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むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

ピアニストを撃て

2005-03-21 13:14:19 | 映画
tirez1「ピアニストを撃て」(Tirez sur le Pianiste)
1960年フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:シャルル・アズナヴール、マリー・デュボワ、ニコル・ベルジェ、アルベール・レミー他
原作:デイヴィッド・グーディス(Down There)
 
映画のオープニングではジョルジュ・ドルリューによる音楽を、普段はあまり意識されないピアノのメカニズムの、つまりハンマーとダンパーの運動として視覚化している。このことは、これから始まる映画において普段はあまり意識されないカメラの運動に注目することを要請する。実際、この映画では意図したにせよしないにせよ、カメラの影が画面に映りこんでいる。また、本来透明なものの可視化という点では、車のフロントガラスの汚れがある。

トリュフォーは「ピアニストを撃て」の主人公を自分に似た者として描いたという。それは内気という性格的類似だけではないだろう。光と影をコントロールしながら映画をつくる存在である映画監督と白鍵と黒鍵を操り、音楽を演奏する存在であるピアニストという類似。アストリュックの「カメラ=万年筆」ならぬトリュフォーの「カメラ=ピアノ」。ゴダールは「カルメンという名の女」でラジカセをかついでそれを「音の出るカメラ」と言っていた。また、グレン・グールドは自らの演奏をデタッチメント(距離を置くこと)と言った。感情的に音楽に溺れるのではなく身体的にピアノと一体化すること。映画監督もまた、映画の世界に感情的に溺れることなく、身体的にカメラと一体化する。

暗黒叢書(セリ・ノワール=探偵小説、犯罪小説などの総称)の魅惑。
ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちにとって、セリ・ノワール、あるいはフィルム・ノワールと呼ばれるハードボイルド・タッチのアメリカ映画は少年の頃に熱中したものであり、そのときの興奮が映画をつくるうえで大きく影響している。「極端にロマンティックな筋立てと極端に現実的な人物描写を混ぜ合わせたおとぎばなし」(エラリー・クイーン)であるそれらに、トリュフォーはコクトーに共通するものを見出す。

「アメリカの犯罪小説、いわゆるハードボイルド小説に、わたしはコクトーと共通する何かを見出すのです。デイヴィッド・グーディスの原作に見出したのも、コクトー的雰囲気に彩られたお伽噺そのものでした。そしてギャング映画を ”むかし、むかし、あるところに……”というスタイルで描くつもりで『ピアニストを撃て』を撮ってみたのです」

コクトー的雰囲気。それは夢や幻想、そして鏡、あるいはフィルムの逆回転ということになるだろうか。「ピアニストを撃て」のなかには鏡が様々なところに出てくるし、シャルリとレナのキス・シーンとレナの部屋をパンしていく映像がオーヴァー・ラップし、二人がベッドの中にいる場面に着地する部分はコクトー的と言えなくもない。

鏡・愛・死をめぐって(ミシェル・レリスにもいくらかの目配せを)
1.クラリスに彼女が初めて経験した仕事(骸骨ショー)のことを語る台詞がある。彼女が全裸で棺桶に横たわるのを男たちが鏡を通して凝視するというもの。ここでは対象を間接的に見るという倒錯が語られるとともに、鏡と死(棺桶)がさりげなく結びついている。amm

2.シャルリとレナが二人で歩いているとき、ギャングたちが後をつけていることに気づいたレナが手鏡を差し出し、そこにギャング二人の顔が映る。現実にはありえないが、ファンタジックな印象を与える。

3.テレザがエドゥワール(シャルリ)に告白をする場面での台詞
「私は鏡を見る、これが私? これがテレザ? 違うわ、テレザじゃないわ、別人よ」
興行主との「ある取引」に応じたテレザはそのことによって引き裂かれてしまう。似ているが同じではない鏡に映った自分の姿を彼女はどうすることもできない。鏡の距離、埋めることのできない自分自身との距離(見ないことの不可能性)。

4.雪の山小屋で割れた鏡に映るシャルリの姿がある。シャルリもまた二重に引き裂かれている。思考と行為がずれ、常に遅れる。この遅れが彼を取り返しのつかない状況に追いやる。臆病さ、内気さと呼ばれる彼のこのような性格は、そもそも家族の中で一人だけ音楽の才能を認められ音楽院に入り、今までとまったく違った環境に置かれてからのことではないだろうか。兄弟のいる隠れ家の中で、彼は自分に流れている先祖の血について考える。自分は誰なのか。

「ピアニストを撃て」自体がことごとくずれた映画で、サスペンスに満ちた緊張感のある場面から弛緩した場面に変わるなど、テンポやムードがめまぐるしく変化する。犯罪映画であり、恋愛映画であり、喜劇であり悲劇であり、というように様々な要素が混在してもいるし、場面と台詞もずれている(ギャングたちのおしゃべり―語らないことの不可能性)。ずれを保持しながら複数のセリーが戯れる対位法的な映画。

→山田宏一「探偵小説とヌーヴェル・ヴァーグ」
 宮川淳「鏡について」(「鏡・空間・イマージュ」所収)
 松浦寿輝「グールドの肉体」(現代詩文庫「松浦寿輝詩集」所収)


フィツカラルド

2005-02-14 00:04:55 | 映画
498019「フィツカラルド」(Fitzcarraldo)
1981年ドイツ
監督・脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク
出演:クラウス・キンスキー、クラウディア・カルディナーレ 他
 
