いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

第九条の二

2007-10-22 | Weblog
 自由民主党新憲法草案(平成17年11月22日)には「第九条の二」として次のように記されています。

 第九条の二
  我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保する
 ため、内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍を保持する。
  自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動
 を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認そ
 の他の統制に服する。
  自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活
 動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と
 安全を確保するために国際的に強調して行われる活動及び
 緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若し
 くは自由を守るための活動を行うことができる。
  第二項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関
 する事項は、法律で定める。

 この世を造り、今も統べ治め給う主イエス・キリストの父なる神に対する信仰から、この新憲法草案を考え、議論することは、キリストの教会にとって当然の義務だと考えられます。なぜならば、戦争ということに関して、教会は積極的にそれに関与してきたり、あるいはその戦争を止めようと命がけで戦ってきた歴史を持っているからです。政治に関することは教会は語るなという方々もいらっしゃるようですが、私はそうは思いません。むしろ教会は、この世にあって神の言葉をこの世に対して語り続けてきたのですから。神の言葉は、個人の心の中に語りかけられただけのものでしょうか。あの日、ゴルゴタの丘の上で起こったことは、個人の生活の中や、個人の心の中の問題を解決するだけのものだったのでしょうか。そして、御復活のキリストが「平和」という言葉を挨拶に用いられたのは、単にユダヤ的な習慣からだけだったのでしょうか。

 この草案は非常に曖昧なものを残しています。「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保する」ということは、どの範囲で行われることなのか。日本の領土の中だけなのか、あるいは防空識別圏と呼ばれている領海や領空を越えた範囲でのことなのでしょうか。あるいは、公海上であっても、それが日本の艦船や航空機であればそれを守るとをうことなのか。「自衛権」は既に存在しています。憲法以前の問題です。日本国内では、個人は正当防衛が法律によって認められています。また、国連は各国の自衛権を認めています。近年になって、日本の船舶が海賊に襲われる危険性が出てきました。そして、事件も起こっています。あの海域で海上自衛隊の護衛艦が警備活動を行うことは「自衛権の行使」なのでしょうか。それとも海外侵略なのでしょうか。海上保安庁の船では、あの海域での哨戒任務は到底無理だと思われます。かといって、他国の領海内には、その国の許可なく日本の海上自衛隊や海上保安庁の艦船が入ることは出来ません。航空機でも同じことです。日本の領空を侵犯している国籍不明機はかなりの数に上っています。私の友人は、とあるところで、北朝鮮のものと思われる爆撃機が超低空で飛んでいるのを目撃しています。北朝鮮の爆撃機だと断言できるのは、その小型爆撃機は中国製で、かつては中国空軍に属していたものですが、新しい爆撃機の完成と共に、そのほとんどすべてが北朝鮮に売却されているからです。そして彼は、中国の新型爆撃機も見たことがあると言っていました。東京上空をミグが飛んでいるのを、東京にお住まいの皆さんも見たことがあると思います。私も見たことがあります。翼に日の丸はありませんでした。

 「自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」という一文ですが、「その他の統制」とは何を意味しているのか。この6文字に大きな落とし穴があると思えるのは私だけでしょうか。第一項には確かに「内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍」と規定されているのですが、「法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する」ということですから、この「その他の統制」が非常に曖昧な形で残ってしまうように思えます。内閣総理大臣や国会以外の統制を受ける可能性があるということの意味がはっきりしていないと、今までと同じような議論が続いてしまうのではないでしょうか。

 そして第三項です。
 「法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に強調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。」
 これが海外への軍事侵略を意味しているとは思えません。しかし、明らかに集団的自衛権を意味していると思います。特に「国際的に強調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序」とは何を意味しているのか。アメリカから押し付けられたものであかないかということとは関係なく、日本国憲法もまた前文の中で世界平和を祈念していると私は考えていますから、あえてここでこの第三項を入れることの意図がどこにあるかをはっきりさせなければならないと思います。ことに、現代においては、その戦争が「自衛のための戦争」か「侵略」かの区別をすることが非常に難しくなっている時代です。この点に関しても、曖昧差を残しているように思えます。

 第四項にも明確な文言が抜けているような気がします。「自衛軍の組織及び統制に関する事項」という文言にある「統制」というのは、内部統制のことであろうと思われるのですが、何故それを明示しないのか。そして同時に、万が一外国から侵略を受けた場合、報道管制や取材規制は当然のことであろうと思われるのですが、そのことに関してはこの『新憲法草案』は何も言っていません。

 海外への侵略を一切しないと決断した日本に、この「第九条の二」には存在理由があるでしょうか。最初に申し上げました。自衛権は、個人であれ国家であれ既に存在しているものです。「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」というのは、個人の生き方の問題としてあるのであって、様々な信仰がある社会の中でそれを無理矢理それを押し通そうとすることは、教会社会主義に陥らざるを得ないと思います。日本にも外国航路の客船があります。あの船が公海上で攻撃されたときに、日本はどうするのでしょうか。あの程度の船であれば、通常魚雷1本で簡単に沈められてしまいそうです。横浜の大桟橋に停泊しているのを間近で見てそう思いました。

