いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
好き勝手に、支離滅裂に、傍若無人に書き込むブログ

もうはっきりしているだろう

2010-04-22 | Weblog

 昨夜、かなり遅くまで近藤さんとTERAさんと天狗と四人で話をしたが、日本聖公会京都教区の現職司祭(当時)による女児への性的虐待事案をまったく解決できていない理由がどこにあるかは、もうはっきりしている。管区の小審判廷で差し戻されて行われた京都教区の差し戻し審で、それがはっきり見えている。加害司祭を擁護していたと、京都教区主教が既に認めている司祭を、ほぼ無罪放免にしている。そして、上告した管区の小審判廷は未だに開かれていないらしい。

 あの加害司祭は、被害者とその家族から慰謝料請求裁判を提訴され、最高裁で上告却下(棄却ではない)されて確定した高裁判決によって、請求額の満額を被害者に支払わされた。裁判記録のメモを読んだ範囲では、もう少しで請求額以上の支払い命令が出ても不思議ではないほど、高裁は被害者の主張を全面的に支持していた。そして、日本聖公会京都教区は、当初は「冤罪」を主張し、「最高裁に抗議する」という声明を出したが、後にあの判決を受け入れる旨の発言もしている。

 確かに、民事裁判での証言における嘘が偽証罪に問われることはないに等しいのだが、だからといって、教会法廷でそれが問われないということは考えられないだろう。国家の法体系と教会法は、まったく別のものであるし、国家の法律に反した行為が、教会では赦されるどころか、推奨されることさえある。ただ、そうした「教会と国家」の関係に関して、日本聖公会京都教区の執行部がどれだけの認識を持っているか、実に疑わしい。主教や司祭は、一日に何時間くらい、書斎で神学書を読み、自らの神学を構築すべく文字を認めているのか。司祭按手を受け、あるいは主教按手を受けたら、超自然的に必要な知識が付与されるとでも考えているのだろうか。

 これは、日本聖公会京都教区にだけ言えることではなく、日本のプロテスタント教会全般に言えることだ。聖職者達の間で、どれだけ神学的研鑽が行われているのか、実に疑わしい。ある人物が、「チャリス(聖杯)は右手で持たなければならない」ということをある司祭から聞いたので、「何故、右手で持たなければならないのか」と別の司祭に質問したら、「左手は汚れているからかなぁ?」という答えが返ってきて唖然としたという。こんなことは、簡単なことだ。昔は左利き用のゴルフ・クラブを売っていなかったのと同じだ。ゴルフの総本山も、日本聖公会の総本山とおなじイギリスにある。左利きを英語で「グーフィー」と言うようになったのは、アメリカだろうと思っているが、「右手で持たなければならない」と考えている司祭は、かなり以前にイギリス人の宣教師からそう教えられたのかもしれない。

 頼むから、日本聖公会の聖職者は神学書を読んで欲しい。礼拝の中で説教をしているんだろう。礼拝における説教は「閑話」ではない。聖書という神の言葉の解き明かしであることは、多くの説教学者が主張してきたところだ。司祭や主教は、祈祷書を読んでいればそれていいということではなかろう。あるいは、日本聖公会の聖職者は、「牧会」という言葉が何を示してしているかを考えたことがあるだろうか。「有力信徒」の顔色を伺って、主教から左遷されないように気を使って、献金額が減少しないように信者を叱咤激励することが牧会ではないことは、聖書そのものが、そして教会の歴史がそれを示している。

 日本聖公会京都教区における性的虐待事案が解決していない一番の理由は、もうはっきりしているだろう。それを主教会なり、日本聖公会の管区なりが指摘すれば、事態は一気に好転するはずだ。


