以上で、有について一通りみることができたように思う。続いて、無について論じていくことにするが、その前に触れておかなければならないところがある。それは、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前。」という仏言に対する道元の解釈である。
よく知られているように、ここでの道元の解釈は、我々が一般に解釈というときの範疇からは逸脱していると思えるほど自在である。しかし、すでに二元論、実体論をこえ、何ものにもとらわれない立場に立っているのであってみれば、そうなるのが当然というものだろう。
さて、それでは道元が実際にどう読んでいるのかを見てみることにしよう。
まず、「欲知」の知について、これを説・行・証・亡・錯・不錯などともいうとしている。そしてこれらが時節因縁であるとしている。そして時節因縁を観ずるには時節因縁によるほかなく、智や覚などでは観ぜられないとする。そこで「払子・柱杖をもて相観するなり」として実践の重要性を強調している。そして観については「当観」ということで、能観・所観・生観・邪観などという区別をいっさい受けつけない。
次に「欲知」の欲を当に変え、「当観」の観を知に変えて、両方を「当知」にして「仏性義」が「時節因縁」であることを示している。
さらに「時節若至」を「時節既至」と取ることによって、「仏性の現前する時節」が現在だということを強調している。もしそうでないならば「仏性の現前する時節」はいつであるのか。道元は時期が来ればいずれといった悠長なことは言わない。
以上のことからいえることは、仏性をとらえるには知的にとらえるだけでは不十分で、必ず実践的にもとらえなければならないということ、仏性が時節因縁というのは、仏性が毎日の生活から離れているものではないこと、しかし決して常住ではないということが示されている。
このように仏性を実践面からとらえること、このことはすなわち、作仏、成仏を問題とすることであって、ここでの仏性がいわゆる仏性、あるいは仏種としての仏性である。このような仏性を有無の相でとらえることは、五姓各別説などを認めることであって、これも道元によって否定される。そしてすでに有無の立場をこえているのであるから、いままで有に即してみてきた仏性を無に即してとらえなおす必要がある。そこで、これから無についてみていこうと思う。
よく知られているように、ここでの道元の解釈は、我々が一般に解釈というときの範疇からは逸脱していると思えるほど自在である。しかし、すでに二元論、実体論をこえ、何ものにもとらわれない立場に立っているのであってみれば、そうなるのが当然というものだろう。
さて、それでは道元が実際にどう読んでいるのかを見てみることにしよう。
まず、「欲知」の知について、これを説・行・証・亡・錯・不錯などともいうとしている。そしてこれらが時節因縁であるとしている。そして時節因縁を観ずるには時節因縁によるほかなく、智や覚などでは観ぜられないとする。そこで「払子・柱杖をもて相観するなり」として実践の重要性を強調している。そして観については「当観」ということで、能観・所観・生観・邪観などという区別をいっさい受けつけない。
次に「欲知」の欲を当に変え、「当観」の観を知に変えて、両方を「当知」にして「仏性義」が「時節因縁」であることを示している。
さらに「時節若至」を「時節既至」と取ることによって、「仏性の現前する時節」が現在だということを強調している。もしそうでないならば「仏性の現前する時節」はいつであるのか。道元は時期が来ればいずれといった悠長なことは言わない。
以上のことからいえることは、仏性をとらえるには知的にとらえるだけでは不十分で、必ず実践的にもとらえなければならないということ、仏性が時節因縁というのは、仏性が毎日の生活から離れているものではないこと、しかし決して常住ではないということが示されている。
このように仏性を実践面からとらえること、このことはすなわち、作仏、成仏を問題とすることであって、ここでの仏性がいわゆる仏性、あるいは仏種としての仏性である。このような仏性を有無の相でとらえることは、五姓各別説などを認めることであって、これも道元によって否定される。そしてすでに有無の立場をこえているのであるから、いままで有に即してみてきた仏性を無に即してとらえなおす必要がある。そこで、これから無についてみていこうと思う。