 そして、もっと大事なことは、日本という国は国民を守る義務があるという考え方を、国自身が見失っていないでしょうか。私は戦争は嫌いです。しかし、外国からの侵略を受けた時、自分を含めた誰かが殺されることも嫌です。日本は専守防衛に徹してきました。しかし、現実は専守防衛するだけの能力を持っていません。公海上、もしくは公海の水面下にいる船舶から発射されたミサイルを確実に撃墜する能力を持っていません。領海は12海里です。
 1852mX12=22224mです。マッハ3の飛行物体は約1km/秒で飛んでいます。領海から領土まで、発射から最速になるまでの時間を考えても、25秒~30秒で飛んできます。落下し始めてからの弾道ミサイルをすべて撃墜することは至難の業です。今のミサイルは、マッハ3で飛んでいる飛行機を撃墜するために作られたものです。

 こう言うと「あなたが敵と戦ってきなさい」とか「若者たちをまた戦場に送り出すのですか?」という反論が聞こえてきそうです。21世紀の戦争の形態は、20世紀までとはまったく異なったものであることを、あの911が教えてくれているのではないでしょうか。「テロリズム」という言葉自体がそれを示しています。チベットで僧侶や民衆が軍の監視下に置かれているようですが、そのニュースが伝わって以降、新しい情報は入ってきていません。アフリカからのニュースも途絶えています。フィリピンの教会はどうなったのでしょう。聖公会の教会も軍部からの弾圧を受けているのですが。

 日本聖公会の主教や司祭は、こうした現実をどう考えているのでしょう。
 信仰は政治とは関係ないから、考えていらっしゃらないのですか?それとも、ガンジー主義を貫き通そうとしていらっしゃるのですか?だとしたら、まったく無防備の12歳以下の少女に対する準強制わいせつに関して、何故隠蔽工作をされるのでしょうか。教会は加害者に対しては悔い改めを促し、被害者に対しては徹底的な庇護をしなければならないのではないでしょうか。
 少なくとも今の日本聖公会京都教区の主教や常置委員のしていることは、加害者を庇護していることにしかなっていないと思われます。そして、幼児や児童に対する性的虐待は、世界的規模で社会的に非常に大きな問題になっています。そうしたことを少しでも学んだら、加害者を庇護することは出来ないように思えます。


確実にカルトですね

2007-10-22 | Weblog

<キリスト教カルトを斬る>というTERAさんのブログに下記の文が載っていました。

> ある教区の司祭さんが日本聖公会を離脱されて、
>単立教会として御ミサや結婚式を始められたそう
>なのですが、「式文が少しでも日本聖公会のもの
>に似ていたら、著作権の侵害になる」と息巻いて
>いらっしゃいました。離脱された司祭さんがどの
>ような式文を使っていらっしゃるのか判りません
>が、例えば、クランマー大主教の陪餐直後の祈り
>を自分で翻訳したら、日本聖公会の祈祷書に似て
>しまうのですが、それをもって著作権の侵害だと
>主張されたら、物笑いです。クランマー大主教の
>祈りの著作権あるいは翻訳権を日本聖公会が持っ
>ているのでしょうか。あるいは、クランマー大主
>教の祈りの著作権をイギリス聖公会は主張されて
>いるのでしょうか。クランマー大主教の祈りは、
>他教派の式文にもその訳文が載っていることをご
>存知ないようです。

 これを読んですぐに電話しました。
 どうってことはありません、私の友人がその場に居合わせたそうです。ただ私が聞かされていなかっただけです。恐ろしいことですね、ご自分たちの権利は主張されるのですが、他人の権利は認めないという、他者を見下した発想ができるのが日本聖公会なのですね。
 そのうち、「日本聖公会はイギリス国教会の流れに沿った教会だから治外法権を持っている」と言い出しかねませんね。自分の部下である現職の司祭が犯した準強制わいせつ事件を隠蔽しようとしている京都教区に対して、管区は何も出来ないでいるのですから。

 この「離脱した司祭」というのは私の友人かと思ったのですが、違う人でした。そう言えば、この司祭のことに関しては友人から聞いたことがあります。教会外の所から結婚式を依頼されたらしいのですが、それを教区は最初は認めることをせず、そのうち、収益の半分を教区に差し出すようにと言われたそうですよ。そして、その結婚式をする働きのために、主教はその司祭を祝福したそうです。しかし、教区はその後になって彼を別の任地へ移動しようとしました。しかし、奥さんの体調や病院のこともあるので、その移動命令を撤回して下さいと申し出たそうなのですが、教区はそれを拒んだそうです。「あり得ることだよ」と友人は言っていました。確か、友人も同じような目にあったはずです。これに関わった司祭と、前述の著作権云々を口にした司祭は同じ人物だとTERAさんが電話で教えてくれました。

 そして、その後で友人から電話があって、詳しいことを知りました。この情報は間違いない筋から入った情報だそうです。友人は奥さんにお会いしたことがあるそうです。何しろ、日本聖公会の人事異動には恣意的なものが強すぎます。これは監督制と呼ばれる教会制度の一つではよく見かけられることです。しかし、会衆制の教派でも「親分」は必ずいます。しかし、日本聖公会は犯罪に関しても、それを教会的権威で否定したり、隠蔽しようとします。先の結婚式の収益の半分を教区に差し出せという話があった時にそこにいた司祭は、車で人身事故を起こしていたのですが、それに関しては箝口令が敷かれていました。友人はその事故がどこで、どのような情況で起こったかも知っていました。よくある巻き込み事故で、被害者の方も大した怪我ではなくて済んだようですが、それを隠蔽し続けていたようです。主教がそれを知っていたかどうかは友人は知らないと言っていました。

