであろうがなかろうが、答えは同じものであるところを目指していなければならないのではないでしょうか。
 信仰が問われるのは、神学ではなく説教です。

 キリスト教の信者でない人が説教学を学んでも、ある意味では何にもならないと思っています。説教学は単なるテクニック=話術ではありません。正典としての聖書を現代に解き明かすことが説教ですから、聖書を正典として認めていない人々が説教することはあり得ないことです。日本聖公会では、説教をどのように規定しているのか、法憲法規からでは見えてきません。それでいて、はっきりと明文化したものが共通理解としてあるとも思えません。
 ですから、説教には聖書学は不可欠のものです。これが欠落すると、説教が聖書の解き明かしではなくなってしまうのではないでしょうか。「霊は『イエス・キリストの霊』(フィリピの信徒への手紙1章19節)であり、霊はキリストの現在であることを教えています」とも前述の文書には記されていますが、困ったものです。あの「霊のτου πνευματοs」も「イエスキリストのΙεσου Χριστου」も、その前にある「助けεπιχορηγιαs」を修飾していると考えられます。新約聖書の中に、「イエス・キリストの霊」という言葉が単独で用いられている個所は、私が知る限りでは存在しません。これを判りやすく翻訳するのは至難の業だと思います。そこで、新共同訳聖書ではあのように訳されているのだろうと思います。
 「イエスの霊」あるいは「キリストの霊」と訳されている部分は使徒書にありますが、あの「霊」が聖霊であると解釈できるかどうか、大いに疑問があります。

 また「霊はキリストの現在であることを教えています」とも記されていますが、この「現在」は"real presence" の翻訳であろうかと思われますが、「げんざい」という音は「原罪」とも聞こえてしまいますし、「現在」が"real presence" の翻訳であるということをご存知ない方には、この表現は誤解や混乱を招くだけではないかと思われます。「現在」という漢字は、一般的な日本語では"contemporal"の意味でしか使われていません。
 祈祷書を改訂するときに、「出来るだけ平易に」ということで「御」をすべて「お」にした教派の方の表現とは思えません。

 私はこの文を書かれた方が聖職候補生であることに望みを持っていますが、しかし、この文書の「発行人」が主教名になっていることにショックを感じています。主教はこの文書に書かれたことを何故お認めになられたのか、理解に苦しみます。聖公会の神学的営為はこのようなものなのでしょうか。
 だんだん恐ろしくなってきました。

聖公会の聖書は?

2007-08-08 | Weblog

 このブログを日本聖公会の信者さんがお読みになっているようなので、あえて書くことにしました。アングリカン・コミュニオンの中にある多くの聖公会の教会から、アメリカ聖句会が公然同性愛者に聖職位を授けることに対し、その反対の動きが日に日に活発になっているのを、日本聖公会の信者さんはご存知でしょうか。特に、現在のアメリカ聖公会首座主教も、自ら同性愛者であることを自にしていますが、それに対してカンタベリーは非常な憂いを持って反対しています。これはインターネット上にも多くの情報が載っています。

 女性司祭按手の議論の中で、女性の人権が問題になっていた時に、当時アメリカ聖公会のある教区の女性主教が来日され、聖餐式を執行されました。そこは、日本聖公会の教会であったり、日本聖公会の関連組織であったりしました。そして、この女性主教に反対する人々をまるで悪魔であるかのように批判している人々がいました。実に奇抜でした。日本聖公会が女性司祭按手を行うかどうかという問題が表面に出てきていて、女性司祭がいるのは当然であるかのように議論されていたのですが。来日した女性主教はご自身が同性愛者であることを公言されていました。

 はっきり申し上げます。
 日本聖公会がお使いの聖書は、私たちの持ってる聖書とは異なっているようです。創世記を読んでみて下さい。聖書は同性愛に関して、それを認めるような発言をしているでしょうか。私は日本聖公会員ではありませんから、女性が司祭や主教になれるかなれないかの議論はしません。そうではなく、同性愛者が聖職叙任を受けられるかどうかの問題です。この二つの問題を同じレベルで議論することは実に愚かしいことです。
 女性を主教や司祭に按手することと、同性愛者を司祭や主教に叙任することを、同時に並列的に議論することは、まったく空しいことです。

