むらぎものロココ

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野獣死すべし

2019-11-07 21:59:47 | 映画

「野獣死すべし」1980年日本
監督 村川 透
出演 松田優作 室田日出男 鹿賀丈史 小林麻美

この映画は大藪春彦の同名小説が原作ということになっているが、内容は全く違ったものとなった。しかし、だからといって駄作というわけではなく、それはそれとして見るべきものが多い問題作たりえている。そうなったのは松田優作という個性的な俳優によるところが大きいだろう。

彼がこの映画のために体重を10㎏落とし、奥歯を4本抜いたのはよく知られているが、脚本も彼によって大きく変えられているのである。そのためこの映画は破綻寸前となっているが、言い換えれば、破綻一歩手前で踏みとどまることができたということでもあり、ここにこの映画の魅力もあるのである。

この映画はガード下の映像から始まる。スクリーンの奥から現れる一人の男。彼はすぐに刑事であることがわかるのだが、どことなく周囲を気にしているようだ。

次の非合法カジノの場面でも店員が外の不審な気配に気づき、そのことを報告している。

これら二つの場面からわかることは、この映画は見えない存在の気配を描くことでスクリーンの外を意識させているということである。

主人公伊達邦彦がようやく現れるのはその次の大雨のシーンからである。まるでスクリーンの外から中へ飛び込むように現れ、転げまわりながら刑事を刺殺し、非合法カジノを襲撃し、のたうちまわりながらもその売上金を手に入れる。

伊達邦彦。東京大学卒。射撃部。学生時代は図書館と名曲喫茶を往復するような生活で、半年でニーチェを読破し、チャンドラーやハメットを読み散らかす。通信社に勤務し、カメラマンとして各国の激戦地をくぐりぬける。日本に帰国後は通信社をやめ、知り合いの出版社で翻訳の仕事を手伝う。それ以外はクラシック音楽を聴くか、読書をするかで社会とはかかわりを持たないように生活している。しかしその心中では銀行強盗を企てている。これが我々のアンチ・ヒーローである。

ここで、この映画に使用された楽曲をみてみると、自宅のオーディオ装置から鳴り響くショスタコーヴィチ「交響曲第5番『革命』」、そしてほんの一瞬聞こえるモーツァルト「ピアノ協奏曲第21番」、レコード店の試聴室でのベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番『皇帝』」、コンサートホールでのショパン「ピアノ協奏曲第1番」(ピアノは花房晴美)。この曲にはショパンの、故郷への決別と飛翔への想いがこめられているという。

理想的な美は現実の汚辱にまみれなければならないとでもいうように、クラシックコンサートの後、伊達は全裸女性の自慰行為を眺めながらトマトジュースをちびちびと舐め、頭の中で萩原朔太郎の「漂泊者の歌」を吟じている。この詩はニーチェからの影響を強く受けたものであるが、この中には伊達とこの映画をとらえるための重要なキーワードが散りばめられている。例えば「かつて何物をも汝は愛せず」という詩句は、伊達の孤独な生活と結びつく。また、「石をもて蛇を殺すごとく/一つの輪廻を断絶して/意志なき寂寥を踏み切れかし」という詩句は、この映画の転回点の一つである、相棒の真田に向けられた「あの輪廻という忌まわしい長い歴史をたった一発の銃弾できみは否定してしまったんだ」という一節と結びつくだろう。

しかしながら、松田優作が脚本を書き換えた部分には、この映画と伊達にとって重要なキーワードがちりばめられているものの、超人思想を披歴した長広舌は概念が短絡したものでしかない。人を殺すことで神をも超越する?この思想に共感できるものは少ないだろう。こうして伊達邦彦は我々のアンチヒーローから逸脱し、何を考えているのかわからない存在になっていく。

萩原朔太郎の「漂泊者の歌」とニーチェというよりは、ドストエフスキー「罪と罰」のラスコーリニコフに近しい超人思想と、後半に出てくるリップ・ヴァン・ウィンクルの伝説(どんな狩りでも許されるという素晴らしい夢)はこの映画を破綻寸前でつなぎとめる紐帯の役割を果たしている。

日本映画史に残るロシアン・ルーレットの場面から伊達に撃たれるまで、伊達を追い続けた柏木は刑事として、つまりは体制側として伊達に対峙していたが、ついに伊達に勝つことができなかった。権力からも逃れてますます野獣性を開放していく伊達。我々を遠く置き去りにし、ここから映画は現実とも夢ともつかぬ、映画としか言いようのない展開を見せる。繰り返し挿入される戦場の惨劇と銃声、戦闘機の爆音。そして伊達は狂乱の中、自らが経巡った戦場の記憶と今ある現在を混沌の中に落とし込み、日常を戦場化していくのだった。