 
ゴム景気で沸く南米の都市マナウスには、パリ・オペラ座を模した「アマゾナス劇場」があり、ヨーロッパから有名歌手など招いてオペラの上演をしていた。ちょうどエンリコ・カルーソーとサラ・ベルナール(どういうわけか、女装した男性が演じている)の共演によるオペラの上演中にカヌーを漕いで一組の男女がやってくる。特別公演なので途中入場ができないと案内人にさえぎられるが、血にまみれた両手を見せてイキトスからカルーソーを見るためにやっとの思いで来たことを強く訴える。この男がクラウス・キンスキー演じる主人公フィツカラルドであり、そばにいる女性はクラウディア・カルディナーレ演じるモリーである。このシーンだけで、フィツカラルドが目的を達するためには尋常でない執着を見せる男であることがわかる。
フィツカラルドは野心的な事業家で、数年前にアンデス横断鉄道を敷設しようとして破産し、今は製氷事業を営んでいる。彼の夢はジャングルの奥地にオペラハウスを建設し、そこでカルーソーに歌ってもらうというものだ。それには莫大な費用が必要だ。彼は自らの製氷のノウハウを特許申請しようとするが取り合ってもらえない。儲けるならやはりゴムということで、ゴム成金に話を聞き、現地を案内してもらう。手つかずの土地は「ポンゴの瀬」という急流に阻まれ船が進めないところ、そしてヒバロ族という首狩り族がいる危険地帯しかない。
フィツカラルドは地図を見ながらひとつのアイデアを思いつく。それは二つの川が最接近している場所の山を切り開き、船を山越えさせればポンゴの瀬を避けることができるというものだ。
首狩り族の太鼓が鳴り響き、緊迫した状況に見舞われたとき、フィツカラルドはカルーソーのレコードを蓄音機にかける。この対立はアポロンとマルシュアースの音楽の闘いがそうであったように、先住民族と新しい支配者の闘いという意味を持つ。このfitzcarraldo映画では首狩り族も船の山越えに協力するが、それは屈服したのではなく、首狩り族に伝えられている、いわゆる積荷信仰に似たような伝説があり、たまたま利害が一致したので協力したという形で、先住民族を搾取する白人という図式からはずれている。無事に山を越え、宴を開いたあと、船は首狩り族によって艫綱を切られ、動き出し、避けなければならないはずのポンゴの瀬に突入する。ほとんど沈没寸前になりながらもどうにかポンゴの瀬を乗り切った後、首狩り族の目的が明らかになる。
船の山越えというアイデアを思いつくフィツカラルドもすごいが、それを映画で「実際」にやってしまうヘルツォークの映画製作に対する常軌を逸した情熱もまたすごい。
この映画は準備から完成まで4年の歳月がかかり、撮影中のトラブルも枚挙に暇がないほどで、そうした撮影の裏話も映画になりうるほどのものだ。フィツカラルドの野心と執念はヘルツォークの映画へのそれと結びつき、同一化する。ラストで見せるクラウス・キンスキーの誇らしげな表情とクラウディア・カルディナーレの喜びに満ちた笑顔はあらゆる困難を乗り越えた映画の完成を祝福してもいるのだ。


欲望

2005-02-09 23:26:00 | 映画
blowup7「欲望」(Blow-Up)
1966年イギリス・イタリア
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
音楽:ハービー・ハンコック
出演:デイヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ 他
 
 
60年代ロンドンのポップ・カルチャー・シーンを映し出すスタイリッシュな映画であるとか、ドラッグ・パーティー、乱交、ゆきずりの男女のセックスを描いたスキャンダラスな映画であるとか、カメラ=ファロスであり、撮影はセックスと同義であり、写真を撮って欲しいというのはセックスしたいというのと同義であり、カメラは被写体を物象化するものであるとか、写真家のステレオタイプをつくった映画であるとか、ジェフ・ベックとジミー・ペイジがツイン・リードだった頃のヤードバーズの演奏シーンが見られるとか、そういったことはひとまず脇に置いて、ルソーの「新エロイーズ」から引用する。

「公園―それは非常に美しく、まさに絵のような場所の組み合わせで、ひとつひとつの景観はそれぞれ異なる国からえらびとられており、取り合わせを除けば、すべてが自然に思える、そういった場所を意味する。」

これをモンタージュされた空間と考えることはできるだろう。写真家が公園内を歩けば、それは映画の線的な運動となり、彼が写真を撮るのは全体から部分を切り取る行為である。
このようなモンタージュされた空間は公園のみならずどこにでも見つけることができる。マクロ的に見ればロンドンという都市もそうである。写真家がオープンカーで走り回れば、赤や青に塗られた外壁の建物があり、近代的な高層ビルが建ち並ぶ一方、古い街並みもあり、ところどころ工事が行われている。それは経済成長下での都市開発という意味を生み出し、写真家が不動産事業にも関わっていることがそれを支持する。ミクロ的に見れば写真家が立ち寄った骨董屋もそうであり、それこそ時代も国もまちまちな様々なものが雑然と並べられている。そこで写真家はプロペラを購入するが、これも全体から部分を切り離す行為である。もちろん、このプロペラはそれ自体切り離された部分である。
写真家が公園内で撮影したのは若い女と初老の男のカップルの写真で、フィルムを現像すると妙なものが写っていることに気づき、写真を引き伸ばしていく(この映画の原題 blow-up はこの引き伸ばしを意味する)。すると、茂みに銃を構えた男がいて、横たわった人体のようなものが写っていた。わけありの男女と銃、そして死体となればおのずから殺人事件と相場は決まっている。しかし、映画を見ているわれわれは公園のシーンで写真家と同じものを見てはいないため、このことを支持できない。問題は映画の基本的な技法であるモンタージュのリアリティである。

モンタージュにおいては、同一のショットは他のショットとの関係で様々に意味を変える。つまり、線的な統辞論的秩序の中で関係項として意味を規定される。そのため、モンタージュによっては、それを人為的な虚構とみなせるため、見る者ははそれをリアルなものとは感じない場合がある。モンタージュのこうした問題を指摘したのはアンドレ・バザンであり、彼はワン・ショット・ワン・シークェンスという空間的位置性の尊重によるリアリズムを唱えた。ひとつの画面内の諸要素の関係から意味が生じるようにすることで人為を感じさせないようにするのである。