 神は男と女の区別をはっきりとさせる仕方でお造りになったと聖書には記されています。男と女、 male と female の区別は神の創造の秩序であるというのが聖書のメッセージです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」という創世記第2章24節の御言葉は明らかにこの創造の秩序を語っていると考えられます。但し、このことは同性愛者を排除するものではありません。むしろ、神はこうした過ちに陥っている人々を、神の創造の秩序に戻ることを願っていらっしゃるのではないでしょうか。
 日本聖公会は、この点に関しても、しっかりとお考えにならないと、似て非なる「キリストの教会」になってしまわないでしょうか。日本聖公会がお使いの聖書では、創世記は墨塗りが為されているのでしょうか。

聖公会には神学も信仰もない

2007-08-06 | Weblog
 久しぶりに友人と会った。
 最近、お互いに忙しくしていて、東京に彼奴が出てきてもあまり長い時間話をすることが出来なかったが、今日はさっきまでゆっくりと話をすることが出来た。「聖公会の司祭は、propagation と mission の意味の相異が判っていない。」
と友人が言った時には、思わず大きな声をあげてしまった。「ウソだろ?}と。しかし彼奴は、「伝道」という言葉が「宣教」という言葉に置き換えられた程度の認識だろう、という。聖公会が一所懸命「伝道」してきたのは、戦前くらいまでじゃないのかとも言っていた。

 いつ頃から始まったのか判らないが、聖公会の教会では、教会員同士がニックネームで呼び合っている。これは私も知っていた。中には苗字で呼ばれている人もいるが、若い人の間でも、お互いを呼び合うのはニックネームだ。もしかすると、アメリカ人の宣教師がそうしていたのを真似たのが最初かもしれない。主教や司祭の間では苗字で呼び合っているのだが、教会員に対してはニックネームを使っていることが多い。まぁ、これも主教や司祭にもよるのだろうが、これで教会として伝道を考えるなどと言うことは、無理だろうと思える。
 アメリカで、苗字を呼び合わないで、ニックネームで呼び合うようになったのは、苗字によって出身が判ってしまうからだとある宣教師が話してくれた。イギリス、フランス、ドイツ、その他多くのヨーロッパ人がアメリカ大陸に入ってきているから、そのことによって互いに差別し合わない為らしい。イギリスにしても、イングランドとスコットランドの大きな相異もあるし、ウェールズや北アイルランドともそれぞれ別々だ。北アイルランド・ウェールズ・スコットランド・イングランドそしてフランスで「5カ国対抗ラグビー」という名称で、対抗戦が行われていた時代があった。そうした、歴史的民族的相異を越えて、全員がアメリカ人であるために、その人が決めたニックネームで呼び合うのだという。そうした意味では、ニックネームは日本の「あだ名」ではない。

 教会の集まりへ行くと、みんなが同じように名札を付けていて、新来者にも同じ名札が渡され、それにニックネームを書かされる。日本語の苗字をローマ字で書いても、ほとんどのアメリカ人は日本のローマ字の読み方を知らないから、みんなから名前を聞かれる。ところが、日本聖公会の教会には、こうしたニックネームとは別の意味のニックネームが使われている。はっきり言って、新来者を暖かく迎え入れるなどという発想は微塵もない。「俺たちの仲間に入りたかったら、時間を掛けて入ってこい」とはっきり言った司祭がいたそうだ。
 さすがに権威主義的な教派だけのことはある。
 これでは、心に重荷を負って、敷居の高い教会の門を勇気を持って入ってきた人を暖かく迎え入れるというようなことが出来るはずもない。

 日本の社会も確かに、名前で呼び合ってきた。支配者によって苗字を名乗ることを禁止されていたケースもあるだろうし、苗字そのものがなかったケースもある。そして、現在でも、農山村部の村では、村全体の苗字が同じというようなところでは、名前で呼び合っているところがある。苗字で呼ぶことにまったく意味がないからだ。
 ところが、日本の社会には、というか日本人の集団には一種独特の雰囲気がある。ある人たちはこれを「ムラ社会」と言ったり「ムラ」と表記している。この意識が何時の時代に発生したものかははっきりしていないが、少なくとも室町時代後期にはこれが発生していたように思える。ムラの自己防衛本能の現れかもしれない。対内部的には「村八分」と呼ばれる交際の絶縁、対外部的には「余所者」の排除である。そして、そのムラの枠組みは「前からこのムラに住んでいた家の人たち」という実に曖昧なものでありながら、しかし、この集団に対する帰属意識はそのムラ社会の構成員に対しては絶対的なものとして機能している。
 と同時に、何らかの縁故関係が発生している状況では、その縁故関係であることによって、そのムラの中に前から住んでいる家の人のように処遇されることもある。「○○主教様お孫さん」という肩書きは、その人をすぐに仲間として受け容れてしまう。日本聖公会の教会には、こうした雰囲気が常に付きまとっているようにも見える。

