いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

審判廷

2007-12-28 | Weblog

 とりあえず、高地主教と常置委員を審判邸にかける必要があると思う。理由は「偽証」「被害者に対する差別」です。被害者6人のうち4人に関する加害行為を、原田文雄司祭の居所にまで押し掛けて、原田文雄司祭に認めさせておきながら、残りの2人に関しては「原田文雄司祭が否認している」という理由からこの2人に関してはそれをしていない。6人目の被害者に対しても、はじめは原田文雄司祭は否認していたのではないのか?

 これに関しては極めて重大な問題が隠れている。同じ被害を受けている女性に関して、高地主教と常置委員は明らかに差を付けている。その理由もまた審判廷で明らかにされなければならないだろう。この理由が見えてくると、もしかしたら2001年以降の日本聖公会京都教区の問題性も明らかになるはずです。武藤主教は何故辞表を返してしまったのか。古賀司祭は何故被害現場で、被害者が地図まで書いて説明している場所と異なった方向を撮影した写真を裁判所に提出したのか。裁判記録に残っている両者の地形は異なっていると、裁判記録を閲覧した友人が言っていた。これに関しては、裁判所では問題にならなくとも、教会の法廷では明らかにしなければならない。「汝、偽るなかれ」という十戒の規定は、刑事裁判における偽証だけを問題にしているわけではない。

 この審判廷を審判廷を日本聖公会の管区が開廷するかどうかは、日本聖公会が教会法をどれだけ重んじているかということを示すバロメーターだ。日本聖公会の管区は審判廷から逃げることもできる。主教会がどう判断するか二かかっているのだが、そうした意味からすれば、日本聖公会の現職主教が教会法をどう考え、原田文雄司祭の加害行為をどう考え、日本聖公会京都教区の実に不誠実な対応に関してどう考えているかということもそれで明らかになる。

 日本聖公会京都教区の主教と常置委員を審判廷にかけたらいい。いや、審判廷で明らかにしなければならない。審判廷以外では懲戒することが出来ないのだから、審判廷を開かなければ彼らの責任を明らかにすることが出来ない。もし、管区が審判邸を開廷しなければ、管区は原田文雄司祭の性的加害行為までもを無視することになってしまうように思える。これが、ここの仕事場での統一見解だ。そろそろ、コーヒーとケーキで一年の慰労会が始まる。酒は出ない。小生以外は誰も飲まない。日本聖公会の聖職者は少し酒を断った方がいい。

説明責任

2007-12-24 | Weblog

 実に簡単なことなのですが、しかし、どうしても理解できないことがあります。それは、現在までに名乗りを上げた6人の被害者のうち、原田文雄司祭は4人の方々に対しては加害を認め、謝罪文を記しているにもかかわらず、あとの2人に対する加害は認めず、謝罪文も記していないということはどういうことなのでしょうか。この2人の1人は、確定した高裁判決でその主張がすべて認められている方です。

 これに対して日本聖公会京都教区の常置委員会は「原田元牧師の要請により懇談。(高地主教、三浦恒久司祭、井田泉司祭、宮嶋眞司祭出席)冒頭、原田氏より、彼の記憶している事件の経過を聞いたが、Aさんから告発された事実については否認を続けている。また、2001年当時の退職撤回時の経緯については、明確でない点も多く、今後も事実確認の積み重ねが必要であることを伝え、特に被害者の方々の尊厳の回復こそが最も大切なことだということを強調した。」と去る11月23日の教区会における特別報告で述べています。この「否認を続けている」いることに関して、日本聖公会京都教区の主教や常置委員会がどのように考えているかは、この文書からは何も伝わってこない。「特に被害者の方々の尊厳の回復こそが最も大切なことだということを強調した」と記されているが、極めて抽象的な一般論でしかありません。この問題の中で、人間としての「尊厳の回復」ということがどのようなことであるのかはまったく見えてきません。

 4人には謝罪文を書き、2人に対する加害は否認し続けているということは、明らかにこの2人に対して差を付けていることになります。しかし、この文書では、その差を付けている理由が記されていません。これに関しては、誰もが認めるところだと思うのですが、日本聖公会京都教区の主教や常置委員会は気が付いていないのでしょうか。だとすれば、これまでに何人かの方々から報告されている日本聖公会の教会の差別的体質は事実であるということが考えられのですが、如何でしょうか。「差別」という言葉だけでアレルギーを起こしてしまう方もいるようですが、現代社会にあっては、ある意味では犯罪的なことであると考えられるようになってきています。「人権侵害」という犯罪です。それは正に人間としての尊厳が損なわれることです。

