RADWIMPSのHINOMARUという歌が物議をかもしています。
これはまるで“軍歌”じゃないか、と……
あの歌に関しては、歌詞だけ見れば、まあ軍歌のように見えてしまいますね。
国を愛する心を歌うにしても、もう少しなにか違う表現がなかったのか……というのが正直なところです。
愛国心を歌で表現するということ自体の是非も、考えさせられます。
私は別に、愛国心を歌うこと自体が悪いとは思いません。
ロックの世界にも、そういう歌がないわけではありません。
ロックを歌う愛国心というと、まず思い浮かぶのは I Am a Patriot という歌ですね。
タイトルを直訳すると、「私は愛国者」。じつにストレートです。
リトル・スティーヴン(スティーヴン・ヴァン・ザント)の作で、このブログにたびたび登場するジャクソン・ブラウンもカバーしています。
僕は共産主義者じゃない 資本主義者じゃない
社会主義者じゃない 帝国主義者じゃない
僕は民主党員じゃない 共和党員じゃない
僕の知っている党はただ一つ――それは“自由”
そんな歌ですね。
この歌を、私は素直にかっこいいと思います。
実現されているかどうかはともかくとして、アメリカという国の根源的な価値観として“自由”というものがあって、それを歌い上げているからでしょう。
ひるがえって、日本で“愛国心”を歌うとして、そんなふうに共感できる価値……ある種の物語がそこにあるのか。この国の近代史を考えると、あまりポジティブな答えは出てこないのかなあ、と思います。
まあしかし、価値観は人それぞれですから、日本という国への愛国心の発露として日の丸をそのシンボルとしたいというのなら、それを否定しようとは思いません。
ただそのうえで、一つ注意を促したいことがあります。
国を愛するのはもちろん個人の自由ですが、「愛は盲目」といった警句も世の中にはあります。
そして、その盲目を為政者が利用する危険があるということが問題です。
今から10年ほど前に、アメリカのブッシュ政権下で、大統領への抗議活動を排除するためのマニュアルが作られていたという話がありました。
当時のブッシュ大統領が、自分に対する抗議行動を「見たくない」といったために作ったんだそうですが、そのマニュアルでは、集会などで大統領への抗議の声があがったら、「USA! USA!」と叫んでかき消すのがよいとされていました。
“愛国心”というのは、こんなふうに利用される危険があるということですね。
件のマニュアルの話は、そのシンボリックな例と見えます。
そういうことがあるので、とりわけ為政者が愛国心を言い出すときには、要注意です。愛国心がこんなふうに利用されれば、それはむしろ国の進む道を誤ることにもなりかねないでしょう。愛国心を声高に叫びながら無茶苦茶な戦争を起こして国を疲弊させたブッシュ政権がそのもっともわかりやすい例といえます。
国を愛するのは結構ですが、それが「お上に文句をいわない」という態度につながるとしたら、それはちょっと考えものです。それは、結果としては国を愛することにならないからです。
先に紹介した I Am a Patriot という歌はジャクソン・ブラウンもカバーしているわけですが、彼がこの歌をカバーしたのは、World in Motion というアルバムにおいてです。
このアルバムは、アメリカを批判する内容の歌が収録されています。
この頃のジャクソン・ブラウンは、政治的なメッセージを歌う傾向がもっとも強くなっていた時期で、前作のアルバム Lives in the Balance のタイトル曲なんかは、かなり辛辣にアメリカを批判する内容になっていました。そんなジャクソン・ブラウンが「私は愛国者」という歌を歌っているんです。
国を愛するということは、その国のやること、やってきたことを何でも無批判に支持したり擁護したりすることじゃない……ということだと思います。国を愛すればこそ、ダメなところはダメという。ジャクソン・ブラウンがいいたかったのは、そういうことじゃないかと思えるんです。
愛国心というのは、そういうものであってほしいですね。
いまのこの国をみていると、どうも“愛国心”というものが「国のやること、やってきたことに文句をつけるな」という意味で使われているような気がして、釈然としないものを感じています。