 自分たちの立場を守るためには、他者の人権を無視することなど平然とやってのけられるのが日本聖公会の聖職たちのようです。自らの過ちを絶対に認めないのが日本聖公会の聖職者たちのようです。友人の手術に関しても、同じことが言えます。今の彼には、彼は重いものを持ち上げることが出来ません。しかし、日本聖公会は一切その責任を認めようとしていません。

どこまで往生際が悪いのか

2007-10-20 | Weblog
 どこまで往生際が悪いのか。
 京都教区主教や常置委員の往生際の悪さには眼を余るものがあるとお思いになりませんか?裁判記録が何人もの方々によって閲覧され、その内容が明らかになっているというのに、ある司祭さんに対する罵詈雑言を<2チャンネル>という掲示板に書き込んでいる輩がいます。<2チャンネル>という掲示板へ行って、左上にある検索に「聖公会」と入力してみて下さい。所々に変な絵を書き込んでいるのがいますが、それは無視して、そこにどういうことが書かれているかお読み下さいませんか。そして、誰がこうしたことを書かせているかということもお考え下さい。<2チャンネル>へはグーグルで検索すればすぐにアクセスできます。

 京都教区の司祭の準強制わいせつに関する京都教区の対応を見ても、あるいはK司祭と名指しされている方に対する誹謗中傷も、出所は同じような気がしています。社会問題をキリスト教神学の中の社会倫理の視点から考えることが出来ないので、ただ社会的な発言を鵜呑みにして、それを鸚鵡返しに繰り返している司祭たちの愚かな発言が、実は日本聖公会の中で大手を振って歩いているのです。それだけではありません。人権に関する発言をしていながら、京都教区で起きた現職司祭の準強制わいせつに関しては沈黙しているという、実に見事な思想的混乱を繰り返しているのです。

 友人に電話して、そのあたりのことを尋ねようと思ったのですが、今夜はもう寝てしまったようです。「3年間の教育で、神学的に独り立ち出来るはずもない。神学院を某大学の大学院の研究科の一つにするということも言われているみたいだが、神学の基礎的な知識を習得するには少なくとも3年はかかる。それなしに、大学院へ他の学部を出た人が入っても、大学院としては内容的に難しくなるだろう。そして、博士課程前期は2年しかないから、その2年間に何冊本が読めるだろう。そえを考えると、内容的には何も判らずに、「修士課程修了」という箔を付けたいだけのかもしれないが、そんなことをしたら、大学が困るだろう。大学院の学位は、文科省がかなり厳しくチェックしているらしいから。」と先日話していました。

 自分の神学をも相対化して考えられるようにならなければ、卒業しても神学は出来ないのではないでしょうか。三位一体論だけでなく、神論・キリスト論・聖霊論をきちんと学んでいなければ、「神様のイメージ」とか「イエス様のイメージ」とか「聖霊のイメージ」という言葉が平然と使われてしまいます。キリスト教会が2000年近くに渡って、それなりの伝播と自己形成を繰り返してくることが出来たのは、そうした神学的営為が為されてきたからではないでしょうか。本は並べておくだけではインテリアでしかありません。教会が何かをするとき、その根底に神学がなければ、それを「教会の宣教の業」とは言えません。ただ、「伝道」と「宣教」の意味の相異をご存知ない司祭さんも多いと聞いています。

悲しいこと

2007-10-18 | Weblog
 今日は悲しいことを書かなければなりません。私も驚きました。そして、すぐにTERAさんにも電話しました。TERAさんは知っていました。皆さんは、いつの時代に生きていらっしゃいますか?日本聖公会は封建社会の時代に生きているようです。

 今朝、仕事のことで電話があって、少し長話をしてしまいました。その時に彼がこういったんです。
 「『日本聖公会では、子供の時に片親になった人は司祭になれなかった』ということを言われたことがあるが、それは、自分を生んだ母親がガンで苦しんでいた時のことを話した直後だった。それを言った人はいま主教をしている。」
 女性司祭按手に賛成しない友人を批判している人でもあったそうです。
 彼らには人権ということなど考えられないことなのでしょう。相手が誰であろうと、言っていいことと言ってはいけないことがあるのではないでしょうか。その方は、友人にそれを言った後、「日本聖公会では、子供の時に片親になった人は司祭になれなかった」ということを批判することは何も言わなかったそうです。「女性の人権」という言葉を知ってはいても、人権はすべての人に同じように与えられているということをご存知なかったのだろうと思います。

 「日本聖公会では、子供の時に片親になった人は司祭になれなかった」というのは間違いなく不文律であろうかと思われますが、不文律はともすると水面下に潜んでいて、ある時突然浮上してくるものではないでしょうか。だからこそ、進歩というのは常に過去を真剣に問い直し続けている必要があるにもかかわらず、こうした発言が、当事者に対して為されるということ自体、なんら過去を捉え直していないということになりはしないでしょうか。友人は、その後すぐに尊敬する日本聖公会の司祭にそのことを尋ねたそうです。「誰がそのようなことを言ったのですか。」とその司祭は怒りを露わにしていたそうです。
 それにしても、こうした発言を問題に出来ない日本聖公会の中に、徹底的に人権を無視するようなことが起こったとしても不思議ではないのかもしれません。彼らが、社会問題に関する発言をしても、その裏には何が隠れているのでしょうか。人の痛みや苦しみを理解しようと思わず、ただご自分たちの仲のいい人々の中で、社会問題に関わっているポーズをしていただけのように見えます。

