自由民主党新憲法草案(平成17年11月22日)には「第九条の二」として次のように記されています。
第九条の二
我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保する
ため、内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍を保持する。
自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動
を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認そ
の他の統制に服する。
自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活
動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と
安全を確保するために国際的に強調して行われる活動及び
緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若し
くは自由を守るための活動を行うことができる。
第二項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関
する事項は、法律で定める。
この世を造り、今も統べ治め給う主イエス・キリストの父なる神に対する信仰から、この新憲法草案を考え、議論することは、キリストの教会にとって当然の義務だと考えられます。なぜならば、戦争ということに関して、教会は積極的にそれに関与してきたり、あるいはその戦争を止めようと命がけで戦ってきた歴史を持っているからです。政治に関することは教会は語るなという方々もいらっしゃるようですが、私はそうは思いません。むしろ教会は、この世にあって神の言葉をこの世に対して語り続けてきたのですから。神の言葉は、個人の心の中に語りかけられただけのものでしょうか。あの日、ゴルゴタの丘の上で起こったことは、個人の生活の中や、個人の心の中の問題を解決するだけのものだったのでしょうか。そして、御復活のキリストが「平和」という言葉を挨拶に用いられたのは、単にユダヤ的な習慣からだけだったのでしょうか。
この草案は非常に曖昧なものを残しています。「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保する」ということは、どの範囲で行われることなのか。日本の領土の中だけなのか、あるいは防空識別圏と呼ばれている領海や領空を越えた範囲でのことなのでしょうか。あるいは、公海上であっても、それが日本の艦船や航空機であればそれを守るとをうことなのか。「自衛権」は既に存在しています。憲法以前の問題です。日本国内では、個人は正当防衛が法律によって認められています。また、国連は各国の自衛権を認めています。近年になって、日本の船舶が海賊に襲われる危険性が出てきました。そして、事件も起こっています。あの海域で海上自衛隊の護衛艦が警備活動を行うことは「自衛権の行使」なのでしょうか。それとも海外侵略なのでしょうか。海上保安庁の船では、あの海域での哨戒任務は到底無理だと思われます。かといって、他国の領海内には、その国の許可なく日本の海上自衛隊や海上保安庁の艦船が入ることは出来ません。航空機でも同じことです。日本の領空を侵犯している国籍不明機はかなりの数に上っています。私の友人は、とあるところで、北朝鮮のものと思われる爆撃機が超低空で飛んでいるのを目撃しています。北朝鮮の爆撃機だと断言できるのは、その小型爆撃機は中国製で、かつては中国空軍に属していたものですが、新しい爆撃機の完成と共に、そのほとんどすべてが北朝鮮に売却されているからです。そして彼は、中国の新型爆撃機も見たことがあると言っていました。東京上空をミグが飛んでいるのを、東京にお住まいの皆さんも見たことがあると思います。私も見たことがあります。翼に日の丸はありませんでした。
「自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」という一文ですが、「その他の統制」とは何を意味しているのか。この6文字に大きな落とし穴があると思えるのは私だけでしょうか。第一項には確かに「内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍」と規定されているのですが、「法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する」ということですから、この「その他の統制」が非常に曖昧な形で残ってしまうように思えます。内閣総理大臣や国会以外の統制を受ける可能性があるということの意味がはっきりしていないと、今までと同じような議論が続いてしまうのではないでしょうか。
そして第三項です。
「法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に強調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。」
これが海外への軍事侵略を意味しているとは思えません。しかし、明らかに集団的自衛権を意味していると思います。特に「国際的に強調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序」とは何を意味しているのか。アメリカから押し付けられたものであかないかということとは関係なく、日本国憲法もまた前文の中で世界平和を祈念していると私は考えていますから、あえてここでこの第三項を入れることの意図がどこにあるかをはっきりさせなければならないと思います。ことに、現代においては、その戦争が「自衛のための戦争」か「侵略」かの区別をすることが非常に難しくなっている時代です。この点に関しても、曖昧差を残しているように思えます。
第四項にも明確な文言が抜けているような気がします。「自衛軍の組織及び統制に関する事項」という文言にある「統制」というのは、内部統制のことであろうと思われるのですが、何故それを明示しないのか。そして同時に、万が一外国から侵略を受けた場合、報道管制や取材規制は当然のことであろうと思われるのですが、そのことに関してはこの『新憲法草案』は何も言っていません。