全体から切り離された部分は意味を変え、同じことだが部分は全体によって意味づけられる。飛行機から切り離されたプロペラは彫刻作品のようになり、一連の写真から一枚だけ切り離された拡大写真は抽象画のようになり、ジェフ・ベックが壊したギターのネックはライヴハウスでは観客の誰もが欲しがるものなのに、一歩外に出ればゴミとなる。写真家も誰とも共有できない秘密を持ったことで孤独になる。頼みの仕事仲間はドラッグで酩酊している。夜の公園で確認した死体は朝方には消えていた。殺人事件の真相はもうわからない。

この映画の有名なシーンに見えないボールを打ち合うテニスのパントマイムシーンがある。これは見えないものでもそれをあるとみなす人間が複数いれば裸の王様の衣装のようなものにすぎないとしてもあるものとして存在するということだ。写真家が促されて見えないボールを投げ返すというのは、共同幻想に加担し、王様は裸だと真実を告げる子どもになることを放棄したということだろう。この写真家には殺人事件の真相を究明しようという気はないことが明らかになる。言ってみればこの映画の主人公である写真家もカメラが向けられているときにだけ存在する虚構の存在であり、あったりなかったりする死体と変わりがないのである。




ソドムの市

2005-02-08 23:59:08 | 映画
salo_jp 「ソドムの市」
(SALO o Le 120 Giornate di Sodoma)
1975年イタリア
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
音楽:エンニオ・モリコーネ
原作:マルキ・ド・サド
出演:パオロ・ボナッチェッリ 他

はからずもパゾリーニの最後の映画となった「ソドムの市」はマルキ・ド・サドの「ソドム百二十日」を原作としながらも、舞台をルイ十四世の治世下から第二次大戦終戦間近のイタリアに設定した。失脚し逮捕されたムッソリーニがドイツ軍により救出され、北イタリアのサロを拠点に建国したイタリア社会共和国(サロ共和国)である。

この映画は1.地獄の門、2.変態地獄、3.糞尿地獄、4.血の地獄の4部構成となっている。

「地獄の門」は序章であり、農村から少年少女たちが集められ、厳しく吟味されてから城館に連れていかれる。城館での生活についての規則が読み上げられ、この少年少女たちが4人のファシストたち(公爵、大統領、最高判事、大司教)の快楽のために奉仕する玩弄物であり、規則を破れば厳しい罰が科せられることが示される。「この門を過ぎんとする者は一切の希望を捨てよ」というわけだ。

聴覚がもたらす快楽について
城館ではそれぞれが並外れた性的体験を持つ初老の女たちが3人いて、自らの体験談を語って聞かせるのだが、サドによれば、「聴覚器官によって伝達された感覚は、その印象が何より強烈であるがゆえに最もわれわれの五感を快く刺激する感覚である」からだという。彼女たちの話を聞いてそれを実践してみるというかたちで話は進んでいく。

「変態地獄」
ヴァカーリ夫人が犬の真似をさせられた話を受けて、少年少女たちが首輪をつけられ犬のように這いながら階段を上がり、4人のファシストたちから餌を与えられるシーンが展開する。
4人の男たちが趣味の洗練について語っている。「どんな変態趣味だろうが尊重に値する。なぜなら、分析すればその根源に美の追求があるから」という台詞があるとともに、クロソウスキー、ボードレール、ニーチェといった名前も出てくる。

「糞尿地獄」
マジ夫人が話をする。準備をしているときに飛行機の爆音が響くという、閉ざされた城館のなかで唯一、戦時中であることを意識させるシーンがある。彼女の話は尻と糞便嗜食で、話の中ではスカトロジーと死が緊密に結びついている。これを受けて少年少女たちが糞便を食べさせられることになる。趣味の洗練を極めていった果てに排泄物を食するまでになってしまうという倒錯。
「世界はけっして生成しはじめたこともなければけっして経過しおわったこともない。世界はおのれ自身で生きる。その糞尿がその栄養なのである」(ニーチェ)
「糞尿地獄」では城館の閉鎖性、出口なき悪循環が示されている。

「血の地獄」では凄惨な処刑が行われる。その光景を城館の窓から双眼鏡で覗いて楽しむ男たち。オルフの「カルミナ・ブラーナ」が流れ、イタリアファシズムに協力したエズラ・パウンドの詩の朗読がラジオから流れる。

思想家としてのサドは啓蒙思想に対する徹底的な批判者である。
サドの登場人物は科学的であり、理性的であり、独自の思想を明晰に語りうる。その意味では未成年状態を脱した自立した個人である。しかし、彼らの言動や行動は、公共に利する美徳の欺瞞性を暴き、それに対立する悪徳の合理性を論証する。そこにおいて一般意志や理性が持つ暴力性を露にする。

パゾリーニは彼がよりどころとしていた下層プロレタリアがすでにブルジョワ化され、権力側と結託してしまった現実に絶望し、生や性をおおらかに賞賛することがすでに権力側に取り込まれてしまっていると感じ、「生の三部作」を撤回した。権力はパゾリーニの認識を超えて、あらゆる領域へ管理の網の目を張り巡らし、ローカルな固有の文化やマイナーな領域をどんどん抹消してしまった。「ソドムの市」はこのような認識においての新たな闘争の開始であったわけだが、そこから先の展開はパゾリーニの死によって頓挫してしまう。自己批判からのサドへの接近は、おそらく彼が愛していた母親的な存在との訣別ということになるだろうか。サディズムは超自我そのもので、自我は外部にしかない。超自我の道徳的素質を与えるのは自我の内部性、また母親的補足性である。自我と母親のイメージを排除したとき、超自我の徹底した反道徳性がサディズムに顕在する、とドゥルーズは言う(「マゾッホとサド」)。サディズムは母親と自我のほかは犠牲者を持たない。外部へと向けられた破壊の錯乱は、外部の犠牲者との同一視を伴う。これがサディズムのアイロニーということだが、このあたりに何か手がかりがあるように思う。

いずれにしても、この映画を安全な場所で見ているわれわれは双眼鏡で拷問場面を覗き込む権力者たちと同じなのだろうか。主人になったつもりで、結局は権力に支配されているだけの画一化された存在である大衆に救いがあるのかどうかはわからないが、そもそも誰に救いを期待するのか?

