むらぎものロココ

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正法眼蔵「仏性」巻における「有」「無」の問題(4)

2019-11-02 05:51:59 | 道元論
四祖と五祖との問答を引用する。

  「祖見問曰、『汝何姓』

   師答曰、『姓即有、不是常姓』

   祖曰、『是何姓』

   師答曰、『是仏性』

   祖曰、『汝無仏性』

   師答曰、『仏性空故、所以言無』」

 道元は五祖の「姓即有、不是常姓」を「有即姓は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり」と言い換えている。

 次に四祖の「是何姓」を「何は是なり、是を何しきたれり、これ姓なり。何ならしむるは是のゆゑなり、是ならしむるは何の能なり。姓は是也何也なり。」と解釈している。

 続いて五祖の「是仏性」を「是は仏性なりとなり。何のゆゑに仏なるなり。是は何姓のみに究取しきたらんや、是すでに不是のとき仏性なり。」

 そして、最後の五祖の「仏性空故、所以言無」について。「あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤といはず、八両といはず、無と言取するなり。空なるゆゑに空といはず、無なるゆえに無といはず、仏性空なるゆゑに無といふ。」と言っている。

 ここで問題になっていることは、空と無はどのように関係づけられるかということであろう。そして、このことを考える手がかりとして、問答前半の是と何との関係をみる必要がある。

 まず、有に即した姓(性)の有性を否定している。姓(性)は有に即さない。このことを不是と言っているのである。そしてこの姓(性)は是であり何であるが、しかしこの両者は決して同じものではない。「何ならしむるは是のゆゑなり」と言うのも、「是ならしむるは何の能なり」と言うのも、是がそのままで何であると言っているのではない。なぜなら「何は是なり、是を何しきたれり、これ姓なり」であるからで、是と何が関係づけられるのは姓(性)によってであるからだ。そもそも是というのはその否定として不是を持っているが、何にはそのようなものはなく、何は何で全体なのである。

 そして「是何姓」、「是仏性」において、姓(性)によって何が仏であることが示されているが、「是すでに不是のとき仏性なり」であるとして何(仏)が是と不是を含んでいること、そうであるがゆえに是はそのままでは何(仏)ではなく、不是という否定面をとらえたうえで、はじめて何(仏)であるということができるのである。

 ここでこう言うことができるだろう。空と無との関係は、いま何と是との関係をみたように、限定されない絶対と限定された個体との関係であると。この相容れないと思われる両者をどのように関係づけるかが問題なのである。

 限定された個体というのは有ということである。しかしここでの問題は、限定されない絶対と限定された個体との関係をとらえることである。このことはつまり、限定された個にとどまることを意味するものではなく、そこからどのようにして絶対(空としての)に至ることができるかということなのであるから、ここでは有は否定(無)される。この有の否定(無)からどのようにして空をとらえればいいかということなのである。

 道元は「空は無にあらず」と言う。空というのは有無をこえているのでそう言っているのである。そして空と言ってしまったら、すべてが空であり、それ以外のなにものでもない。したがって、空は他の言葉に言い換えることもできない。ただ、空を空と言っただけでは空を抽象的な観念論にしてしまう。また、無を無と言っただけでは、否定のままとどまってしまい、空をとらえることはできない。

 そこで道元は、空がなにものにも即さないということ、有に即した場合は否定として現れる、そのことを無としてとらえている。

 「色即是空の空にあらず」と言うのも、この般若経の言葉を否定しているのではなく、「~即是空」という形式からでは空が色に即していると考えられ、色の実体性を否定しているということが見えにくく、色と空は否定を介して関係しているということが見えにくいことを考慮して敢えて否定しているのである。そして空是空と言って否定(無)を介さなければ空をとらえることができないということを強調しているのである。

 しかし、空と無は同じものではない。「無の片片は空を道取する標榜なり。空は無を道取する力量なり」ということであるからである。これは先に是と何の関係をみたときと同じ論理である。空と無とを関係づけるのは性、つまり仏性である。であるからこそ「仏性空なるゆゑに無といふ」のである。

 あらゆるものにはそれらをあらしめている性がある。この性を道元は実質的な本質としない。性は無自性であり、仏性である。それゆえにあらゆるものが相互に関係しあえるのである。すでに仏性と言ってしまえば、それを空ととらえるも無ととらえるも有ととらえるも、すでに有無をこえていてなんら実体はない。

 道元の無仏性の立場は実践面に関わるということ、そしてこのような仏性を有無の相でとらえることは必ず否定されなければならない。なぜなら仏性を有るとして実体視してしまえば、それを備えた人間はそのままでで仏になっていることになり、修行する必要がなくなるし、かといって仏性を無しとして發無してしまえば誰も仏になれないことになって仏教そのものが成り立たなくなるからだ。

 しかし最初から空や無常を言うことはできない。なぜなら、修行する主体はその限定された個を離れることもまたできないからである。修行する主体ができることは限定された個を否定的にとらえかえすことである。道元が実践面において無仏性を強調するのはこのことにほかならない。そしてこの無は否定にとどまるわけではない。すでにみたように、この無が否定をこえた空への手がかりとなるのである。仏性は修行によって初めて現れるのである。