 ですから、2ちゃんねるなどでは、他教派の事件を取り上げて、それよりは日本聖公会の方がまともだと言いたげな発言が繰り返されています。どういう方がお書きになっていらっしゃるか判りませんが、実に愚かなことです。こうした書き込みが日本聖公会の聖職もしくは信徒によって書き込まれているのだとすれば、当然主教や主教会に大きな責任があるのではないでしょうか。それが、教会としての教区の司牧者である主教ということの意味なのではないでしょうか。
 しかし、友人に「日本聖公会では、子供の時に片親になった人は司祭になれなかった」と言った方が主教になっているということは、最早主教会自身が神学的に破産しているのかもしれません。
 また2チャンネルには「聖公会の信仰」という任意団体を誹謗中傷していることが書かれていますが、「聖公会の信仰」という団体は、少なくとも原田文雄司祭事件を擁護している主教や司祭たちよりは遙かに健全な神学をお持ちのように見えます。

 「ボクも京都教区の問題を多少なりと知っているが、日本聖公会京都教区の中にも中世が生きているようだね」と、電話を切る前に友人が言っていました。日本聖公会の中に燻っている中世的人間観が、弱い人々を苦しめ、イジメを正当化し、そして性犯罪までもを隠蔽しようとしています。そして、それが教会の正しい歩みだと考えているのだとしたら、正にカルト以外の何ものでもないと思えます。主教や司祭の犯した過ちは、消しゴムでいとも簡単に消せるとお考えなのではないでしょうか。誰にも知られていなければ、過ちはなかったかのように見えてしまいます。
 しかし、主はすべてをご存知です。それが教会の信仰ではないでしょうか。
 

京都教区の聖職は

2007-10-15 | Weblog
児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律
(平成十一年五月二十六日法律第五十二号)
 最終改正:平成一六年六月一八日法律第一〇六号
(目的)
第一条 この法律は、児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を
   著しく侵害することの重大性にかんがみ、あわせて児童の権利の擁
   護に関する国際的動向を踏まえ、児童買春、児童ポルノに係る行為
   等を処罰するとともに、これらの行為等により心身に有害な影響を
   受けた児童の保護のための措置等を定めることにより、児童の権利
   を擁護することを目的とする。
(定義)
第二条  この法律において「児童」とは、十八歳に満たない者をいう。
 (以下略)

 京都教区の聖職はこの法律を読んだことがあるのでしょうか。
 はっきり言って、正常な感覚を持った一般人であれば、この法律を読んでいると気分が悪くなるかもしれません。私も、嘔吐を催したことがありました。しかし、この嘔吐を起こさせるようなことをしている大人たちがいるという社会的現実を、聖職者たちはしっかりと認識しておく必要があると思うのです。理由は既にお判り頂けていると思うのですが、原田文雄司祭の事案はこの法律が規定していることに合致しているからです。
 確かに、この法律は平成11年=1999年に制定されました。原田文雄司祭が準強制わいせつの類の行為を複数の女子児童にしていた時期は、この法律が制定される以前ですが、しかし、この問題は今、社会の中で大きな問題になっています。そして今でも、「児童ポルノ」と呼ばれている写真集やDVDが販売されているのも事実です。「児童ポルノ」で検索してみて下さい。膨大な数のサイトがヒットしてきます。その中で報告されているものの中に、ある有名週刊誌の記事で「『小中学生Tバック写真集』が300万部」も売れているという報告が記されていると書かれています。300万という数字がどの程度正確かについては判りませんが、他のサイトを見ていくと、この数字が極端に割り増しされた数字ではないことがお判り頂けると思います。

 「教会の中でそういう話は聞きたくない」とお思いも方が多いのではないかと思います。私もそうですから。しかし、現職の司祭が何年にもわたって、児童に対する準強制わいせつ行為をしていたのは事実なのです。少なくとも、日本の裁判所はそれを事実として認定し、最高裁判所の上告棄却・不受理によって確定したのです。そして、その行為が行われたのは教会の礼拝堂の中や日本聖公会ではベストリーと呼ばれている部屋なのです。
 皆さんの教会で同じようなことが行われていたとしたら、そこで主日ごとに行われる聖餐を皆さんは平常心でお受けになることが出来るでしょうか。現場教会の信者さんは今でも苦しんでいらっしゃると聞いています。他の教会の方々も、是非この重荷を一緒に負って差し上げていただけないでしょうか。日本聖公会の皆さんは、私のように他教派の方ではありません。正に信仰の同朋が苦しんでいらっしゃるのです。
 被害者とそのご家族の方は既に教会を離れてしまわれ、教会からの文書も送り返されていると、キリスト教関係の新聞に出ていました。本当に悲しいことです。聖餐の交わりから離れてしまわれたのですから。

 この事件は単なるわいせつ事件ではありません。児童に対する準強制わいせつ事件です。世界中が問題にしている事件です。

(児童ポルノ提供等)
第七条 児童ポルノを提供した者は、三年以下の懲役又は三百万円以下の
   罰金に処する。電気通信回線を通じて第二条第三項各号のいずれか
   に掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により
   描写した情報を記録した電磁的記録その他の記録を提供した者も、
   同様とする。
    前項に掲げる行為の目的で、児童ポルノを製造し、所持し、運搬
   し、本邦に輸入し、又は本邦から輸出した者も、同項と同様とする。
   同項に掲げる行為の目的で、同項の電磁的記録を保管した者も、同
   様とする。
 (第3項以下略)