 子供の頃に母親をガンで失った友人に、それを知っていながら「昔は聖公会では子供の時に片親になった人は司祭になれなかった」という発言をした人がいたことは、その内容が事実であったかなかったかが問題なのではなく、子供の時に母親を失った苦しみを背負って生きている人に対する、明らかな侮辱であり冒涜であるように思えます。こうしたことは、女性司祭按手を認めるか認めないか以前の問題だと思っています。この言葉に苦しんだ友人は、何人かの司祭にそれを相談したそうですが、その発言に対してはっきりと問題性を指摘した司祭は一人もいなかったそうです。日本聖公会京都教区はあの高裁の裁判資料の中の、乙第18号証を何回も読み返す必要があると思います。あの文言を読んで、何も問題性を感じることがなかったら、当分の間、休職してしっかりと研修すべきです。でなければ、また同じような問題が日本聖公会京都教区の中で起こるはずです。

 日本聖公会京都教区は、この問題に関する説明責任があるのではないかと考えています。

ブログのすすめ

2007-12-21 | Weblog

 日本聖公会京都教区の方々だけでなく、他の教区の方々で、FH司祭による性的虐待とそれに対する日本聖公会京都教区の対応に関して一言おっしゃりたいことがある方は、是非ブログをお作りになりませんか?準備するものは

 1.ブログのタイトル
 2.ハンドルネーム(HN)
 3.メールアドレス(ウェブメールという無料のメールボックス
           をお作りになっておくと便利です。Yahoo
           のものですと、OutLook Express が使えま
           すので便利です。この時に、郵便番号や住
           所を登録しなければなりませんが、まった
           関係のない住所や偽名でも登録できます。
           個人情報保護のためにはこれが一番です。

 これだけ用意して、Yahoo なり楽天なりgooなりのサイトへ行ってブログ開設をすればいいだけです。これはどこでも初心者向けに易しく案内されますから、比較的簡単にわかりやすくブログを作ることが出来ます。

 まともなコメントならいいのですが、アダルトサイトへの勧誘などが書き込まれることがあるので(消そうと思えば簡単に消せますが)、それがお嫌な方はコメントを受け付けない設定にすればいいだけです。インターネットの世界は言い放しが出来る世界です。ホームページなどでは、書き込みをすることもメールも出すことも出来ないものが数多くあります。

 そして、自由に書き込みをされては如何でしょうか。現在はインターネット上での発言が世論の一つとして受け入れられています。そして、是非、「糾す会」の一斉メールを通してそのブログのURL(http:// で始まるもので、インターネット・エクスプローラですと左上に「アドレス」と書かれている行に表示されるもの)を公開して下さい。

 毎日書き込む必要はありません。週に一度でも構いません。二週間に一度でも構いません。皆さんのご意見をインターネット上に流して下さいませんでしょうか。そうすることによって、この問題が一日でも早く解決されたら、すばらしいことだと思います。「ワイワイ騒ぎ立てるのがいるからいけない」ということは絶対にあり得ません。日本聖公会京都教区の主教さんや司祭さんも、かつて「インドネシアODAプロジェクト住民訴訟を日本から支援しよう!」という運動をされて、ホームページを立ち上げていらっしゃいました。
 http://www.kit.hi-ho.ne.jp/jubilee-kansai/html/campagn2.htm
 http://www.kit.hi-ho.ne.jp/jubilee-kansai/html/campagn2-2.htm
 この運動は既に終わっているようですが、日本聖公会京都教区における現職司祭の性的虐待事案は、解決していないどころか、ますます泥沼に填り込んでいるように見えます。

 ブログは、それ自体からブログの設置者を特定することは出来ません。どこから書き込んでいるかも判りません。私がいまこれを書き込んでいるのが、東京の某所にある事務所なのか、それとも有名なビバリー・ヒルズかはお判りにならないと思います。避寒のために、地球の裏側のブラジルにいるかもしれません。gooでは調べれば判るかもしれませんが、どの電話回線から書き込まれたかを特定することは、犯罪性がなければ調べることが出来ません。

