昨夜、かなり遅くまで近藤さんとTERAさんと天狗と四人で話をしたが、日本聖公会京都教区の現職司祭(当時)による女児への性的虐待事案をまったく解決できていない理由がどこにあるかは、もうはっきりしている。管区の小審判廷で差し戻されて行われた京都教区の差し戻し審で、それがはっきり見えている。加害司祭を擁護していたと、京都教区主教が既に認めている司祭を、ほぼ無罪放免にしている。そして、上告した管区の小審判廷は未だに開かれていないらしい。
あの加害司祭は、被害者とその家族から慰謝料請求裁判を提訴され、最高裁で上告却下(棄却ではない)されて確定した高裁判決によって、請求額の満額を被害者に支払わされた。裁判記録のメモを読んだ範囲では、もう少しで請求額以上の支払い命令が出ても不思議ではないほど、高裁は被害者の主張を全面的に支持していた。そして、日本聖公会京都教区は、当初は「冤罪」を主張し、「最高裁に抗議する」という声明を出したが、後にあの判決を受け入れる旨の発言もしている。
確かに、民事裁判での証言における嘘が偽証罪に問われることはないに等しいのだが、だからといって、教会法廷でそれが問われないということは考えられないだろう。国家の法体系と教会法は、まったく別のものであるし、国家の法律に反した行為が、教会では赦されるどころか、推奨されることさえある。ただ、そうした「教会と国家」の関係に関して、日本聖公会京都教区の執行部がどれだけの認識を持っているか、実に疑わしい。主教や司祭は、一日に何時間くらい、書斎で神学書を読み、自らの神学を構築すべく文字を認めているのか。司祭按手を受け、あるいは主教按手を受けたら、超自然的に必要な知識が付与されるとでも考えているのだろうか。
これは、日本聖公会京都教区にだけ言えることではなく、日本のプロテスタント教会全般に言えることだ。聖職者達の間で、どれだけ神学的研鑽が行われているのか、実に疑わしい。ある人物が、「チャリス(聖杯)は右手で持たなければならない」ということをある司祭から聞いたので、「何故、右手で持たなければならないのか」と別の司祭に質問したら、「左手は汚れているからかなぁ?」という答えが返ってきて唖然としたという。こんなことは、簡単なことだ。昔は左利き用のゴルフ・クラブを売っていなかったのと同じだ。ゴルフの総本山も、日本聖公会の総本山とおなじイギリスにある。左利きを英語で「グーフィー」と言うようになったのは、アメリカだろうと思っているが、「右手で持たなければならない」と考えている司祭は、かなり以前にイギリス人の宣教師からそう教えられたのかもしれない。
頼むから、日本聖公会の聖職者は神学書を読んで欲しい。礼拝の中で説教をしているんだろう。礼拝における説教は「閑話」ではない。聖書という神の言葉の解き明かしであることは、多くの説教学者が主張してきたところだ。司祭や主教は、祈祷書を読んでいればそれていいということではなかろう。あるいは、日本聖公会の聖職者は、「牧会」という言葉が何を示してしているかを考えたことがあるだろうか。「有力信徒」の顔色を伺って、主教から左遷されないように気を使って、献金額が減少しないように信者を叱咤激励することが牧会ではないことは、聖書そのものが、そして教会の歴史がそれを示している。
日本聖公会京都教区における性的虐待事案が解決していない一番の理由は、もうはっきりしているだろう。それを主教会なり、日本聖公会の管区なりが指摘すれば、事態は一気に好転するはずだ。