 簡単に言えば、児童ポルノを個人が個人に見せただけで「提供罪」が成立することがあり得るという弁護士もいらっしゃいます。また、他人に見せるために所持していた場合も犯罪になるということです。勿論、製造すること自体が犯罪ですが、こうしたものを「不特定若しくは多数の者に提供し、又は公然と陳列した者は、五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処」すと定められています。最高刑が5年というのは決して軽い犯罪ではありません。
 原田文雄司祭は、こうした「児童ポルノ」を所持していたとか、提供したとということではなく、児童に対して明らかな準強制わいせつを犯したわけです。そして、京都教区の主教や司祭たちは、その事件重大性をまったく認識することなく、逆に原田文雄司祭を擁護してしまったのです。審判廷を開くこともなく、陪餐停止という、法憲法規にない「処分」を記者会見という公式の場で発表したのですが、事件そのものに関してはまったく信徒に知らされることなく、既に解決していると誤解している信者さんもいるように聞いています。

 この裁判係争中に在任していた京都教区の全聖職は、この事件の内容をもう一度思い起こし、調べ直し、刑法やこの「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」をお読みになられては如何でしょうか。インターネット上でそれぞれの法律を読むことが出来ます。そして、1983年以来どのようなことが行われ、それが明るみに出た2000年以降、京都教区はこの事件に対してどのような対応をしてきたのかを再認識していただきたいと思います。これは極めて社会的な問題です。「他教派の者は口を出すな」というような問題ではありません。同じような事件が私の周囲で起これば、私は同じように声をあげます。キリスト教界の中で起こったことです。私は、他の教派でも同じような事件があったことを知っています。そして、それに対して教区がどのように対処したかということも、朧気ながら耳にしています。その対処の仕方は、日本聖公会京都教区とはまったく異なったものでした。
 日本聖公会京都教区の聖職者の方々は、もういい加減で沈黙を破られてはいかがですか?それとも、沈黙を破ると、もっと大きな問題が噴出してくる可能性があるのでしょうか。

裏に何が隠れているのですか?

2007-10-14 | Weblog

 日本聖公会京都教区のFH司祭問題の裏に何が隠れているのですか。大方の意見では、FH司祭が重大な秘密を知っているから審判廷を開けないのだろうということなのですが‥‥‥

 今夜も友人と電話で話をしましたが、彼はそのことはまったく知りませんでした。ただ、「明らかになったら大変になるようなことがあるから、原田文雄司祭を審判廷にかけることもせず、法憲法規から逸脱した『処分』をしたとしか考えられない。主教が法憲法規を読んでいないということなどあり得ない」と言っていました。こうしたことは勘ぐっても仕方のないことで、しっかりとした証拠や証言を集めること以外に方法はないのですが、抽象的な表現による情報しか流れていないのが残念です。

 何かがあったのだとすれば、その日時と関係者を特定しなければなりません。でないと、何も立証できないままで終わってしまいます。そして、その証言を裏付ける証拠があって初めて、その証言を真実であると主張することが出来ます。でないと、南京事件のように真実が明らかにされないままで、証言だけが一人歩きしているようになってしまいます。原田文雄司祭が何を知っているのか。京都教区内で何があったのかを、どうしても明らかにしなければならないと思っています。でなければ、南京事件の被害者側の主張だけが前面に押し出されてしまっているように、京都教区のFH司祭問題に関わっていた主教や常置委員の言動をはっきりさせることが出来ません。

 他の主教や司祭は何を怖れていらっしゃるのですか?教会がキリストの教会であるために真実を語ることを何故躊躇っていらっしゃるのですか?それでは、福音が福音でなくなってしまうのではないでしょうか。聖餐の意味さえ宙に浮いてしまうのではないでしょうか。京都教区の司祭さんたちは皆さん、裏の裏までご存知なのではないですか?京都教区で起こったことを秘密にしておきたくても、所詮は人間の仕業です。いつか必ず明るみにでてきます。しかし、外からそれが明るみに出される前に、自らの内からそれを明らかにすることが出来れば、傷口を最小限に留めることが出来ます。

最悪

2007-10-09 | Weblog
 「糾す会」からのメールを読んで心底驚きました。

>現主教の高地敬も被害者の支援団体を目の敵にしています。
>先日も何のアポイントもとらず、突然現場教会に在籍している
>実兄に面会に訪れ(平日)、私(実弟、糾す会責任者)に対す
>る脅しとも取れることをまくし立てて帰ったそうです。
>名誉毀損で訴えるとか、学生時代に学生運動に参加していたとか
>48年前の若い時の関係ないことを並べ立て、一体この人は何を
>言いたいのであろうか?