ラストシーンについて
伊達邦彦がコンサートホールで居眠りをし、一人きりで取り残されたとき、大声を2回出して自分がいる場所のリアリティを試す場面がある。リップ・ヴァン・ウィンクルの眠りのように、眠っているうちに何十年も経過してしまったのかどうか。

この映画のラストシーンは、伊達邦彦が見えない銃弾に撃たれ、もんどりうって倒れこむところで映像が止まり、カメラが次第に引いていくというものである。このシーンが「明日に向って撃て!」のラストシーンにインスパイアされたものだということは否定できないだろう。ブッチとサンダンスが外へ飛び出した瞬間、待ち構えていた州兵たちから一斉射撃を受ける。その射撃音は次第に遠ざかり、映像もまた次第に小さくなっていく。

西部開拓時代は反抗するものと抑圧するものとの関係がわかりやすいものであった。60年代後半であってもそれは同様で、反体制運動は権力によって抑圧されていった。この図式はしかし、1980年代の日本においてはすでにあてはまらないものになっていた。個人の中に奥深く内面化された管理、自らを抑圧するものたち、ニーチェ的に言えば現代の末人たちに反抗は抑圧され、野獣は殺されるのである。つまり、伊達邦彦を殺したのは、スクリーンの外で息をひそめている存在、つまり、映画を見ている我々なのである。我々が何食わぬ顔をして日常生活に戻るために、自らの野獣性を封じ込めるために、我々が伊達邦彦を殺したのである。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(10)

2019-11-07 21:56:34 | 道元論
 その前にまず、「仏性」巻の中から、道元の言語に対する態度を表明していると思われる箇所を拾ってみる。

  「諸方の粥飯頭すべて仏性といふ道得を一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるひはいふ聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず、かくのごとくのやからは真箇是畜生生なり。なにといふ魔黨のわが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ、聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか、いまだ聴教参禅といふこと仏道にはなしとしるべし。」

 ここでは、ただ教えを聴くだけ、沈黙して禅を行うだけというのは仏道ではなく、これらを仏道というのは畜生であるとまで言っている。道取ということが、仏道の核心であることが明らかである。

  「百丈いはく、説衆生有仏性。亦謗仏法僧。説衆生無仏性。亦謗仏法僧。しかあればすなはち有仏性といひ、無仏性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。」

 しかし、有仏性というのも無仏性というのも、どちらも三宝を誹謗することであるとする、それでもなお、道取しなければならないという。ここでもまた、道取ということの重要性が明らかである。

 一般に、禅宗は「不立文字」といい、言語を否定しているように思える。しかし、人間の意識が言語によって成り立っていることを考えれば、簡単に否定してすむようなわけにはいかない。もちろん「不立文字」といっても言語そのものを否定するわけではない。日常的な心意識を否定しながら、心そのものを否定しないように、言語の場合も否定されるのは日常的に使用されている言語であり、存在を固定化してしまい、限定してしまう言語なのである。「悉有は仏語なり」と道元はいうが、このような仏語こそは、仏が現前している言語なのであって、このような言語はそのまま真理なのである。

 道元は「諸悪莫作」巻において次のように言う。

  「この諸悪つくることなかれといふ、凡夫のはじめて造作して、かくのごくあらしむるにあらず、菩提の説となれるを聞教するに、しかのごとくきこゆるなり。しかのごとくきこゆるは、無上菩提のことばにてある道著なり。すでに菩提語なり、ゆゑに語菩提なり。」
 続いて、「發菩提心」巻で次のように言う。

  「おほよそ心三種あり、一者質多心、此方稱慮知心、二者汗栗多心、此方稱艸木心、三者矣栗多心、此方稱積聚精要心。このなかに菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。(中略)この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心もて、菩提心をおこすなり。」

 慮知心から菩提心をおこすこと。このような転換によって、言語も、慮知念覚としての凡夫の言語から、菩提の言語へと転ずるのではないか。心と言語とは互いに相応しているのであるから。

 このように言語をとらえるならば、もはやこの言語は否定されるものではなく、真理を現成することができる言語となっているはずである。禅の問答は、このような言語においてなされるのであり、ここでは日常的な有意味性は乗り越えられ、禅的な有意味性を持つにいたる。このような言語によって、一切の存在が存在そのものとなって自らを説く。すなわち現成する在り方をとらえることができるのであり、仏祖の説をとらえることができるのであり、自己が真の自己であることを説く、表現することもできるのである。