これはまるで“軍歌”じゃないか、と……
あの歌に関しては、歌詞だけ見れば、まあ軍歌のように見えてしまいますね。
国を愛する心を歌うにしても、もう少しなにか違う表現がなかったのか……というのが正直なところです。
愛国心を歌で表現するということ自体の是非も、考えさせられます。
私は別に、愛国心を歌うこと自体が悪いとは思いません。
ロックの世界にも、そういう歌がないわけではありません。
ロックを歌う愛国心というと、まず思い浮かぶのは I Am a Patriot という歌ですね。
タイトルを直訳すると、「私は愛国者」。じつにストレートです。
リトル・スティーヴン(スティーヴン・ヴァン・ザント)の作で、このブログにたびたび登場するジャクソン・ブラウンもカバーしています。
僕は共産主義者じゃない 資本主義者じゃない
社会主義者じゃない 帝国主義者じゃない
僕は民主党員じゃない 共和党員じゃない
僕の知っている党はただ一つ――それは“自由”
そんな歌ですね。
この歌を、私は素直にかっこいいと思います。
実現されているかどうかはともかくとして、アメリカという国の根源的な価値観として“自由”というものがあって、それを歌い上げているからでしょう。
ひるがえって、日本で“愛国心”を歌うとして、そんなふうに共感できる価値……ある種の物語がそこにあるのか。この国の近代史を考えると、あまりポジティブな答えは出てこないのかなあ、と思います。
まあしかし、価値観は人それぞれですから、日本という国への愛国心の発露として日の丸をそのシンボルとしたいというのなら、それを否定しようとは思いません。
ただそのうえで、一つ注意を促したいことがあります。
国を愛するのはもちろん個人の自由ですが、「愛は盲目」といった警句も世の中にはあります。
そして、その盲目を為政者が利用する危険があるということが問題です。
今から10年ほど前に、アメリカのブッシュ政権下で、大統領への抗議活動を排除するためのマニュアルが作られていたという話がありました。
当時のブッシュ大統領が、自分に対する抗議行動を「見たくない」といったために作ったんだそうですが、そのマニュアルでは、集会などで大統領への抗議の声があがったら、「USA! USA!」と叫んでかき消すのがよいとされていました。
“愛国心”というのは、こんなふうに利用される危険があるということですね。
件のマニュアルの話は、そのシンボリックな例と見えます。
そういうことがあるので、とりわけ為政者が愛国心を言い出すときには、要注意です。愛国心がこんなふうに利用されれば、それはむしろ国の進む道を誤ることにもなりかねないでしょう。愛国心を声高に叫びながら無茶苦茶な戦争を起こして国を疲弊させたブッシュ政権がそのもっともわかりやすい例といえます。
国を愛するのは結構ですが、それが「お上に文句をいわない」という態度につながるとしたら、それはちょっと考えものです。それは、結果としては国を愛することにならないからです。
先に紹介した I Am a Patriot という歌はジャクソン・ブラウンもカバーしているわけですが、彼がこの歌をカバーしたのは、World in Motion というアルバムにおいてです。
このアルバムは、アメリカを批判する内容の歌が収録されています。
この頃のジャクソン・ブラウンは、政治的なメッセージを歌う傾向がもっとも強くなっていた時期で、前作のアルバム Lives in the Balance のタイトル曲なんかは、かなり辛辣にアメリカを批判する内容になっていました。そんなジャクソン・ブラウンが「私は愛国者」という歌を歌っているんです。
国を愛するということは、その国のやること、やってきたことを何でも無批判に支持したり擁護したりすることじゃない……ということだと思います。国を愛すればこそ、ダメなところはダメという。ジャクソン・ブラウンがいいたかったのは、そういうことじゃないかと思えるんです。
愛国心というのは、そういうものであってほしいですね。
いまのこの国をみていると、どうも“愛国心”というものが「国のやること、やってきたことに文句をつけるな」という意味で使われているような気がして、釈然としないものを感じています。