 48年前は高地主教はまだ幼児だったのではないでしょうか。
 1959年、1960年の政治的混乱期です。そして、昨日の新聞のサイトには、1969年に日本の政府とアメリカ政府の間にあった密約の記事が出ていました。信夫隆司日大教授が、この夏アメリカの公文書館でそのメモを入手したそうです。内容は「返還後の沖縄への核兵器持ち込みと繊維問題に関する日米間の秘密合意」に関するものでした。外務省はその密約を否定しているそうですが。

 アメリカの教会の中には、日本に対して原爆が投下された直後に、トルーマン大統領に抗議のメッセージを送っていた教団があります。その時のトルーマン大統領からの返信電報が、一昨年、その教団の事務所の倉庫から発見されました。「ビースト」と日本人を呼んでいます。「ビーストに対しては、ビーストなりの対応の仕方がある」という内容のものでした。彼らはそれ以後、現在でも核兵器に対する反対運動を続けています。
 そして、日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という「非核三原則」を打ち立てました。しかし、沖縄返還時に、沖縄にもこれが適用されるのかということに対し、自民党内でも分裂をきたした程に、日本中で大きな問題になりました。
 しかし、この密約のメモは1969年のものです。

 日本の教会もこのことを真剣に考えている教会があります。
 高地主教はこうした歴史をご存知ないのかもしれません。それとも、日本も核兵器を持つべきだ、作るべきだとお考えなのでしょうか。あるいは、教会は信仰の場所だから、そうした政治的問題については各自が自由に考えて下さいと語る一方で、核武装論を蔭で支持していくのでしょうか。

 事務所に、しばらく前にアフリカの神戸俊平さんから「ナイロビ通信」が来ていました。その中には、今年の6月にあったワシントン条約会議のことが出ていました。この会議で、象牙の日本向け輸出のみ一部解禁が決定したそうです。アフリカ象の乱獲が始まりそうだと心配されています。ワシントン条約の正式名称は「絶滅の危機に瀕する野生動植物の種の国際商取引に関する国際条約」です。日本人は象牙が好きです。象牙の印鑑を持っていることがある種のステータス・シンボルになっています。しかし、神様の想像の秩序は、確かに進化を伴ってはいるのですが、人間の我が侭で崩してしまっていいものでしょうか。
 フェミニズムが創造の秩序に反するものであることは、誰にでもお判り頂けることだと思っていますが、人間による環境破壊もまた神様の創造の秩序に反するものではないでしょうか。

 日本の教会で、拉致問題を真剣に考えている教会はどれくらいあるでしょうか。そして、今でも拉致される可能性が残されていることを、どれくらいのクリスチャンがご存知でしょうか。そして、拉致問題に対して日本の政府に働きかけている教会はどれくらいあるでしょうか。
 差別は今でも悲惨な状態を呈しています。あるいは、他国人に差別は見えているのでしょうか。教会は、そうした問題に目を瞑っていないでしょうか。あの「良きサマリヤ人の譬え」の中の3人のうち、どの生き方を願っているでしょうか。
 礼拝堂に車椅子のまま入ることが可能な教会はいくつあるでしょうか。もちろん自走してのことです。「みんなで手伝ってあげてるから」という言葉がまだ語られていないでしょうか。
 陪餐するところまで、車椅子で行けますか?車椅子の方や、階段の上り下りが困難な方は、段の下で受けていらっしゃいませんか?知的障害者の方々の洗礼に対する神学をきちんと築き上げていらっしゃいますか?どんなに「高尚」な神学も、ここを欠落させたら、少なくともあのキリストの十字架からはほど遠いものになってしまわないでしょうか。

 世界の中で起こっている福音に反する出来事に対して、キリスト教の聖職が発言することは、当然のことではないでしょうか。教会の教理は、神論だけではありません。キリスト論と聖霊論を常に含んでいなければなりません。でないと、あのマザー・テレサのお働きさえもが後退してしまうのではないでしょうか。聖職が、人間の現実に対する発言をするのは当然のことです。「耳ざわりのいい話」をするだけならば、聖書もサクラメントもその意味を失ってしまいます。
 主イエスが十字架にかかられたのは、誰のためだったのでしょうか。

新憲法草案の問題性は信仰に深く関わりませんか?

2007-10-07 | Weblog

新憲法草案
第六条 天皇は、国民のために、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を
   任命し、内閣の指名に基づいて最高裁判所の長たる裁判官を任命
   する。
    天皇は、国民のために、次に掲げる国事に関する行為を行う。
    (一から十までは省略)
    天皇は、法律の定めるところにより、第二項の行為を委任する
   ことができる。
    天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必
   要とし、内閣がその責任を負う。

 この第六条第一項と第二項に「国民のために」という言葉が挿入されていますが、何故挿入されたのでしょうか。新憲法草案第一条では、今までと同じで(表記法の相異と送り仮名の相異はありますが)、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と天皇が規定されています。ですから、第六条第一項と第二項はこの第一条に規定されていることの範囲でのことですから、あえて「国民のために」と入れる必要はないと思われます。
 戦前の感覚が今でも残っている世代にとっては、「天皇は国民のために」という言葉は、ある意味で象徴天皇制を弱めてしまうような気がするのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか。

 こうした問題と信仰は関係がないとお考えの方がいらっしゃるようですが、私には理解不能です。新約聖書の最初にあるマタイ福音書、かつては伝統的なユダヤ人クリスチャンの中で、初めはヒブル語で書かれたものと考えられてきましたが、私はそうは思っていません。「山上の垂訓」はQ文書であろうかと思われますが、内容的には極めて判りやすい信仰的説話だろうと思えます。つまり、知識人階級に語られていた伝承が集められたものとは考えにくいのですが、如何でしょうか。
 また、これは友人からの受け売りですが、マタイ福音書26章に出てくる、所謂「ナルドの香油」物語ですが、マタイでは「ナルドス」という言葉が一度も使われていません。そして、「ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。」(7節)となっていて、この高価な香油が「石膏のつぼ」=アラバスター製の壺に入っていることは理解していますが、膠などで蓋が密閉されているのでその壺を割らなければ使えないことをマタイは知りません。おそらく、マタイ福音書を保持していたクリスチャンの集団は、極めて高価なナルドスの香油を見たことがなかったからであろうと思われます。
 マルコ福音書14章3節以下には「イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」と記されているにも関わらず、マタイがこの部分を書き換えている意味はそこにあると思われます。
 ナルドスはインド北方のヒマラヤ山系にしか生えていない植物で、その香りの成分の沸点はかなり低く、アラバスター製の壺に入れて密閉しない限りそれを保存することが出来ません。ですから、パレスチナでこれが作られたものだとは思えませんから、インド北方の寒いところで製造され、アラバスター製の壺に入れて運ばれていたものであろうと思われます。
 こうしたマタイ福音書の中に、次のような物語が記されています。