 皆さんも是非、ブログを立ち上げて下さい。
 そして日本聖公会京都教区の問題を論じて下さい。それが、被害者のための祈りに繋がるのではないでしょうか。一人でも多くの人々に、被害者のために祈っていただく必要があると思います。これは、日本聖公会京都教区あるいは日本聖公会内部だけの問題ではありません。キリスト教界全体に影響を及ぼすことです。どこの教会幼稚園でも、少子化のあおりを受けて、園児の数が減少しています。一日も早く、社会通念に照らして妥当な解決が為されることを祈りましょう。性的虐待は法律に違反する以前に、聖書の教えに反しています。

京都教区は何を血迷ったのか

2007-12-21 | Weblog

 ほっぺたにキスしただけで懲戒免職になっている学校の先生がいるというのに、京都教区は何を血迷ったのだろう。原田文雄司祭の行為は、裁判を提訴したAさんともう一人とそれ以外の女性4人に対して行われているのだが、4人の女性に対する加害行為を原田文雄司祭は認め、謝罪文を書いているにもかかわらず、日本聖公会京都教区は何故、原田文雄司祭を懲戒免職にしないのか。どう考えても、血迷っているとしか思えない。

 日本の法律を犯した、明らかな犯罪を犯しているのだから、常識で考えれば、懲戒免職は当然のことだろう。しかも、刑法が規定している「準強制わいせつ」に相当する事案のはずなのだが、Aさんに対する加害行為を認めない原田文雄司祭に対して、高地主教と常置委員は「今後も事実確認の積み重ねが必要であることを伝え、特に被害者の方々の尊厳の回復こそが最も大切なことだということを強調した」だけで終わっているのはどういうことだろう。

 友人が高裁の裁判記録に公判記録が見つからなかったと言っていたので、知り合いの法曹関係者に問い合わせたら、公判は開かれていないかもしれないとのことだった。控訴理由書とそれに対する反論などであの判決を下したのだろう。原田文雄司祭は被害者の精神障害を主張していたらしいが、実に愚かなことだ。精神科の医師の診断もなく、教会の牧師である司祭がすることではない。いや、絶対にしてはならないことである。日本聖公会京都教区はこうした愚かな行為を審判しないということによって、被害者に対する二次的加害と差別を行っていないだろうか。あの4人に対しては謝罪文を書かせているというのに、残りの2人に関して沈黙しているということはどういうことなのか。

 師走に入って何かと仕事が忙しいのだが、どうしても気になっていることがあるので、今晩でも友人に電話をしてみようと思っている。彼奴も何か感じていることがあるようだが、日本聖公会が持っている主教制の中に、とんでもない誤解があるように思えてならない。


「児童にキスした教員 懲戒免職」

2007-12-19 | Weblog

「児童にキスした教員 懲戒免職」

 宮城県での話だが、この教諭は「父親的な感情を持ってしまった」と弁明しているらしいが、これで「懲戒免職」になっている。日本聖公会京都教区での複数の女児に対する長期間の性的虐待をしていた司祭は、自主退職、そして多額の退職金を受け取っている。おまけに、日本聖公会京都教区はこの問題に対して隠蔽工作を続けている。

 しかも、日本聖公会京都教区の事件は、慰謝料請求の民事裁判だったが、最高裁が上告棄却したことによって、加害者の言い分をすべて退けた高等裁判所の判決が確定している。そして、その確定から既に2年以上も経っているのに、日本聖公会京都教区は加害者である司祭に、被害者に謝罪するように積極的に関わっていない。先日などは、新しく現れた6人目の被害者に同道し、加害者である原田文雄司祭の自宅まで押し掛け、Bさんというその6人目の被害者への行為を認めさせ、謝罪文まで書かせておきながら、慰謝料請求裁判を起こしたAさんという被害者に対しては原田文雄司祭が否認し続けていることについては、「特別報告」の中で次のように述べている。

 「11月14日(水)
   原田元牧師の要請により懇談。(高地主教、三浦恒久司祭、
  井田泉司祭、宮嶋眞司祭出席)冒頭、原田氏より、彼の記憶
  している事件の経過を聞いたが、Aさんから告発された事実
  については否認を続けている。また、2001年当時の退職
  撤回時の経緯については、明確でない点も多く、今後も事実
  確認の積み重ねが必要であることを伝え、特に被害者の方々
  の尊厳の回復こそが最も大切なことだということを強調した。」