 しかし、聖書が「エクレシア」とギリシア語で表現しているものは、そうした日本的なムラ社会ではないし、ムラ的集団帰属意識を信仰とも考えていない。アメリカの教会で体験したことだが、その教会が関わっている老人ホームを礼拝のあとで訪ねたことがある。ダイニングルームには男達ばかりが集まっていたからどうしたのかと思ったら、フットボールの中継をみんなで見ていた。フットボールも嫌いじゃないから、一緒になって見始めたのだが、案内をしてくれた高齢の方が「お前はどっちを応援するんだ」とおっしゃるので、「あなたは私の兄弟だから、あなたが応援する方を応援する」と言った瞬間に、「こいつも○○○○の応援団のメンバーだ!名前は△△△だ!」と大きな声で紹介して下さった。そして、そこにいた○○○○ファンの方々が大きな拍手で迎えて下さった。
 試合も最後のクオーターだったので、15分位で試合が終わった。○○○○が勝ったのだが、驚いたのは大騒ぎをしたあとで、数人の高齢の方が私のところへ来てこう言われたことだった。「△△△!今度来る時は俺たちの方を応援しろよ!必ず勝からな」とおっしゃって、握手攻めにあってしまった。一番驚いたことは、私のニックネームを一回聞いただけで、皆さんが覚えて下さっていたことだった。
 ふと見ると、午前中に行っていた教会の礼拝に来ていた方もいらっしゃったのだが、アメリカ社会が持っている「エクレシア」意識がこうしたところにもあることを知った。

 そうそう、そういえば面白いことがあった。
 仕事の合間に、アメリカ人の友人と抜け出してゴルフに行った。友人も下手な方じゃなかったし、私もそれ程下手ではない(と思い込んでいる)。パブリックコースへウィークデーに行ったせいか、随分空いていた。友人と二人でまわったせいもあるのだが、前の組みに追いついてしまった。どう見てもリタイアした仲のいいお二人のように見えた。「先にどうぞ」「一緒にしませんか?」「俺たちは遅いから」「僕たちも遅いですよ、△△△がイマイチ上手くないから」ということで、4人で回り始めた。そのお二人は、ボールを遠くへ飛ばすことは苦手のようだったが、まっすぐに正確な飛距離でボールを飛ばすことはお上手だった。
 いくつ目かのティーグラウンドでの会話。
 「いいスイングをしているね、リズムがいいよ」(年輩の方)
 「ありがとうございます」
 「何かリズムに秘訣があるのかい?」
 「自分なりのリズムを身につけただけです」
 「それには、何か方法があるのか?」
 「例えば"God save the Queen." という言葉のリズムなんかもありますよね」
 「なんだ、その"the Queen"ってのは」
 「"the Queen" をご存知ないのですか?」
 そこでやっと気が付いて
 「じゃぁ、"the King"という言葉もご存知ないんですか?」
 「あぁ知らないな、それは日本語か?」
 この後は、もう一人の年輩の方と三人で声をあげて笑いました。
 アメリカ人がアメリカ人である所以を教えられた気がしました。
 アメリカ聖公会とイギリス国教会が馬が合わない理由はここにもあるようですが、「アングリカンコミュニオンの一員」を標榜する日本聖公会の司祭さんたちは、こうした歴史をご存知なのでしょうか。
 一方、アメリカ聖公会が総裁主教に同性愛を容認している女性主教を選んだことに関して、カンタベリーはどのように考えているかご存知なのでしょうか。

 日本のムラ社会的教会の中で、そして何もかもが年功序列で決められてしまうような聖職者団の中で、日本聖公会はこの問題をどうお考えになるのでしょうか。「アングリカンコミュニオンの一員」として、はっきりとした意見をお持ちになる勇気がおありでしょうか。
 京都教区の現職司祭による女子児童への準強制わいせつ事件を、いまだに解決出来ていませんが、そのことをどうお考えなのでしょうか。被害者とそのご家族は、いまだに教会を離れてしまわれたままです。

