ロック探偵のMY GENERATION

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『フォーリング・ダウン』

2020-07-30 19:49:14 | 映画


今回は、映画記事です。

一昨日のアイアン・メイデンについて書いた音楽記事で、『フォーリング・ダウン』という映画の話が出てきました。
話のついでなので、『フォーリングダウン』という映画について書いてみようと思います。

この映画を私が見たのはもうずいぶん前のことなんですが、今度の機会にもう一度観てみようと思い……ちょうど近所のゲオにレンタル落ちのブルーレイが売られていたので、買って観てみました。

下は、そのYouTube版のプロモーション動画です。

フォーリング・ダウン(字幕版)

あらためてみてみると、これはものすごい映画でした。

以前観たときには、ああ、アメリカは病んでいるんだなあという感想でしたが、いま観ると我が国が着実にアメリカのあとを追っていることが実感されます。みていると、「これ、いまの日本じゃん?」と思わされるシーンが頻出するのです。

主人公の“D-フェンス”ことビル・フォスター(マイケル・ダグラス)は、いまの日本でいうところのネトウヨのような人物です。

国防関係の企業につとめていたものの、冷戦終結後の大量解雇で失業。
すでに離婚によって妻子とも別れていたビル……夏の酷暑のなかで、彼の苛立ちは高まり、ついに暴発します。
次々に事件を起しながら“家”へ向かうD-フェンスと、それを追う退職間近の刑事(ロバート・デュヴァル)を軸にして、物語は進んでいきます。

この映画で注目されるのは、D-フェンスがたびたび口にする“家に帰る”という言葉です。

このブログでは何度も書いてきたように、「家に帰る」という言葉は単純な字面以上の意味を持ちえます。そして、その意味が、この映画では実に痛切に響いてくるのです。

D-フェンスは、完全に道を踏み外しています。

まず、英語の発音が悪い韓国人の商店経営者に対して「俺の国に来て、俺の金をとっておいて、俺の言語を学びもしないのか?」「アメリカが韓国にいくら金をはたいたと思ってる?」などといってキレ、店内を荒らしたりする。ヘイト、レイシズム。まさにネトウヨです。

そして、ハンバーガーショップでは、朝食セットを注文し、もう朝食タイムが終わったと店員に断られると、逆上します。「お客様は神様だ、俺がその神様だ」……今でいうカスタマーハラスメントです。

ほかにも、あれこれと井戸端会議的な社会批判をしながら、とにかくキレまくる。ツイッターなんかによくこういう人いるなあ……という人です。ただ、それで銃を振り回してしまうから恐ろしい。


はっとさせられるのは、軍の中古品を扱う店の場面。

そこは、黒人差別、女性蔑視、同性愛嫌悪を兼ね備えたネオナチの男が経営しています。

ネオナチの男は、警察に追われているD-フェンスをかくまいます。なぜかくまうのか、と尋ねるD-フェンスに対して、ネオナチは「お前は俺と同じだから」と答えるのです。趣味にしている警察無線の傍受によって町で次々に起きる事件を把握していたネオナチは、それらの行動に共感をおぼえているのでした。
その言葉に、D-フェンスは表情をゆがめます。
国防に携わる愛国者として、アメリカの価値観を体現しているはずだった。ところが、そんな自分がネオナチと同じだという。アメリカの価値観と真っ向から対立するはずのナチズムと……

そんなばかな。そんなはずはない――激高したD-フェンスは、強い口調で反論します。そして、ネオナチの男と口論になり、もみあいのすえに彼を射殺してしまうのです。

そのシーンでは、店内に設置されている鏡にむかって銃を撃つという描写があります。
すなわち、実はD-フェンスは自分自身を相手にしているにすぎないのです。ここに、冷戦終結後の世界を見据えた深いテーマを読み取ることもできるでしょう。


結局のところ、D-フェンスは最後まで道を踏み外したまま物語は終わります。
ネタバレになるので詳細は書きませんが、最後の“決闘”シーンの結末は印象的です。

フォーリング・ダウン――暗黒面に墜ちていっているのは、アメリカだけではないでしょう。
はじめに書いたように、この三十年ほどで日本がたどりついた場所がこの映画に描かれているように私には思われます。

「家に帰るのは長い道のりになりそうだ」と、21世紀のブルース・スプリングスティーンは歌いました。
アメリカはあまりにも遠くにきてしまった――それはひょっとしたら、日本も同じなのかもしれません。