 「強調した」ことで得られる何が得られると思ったのだろう。
 「被害者の方々の尊厳の回復」がもっとも大切なことだと考えているのであれば、日本聖公会京都教区は何故、あの控訴審の裁判記録にある乙第18号証」を問題にしないのだろう。前述の「特別報告」は去る11月23日の教区会で配られたものである。それまでに、日本聖公会京都教区の聖職が2名、裁判記録を閲覧しに行っている。これは、裁判記録の最後に綴じられている閲覧申込書?に名前が記されていることからもはっきりしている。つまり、あの裁判記録の内容を日本聖公会京都教区は既に知っているにもかかわらず(主教に報告していなければ別だが)、「被害者の方々の尊厳の回復こそが最も大切だ」という言葉で逃げようとしているとしか思えない。

 「冒頭、原田氏より、彼の記憶している事件の経過を聞いたが、Aさんから告発された事実については否認を続けている。」と「特別報告」に記されているが、日本聖公会京都教区はあの裁判の結果をどう考えているのか。本人が最後まで否認を続けたら、あの高等裁判所の判決は不当判決だということになるのか。日本聖公会京都教区は、あの「謝罪の記者会見」で、確定した高等裁判所の判決を事実として認めたのではないのか?あの「謝罪の記者会見」は一体何だったのか。Bさんには、最初の交渉で加害事実を認めているにもかかわらず、裁判所に提訴し、最終的に最高裁の上告棄却で確定した高等裁判所判決で、被害状況がすべて認定されているAさんに対する加害行為を否認している原田文雄司祭に対して、何故もっと厳格に謝罪責任を認めさせないのか。

 こうしたことを考えると、あの高等裁判所の裁判記録にある乙第18号証が気になって仕方がない。キリスト教会が絶対にしてはならないことである。にもかかわらず、AさんとBさんの間に、日本聖公会京都教区は歴然とした差を付けているのである。しかも、あの乙第18号証に記されている言葉はあまりにも強烈すぎる。そして、この問題に関しても日本聖公会京都教区が沈黙を続けるのであれば、日本聖公会京都教区はキリストの教会ではなくなる。

中世封建社会

2007-12-17 | Weblog
 日本聖公会東京教区の木下司祭さんが、「『正論』に投稿した」という理由で、「エキュメニカル委員」からおろされたそうだが、やはり日本聖公会は、中世封建社会だったな。驚いた話だ。ここ30年位のキリスト教会の中では、産経新聞を読んでいると右翼だという風潮がある。読売新聞はどうなんだ?朝日新聞や東京新聞を読んでいるのはよくて、産経新聞や"SAPIO" を読んでいるのは、神学的に間違っていると考えているのだろうか。

 『正論』に投稿したという理由で木下司祭をエキュメニカル委員を解任したということは、彼ら自身が「思想の自由」を否定したことにしかならない。確か、1960年代の終わりか1970年代のはじめ頃に、日米安保条約に反対し、ベトナム戦争に反対し、万博キリスト教館の建設に反対していた聖公会神学院の学生をすべて追い出してしまったことがあったよな。友人がその時の資料を持っているそうだが、日本聖公会は30年前は「ウヨク」で、今は「サヨク」なのか?そうじゃないだろ。

 原田文雄司祭の事件とそれに対する日本聖公会京都教区の対応についてあれだけ批判していたら、「モグラたたき」のトップにあったんじゃないの?それとも、他教派からクレームでも付いたのか?もしそうだとしたらお笑いだ。中国共産党がしている「粛正」と同じだからな。しかも、日本聖公会は外部の、つまり日本聖公会でない組織からのクレームで自分たちの委員を代えてしまったことにならないか?「日本聖公会の信徒でないものは黙っていろ」と日本聖公会京都教区で言っている人がいるそうだが、主教会は正に日本聖公会以外の人々の意見を採り入れてしまっていることにならないのか?それでいて、原田文雄司祭は自民党の議員を支援していたそうだが、それは問題にならなかったのか?『正論』はサヨクの月刊誌か?

 日本聖公会は、何を考えているんだ。
 日本聖公会の教会で、信徒が陪餐するところまで、車椅子で自走していける教会がいくつあるかな。礼拝堂が二階以上のところにあって、エレベーターのない教会がいくつあるかな。「みんなで手伝って、二階まで運び上げます」というのでは、まったく問題の解決にならないことは、日本聖公会の司祭でも知っているのがいるはずなんだが、それを実行に移している教会はどれだけあるか。こういうことは、すべての教会で行われて初めて意味があることじゃないのか?お金はたくさん残っているんじゃないのか?あの芝白金にあった修道院の土地を売ったお金、何に使うつもりなんだ?外国の教会の信徒たちが捧げた献金で手に入れた土地じゃないのか?