海外への侵略を一切しないと決断した日本に、この「第九条の二」には存在理由があるでしょうか。最初に申し上げました。自衛権は、個人であれ国家であれ既に存在しているものです。「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」というのは、個人の生き方の問題としてあるのであって、様々な信仰がある社会の中でそれを無理矢理それを押し通そうとすることは、教会社会主義に陥らざるを得ないと思います。日本にも外国航路の客船があります。あの船が公海上で攻撃されたときに、日本はどうするのでしょうか。あの程度の船であれば、通常魚雷1本で簡単に沈められてしまいそうです。横浜の大桟橋に停泊しているのを間近で見てそう思いました。
そして、もっと大事なことは、日本という国は国民を守る義務があるという考え方を、国自身が見失っていないでしょうか。私は戦争は嫌いです。しかし、外国からの侵略を受けた時、自分を含めた誰かが殺されることも嫌です。日本は専守防衛に徹してきました。しかし、現実は専守防衛するだけの能力を持っていません。公海上、もしくは公海の水面下にいる船舶から発射されたミサイルを確実に撃墜する能力を持っていません。領海は12海里です。
1852mX12=22224mです。マッハ3の飛行物体は約1km/秒で飛んでいます。領海から領土まで、発射から最速になるまでの時間を考えても、25秒~30秒で飛んできます。落下し始めてからの弾道ミサイルをすべて撃墜することは至難の業です。今のミサイルは、マッハ3で飛んでいる飛行機を撃墜するために作られたものです。
こう言うと「あなたが敵と戦ってきなさい」とか「若者たちをまた戦場に送り出すのですか?」という反論が聞こえてきそうです。21世紀の戦争の形態は、20世紀までとはまったく異なったものであることを、あの911が教えてくれているのではないでしょうか。「テロリズム」という言葉自体がそれを示しています。チベットで僧侶や民衆が軍の監視下に置かれているようですが、そのニュースが伝わって以降、新しい情報は入ってきていません。アフリカからのニュースも途絶えています。フィリピンの教会はどうなったのでしょう。聖公会の教会も軍部からの弾圧を受けているのですが。
日本聖公会の主教や司祭は、こうした現実をどう考えているのでしょう。
信仰は政治とは関係ないから、考えていらっしゃらないのですか?それとも、ガンジー主義を貫き通そうとしていらっしゃるのですか?だとしたら、まったく無防備の12歳以下の少女に対する準強制わいせつに関して、何故隠蔽工作をされるのでしょうか。教会は加害者に対しては悔い改めを促し、被害者に対しては徹底的な庇護をしなければならないのではないでしょうか。
少なくとも今の日本聖公会京都教区の主教や常置委員のしていることは、加害者を庇護していることにしかなっていないと思われます。そして、幼児や児童に対する性的虐待は、世界的規模で社会的に非常に大きな問題になっています。そうしたことを少しでも学んだら、加害者を庇護することは出来ないように思えます。
第九条の二
我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保する
ため、内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍を保持する。
自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動
を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認そ
の他の統制に服する。
自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活
動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と
安全を確保するために国際的に強調して行われる活動及び
緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若し
くは自由を守るための活動を行うことができる。
第二項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関
する事項は、法律で定める。
この世を造り、今も統べ治め給う主イエス・キリストの父なる神に対する信仰から、この新憲法草案を考え、議論することは、キリストの教会にとって当然の義務だと考えられます。なぜならば、戦争ということに関して、教会は積極的にそれに関与してきたり、あるいはその戦争を止めようと命がけで戦ってきた歴史を持っているからです。政治に関することは教会は語るなという方々もいらっしゃるようですが、私はそうは思いません。むしろ教会は、この世にあって神の言葉をこの世に対して語り続けてきたのですから。神の言葉は、個人の心の中に語りかけられただけのものでしょうか。あの日、ゴルゴタの丘の上で起こったことは、個人の生活の中や、個人の心の中の問題を解決するだけのものだったのでしょうか。そして、御復活のキリストが「平和」という言葉を挨拶に用いられたのは、単にユダヤ的な習慣からだけだったのでしょうか。
この草案は非常に曖昧なものを残しています。「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保する」ということは、どの範囲で行われることなのか。日本の領土の中だけなのか、あるいは防空識別圏と呼ばれている領海や領空を越えた範囲でのことなのでしょうか。あるいは、公海上であっても、それが日本の艦船や航空機であればそれを守るとをうことなのか。「自衛権」は既に存在しています。憲法以前の問題です。日本国内では、個人は正当防衛が法律によって認められています。また、国連は各国の自衛権を認めています。近年になって、日本の船舶が海賊に襲われる危険性が出てきました。そして、事件も起こっています。あの海域で海上自衛隊の護衛艦が警備活動を行うことは「自衛権の行使」なのでしょうか。それとも海外侵略なのでしょうか。海上保安庁の船では、あの海域での哨戒任務は到底無理だと思われます。かといって、他国の領海内には、その国の許可なく日本の海上自衛隊や海上保安庁の艦船が入ることは出来ません。航空機でも同じことです。日本の領空を侵犯している国籍不明機はかなりの数に上っています。私の友人は、とあるところで、北朝鮮のものと思われる爆撃機が超低空で飛んでいるのを目撃しています。北朝鮮の爆撃機だと断言できるのは、その小型爆撃機は中国製で、かつては中国空軍に属していたものですが、新しい爆撃機の完成と共に、そのほとんどすべてが北朝鮮に売却されているからです。そして彼は、中国の新型爆撃機も見たことがあると言っていました。東京上空をミグが飛んでいるのを、東京にお住まいの皆さんも見たことがあると思います。私も見たことがあります。翼に日の丸はありませんでした。