 「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を
納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたし
を試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリ
オン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と
言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言
われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
 (マタイ22章17節以下、日本聖書教会『新共同訳聖書』)

 この物語は、極めて政治的なものを含んでいます。しかも、ギリシア語を話すユダヤ人にとっては、非常に大きな問題であったであろうと思われます。ですから、この物語が福音書の中に残っているのではないでしょうか。
 教会がこの世の現実から眼を背けたら、説教者は何を語ればいいのでしょうか。聖書には、次のような主イエスの御言葉もあります。

 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始め
られた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦
か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな
服を着た人なら王宮にいる。
 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者
以上の者である。
 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
  あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女か
ら生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しか
し、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始め
たときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う
者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したの
は、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かること
だが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
 耳のある者は聞きなさい。
 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼
びかけている子供たちに似ている。
 『笛を吹いたのに、
  踊ってくれなかった。
  葬式の歌をうたったのに、
  悲しんでくれなかった。』
 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつ
かれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢
で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさ
は、その働きによって証明される。」
 (マタイ福音書11章19節以下、日本聖書教会『新共同訳聖書』)

 聖書は信仰を眼前にある現実とは、まったく関わりのないものだとは考えていないのではないでしょうか。

 そもそも、信仰と政治、経済、社会の問題と関わりがあるかないかの議論は、1970年代に終わっていませんか?あのK.バルトの"Kirchen Dogmatik"に記されている内容は単に心の問題でしょうか。私にとってのバルトの「教会教義学」は、正に現代に対する説教だと思えています。新聞の第1面に書かれていることを聖書的神学的視座から読まなければ、クリスチャンにとって聖書も神学もただの飾りにしかならないのではないでしょうか。
 

「正論」に書かれていることについて Ⅱ

2007-10-05 | Weblog
 「正論」11月号にもう一度目を通してみました。
 「‥‥‥しかも教団が終始、組織的に加害者に加担し、事実を隠蔽してきたことです。」とはっきり記されているのには、諸手をあげて賛成します。しかしこう書かれても、「他の被害者もいるのだから、私たちは公に出来ないこともある」という言い訳が聞こえてきそうです。
 「加害者側は裁判で『被害者には虚言癖・妄想癖がある』と主張し、教会関係者は偽証まがいの証言を繰り返して、事件を葬り去ろうとしました。」とも記されていますが、こうしたことを発行部数の多い月刊誌に署名入りで書くことの勇気には、感動しています。なにしろ、日本聖公会の他の教区や管区では、この問題に関して、まったく信徒には真実が知らされていないようです。ですから、こうして日本聖公会の外部に対して問題を明らかにされたのだと思います。

 「日本聖公会の教会員でない者は口を挟むな」という方々がいらっしゃるようですが、逆にこうした文章も明らかにされていることに、非常に大きな意義があると思っています。準強制わいせつは日本の国家が保持している刑法に違反する行為です。しかも、小学生に女子児童に対して為されたのですから、問題は非常に大きいと言わざるを得ません。これは単に日本聖公会内部の事件ではないということでもあります。
 日本聖公会京都教区では、「日本聖公会の教会員以外は口を出すな」ということをおっしゃる方もいるようですが、問題の本質をご存知ないとしか思えません。こうした犯罪の加害者と被害者が日本聖公会の構成員であろうとも、犯罪そのものは極めて社会的なものです。

 日本聖公会の教会の内部で起こった事件ではありますが、しかし、こうした犯罪は一過性のものではないことは、近年になって医学的にもはっきりとされているのではないでしょうか。ですから、こうした事件を隠蔽することは、同じような事件が再発することを防げないということにならないでしょうか。あるいは、問題を回避しようとすることは、事件からの教訓を無にしてしまうことにならないでしょうか。
 あの日本聖公会京都教区における現職司祭の準強制わいせつ事件に対する、高等裁判所の判決が確定しているということは、実に大きな意義があると思います。控訴審は被害者の控訴によって起こされましたが、その判決を不服として加害者が上告したことに対して、最高裁が「上告棄却・不受理」を決定していますが、加害者自身が教会の内部で解決していようとしていないのですから、教区はそのことの意味をしっかりと受け止めなければならないと思っています。言い換えれば、加害者が上告した段階で、「日本聖公会以外のひとは口を挟むな」とは言えなくなっているということです。それでももし、それを口にしたとすれば、それはあまりにも我田引水が度を越していると言わざるを得ません。

