HEINRICH SCHUTZ
MUSIKALISCHE EXEQUIEN
John Eliot Gardiner
The Monteverdi Choir
The English Baroque Soloists
ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)は少年の頃、ヘッセン方伯モーリッツにその音楽的才能を見出され、カッセルの合唱隊でゲオルク・オットーから音楽を学ぶようになった。親の望みに従って、法律家になるためにいったんはマールブルクの大学に入ったが、シュッツに音楽を続けて欲しいと願ったヘッセン方伯は彼に奨学金を与えてヴェネツィアへ留学させた。1609年から1612年までの3年間、シュッツはジョヴァンニ・ガブリエーリに師事し、複合唱様式や協奏様式など、ヴェネツィア楽派の音楽技法を学んだ。
1628年には再びヴェネツィアへ行き、このときはモンテヴェルディの音楽を学んだ。
シュッツは国際的な名声を得た最初のドイツ人音楽家であり、1617年から死去するまでドレスデンの宮廷楽長として活動した。ドイツ全土を荒廃させた三十年戦争の悲惨な状況をくぐり抜けながら、ヴェネツィア楽派の複合唱様式、協奏様式、あるいはモンテヴェルディのモノディー様式、オペラ、マドリガーレなどイタリアの洗練された新しい音楽とドイツの土着的な音楽を高い次元で融合させ、シュッツは以後のドイツ音楽の基礎を築いた。彼の作品はドイツ最初のオペラである「ダフネ」を含め、世俗音楽は失われてしまったが、オラトリオなどの宗教音楽は残った。テクストを感動的に音楽化することによって「音楽による説教」となったそれらの作品は、音楽によるプロテスタンティズムの完全な具現化とされている。
プロテスタントの宗教思想が当時の音楽理論にどのように反映していたかは、ミヒャエル・プレトーリウス(1571-1621)の音楽理論書「音楽大全」に見ることができる。プレトーリウスによれば、人間にとって至高の目的は神の認識と神の礼讃であり、それはcontio(説教)とcantio(歌唱)となる。音楽は人間の実践的な行為として神を賛美する天使のありように通じるものとされる。すなわち、音楽は人間の心が歌を介して神の内に行くことであり、神への精神の梯子である。また、死に向かってもたじろがない真の勇気をもたらすものでもある。
「音楽による葬送」は1636年、ハインリヒ・フォン・ロイス伯爵の埋葬の儀式のために作曲されたものである。伯爵は死の1年ほど前に銅製の棺を作り、それを自らが選んだ聖書の聖句やコラールの詩節で飾った。シュッツはこれらのテクストに音楽をつけるように依頼され、ともすれば断片の集積に終わりかねないところを見事にまとめあげた。
ヴェネツィア楽派の音楽が独唱と合唱、強い部分と弱い部分、声楽と器楽などが交互に呼び交わしあい、交替しあうことによって対比的に、劇的につくりあげられる音楽であったことを考えると、そうした技法に習熟していたシュッツだからこそ、断片をまとめていく編集的な作曲が可能であったと思われる。
「音楽による葬送」第三部では、合唱の配置を工夫し、高い声部が空中を漂うような効果を生み出している。それは複合唱によるものではあるが、死者の魂が肉体を離れ、天使によって天上へ導かれていくという意味づけがなされてもいるのである。
→今道友信「飛天の楽芸 プレトーリウスの『音楽大全』」(今道友信編「精神と音楽の交響」音楽之友社所収)
MUSIKALISCHE EXEQUIEN
John Eliot Gardiner
The Monteverdi Choir
The English Baroque Soloists
ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)は少年の頃、ヘッセン方伯モーリッツにその音楽的才能を見出され、カッセルの合唱隊でゲオルク・オットーから音楽を学ぶようになった。親の望みに従って、法律家になるためにいったんはマールブルクの大学に入ったが、シュッツに音楽を続けて欲しいと願ったヘッセン方伯は彼に奨学金を与えてヴェネツィアへ留学させた。1609年から1612年までの3年間、シュッツはジョヴァンニ・ガブリエーリに師事し、複合唱様式や協奏様式など、ヴェネツィア楽派の音楽技法を学んだ。
1628年には再びヴェネツィアへ行き、このときはモンテヴェルディの音楽を学んだ。
シュッツは国際的な名声を得た最初のドイツ人音楽家であり、1617年から死去するまでドレスデンの宮廷楽長として活動した。ドイツ全土を荒廃させた三十年戦争の悲惨な状況をくぐり抜けながら、ヴェネツィア楽派の複合唱様式、協奏様式、あるいはモンテヴェルディのモノディー様式、オペラ、マドリガーレなどイタリアの洗練された新しい音楽とドイツの土着的な音楽を高い次元で融合させ、シュッツは以後のドイツ音楽の基礎を築いた。彼の作品はドイツ最初のオペラである「ダフネ」を含め、世俗音楽は失われてしまったが、オラトリオなどの宗教音楽は残った。テクストを感動的に音楽化することによって「音楽による説教」となったそれらの作品は、音楽によるプロテスタンティズムの完全な具現化とされている。
プロテスタントの宗教思想が当時の音楽理論にどのように反映していたかは、ミヒャエル・プレトーリウス(1571-1621)の音楽理論書「音楽大全」に見ることができる。プレトーリウスによれば、人間にとって至高の目的は神の認識と神の礼讃であり、それはcontio(説教)とcantio(歌唱)となる。音楽は人間の実践的な行為として神を賛美する天使のありように通じるものとされる。すなわち、音楽は人間の心が歌を介して神の内に行くことであり、神への精神の梯子である。また、死に向かってもたじろがない真の勇気をもたらすものでもある。
「音楽による葬送」は1636年、ハインリヒ・フォン・ロイス伯爵の埋葬の儀式のために作曲されたものである。伯爵は死の1年ほど前に銅製の棺を作り、それを自らが選んだ聖書の聖句やコラールの詩節で飾った。シュッツはこれらのテクストに音楽をつけるように依頼され、ともすれば断片の集積に終わりかねないところを見事にまとめあげた。
ヴェネツィア楽派の音楽が独唱と合唱、強い部分と弱い部分、声楽と器楽などが交互に呼び交わしあい、交替しあうことによって対比的に、劇的につくりあげられる音楽であったことを考えると、そうした技法に習熟していたシュッツだからこそ、断片をまとめていく編集的な作曲が可能であったと思われる。
「音楽による葬送」第三部では、合唱の配置を工夫し、高い声部が空中を漂うような効果を生み出している。それは複合唱によるものではあるが、死者の魂が肉体を離れ、天使によって天上へ導かれていくという意味づけがなされてもいるのである。
→今道友信「飛天の楽芸 プレトーリウスの『音楽大全』」(今道友信編「精神と音楽の交響」音楽之友社所収)
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