信徒の時代

2007-12-15 | Weblog
 ローマ・カトリック教会を始め、プロテスタントの教会の中でも、かつては聖職主導型の教会形成が行われていましたが、最近はどんどん信徒が積極的に教会形成と教会活動に関わり始めています。ことに、聖職は専門外のことに関しては素人ですから、付け焼き刃的知識では日毎に進化し続けている近代文明社会で通用しなくなっているからのように見えます。しかし、原田文雄司祭による性的虐待事件に対する日本聖公会京都教区の対応を見ていると、すべてが聖職中心で行われているようにも見えます。

 しかし、聖職の一番大事なことは、サクラメント(聖公会では「聖奠」)の執行と礼拝(聖公会では「聖餐式」)での説教であって、幼児教育やその他の教会活動はむしろ、信徒の専門家による運営が行われてしかるべきものではないでしょうか。ことに、幼稚園の経営に関することなどは、教会の聖職にとっては二次的・三次的問題です。多くの経験をもった信徒の幼児教育専門家が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。

 これは日本聖公会京都教区だけに限ったことではないと思います。
 教会に仕えている聖職者の生活の基盤が、幼稚園によって支えられているというところに問題があると思います。そして、学校法人化することによって、その経営が聖職者の主任務であるかのように思われ、また聖職者自身がそう思ってしまっているケースもあるようです。確かに日本では、キリスト教会が幼児教育の先駆者でした。しかし、それが教会の主任務になることを明治期の宣教師たちは考えていたでしょうか。あるいは、教会論という視点から考えて、聖職の主任務が幼児教育、ことに幼稚園の経営であるかのような実態は、本来の教会のあり方だったでしょうか。

 こうしたことのすべての問題は、はっきり申し上げて日本聖公会京都教区の中に、きちんとした神学的議論と、それに基づいた神学的コンセンサスがないことにあるように見えます。聖職の研修会で、夜は宴会をしていらっしゃいませんか?それでは、研修になりません。日々変化している現代社会に対応できる教会であるためには、一日のうちの多くの時間を神学的研鑽に費やさなければ、サクラメントの執行も説教も、十分な準備が為されないまま行われてしまうのではないでしょうか。教会に仕える司祭が、こうした時間を得るためには、教会の多くのことを信徒にお任せする以外に、24時間しかない1日を聖職者が有効に使うことは出来ないと思います。

また電話を架けました

2007-12-14 | Weblog

 私の友人、鞍馬天狗にまた電話しました。
 光電話にすると3分8.4円ですみます。30分話しても84円。封書で手紙を出すよりも安いです。インターネットは正に光速です。

 日本聖公会京都教区の主教は、彼奴のブログを読んで「腑が煮えくり返る思い」をしているんでしょうね。自業自得です。あんな報告文書を出しても簡単に見破られてしまいますよ。彼奴ら、本文批評を徹底的に訓練されていますから、大抵のものは見破ってしまいますよ。
 鞍馬天狗が言ってることは私も見抜いてました。困ったものです。子供が宿題を忘れたときにする言い訳よりも簡単な謎解きです。しかし、これで審判廷の開廷を要求する方々が出てきたら、主教会や管区はどうしようもないでしょうね。新聞や週刊誌に審判廷に関する情報を入れたら、少なくとも数社は取材に来るでしょうね。それでも構わず、秘密会にして審判廷で提訴を不受理にしたら、新聞はインターネットで情報を集めるでしょう。その時のために、私もTERAさんも準備は整えていますし、そしておそらく鞍馬天狗も着々と準備をしていると思います。近いうちに、もう一度裁判記録を閲覧しに行って来ると言っていました。

 高地主教さんは裁判記録を読んでいないそうですね。もうその時点でアウトです。発言にまったく客観性がありません。まさか、裁判所を御白砂のように考えている訳ではないと思いますが、なぜ自分で裁判記録を読みに行かないのでしょうか。もしかすると、誰かの裁判を傍聴したこともないのかもしれませんね。刑事裁判でも民事裁判でも、日本人のほとんどは傍聴経験がないと思います。しかし、キリスト教の聖職である以上、裁判の傍聴くらいはしておいた方がいいと思いますよ。教会の信徒や関係者の裁判が起こされたら、主教は司牧上の問題として傍聴しに行かなければならないでしょうから、裁判というものがどのような形で行われるのかを、しっかりと知っておく必要があるんじゃないですか?高地主教さんは私よりも年下のようです。頑張ってください。