 一つ付け加えさせていただけば、小泉元首相の「もったいない」は、「貧乏人は麦を食え」的な発想でしかないと思っています。環境問題は結局何一つ解決していません。モノあまりによる「デフレ」は今も続いています。そして、規制緩和によって、恐ろしいほどの弱肉強食的混乱が、「勝ち組」と「負け組」を作り上げ、低所得者層の生活がどんどん劣悪さを増し、得体の知れない社会保障制度が、「生活保護」を増やしていないでしょうか。規制緩和は無秩序を意味し、新古典派経済学はまやかしの繁栄を鼓舞していないでしょうか。誰が繁栄し、誰が苦しんでいるのかを見ることもなく、規制緩和と新古典派経済学が、どうして共生の社会を目指しているのか、小生にはまったく理解不能です。
 まして、主イエスは、どのような人々とどのような食事をされていたのかを、聖書の中から読みとらない限り、教会は「勝ち組」の宗教集団でしか無くなってしまいますし、御ミサはそうした人々のための御ミサでしかなくなっているのではないでしょうか。

「正論」に書かれていることについて

2007-10-02 | Weblog
 久しぶりに「正論」を読みました。11月号に「信仰を忘れた聖職者たち」というのが出ていたからですが、初っぱながローマ・カトリック教会のT司教さんの批判からはじまっていたので驚きました。二人の著者の名前が書かれているから、どちらの方が書かれたのか判りませんが、T司教さんを誹謗中傷しているような文面には呆れています。平成17年11月22日付で発表されている自由民主党の「新憲法草案批判」をT司教さんが説教で語ることはとんでもないことだというように書かれているのですが、この著者はあの草案を読んだことがあるのでしょうか。

 (横書きだと漢数字は見にくいので、すべて算用数字とします)
 第9条にも問題はあるのですが、それ以上に大きな問題があります。

 第2O条 信教の自由は、何人にも保証する。いかなる宗教団体も、
     国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはなら
     ない。
      何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加する
     ことを強制されない。
      国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を
     超える宗教教育その他の宗教活動であって、宗教的意義を
     有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧
     迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。

 現行憲法ではこうなっています。
 
 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかな
     る宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を
     行使してはならない。
      何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加する
     ことを強制されない。
      国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動
     もしてはならない。

 問題は、第3項です。自民党のサイトにある文書には「3」と数字が書かれていますが、判読し易いためのものだろうと思います。おそらく、提出される新憲法案にはないはずですが、しかし、問題はそんなことではありません。
 「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」という言葉が何を意味しているのかです。私はこれを読んで真っ先に「津地鎮祭訴訟最高裁判決」を思い出しました。一言でいえば、地鎮祭で行われている神道式の祭祀は社会的儀礼あるいは習俗的行為であるから、国や地方公共団体などの建物などを建設する時に行われる「地鎮祭」は、宗教的行為ではない。だから、国や地方公共団体がその経費を支出しても憲法に抵触しないという判決でした。
 そして、「社会的儀礼又は習俗的行為」という言葉が、法律や政治の世界で語られたのは、あの時と「愛媛玉串料訴訟」の最高裁判決だろうとおもいます。あそこでは、「目的」と「効果」から、地裁は違憲判決を出しました。それに対し、高裁は「知事は、遺族援護行政の一環として本件を支出したものであって、それ以外の意図、目的や深い宗教心に基づいてこれをしたものではないし、その支出の程度は、少額で社会的な儀礼の程度にとどまっており、その行為が一般人に与える効果、影響は、靖国神社等の第二次世界大戦中の法的地位の復活や神道の援助、助長に付いての特別な関心、気風を呼び起こしたりするものではなく、これらによれば、本件支出は、神道に対する援助、助長、促進又は他の宗教に対する圧迫、干渉等になるようなものではないから、憲法第20条3項、89条に違反しない」という判決を出したのです。

 しかし、最高裁は高裁が考えたようには考えませんでした。
 判決文の中から、私が重要だと思うところを抜粋します。
 「我が国では、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(28条)を設けていたものの、その保障は『安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ』という同条自体の制限を伴っていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等のこともあって、同憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかった。」
 「元来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。」
 「ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会的通念に従って、客観的に判断しなければならない。」
 (以上は有斐閣『ジュリスト』NO.1114(1997年6月15日号)から引用)

 自民党の新憲法草案が、この二つの最高裁判決を考えていないということはあり得ないことで、愛媛玉串料訴訟の最高裁判決を、津地鎮祭判決の判決まで戻そうとする意図があることは明らかであると思います。ですから、T司教がその危険性を説教したからといって、それが福音から離れたものであるとは考えられません。
 ロマ書13章1節にある「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」というのを、帝政下にある人々はローマ皇帝に従うべきだと解釈するのであれば別ですが、そうでなければ、この混乱した時代の中で「平和について語る」ことは、説教者としてむしろ当然のことではないでしょうか。

 日本聖公会京都教区の原田文雄司祭による女子児童への準強制わいせつに関しては、問題をしっかりと把握していると思いますが、不明瞭な土地売買、ナザレ修女会の土地の処分と移転、あるいは学校内で不倫を繰り返していた司祭や自ら「今日から女になりました」と幼稚園の生徒の前に女装して化粧をして現れた現職司祭の問題等の背後に、一体何があるのでしょうか。ある主教は、奥さんに逃げられた私の友人を「離婚した」との一言で切り捨てたと聞いています。友人は「これであの人の神学は崩壊した」と笑ってましたが、ご自分たちの牙城を守るためには、犯罪であろうが、同性愛であろうが、隠し続けておこうということが理解不能です。こうした日本聖公会の裏に、もっと他のことが隠れていないでしょうか。