「サドやニーチェの非情な教説は、仮借なく支配と理性との同一性を告知することによって、じつはかえって市民層の道徳的従僕たちの教説よりも情け深いものを持っている。『汝の最大の危険はどこにあるか』とかつてニーチェは自問した。『同情の中に』彼は自ら拒否することによって、あらゆる気休め的保証から日毎に裏切られている、ゆるがぬ人間への信頼を救ったのである」
(アドルノ=ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」)


テオレマ

2005-02-03 01:18:17 | 映画
teoremaテオレマ(Teorema)
1968年イタリア
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:テレンス・スタンプ、シルヴァーナ・マンガーノ、マッシモ・ジロッティ、アンヌ・ヴィアゼムスキー、ニネット・ダヴォリ 他

 
 
パゾリーニは前作「アポロンの地獄」でオイディプスの悲劇を題材に、ふたつのテーマを提示した。ひとつは「自然」と「文化」の決定的な裂け目であり、もうひとつは神意と人間意志の間にある深淵である。「テオレマ」はそれらの問題をを引き継ぎ、旧約聖書の「エレミヤ書」からの引用によって預言者とその言葉を聞き入れない者たち(神なきブルジョワジー)との間の深淵を示唆するとともにブルジョワの家庭を舞台にし、その家族が再び元には戻れない決定的な状況を描いた。その一撃を加えるのはテレンス・スタンプが演じる訪問者である。

冒頭のシーンで、経営者が工場を労働者に譲ったことに関してインタビューが行われる。資本と経営の分離、経営の民主化といった労使協調路線が進むなかで、労働者もまたブルジョワ化されていく。従来の資本家対労働者といった単純な図式での階級闘争が無効となったとして、ではどうするか。友人としてブルジョワ社会の中に入り込み、互いに信頼しあえる関係を作るように見せかけながら、ブルジョワが無防備になったところで回復不可能なダメージを与え、労使協調が幻想にすぎないことを示すこと。それは労使協調を逆手に取ったマキャベリズム的な戦略による階級闘争の先鋭化である。

平穏な日々を送るブルジョワ家庭にニネット・ダヴォリが演じる郵便配達夫がある日一通の電報を持ってくる。そこには「明日着く」とだけ記されていた。翌日になり、多くの知人たちにまじって、見知らぬ一人の男があらわれる。彼は自然に受け入れられ、いつのまにか家族の中に入りこむ。この訪問者はやがて家族のそれぞれと新たな関係を作る。息子ピエトロは同性愛を体験し、娘オデッタは処女を捧げ、母ルチアは不倫をする。訪問者に欲情したことを恥じてガス自殺をしようとしたことから、おそらく禁欲的な生活を送っていたと思われる女中エミリアは神への愛に恍惚となり脱自するに等しい体験をする。父パオロは病床で介護される(このとき、訪問者によって膝を抱えあげられたところは性交時の体位を思わせる)。家族のそれぞれが抑圧されていたものを訪問者によって引きずり出され、それによってブルジョワの道徳観、秩序はいともたやすく破られてしまう。このようにして訪問者は家族を根本から変え、父パオロを中心とした今までのブルジョワ的な抑圧的関係を断ち切る。

トルストイ「イワン・イリイチの死」が示唆するもの。
パオロと訪問者はイワンと彼の下男ゲラーシムの関係に重ね合わされ、それは労使の協調を意味するだろう。しかし、それはブルジョワ側の幻想に過ぎなかった。パオロはこの訪問者がゲラーシムでないばかりか、還元不可能な過剰な存在であり、自分の父親としての権威を失墜させ、なにもかも破壊する存在であることに気づく。

このような訪問者をどうとらえるかが問題となるが、パゾリーニによれば訪問者は「具体的な徴候、不可思議な様相によって、人類を誤った安泰から抜け出させる冷酷な神の、エホヴァの使者」であるという。しかし、この訪問者は他にいくつものとらえかたが可能であるだろう。ヘルメスであり、革命家であり、創造と破壊、贈与と簒奪をもたらす両義的な存在としてのトリックスターである、というように。さらにひとつの手がかりとして訪問者が読んでいるランボーの詩集がある。アルチュール・ランボー。理論的な錯乱によって詩人は見者(預言者)でなければならないといった男。「私は他者である」と言った男。そもそもこの訪問者は、ランボーの「イリュミナシオン」の悼尾を飾る「Genie」(天才とも守護神とも訳せる)のようではないだろうか。この詩からいくつか引用してみると、

「彼は愛だ、再び発明された完璧な尺度であり思いも及ばなかった驚くべき理智である愛なのだ。そしてまた、永遠だ。つまり、持って生まれた数々の資質によって愛されている機械なのだ。」

