ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
『ホテル・カリフォルニアの殺人』(宝島社文庫)発売中です!

滝川事件

2022-08-15 21:40:46 | 日記


今日は8月15日。
終戦の日です。

ということで、ひさびさに近現代史記事を書こうと思います。

このカテゴリーでは、昭和8年国際連盟脱退までのことを書いてきました。
今回とりあげるのは、同じ昭和8年に起きた、いわゆる“滝川事件”です。


じわじわと進む軍国主義化……この昭和8年という年は、教育・学問の世界にそれが及んできたときといえるでしょう。

たとえば、赤化小学校教員事件というのがありました。共産党の運動にかかわったという理由で238人の教員が逮捕されたというものです。
奇しくもこの年、尋常小学校の教科書に「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」という文章が登場。確実に日本は軍国主義の道を進みつつあり、それが教育の世界にまで浸透してきていました。

話は、尋常小学校だけにとどまらず、高等教育にも及んできます。共産党弾圧との関係では、この年東京商科大学や京都大学で教授が検挙されるという事件も発生。京大では、河上肇が検挙されています。
そして、その同じ京都大学で起きたのが、いわゆる“滝川事件”です。
なかなか複雑で、いろんな要素がからみあっている事件ですが……表面的な事実としては、京大法学部の教授だった滝川幸辰が辞職を余儀なくされたというもの。
しかし、繰り返しますが、この事件の背景は結構複雑です。幾重にもレイヤーが重なっており……まずそうなるにいたった経緯に関しても、表層とその下にあるレイヤーを切り分けて考える必要があるでしょう。
“表層”――すなわち、当時の文部省が直接理由として挙げたのは、滝川の刑法講義。ここで、トルストイの思想を引き合いに出したことが不穏当だというのです。
しかし、おそらくそれが本当の理由ではありません。
その深層にあるのは、蓑田胸喜の策謀といわれます。
この蓑田という人は反共主義の右翼思想家であり、陸軍から機密費をもらって反軍的な学者を糾弾したりしていました。その一環として、滝川を標的にしたとされています。彼の思想はいささか宗教がかった国粋主義といわれ、先日の記事で書いた反共カルトの代表ともいえるでしょう。その狂信思想が学問の世界に攻撃をしかけたのが、滝川事件なのです。


さて……滝川を追い落とそうとする側から見れば、壁になるのは大学の人事にかかわる“具状権”です。
学問への不当な干渉を防ぐためということで、大学教授の人事などは大学側にゆだねられているというのが当時の慣習でした。
大学が文部省の管轄下にあるとはいえ、そこに口出しする権限はない。大学の人事は総長のみが決定する“具状権”をもっている。文部大臣は、その総長の決定に従うのみ……ゆえに、文部省が滝川を辞職させようとしても強制はできないということになります。その前提で滝川を辞職させるには総長に働きかけるしかないことになりますが、小西重直総長は「大学教授の学問的見解を問題にして地位を動かすことになると大問題が起こる」ときわめてまっとうな理由で文部省側の要請を拒絶しました。学問の自由、大学の自治を守るためには、外部からの不当な干渉を排しなければならない……具状権というものが認められているのはまさにそのためであり、総長が文部省の介入を斥けたのは当然というべきでしょう。

そこで文部省は、あくまでも自発的な辞職というふうに話を持っていこうと策動しました。
右翼団体を使ってデマを流し、滝川の辞職が既定路線というふうに話を持っていこうとするなど……
また、問題となる“具状権”を無効化しようとする試みも。
たとえば、その当時の鳩山一郎文部大臣などは、それまで認められていた具状権を無視し「文部省は国立大学の上級官庁だから人事を決める権限がある」と言い出します。
あるいは、具状がないということ自体が一種の具状であるという「消極的具状」論という無茶苦茶なことまでいわれました。
そしてついには、滝川教授に休職処分をくだすということになるのです。

いやしくも大学で学問に関わる人間であれば、そんな姑息な策謀には抵抗するのが当然です。
休職処分に対して、滝川本人はもちろんのこと、京大法学部の教授陣も、全員での辞表提出という抗議のかまえをみせます。これに、学生たちも呼応。学生大会で総退学の声明がなされ、1300通の退学届けが出されたとか。

しかし……結果だけをいえば、その抵抗は押しつぶされました。
小西総長は最後まで文部省の要求を突っぱねましたが、結局のところ滝川本人による辞表提出というところに追い込まれるのです。

そこにいたるには、文部省側の分断工作がありました。
法学部はほとんど学部をあげて抵抗しましたが、それに対して他学部は冷淡だったともいいます。また、ほかの大学が学問の危機に対して立ち上がってくれるというようなことにもなりませんでした。大学の側が強固なスクラムを組めなかったため、最終的には文部省側に押し切られてしまうかたちになりました。

この、一枚岩で抵抗できなかったというところが大学側の敗因として大きいのはたしかでしょう。
しかし、私が思うに、結局のところは“世間”なのです。
ここで“表層”の話に戻って、トルストイの刑法観というやつですが……これはひらたくいえば、「犯罪者には犯罪者なりの事情がある。ただ厳しく罰するだけでなく、そこにいたった事情を理解しよう」といったものです。
これが不穏当とされる。そしてそれが、“表向きの理由”として世間に受容されてしまう……ここもまた、この事件における大きな問題点だと私には思えます。
トルストイといえば、このブログで最近何度か名前が出てきました。「命を愛することは神を愛することだ」というトルストイ。「他人の不幸の上に己の幸福を築いてはならない」というトルストイ……この国の“世間”という泥沼が、それを受け入れなかったということなのです。たしかに、先に挙げたようなトルストイの「名言」はあまりにきれいごとにすぎるように聞こえるかもしれませんが、それを頭から受け入れない泥沼からは何ものも育たないでしょう。


昭和8年7月11日、滝川の辞表は受理されました。
抵抗運動はここまで。この結果を、半藤一利は「文部省の完勝ということになろう」と評しています。
そして、この件における文部省の勝利は、学問の敗北ということになるでしょう。
文部省の勝利が学問の敗北となる――この時期の日本は、もうそういう状態になってしまっていました。そしてこの方向性が、天皇機関説排撃や国体明徴声明といったところにつながっていきます。まさに、反共カルト思想が学問の世界、法律の世界を浸食していってしまうのです。カルト思想に支配された国家……その先に破局が待っているのは、ある意味必然でした。そこにいたる一つの大きな通過点が、滝川事件なのです。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。