 常置委員を始め、司祭さんたちは皆さん勉強しておく必要があると思いますよ。しかし、そうした知識がないから、被害者の控訴理由書にあのような反論をしてしまっているのかもしれません。はっきり言って、無知過ぎます。あんな反論をしたら、裁判官はすぐに気が付きますよ。高裁でしょ?高裁の判事になれる人は、裁判官の中でもごく僅かです。ほとんどの人は地裁の裁判官です。地裁は各都道府県にあって、その支部がいくつもありますが、高裁は札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・高松・福岡だけです。そして、基本的には各都道府県の都道府県長所在地に支部がありますが、地裁の数に比べたらその数は極めて少ないです。鞍馬天狗が気が付いたようなことは、高裁の裁判官ならすぐに見抜きます。あの高裁の乙第18号証の中の一文はすごいですからね。

 そして、最大の問題は、審判廷を開催することなく、原田文雄司祭の事案は「時効である」としてしまったことです。時効かどうかは、審判廷が決することです。主教が一人で決められることではありません。確かに、法憲法規には書かれていませんが、書かれていないということは、日本聖公会が日本の宗教法人である以上、日本の法律に基づいて考えなければならないということです。日本の法体系は、不文律を認めていません。かなり広い範囲で知られている観衆であれば別ですが。ですから、そうした意味で原田文雄司祭に対する「陪餐停止」は無効なのです。法憲法規に基づいて行われた審判廷でなければ、誰も懲戒を受けることはありません。そうした法というものの考え方を高地主教はご存じなかったのでしょうね。ですから、「常置委員会報告を受けて」という文書の中であのようなことを書かれてしまったのだと思います。

 日本聖公会での神学教育の問題が根底にあるのかもしれません。3年間では短すぎませんか。大学でも4年間ありますし、他教派の神学大学では博士課程前期(修士課程)まで履修することが原則になっています。高卒だと最低6年間です。他の大学のキリスト教学科を卒業していても、博士課程前期に3年間在籍して研修することが原則になっています。そして、その間にどれだけ本を読んだかということが、説教や牧会において現れてきてしまいます。また3年では、宗教組織としての教会のあり方や、教会法に関しても、十分な理解を得ることは難しいかと思います。鞍馬天狗はそれを実感しているようです。ただ、中には司祭になっても一生懸命勉強されている方もいらっしゃるようですね。これはキリスト教会の聖職として当然のことなのですが、日本聖公会では幼稚園の仕事が多いからなのでしょうか、書斎に籠もれる時間がほとんどないようです。

日本聖公会綱憲

2007-12-12 | Weblog

 日本聖公会管区事務所から2006年10月31日に発行された『日本聖公会法憲法規』1ページにある「綱憲」を引用します。

日本聖公会は全世界の聖公会と共に次の聖公会綱憲を遵奉する。

 第1:旧約及び新約の聖書を受け、之を神の啓示にして救を得る
   要道を悉く載せたるものと信ずる。
 第2:ニケヤ信経及び使徒信経に示されたる信仰の道を公認する。
 第3:主イエス・キリストの命じ給うた教理を説き、其の自ら立
   て給うた洗礼及び聖餐の2聖奠を行い、且つその訓戒を遵奉
   する。
 第4:使徒時代より継紹したる主教、司祭、執事の3職位を確守
   する。

 これがアングリカン・コミュニオンの一致点であろうかと思うのですが、それ故に日本聖公会もここに載せていらっしゃるのだろうと思います。しかし、これだけのことを宣言していらっしゃる教会が、何故、原田文雄司祭の準強制わいせつ事案に関して、誠実に対応されていないのか不思議でなりません。鞍馬天狗氏が記した『常置委員会特別報告に寄せて 高地主教と常置委員会への駁論』という文書を読んでみました。裁判記録を閲覧してきた結果があの結論なのであろうと思います。しかし、高裁の裁判記録にある乙第18号証にある一文には、よく気が付いたなと思っています。鞍馬天狗氏自身が気が付いたのではなく、同行した氏の上司が気が付いたようです。地裁と高裁の裁判記録を手分けして閲覧し、メモしてきたようで、彼から受け取ったメモのコピーの字体もそれを示しています。