「『ひっこむがいい、それらの迷信、それら古くさい肉体、それらの世帯、それらの年令。そんな時代は崩れ去ってしまったのだ』」

「女たちの怒り、男たちの陽気さ、またこの罪のすべてを償いもしないだろう。彼がおり、愛されておれば、それは済んだことなのだ。」

「彼の肉体! 夢に見た解放だ、新しい暴力によってよぎられた優雅の粉砕だ。
彼の日よ! 高鳴り動く苦しみの、更に激烈な音楽のなかでの絶滅。」

「彼はおれたちすべてを知り、おれたちすべてを愛して来た。この冬の夜、おれたちは知ろうじゃないか、岬から岬にわたり、ざわめき荒れる極地から館にわたり、群衆から岸辺にわたり、まなざしはまなざしへと通じ合って、力も表情もくたくたになりながら、彼を呼び、彼を眺め、また再び彼を送り出すことを、また、潮の下をかいくぐり雪の砂漠の丘にも登って、彼の眼力、彼の息吹、彼の肉体、また彼の日に、つき従って行くことを。」
(粟津則雄訳)

また、訪問者がパオロとオデッタとともに庭でくつろいでいるときにパオロから何を読んでいるのかと尋ねられて読み上げる一節は「愛の砂漠」という散文詩の最後の一節である。

「ぼくには彼女が、そのふだんの生活に立ち戻っているのがわかった。あのやさしいふるまいがもう一度起こるには、星をひとつ作るよりもひまがかかるということも。彼女は戻って来なかった。決して戻って来ないだろう、-ぼくのところへ来てくれるとは予想もしていなかったとぼくは思うが-ああしてやって来てくれたほれぼれするあの女は。ほんとに今度は、世界中の子供たちをあわせたよりもっとひどくぼくは泣いた。」(粟津則雄訳)

これは訪問者がいつかいなくなってしまうことを示唆するもので、そのことを感じたオデッタはあわてて部屋にカメラを取りに行き、訪問者を写真に撮る。

再び郵便配達夫があらわれ、一通の電報をもたらす。それを見た訪問者は「明日出発する」と言う。それを聞いた家族は訪問者に向かって、彼と出会ったことで自分がどれだけ変わったかを告げる。次の日、訪問者は家族の前から去っていったが、彼がいなくなったあと、二度と元の状態に戻れなくなった家族はそれぞれがバラバラになり、崩壊へと進んでいく。

今までの平凡さが壊れ、秩序を奪われ、違う自分に気づいたと言うピエトロは家を出てアトリエを借りる。そこで抽象画の創作に没頭するが、訪問者との思い出の色である水色を使ってアクションペインティング的なものを描く。自嘲的な芸術論を独語しながら、自分の描いたものに小便をしたりする。自然のミメーシスとしての再現性を放棄した抽象画は絵画そのものを問う自己言及的なものになったが、その一方で、秩序や計画性に基づく制作であることをやめ、予測不能なもの、偶然性、従来の基準では図れないものを描こうとする。一緒にフランシス・ベーコンの画集(「十字架の下の形体の三枚のエチュード」)を見るなど、ピエトロは訪問者の影響を強く受けるが、ランボーに衝撃を受けた若い日のパゾリーニの面影をそこに見ることができるように思う。

すべてに興味がなく、自分の空虚さを偽りの価値で埋めてきたことに気づいたと言うルチアはブルジョワの貞淑な妻であることを捨て、訪問者の面影を求めて男漁りの日々を送るが、それは彼女をどんどんみじめにしていく。最後に彼女は教会に救いを求める。

オデッタは失墜した父の代わりを訪問者に求めたが、その彼がいなくなってしまったので彼女は訪問者との思い出に生きるために未来を捨て、まるで写真のように動かないカタレプシー(死とオルガズム)に陥り、そのまま精神病院に収容される。

パオロはすべてを奪われた。今まで信じてきた秩序や未来、所有の観念は破壊され、アイデンティティーを回復することは不可能となった。イワン・イリイチのように虚飾に満ちた人生を最後の最後で肯定し、死を乗り越える境地に至ることもできなかった。パオロは工場を労働者に譲り、駅で全裸になって最後は荒野を叫びながらさまよう。自然に回帰することの不可能さ。裸体の彼はまるで頼りなく、その叫びは無力な赤子が泣いているようであり、訪問者を求めているようでもある。

エミリアは故郷の農村に帰り、ひとつところに座ったまま、草を食べる。農村の人々が物珍しげに集まるが、そこで奇跡を起こす。奇跡を奇跡とする農村の素朴な信仰心と、奇異なもの、異端なもの、合理的な説明ができないものを隔離、排除してしまうブルジョワ社会との対比。最後エミリアは涙で泉を作る(エレミヤ書は涙の記述にあふれている)といって工事現場に自らを埋める。

パゾリーニは「テオレマ」において「異議をさしはさむことができないと同時に理性的な分析からすりぬけてしまう聖なるものの存在」を示したという。政治、宗教、精神分析学、文化人類学、文学、芸術といった多様な側面からブルジョワの抑圧的なモラルを試練にかけ、のっぴきならない状況へと追い込むこの映画は、そこから聖なるものへの、また崇高さへの跳躍を試み、見る者を挑発するパゾリーニの預言である。


アポロンの地獄

2005-01-24 23:29:53 | 映画
edipore「アポロンの地獄」(Edipo Re)
1967年イタリア
監督・脚本・音楽:ピエル・パオロ・パゾリーニ
出演:シルヴァーナ・マンガーノ、フランコ・チッティ、ニネット・ダヴォリ 他
原作:ソポクレース(「オイディプス王」と「コロノスのオイディプス」に基づく)

 
 
●災厄に満ちたテーベ
オイディプスの悲劇の舞台となるテーベはカドモスによって建国され、隆盛を極めたが、もともと建国のときに軍神アレースの息子である大蛇を殺したということがあり、ことあるごとに神々からの災いを受けていた。カドモスはその罪を償うために隷従の身となって仕え、アレースの怒りを宥和すべく努力し、アレースの娘ハルモニアを娶るが、カドモスの一族には彼女の首飾り(自然の鬼子としての金属)に起因する災いが次々とふりかかった。テーベとは災厄に満ちた国なのだ。