 ※一部、訂正しました。ご指摘を感謝します。

「ヤラセ」だったのかな

2007-08-03 | Weblog

 7月31日の夕方、【FH司祭問題を駁す】というブログに「今、FH事件で思う事」と題して書き込みをした方は、あの後削除されたにもかかわらず反論を書かれていないんですね。残念です。反論を期待していたのですが。
 テキストファイルのコピーは残してあります。

 鞍馬天狗氏に電話したら、彼もテキストファイルしかコピーしていないそうです。もともと、あのブログはファイルコピーを出来ない設定になっているようです。しかし、それにしても前半部分と後半部分では、明らかに口調が異なっていますし、視点もガラッと一転しています。
 「ヤラセ」だったのかな。
 誰かに頼まれて書き込みをしたのでしょうか。もしそうだとしたら、正に「ヤラセ」そのものではないでしょうか。友人に電話してみたのですが、今日はなんと、もう寝てました。彼奴がこの時刻に寝ているということは信じられませんでしたが、「その程度で驚くなよ、普通だろ。聖公会じゃ。」と言って、すぐに電話を切りました。誰かが電話で頼んだとすれば、多くの場合は証拠は残りません。ただし、NTTには通話記録は残ってしまいますが、この通信記録を第三者が見ることは原則として出来ません。

 それにしても、受信したメールを送信者の許可なくブログに書き込むということの愚かさを何故気が付かなかったのか。あそこにお名前を出された方々は本当にいい迷惑だったと思いますよ。そして、「一斉メール」を送信されている「糾す会」の方たちはもっと迷惑を蒙ったのではないでしょうか。あのメールは私も転送してもらって読みましたが、あれはあくまでもメールです。FH司祭問題に関心を持っていらっしゃる方々への私信です。それを、実名を書くなとという共有されたブログに書き込んでしまったのですから。反論があるのであれば、メールで反論すべきだったと考えます。

 何はともあれ、「二次被害者」「三次被害者」という言葉は、余り適当ではないと思いますよ。あの事件に関心を持つことは、人間として当然のことです。まだ幼い少女にたいする準強制わいせつを、こともあろうに現職の司祭が長期間に渡ってし続けていたんですから。聖公会の京都教区は刑事事件と同じ重みを民事裁判の判決に感じるべきであったのに、最高責任者は一度も傍聴に行ってなかったようですね。一般常識では考えられないことです。あの裁判に対する意識の低さが如実に表れています。

困ったものです

2007-08-01 | Weblog
 <FH司祭問題を駁す>というブログですが、友人の知り合いから電話があったので、あのブログを覗いてみました。とんでもない書き込みがあったんですね。あの原田文雄司祭の事件は、準強制わいせつであって、「レイプ」ではないのです。それを「セカンドレイプ」とか「サードレイプ」とか書いてしまっていますね。あのブログの設置者がどなたかは存じ上げませんが、一時停止は賢明な措置だと思います。停止しないと削除されてしまうおそれがありますから。

 私も一応、Web ページを保存しましたが、あまり意味はないと思っています。IPアドレスだけが頼りです。最後に記してあるメールアドレスは、Yahoo の Web メールですから、本人を特定するのは至難の業です。あのアドレスは、偽名でも登録できます。私も JAMES COBURN でアドレスを取ってもいいかなと思っています。 あの「荒野の七人」、生涯忘れられない映画の一つですから。「七人の侍」を真似て作った映画ですが、あそこには、弱い人々のために命を捨てられるか?というキリスト教的メッセージがあると思っているからです。

 それにしても意味不明の書き込みでしたね。「名前をメールに書くな」といっている本人が、そのメールに書かれていた方々の名前をあのブログに書いてしまっているのですから。せめてアルファベットの頭文字にするくらいの配慮があってもいいのではと思っています。「糾す会」を批判できませんよ、あれでは。もしかして、「ヤラセ」なのでしょうか。あるいは、偽名で投稿しているのでしょうか。まぁ、設置者がどのように判断するかも見物です。

 私としては、あの書き込みは不適当であると思いますから、書き込み自体を全文削除すべきであろうと思っています。メールから引用したにせよ、個人の名前を出してしまっているのですから。メールに個人の名前が書かれていたことに関しては、非常に難しい問題です。あのメールは、住所や電話番号まで間違いなく記されているメールですから、それとブログという一般公開されているものと比べることは不適当だと思っています。メールはあくまでも、個人的な私信です。誰でもが読めるわけではありません。