 第1はカノン(正典)の宣言、第2はクレドー(信仰告白)の決定、第3はそれに伴ったサクラメント(聖礼典・聖奠)の決定、第4はオルドー(聖職位)の決定であろうと思いますが、この4本の柱に支えられている教会が、現職司祭による女子児童への性的虐待事案に関して、まったく不誠実な対応しかしていない上に、複数の被害者に対して、その対応が異なるという、どう考えても理不尽なことをしていることが理解できません。第4の「主教」は最上位の職位で、教会方をも無視できる権威を持っているとお考えになっているのでしょうか。この「3職位」というのはヒエラルヒーを意味しているのでしょうか。それとも3種類の職位があるということを意味しているのでしょうか。司祭按手式で主教が侍者を勤める時には、マイターもコープも脱いで、ストールを斜めに掛けるということを耳にしたことがありますが、そうする理由は何なのでしょうか。

 それぞれの職位には、それぞれの意味があり、単なるヒエラルヒーではなく、ある意味では「職種」なのでしょうか。もしそうだとしたら、主教が絶対的権威を保持しているということはあり得ないように思えるのですが。そもそも、前述の『綱憲』を遵奉している全世界の聖公会は、聖職按手(ordination)をサクラメント(聖奠)とされていないのですから、主教按手には絶対的権力の付与が含まれているとは思えません。

 あの『常置委員会特別報告』には、「被害者関係者と、電話とファックスによって文章のやりとりをした上で、主教メッセージを全国の教会に送付した。」と記されていますが、おそらく1月29日付けの文書のことであろうと思われます。しかし、あの文書は電話とファクスで意見交換がなされた文書でないことは、被害者のお父様がはっきりと証言していらっしゃるそうです。こうした「怪文書」を平然と全国に流せるのは、主教は絶対的権力を持っているからだとお考えになっているからなのでしょうか。

 また、被害者の法的代理人である鎌田司祭さんとの協議の内容に関して、まったく記されていないのは何故でしょうか。被害者Bさんとの協議に関して、また被害者Bさんに原田文雄司祭の対応については、ある程度のことが記されているにもかかわらず、鎌田司祭は公証人役場で登記された被害者Aさんの法的代理人であるのですから、Bさんに関する報告と同じような対応がなければならないはずなのですが、日本聖公会京都教区の主教や常置委員は、公証人役場で登記された法的代理人の重みをご存じないのでしょうか。

 2001年当時の主教や常置委員会と確認会を行ったと報告されています。これに対して、鞍馬天狗氏は「談合」だと表現しています。私もそう思います。日本聖公会京都教区の側に立っていた人々だけで「確認」しあっても、社会的信用はゼロに等しいというのが近年の日本の考え方ではないでしょうか。第三者が、それぞれの記憶を精査することによって、利害関係抜きにそれが出来るのではないでしょうか。ですから、2007年7月7日に行われた「確認会」での確認事項は、日本聖公会京都教区の内部での「確認」でしかありません。「私たちを信じて下さい」とおっしゃられたとしても、現代の法治国家でそれが通用したら大変なことです。防衛省の幹部と軍事関連品の輸入商社だけで事実関係を確認するようなものですから、信じるとか信じないとかいうレベルの問題ではありません。国会喚問というのはその為にもあるのではないでしょうか。

 『聖公会綱憲』を遵奉しているはずの日本聖公会京都教区のこうした一連の対応の不明瞭さは、何故なのでしょうか。どう考えてもおかしいことが多すぎます。

これで見えて来たのではないですか?

2007-12-11 | Weblog
 やっとこれでFH司祭問題が見えてきたのではないですか?