答は簡単な簡単なことだ

2010-04-05 | Weblog


 年度末の慌ただしさで、送られてくるメールを読んでいるのがやっとだったが、日本聖公会京都教区だけでなく、管区もどうしたら問題を回避できるかだけを考えているように見えて仕方がない。性的虐待が行われていたのは、加害者本人が認めているから、間違いないことだ。認めていないのは、民事裁判を提訴した被害者ともうお一人の方だけではないのか。京都教区主教の報告文書では少なくともそうなっている。そして、性的虐待が露見した時に、それを事実だと考えながらも、「事実無根」という加害者の言葉だけを信じて、一旦退職した加害者を復職させてしまった。このことに関する責任はM主教にあるのだが、当然当時の常置委員にも責任があるだろう。そして裁判が提訴されたあとも、M主教と常置委員会は「事実無根」を押し通し、主教がK主教に替わったあとも、京都教区は一貫して事実無根を貫いていた。それだけではない。彼らはほとんど裁判を傍聴しに行っていない。二人の主教は、一度も裁判を傍聴していないし、高等裁判所の判決が確定したあとも、彼らは裁判記録を閲覧していない。


 それだけではない。その後、K主教は何を血迷ったか、被害者の家族を怒鳴りつけたそうだが、自分たちは加害者の管理責任者だということをまったく認識していないからなのだろう。そして、2004年に、原告(被害者)敗訴の判決が地方裁判所から出されたが、被害者は納得できずに、高等裁判所に控訴した。この時にもまた被害者は大きな痛みを受けたということは、様々なブログで、これまでに何回も論じられてきている。そして、高等裁判所は短い期間の裁判で、控訴人(被害者)側の全面勝訴の判決を出し、請求された慰謝料の全額と裁判費用の全額を引こう訴人が支払えという判決を下した。ところが、被控訴人(加害者)はこともあろうに、最高裁判所に上告した。何故上告したのか、まったく判らない。最近になって、民事訴訟法が改正され、民事裁判はよほどの理由がない限り、実質的に二審制の形になっていることを知らなかったのだろうか。結果は皆さんが知っての通り、最高裁判所による上告却下の決定が為された。要するに、公判は一度も開かれずに、上告そのものが退けられた。これは、「上告棄却」とはまったく異なる。


 法廷が開かれていないのだから、上告人が最高裁判所で証言したこともなければ、被上告人が最高裁判所に呼び出されてもいないということなのだ。早い話が、「門前払い」を食らっただけのことなのだが、こんなことは放送関係者であれば、周知のことだと知り合いの弁護士が話してくれた。最高裁判所で民事の上告審が開かれることはほとんどないので、「実質的二審制」という言葉が使われることがあるそうだが、上告人(加害者)は何にために上告したのか。うまくすれば「冤罪」という主張が認められるとでも考えたのだろうか。これに関して、日本聖公会京都教区は何故、加害者を指導できなかったのだろう。あのころは日本聖公会京都教区は弁護士とは相談していなかったのだろうか。それとも「最高裁に上告して棄却されたら、『冤罪』を主張すればいいと考えたのだろうか。あのころになっても日本聖公会京都教区が「事実無根」を主張していたことは、上告却下が決定された直後に出された「冤罪」発言からはっきりしている。


 そして、加害者はそれまで司牧していた教会を去り、別の教会へ転任したのだが、教会と密接な関係のある学校法人の幼稚園の園長であった加害者に多額の退職金+αを支給している。日本聖公会京都教区のK主教はこの幼稚園の理事であったにもかかわらず、この退職金の支給に異議を唱えたということを聞いたことがない。確かに、裁判は民事裁判だった。刑事事件であったわけではない。しかし、道義的に社会通念からすれば、この退職金の支給には非常に大きな道義的、社会通念的に問題があったと指摘されたにもかかわらず、昨年?になってやっと「返還要求」を出したらしいが、退職金が返還されたということは聞こえてきていない。そして、もう一つの問題は、日本聖公会の管区が、この大きな問題に対して積極的に介入していないことだ。これについては様々な憶測が流れているが、どれも風評としてはあまりにも見苦しいことばかりだ。そして何よりも大きな疑問は、人権派といわれている司祭達が一斉に沈黙し続けてきたことだ。彼らが何故沈黙したのか、既に気が付いている人物もいるが、その見解が正しいかどうかを傍証する証拠はない。しかし、答えは簡単なことだ。一連の問題を解決出来ず、逆に被害者を鞭打つようなことをしてきた二人の主教と、あの性的虐待が露見したあとに常置委員だった司祭を厳正に処分すればいいだけのことだ。他に答えはないだろう。