●オイディプスの父ライオス
オイディプスの父であるライオスは一時期国を追われてペロプスのもとに身を寄せていた。ライオスはペロプスから息子クリューシッポスの教育を任されていたが、ライオスはクリューシッポスの美しい姿に思いを寄せるようになる。しかし、受け入れられなかったため誘拐し、その挙句死に至らしめてしまった。クリューシッポスは死ぬときにライオスが自分の息子に殺されるようにゼウスに祈り、それはアポロンの神託となってライオスにふりかかった。オイディプスの悲劇はこのときからすでに始まっていたのだ。それにしてもライオスが同性愛の傾向を持っていたということは興味深い。
ライオスはイオカステーを娶ってからも子を生まないように気をつけていたが、酒に酔ったときにイオカステーを妊娠させてしまう。ライオスは生まれた子を殺すように命じたが、子は殺されずにテーベとコリントの境に捨てられた。

●「アポロンの地獄」
この映画はオイディプスの悲劇を挟むようにして現代を舞台にしたプロローグとエピローグを持つ。プロローグでは赤子の誕生から始まり、母親に抱かれながら乳を飲む、まだ自然と未分化の状態が示されるとともに、自分からすべてを奪っていく息子に対する父親の複雑な感情が描かれることによって家族のエディプス・コンプレックス的関係が示される。この父親が息子の両足をつかんだシーンから古代ギリシャへと場面が転換し、オイディプスの物語が始まる。

●オイディプスの悲劇
捨てられたところをコリントの羊飼いに拾われた赤子は、オイディプスと名づけられ、コリント国王の子として育てられた。
成長するにつれてオイディプスは自分の出生に疑問を持ち、デルポイへ行くと「父親を殺し母親と交わるだろう」との神託を受ける。オイディプスは神託から逃れようとコリントに戻ることなく各地を放浪することになるが、その道中で知らずに父であるライオスを殺してしまう。
オイディプスがテーベの王となり、母であるイオカステーを娶ることになった契機は、テーベを苦しめていたスフィンクスの謎を解いたことによる。映画では謎を解くまでもなく、一瞬のうちに勝負がついてしまうが、その謎の答えは「人間」で、同時にオイディプスの運命を暗示しているものでもあった。すでに父を殺してしまったオイディプスは二本足で立つ青年でありながらも四本足の獣に堕しており、続く運命によって盲目となり先導者なしでは歩けなくなる、つまり三本足になるという運命を。このスフィンクスの謎の真意は「汝自身を知れ」というものだが、自分を知ることの残酷さがここに示されている。
オイディプスはテーベの災厄を取り除くためにライオス殺しの犯人を探索するが、すればするほど自らが犯人であることを次々と暴露していく。そしてすべてが明るみに出されたとき、イオカステーは首を吊り、それを見たオイディプスは自分の目を自ら突き刺し、彼はテーベを去る。人間はいかに逃れようとも運命からは逃れることができないが、それでも運命に抗して生きていかなくてはならず、その不条理を生きるところに人間の尊厳がある。
ソポクレースの悲劇ではここから先は「コロノスのオイディプス」へ続き、盲目となったオイディプスの放浪には娘のアンティゴネーが従うのだが、映画ではオイディプスの4人の子どもたちは登場しないため、鈴のついた帽子をかぶって伝令役を務めていた青年アンジェロが彼の目の代わりとなる。

●アンチ・オイディプス
エピローグでは古代から再び現代に戻り、オイディプスとアンジェロが都市をさまようが、まるで古代と現代が空間的に地続きのように見える。古代から現代へ追放される、あるいは排除されるために古代にやってきた存在としてのオイディプス。やがて彼らは、オイディプスがかつて母親に抱かれて乳を飲んだ場所にたどり着き、「人生は始まったところで終わるのだ」の言葉とともに、ここを最終の地とする。
近親相姦のタブーは「自然」と「文化」の分水嶺とされる。そしてエディプス・コンプレックスは近親相姦と父殺しの二重の禁止により、規範を内在化することで、子の主体が形成されていくというものだが、このようなエディプス的な家族を基盤としてパラノイア的蓄積の近代文明があるとして、このような文明を批判し、スキゾフレニックな逃走を示したのがドゥルーズ=ガタリだったとすれば、パゾリーニはむしろそれ以前の、母親に抱かれながら自然と一体化した状態へ回帰するという不可能な望みを望んでいるようだ。いくら光を望んだところで盲目のオイディプスにはもはや闇しかないように。鍵となるのは原初的な悪であり、自然と文化の裂け目にある物語としてのオイディプスの悲劇になるだろう。ソポクレースの悲劇では、コロノスに着いたオイディプスは「自分を受け入れるものには恵みを、追い払うものには呪いを」と言う。恵みか呪いか、オイディプスは今も地下にあってその力を失っていない。


豚小屋

2005-01-20 21:48:35 | 映画
D110476286「豚小屋」(Porcile)
1969年イタリア・フランス
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
音楽:ベネデット・ギッリア
出演:ピエール・クレマンティ、ジャン=ピエール・レオー、
アンヌ・ヴィアゼムスキー 他