 しばらく前まで「差別化」という言葉が使われていました。いまでも無神経な方はお使いになっているようですね。誰がそう訳したのか"differentiation" を「差別化」と訳して使い始めたようです。しかし、古くから日本では"discrimination"を「差別」と訳してきました。
 "differentiation" が意味していること、"discrimination"が意味していることとはまったく異なるので、最近は「差別化」という言葉を使わなくなってきているようです。

 岩波書店の『広辞苑』では「差別」をこう説明しています。

 1.差をつけて取りあつかうこと。
   わけへだて。
   正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。
 2.区別すること。けじめ。

 ただ、2.の場合は「差別」ではなく「差」と表現してきたようにも思います。「大人と子供の差」というような表現です。「大人と子供の差」という言葉と、「大人と子供の差別」という時には、意味が異なっているようにも思えます。

 11月23日の『常置委員会特別報告』の内容が問題になっています。Aさんに対するFH司祭の性的虐待については、「謝罪の記者会見」でそれを事実と認めているだけで、その後誠実な対応を日本聖公会京都教区がしているとは思えません。しかし、同じFH司祭による性的虐待の被害者であるBさんに対しては、「予告なく」押し掛けて、話し合いを強要し、謝罪させ、それを文書化しています。この差は、「差」でしょうか、それとも「差別」でしょうか。
 正当な理由があって区別しているのか、それとも正当な理由がなく差別しているのか。ここに非常に大きな問題があることは、どなたでもお判りいただけることだと思います。しかし、残念なことに、日本聖公会の中ではこうしたことが当然のことであるかのように見過ごされてきたのも事実ではないでしょうか。

 以前に、「FH司祭問題を駁す」というブログに書かれていたように記憶していますが、洗礼を受けた方が、その後すぐに教会の中で司祭からさえも「イジメ」を受け、教会を離れてしまわれたことが記されています。あの方のご家族は日本聖公会の信者さんではないそうですが、それが原因だったこともありそうに思えます。とある日本聖公会の教会であるご婦人が亡くなられました。その時の葬儀には、教区中の司祭や執事が参集していました。もちろん、主教もです。主教座聖堂で盛大な葬儀が執り行われました。しかし、一方では地方の小さな教会で長年にわたって教会のために奉仕され、幼稚園に対しても熱心に奉仕されていた教会委員の方が亡くなったときには、教区からどなたもお見えになっていませんでした。私は、たまたまその方を存じ上げていたので、その葬儀に列席させていただいたのですが、あの主教座聖堂での全聖職による葬儀と比べて、あまりにも日本聖公会が無神経であることに気が付かされていました。

 日本聖公会の中には、身分制度が確実に生きています。それは恐ろしいほどのものです。前述の事例だけではありません。「君はまだ聖公会がよく判っていないから」という発言があったと友人から聞いたとき、本当に驚きました。「判っていない」という前に何故教えなかったのでしょうか。しかし、聖公会に聖公会としての確固たる神学が存在するのでしょうか。「聖公会には聖職の数だけ神学的理解があるみたいだ」と友人はいっていました。そしてそれも、きちんとした神学用語や理解があってのことではないようです。あの「執事に昇格」とか「司祭に昇格」という表現をFH司祭が使ったことを考えればお判りいただけると思います。あのFH司祭は、ウイリアムス神学館の教授だったそうですね。本当に困ったものです。そして、裁判所に提出した文書にそう書かれていることを、日本聖公会京都教区の高地主教や常置委員はそれを知っているにもかかわらず、何故弁明しないのでしょうか。

 日本聖公会関係のサイトに、礼拝説教の原稿がそのまま載せられているところがあります。そこを読んで本当に驚きました。説教は文字によるものではありません。音声もしくは手話によるものです。ですから、当然のこととして、説教は話し言葉で書かなければなりません。同音異字の熟語などは、当然意味がまったく異なるわけですから、どうやってそれを避けるかというのも、説教者にとっては重要な課題です。また、説教は聖書に基づいていなければ説教になりません。例話を用いることは極めて重要なことですが、しかし聖書の御言葉がそこで解き明かされなければ、礼拝=聖餐式の説教ではあり得ないのではないでしょうか。説教は神の言葉である聖書にはじまり、聖書に終わらなければなりません。そして、そうした説教を誰が指導するかということは、教会にとって実に重要なことです。

 こうした極めて重要な説教学がおろそかにされているようでは、日本聖公会は最早神学的に破産しているのかもしれません。ですから、AさんとBさんに対する京都教区の対応が異なっていても、その重大な問題性に気が付いていないのだろうと思います。気が付くようであれば、はじめからあのように異なった対応はしないと思われますが‥‥‥

 あの11月23日の「常置委員会特別報告」はそうした意味でも、極めて重大な過ちを自ら証言していると言えます。日本聖公会京都教区の常置委員会は、少なくともあの文書において、自らの重大な過ちを証言しています。FH司祭による性的虐待行為の被害者は、その被害ということに関しては、まったく差別されるものではないはずです。