「自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」という一文ですが、「その他の統制」とは何を意味しているのか。この6文字に大きな落とし穴があると思えるのは私だけでしょうか。第一項には確かに「内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍」と規定されているのですが、「法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する」ということですから、この「その他の統制」が非常に曖昧な形で残ってしまうように思えます。内閣総理大臣や国会以外の統制を受ける可能性があるということの意味がはっきりしていないと、今までと同じような議論が続いてしまうのではないでしょうか。
そして第三項です。
「法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に強調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。」
これが海外への軍事侵略を意味しているとは思えません。しかし、明らかに集団的自衛権を意味していると思います。特に「国際的に強調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序」とは何を意味しているのか。アメリカから押し付けられたものであかないかということとは関係なく、日本国憲法もまた前文の中で世界平和を祈念していると私は考えていますから、あえてここでこの第三項を入れることの意図がどこにあるかをはっきりさせなければならないと思います。ことに、現代においては、その戦争が「自衛のための戦争」か「侵略」かの区別をすることが非常に難しくなっている時代です。この点に関しても、曖昧差を残しているように思えます。
第四項にも明確な文言が抜けているような気がします。「自衛軍の組織及び統制に関する事項」という文言にある「統制」というのは、内部統制のことであろうと思われるのですが、何故それを明示しないのか。そして同時に、万が一外国から侵略を受けた場合、報道管制や取材規制は当然のことであろうと思われるのですが、そのことに関してはこの『新憲法草案』は何も言っていません。
海外への侵略を一切しないと決断した日本に、この「第九条の二」には存在理由があるでしょうか。最初に申し上げました。自衛権は、個人であれ国家であれ既に存在しているものです。「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」というのは、個人の生き方の問題としてあるのであって、様々な信仰がある社会の中でそれを無理矢理それを押し通そうとすることは、教会社会主義に陥らざるを得ないと思います。日本にも外国航路の客船があります。あの船が公海上で攻撃されたときに、日本はどうするのでしょうか。あの程度の船であれば、通常魚雷1本で簡単に沈められてしまいそうです。横浜の大桟橋に停泊しているのを間近で見てそう思いました。
そして、もっと大事なことは、日本という国は国民を守る義務があるという考え方を、国自身が見失っていないでしょうか。私は戦争は嫌いです。しかし、外国からの侵略を受けた時、自分を含めた誰かが殺されることも嫌です。日本は専守防衛に徹してきました。しかし、現実は専守防衛するだけの能力を持っていません。公海上、もしくは公海の水面下にいる船舶から発射されたミサイルを確実に撃墜する能力を持っていません。領海は12海里です。
1852mX12=22224mです。マッハ3の飛行物体は約1km/秒で飛んでいます。領海から領土まで、発射から最速になるまでの時間を考えても、25秒~30秒で飛んできます。落下し始めてからの弾道ミサイルをすべて撃墜することは至難の業です。今のミサイルは、マッハ3で飛んでいる飛行機を撃墜するために作られたものです。
こう言うと「あなたが敵と戦ってきなさい」とか「若者たちをまた戦場に送り出すのですか?」という反論が聞こえてきそうです。21世紀の戦争の形態は、20世紀までとはまったく異なったものであることを、あの911が教えてくれているのではないでしょうか。「テロリズム」という言葉自体がそれを示しています。チベットで僧侶や民衆が軍の監視下に置かれているようですが、そのニュースが伝わって以降、新しい情報は入ってきていません。アフリカからのニュースも途絶えています。フィリピンの教会はどうなったのでしょう。聖公会の教会も軍部からの弾圧を受けているのですが。
日本聖公会の主教や司祭は、こうした現実をどう考えているのでしょう。
信仰は政治とは関係ないから、考えていらっしゃらないのですか?それとも、ガンジー主義を貫き通そうとしていらっしゃるのですか?だとしたら、まったく無防備の12歳以下の少女に対する準強制わいせつに関して、何故隠蔽工作をされるのでしょうか。教会は加害者に対しては悔い改めを促し、被害者に対しては徹底的な庇護をしなければならないのではないでしょうか。
少なくとも今の日本聖公会京都教区の主教や常置委員のしていることは、加害者を庇護していることにしかなっていないと思われます。そして、幼児や児童に対する性的虐待は、世界的規模で社会的に非常に大きな問題になっています。そうしたことを少しでも学んだら、加害者を庇護することは出来ないように思えます。