この映画は二つの物語が交互に展開する構成になっていて、ひとつはカニバリズム、もうひとつは獣姦を扱っている。パゾリーニによれば「豚小屋」は社会に反抗する若者とその若者を食い尽くす社会を描いたという。
ひとつめの物語。時代背景は不明。火薬や銃があるので14、15世紀あたりと考えるのが妥当かもしれないが、神話的な雰囲気は古代のようでもある。ピエール・クレマンティ演じる青年は火山の火口付近の荒地を餓死寸前の状態でさまよい、蝶や蛇さえ口にする。あるとき青年は白骨死体の傍らにあった甲冑と銃を手に入れる。そして一人の若い兵士に出くわす。青年は兵士を殺害し、死体の頭部を切り離し、蒸気を吹き上げる穴の中にその頭を放り投げたあと、兵士の肉を食べる。
やがて青年には仲間ができ、通りかかる人々をグループで襲うようになり、人肉食を繰り返していたが、その結果青年たちは捕まってしまう。そのとき青年は着ているものをすべて脱ぎ、裸形のまま連行される。青年たちは裁かれるが、その刑罰は荒地に縛りつけられ、野犬に食われるというものだった。青年はこの刑罰を静かに受け入れる。
この青年の姿には餓死寸前の極限状況のなかで究極の葛藤をくぐりぬけた者だけが持つある種の崇高さを感じさせる。青年は「私は父を殺し、人肉を食い、喜びにうち震えた」と呟く。パゾリーニはこのカニバリズムにスキャンダルなまでに拡張された青年の反抗を表現したという。キリスト教においては聖餐のパン(イエスの肉)とワイン(イエスの血)がカニバリズムと深く結びついているし、ユダヤ教においてカニバリズムはタブーとされ、人肉に近いという理由で豚肉さえ食することを禁じているが、イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言った。タブーを犯す青年の姿にイエスの姿が重なるゆえんだが、この青年にはイエスだけでなく、プロメテウスやエムペドクレスも重なるように見える。
カニバリズムというタブーを犯したことによって、青年は自然とダイレクトに一体化する境地に至ったのではないか。捕まったときに裸形をさらしたのは、自然の本質をつつみかくさず明るみに出したということではないか。その青年に対して再び衣服を着せ、剥き出しにされた本質を覆い隠してから、キリスト教の制度は青年たちを裁くのだが、青年にとっては制度上の裁きは何事でもない。自然と一体化した青年は自分もまた食われることを受け入れることができるからだ。

もうひとつの物語は第二次世界大戦後のドイツにおけるブルジョワ青年をめぐる話だ。ジャン=ピエール・レオー演じる青年ユリアンにはアンヌ・ヴィアゼムスキー演じるアイーダという許婚がいる。しかしユリアンは曖昧な態度を示す。彼は父親に対しても従順でも不順でもない曖昧な態度を示し、彼の母親とアイーダに対してはまるで正反対の顔を見せているなど、曖昧で複雑な多重性を持っている。こうした曖昧さはブルジョワであること、つまりすべてが与えられ退屈な毎日を過ごし、革命にシンパシーを感じながらも自分は打倒される側にいるというところから由来するものかもしれない。ユリアンは饒舌であるが肝心のことは何も話さない。彼にとって話すということは聞かれてはいけないことを隠すためのようで、彼が隠していることは屋敷の敷地内にある豚小屋に入っては飼育されている豚と交接を繰り返していることだ。
ユリアンの父親である実業家のクロッツはヒトラーのようなひげを生やし、一人のときはハープでナチス党歌を演奏する。彼は豚と呼ばれていて、それは「資本家=ファシスト=豚」というステレオタイプを示す。クロッツはライバルとして台頭してきたヘルトヒッツェという実業家の身辺をスパイを雇って調査させている。スキャンダルになるものを嗅ぎつけ、それをネタに脅すつもりでいるのだ。そして、ヘルトヒッツェが戦時中にユダヤ人の死体を大量に調達し解剖学の実験に使用していたことを突き止める。しかしヘルトヒッツェもまた、クロッツの息子が豚との獣姦を繰り返していることを知っていた。互いに弱みを握った二人はそれを抑止力として、互いに協力することを決める。その合併披露のパーティーの日の朝、ユリアンは豚小屋に出かける。しばらくするとパーティー会場にクロッツの使用人たちが来て、何かを伝えようとしているがなかなか言い出さない。ようやく一人(ニネット・ダヴォリ)が口を開き、ユリアンに起こった出来事を告げる。一部始終を聞いたヘルトヒッツェは他言しないよう指示する。
この物語はシンメトリックな画面で構成されるが、あえて古典的な様式で描くことにより、腐敗したブルジョワの空虚さをよりいっそう際立たせている。
パゾリーニの生涯をもとにした小説も書いたドミニック・フェルナンデスは「シニョール・ジョヴァンニ」というヴィンケルマンの死の謎にせまる小説の中で、「18世紀末、市民階級の勃興とともに始まるその時期、新しい生産性と利潤のモラルが公の性生活から無秩序、奢侈、遊び、無償といった要素をいっさい取り除いてしまった」と書いた。市民生活は二重化され、快楽と同時に罰を求め、高尚な感情に捧げられた精神生活と卑しさを宿命づけられた肉体の生活に分裂する。市民の良識は互いを抑圧し、臭いものには蓋をしていく。蓋のしかたは権力によってもみ消したり、社会的要因、あるいは生理的、心理的要因など挙げ連ねてこちらとあちらの境界線を引いては安心したりと様々あるが、ここでは若者の反抗はついに崇高さへ至る契機を失ってしまう。

二つの物語をつなぐのはパゾリーニの作品の中で常に天使的な役割を果たしてきたニネット・ダヴォリであり、彼だけが両方の物語に登場する。




ウィークエンド

2005-01-19 19:28:08 | 映画
weekend1967年フランス・イタリア
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウル・クタール
音楽:アントワーヌ・デュアメル
出演:ミレイユ・ダルク、ジャン・ヤンヌ他