 「悉有仏性」において、自己が真の自己であることによって、現象界の事物を、現象としての差異をたもちながら、全体の真実として現成している在り方をとらえることができるのであることは既にみたところであり、このことは、発心し、修行する自己の問題になっていくことも既にみた。そして今、道取することの重要性、さらに言語が単に対象を指し示し、規定するだけのものではなく、言語が説として真理を、仏性を現成することがあることをみた。ここにおいて、道取することが仏道において、最も根本的なことであるということ、さらに言えば、道取することが仏道そのものであることが明らかになったと思われる。

正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(9)

2019-11-07 17:30:05 | 道元論
 趙洲の「狗子」に続いて、次は長沙の「蚯蚓」である。

  「竺尚書とふ、『蚯蚓斬為両段、両頭倶動。未審、仏性在阿那箇頭。』

  師云、『莫妄想』

  書云、『争奈動何。』

  師云、『只是風火未散。』」

 「蚯蚓斬為両段」について道元は、「蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず」と言い、「両頭俱動」について、「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」と言っている。

 まず、ここで明らかになることは、蚯蚓が本来的に孤立しているわけではないということ、そして、切れたからといって二つになったということはできないということである。つまり、分別心でとらえたならば、切れた蚯蚓は二つになっていると見えるが、実はこのどちらも蚯蚓であることにはかわりがないのである。「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか」というのがこのことを示している。

 そして「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」といって、「両段は一頭」ということを定と智の関係としてとらえている。
 黄檗と南泉の問答で、「定慧等学、明見仏性、此理如何」というのがあり、ここで道元は定学と慧学を分けることなくただ定慧等学と言っている。
 そして道元は、この問いを「仏性斬為両段、未審、蚯蚓在阿那箇頭」と言い換えてみる。

 ここでは、分別心でとらえられないものを分別し、そのうちのどれが正しいのであるかといった、偏った見性を否定しているのである。だからこそ、長沙は「蚯蚓に有仏性」とも「蚯蚓に無仏性」とも言わず、「莫妄想」と言ったのである。

 次に、「風火未散」についてであるが、これは仏性は分別できないこと、そして定と慧というように、二つのものを別々にみるのではなく、同時に把握することが求められているのである。つまり、「有仏性」と「無仏性」の同時把握ということになるだろう。この同時把握ということを道元は次のように展開している。

  「生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。」

 いかなるときにも仏性は現前しているということが明らかに示されている。このことを「ほとけ法をとく」あるいは「法ほとけをとく」とも言っている。

 先に、「風火の動著する心意識」を仏性とすることを否定しているのであるから、「風火未散」が仏性の現前であることは容易にみてとれる。風火未散であるということは、仏が法を説いていることであり、未散風火であるということは法が仏を説いていることである。ここで「無常のみずから無常を説著・行著・証著せんは、みな無常なるべし」という道元の言葉を想起する必要がある。これは、真の自己となったものは、真の自己の法を説くということであり、この真の自己というのは仏ということであるだろう。諸存在が諸存在そのものとなったとき、それは説として現れる。この説を道元はどのようにとらえているのか、「説心説性」に以下の記述がある。

  「おほよそ仏仏祖祖のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり。平常の説心説性あり、牆壁瓦礫の説心説性あり、いはゆる心生種種法生の道理現成し、心滅種種法滅の道理現成する、しかしながら心の説なる時節なり、性の説なる時節なり。」

 そして、

  「性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず、仏性といふは、一切の説なり、仏性の性なることを参学すといふとも、有仏性を参学せざらんは、参学にあらず、無仏性を参学せざらんは、参学にあらず、説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。」

 以上のことから明らかになるように、仏性は性であり、これは一切の説である。ここでいう一切は、有と無とを同時に把握するということである。そしてこの説という時節において、心と性とは別々のものではない。しかし、ここでいう心も、性も、現象界を離れた根本原理というようなものではなく、存在が真に存在していること、現成していることをいっているのである。

 真理というのはまさに説であり、存在みずからがみずからを説くということであり、それがすなわち現成ということであるならば、真理は表されなければならない。否、すでに表れている真理を道取しなければならないのである。それによって、自己が自己であることが示されるのである。禅において問答が重視されるのはこのゆえである。この場合、古則に依存して形式的に言葉のやり取りをしたところで意味がない。ここで道取ということが問題となる。それは当然に、言語の問題でもある。道元が言語をどのようにとらえていたかを、この道取の考察によってみてみることにしたい。