いわく、「宇宙にさまよった映画」、「鉄屑から見つかった映画」。

ロランとコリンヌはそれぞれが愛人を持ち、互いの死を望んでいる。今はコリンヌの父の遺産を手に入れるためだけに夫婦生活を続けているようなもの。その父の死期がいよいよ迫ったというので、二人はワンヴィルにあるコリンヌの実家に車を走らせる。ここから映画は二人の道中を妨げる出来事ばかり起きる。

交通事故が原因の大渋滞。
延々と鳴らされるクラクション。
無造作に転がる死体。
ジョゼフ・バルダモ(詐欺師カリオストロ)による車の占拠。
二人の車を巻き込んだ衝突事故。
無残に炎上する車。
フランス革命の大天使サン・ジュストの唐突な登場。
アリス化したエミリー・ブロンテとの噛み合わない会話。
モーツァルトのピアノ・ソナタ第17番の演奏(360度のパン)。
モルガンとエンゲルスを引用したゴミ清掃員の演説。
ワンヴィルでの遺産相続をめぐる事件。
セーヌ・オワーズ解放戦線という名のゲリラ。
ドラム演奏とともにロートレアモン「マルドロールの歌」の朗読。

これらの出来事は二人を疎外された状況に置く。ゴダールはブレヒトの異化(映画であることを常に意識させることにより、感情移入を許さない)を導入し、不自然さと唐突さで、疎外された状況をグロテスクなまでに誇張する。疎外の克服もなく、当然、カタルシスもない。こうして、映画では疎外された状況を際立たせながら、その手法においては従来のやり方をことごとく打破することで映画の革命を成し遂げようとした。しかし、このことはサン・ジュストが断頭台に消えたように、ロランとコリンヌの為した暴力が暴力によって無意味にされたように、ゴダールにとっても自らをアンビヴァレンツな状況に置くことになったのではないか。
「自由とは犯罪と同じく暴力である」(サン・ジュスト)

子どものように残虐で、結びつきようのないことを結びつけることによる「衝撃的な出会いの美しさ」を語ったロートレアモンの引用は、「ウィークエンド」の交通事故のような編集を支持するだけでなく、この後にゴダールが商業映画から退き、単独の作者としてではなく、匿名的な映画集団である「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成したことを考えると極めて重要なことに思う。ロートレアモンはまた、イジドール・デュカス名義で他人からの剽窃も厭わず「詩は万人によって作られるべきだ」(ポエジー)と言ったのだ。主体としての作者を消滅させることによる疎外論自体の無効化。




ブリキの太鼓

2005-01-17 01:48:04 | 映画
blecht「ブリキの太鼓」(Die Blechtrommel)
1979年西ドイツ・フランス・ポーランド
監督:フォルカー・シュレンドルフ
音楽:モーリス・ジャール
主演:ダヴィッド・ベネント
原作:ギュンター・グラス




これはギュンター・グラスが1959年に発表した小説を映画化したもの。醜悪な大人に嫌気がさし、3歳で成長を止めたオスカルを主人公とした問題作「ブリキの太鼓」のドイツ文学上の位置づけとしては、市民社会の成熟とともに書かれるようになったビルドゥングスロマン(教養小説)の伝統をグロテスクに歪型化したことで、17世紀のバロック小説であるグリンメルスハウゼンの「阿呆物語」につながるものと言える。後年、グラスは「テルクテの出会い」という三十年戦争当時を題材にした歴史小説を書き、そこにグリンメルスハウゼンを登場させている。この小説の意図は三十年戦争当時の作家たちと第二次大戦後のいわゆる47年グループとをパラレルに捉えることにあり、グラスの中でこの二つの時代は重なり合っている。
シュレンドルフによる映画化は三部構成であるこの小説の第二部までで、オスカルの祖父母のおおらかで奇妙ななれそめから始まり、ナチスの台頭、自由市ダンツィヒの制圧、そして第二次世界大戦という激動の時代のなかで翻弄される人々の悲喜劇が描かれている。
生まれたときのことを覚えているばかりか、すでに精神的に完成された状態で生まれたオスカル誕生のエピソードは三島由紀夫の「仮面の告白」を髣髴とさせるし、生まれることを拒否して胎内に戻ろうと考えるところでは芥川龍之介の「河童」を思い出させもするが、何よりもクライストの「私たちは無垢の状態に立ち返るためには、もう一度認識の木の実を食べなければならないのですね?」(マリオネット芝居について)に呼応する。
3歳にして身体的な成長を止めたオスカルは3歳の誕生日にもらったブリキの太鼓を常に離さない。本物の楽器ではなく玩具であるブリキの太鼓に絶対的な価値を与え、この太鼓とともに精神的に成熟した子どもとして生き、サーカスの芸人たちとフランスを回ったりもする数奇な運命(放蕩息子の帰還)のなかで、オスカルは市民社会にひそむ臆病で打算的な人間の邪悪さや退廃、ナチズムのキッチュさを明るみに出していく。その視点は例えばテーブルの下や演台の下からといったように低く、上からでは見えない部分を見る。これに対して、レニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」に典型的に示されるように、ナチの場合は上からの視点ということになるだろう。
この映画には一度見たら忘れられないシーンがたくさんあるが、興味深いシーンとして、ナチの集会が行われているとき、演台の下に潜んだオスカルが叩く太鼓によって鼓笛隊の演奏が次第に変化し、最後にはウィンナ・ワルツの舞踏会になってしまうという場面がある。ユダヤ人の音楽でありながらナチでさえも禁止できなかったヨハン・シュトラウスのウィンナ・ワルツが噴出するとき、ナチが抱えていた欺瞞性が一気に露呈される。
一般に文学作品の映画化はあまり成功することはないが、この映画は原作の雰囲気を忠実に映像化している。主演のダヴィッド・ベネントの存在が夢とも現実ともつかない世界にリアリティーを与えている。