むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

ヴァージニア・ウルフについて

2005-07-07 23:15:00 | 本と雑誌
woolf
 
 
 
 

Virginia Woolf(1882-1942)

ヴァージニア・ウルフは文化的に恵まれた環境に育ち、「ブルームズベリー・グループ」と呼ばれるケンブリッジのエリートたちといった、多くの文化人との交流の中で自己の教養を磨いていった。小説家としてはジョイスやプルーストとともに、「意識の流れ」と言われる手法を実践し小説の革新を図るとともに、フェミニズム批評の嚆矢となる「私だけの部屋」という講演集も残した。
 
「ダロウェイ夫人」や「灯台へ」といった代表作では、音楽的な構成と絵画的な色彩感を特徴とする詩的散文によって、登場人物の内面の意識や心に浮かぶイメージを川の流れのようにつむいでいく。
この2作には対照的な面もあり、「ダロウェイ夫人」が一日の出来事を人の一生のように書いたとすれば、「灯台へ」は10年の出来事を一日の出来事のように書いた。また、「灯台へ」は彼女の家族をモデルにし、子どもの頃の思い出が反映している。

なにげない日常の繰り返しのなかに訪れる特権的瞬間(エラン・ヴィタール)を追い求めた彼女ではあったが、第2次世界大戦の始まりと、度重なる狂気の発作に耐えかねて自ら死を選んだ。


「ヴァージニア・ウルフ短篇集」(ちくま文庫)について覚え書き


「堅固な対象」Solid Objects

ガラス、磁器、鉄の塊など拾い集めることに没頭し、政治家としての職務を忘れ、次第に社会からも遠ざかってしまう男の話。
年月によって変型し、また不思議な断片と化した物たちは、誰かによって捨てられた、他愛もない、それ自身では意味のないものである。

「考えごとの途中で何度も何度も視線の対象になったものというのはそれが何であれ、思索の織物と深い関係を持ち、本来の形を失い、少し違ったふうに、空想的な形に自らを作りなおし、まったく思いがけない時に意識の表面に浮かびでたりするものだ。」

偶然に捨てられ、断片化した物に様々なコンテクストを与えることで、そこに宇宙の成り立ちを垣間見るというように、思索はファンタジックに展開する。
 
人々が見向きもしない断片に執着し、それをまったく思いがけないものへ変えていくイマジネーション。先端に針金の輪をつけたステッキを持って毎日出かけていく男の玩物喪志的な話は、男の内面宇宙だけでなく、創作の秘密を垣間見させるようでもある。
 
宇宙とは何か、人間とは何かというような、かつて人々を夢中にさせた問題は、現代のジャーナリズムが提供する話題にとってかわられてしまう。もはや、人々は政治のことや経済のことしか考えなくなった。物が捨てられるように、哲学的な問題は忘れられてしまった。しかしそのような、人々が省略した事柄にこそ探究すべき事柄が存在しているということ、この作品は、こうしたことに気づかせる。


「ヴァージニア・ウルフ短篇集」の中から、いくつかの抜き書き。


「同情」Sympathy
  
「けれども、何とすべてを変えるものか、死というものは。日蝕でも起こったみたいに。色彩というものが消え失せ、樹木が影のなかで紙のように薄く、鉛色に見える。冷たい風が微かに吹き寄せ、通りの騒音が高くなって、建物の深い谷間を渉っていく。それから一瞬の後、懸隔には橋が渡される。音は混じりあう。まだ色を失っているが、樹木を見るとそれらは歩哨になり監視者になっている。空はそれらの柔らかい背景となる。そしてとても遠くにあるように見える。夜明けの山の頂きに立つもののように。死が務めを果たしたのだ。木の葉や家々やゆらゆらと立ち昇る煙りの背後に広がる死が冷静にそれらを用いて静穏な何ものかを作りあげたのだ。そうしたものが生の偽装を纏う前に。」


「池の魅力」The Fascination of the Pool
   
「池は水のなかにあらゆる種類の夢想や、不平や、確信を擁している。書かれたこともなく、口にされたこともないそれら。ただ流体のような状態で犇めきあう、実体性の限りなく希薄なそれら。葦の刃によってふたつに断ち切られ、その隙間を一匹の魚が擦り抜けていく。月の皓く大いなる円盤はそうしたものすべてを殲滅する。池の魅力は立ち去った者たちが残した想念の存在ゆえである。そして肉体から離れた想念は自由に、親密に、会話を交わしながら、出入りする。共有地のこの池に。」


「ミス・Vの不思議な一件」The Mysterious Case of Miss V.
  
「高度に文化的な都会では人間生活における礼は可能な限り狭い領域に押しこめられている。肉屋は肉を勝手口に投げ入れる。郵便屋は手紙を郵便受けに捩じこむ。郵便受けの便利なその隙間を通して、牧師の妻は教書を突きつける。みんな同じ行動を繰りかえす。浪費されるべき時間はない。だから肉は食べられないまま残されるかもしれない。手紙は読まれないかもしれない。教書に書かれたことは実行されず、誰も賢くなることはないかもしれない。そしてある日、日々の用を勤めるそれらの者は、十六番あるいは二十三番の家を気にかける必要はないと無言で結論を下す。彼らはその家を省く。巡回の経験から。そして可哀想なミス・Jあるいはミス・Vは人間の生活の緊密な連鎖から抜け落ちる。そしてすべての人々から省かれる。永遠に。」


「壁の染み」The Mark on the Wall
  
「私たちの思考というものは何と容易すく新しいものに惹きつけられることか。藁の一片を運ぶ蟻のようにしばらく熱心に担いで歩き、やがて放り出す……。」

「ひとつのことが一度為されてしまえば誰もそれがどのように為されたか知ることはもうできないのだ。いやはや何という人生の神秘。何という思考の杜撰さ。人間の愚昧さ。自分たちの所有物にたいする支配力がいかに僅少であるかをそれは示している。」
 

「書かれなかった長篇小説」An Unwritten Novel
   
「白い光が飛沫のように注いでいる。大きなガラスの窓。麝香撫子。菊。暗い庭の蔦。戸口の牛乳運搬用の荷車。どこへ行こうと私はあなたたちの姿を、その謎のような姿を見る。角を曲がっていくあなたたち、母と息子たち。繰りかえし、繰りかえし、繰りかえし。私は早足になる。私は追っていく。ここはどうやら海であるらしい。辺り一面灰色だ。灰のようにくすんだ色。水は囁き、脈搏つ。もし、私が跪いたとしたら、もし私が儀式を行おうとするなら、古怪な身振りをするならば、そう、あなた方のためだ、未知なる影よ、あなた方を私は崇拝するからだ。もし私が両の腕を広げたなら、それはあなたを掻きいだくためだ。あなたを引きよせるためだ-------崇拝するに足る世界よ。」 

「ヴァージニア・ウルフ短篇集」に収録された作品のなかでとりわけ素晴らしいのは、やはり「キュー植物園」Kew Gardensだろう。印象派的な手法とよく指摘されるが、音と色に還元され、からみあい、溶け合う世界の描出方法は、極めて美しい詩的散文により、めざましい効果をあげている。意識の流れという手法も、輪郭のない、光と色彩の祝祭空間を言語によって表出しようとする試みとして考えることもできるように思う。理性や習慣が省略してしまうものをとらえること。物が喚起するイメージやある出来事から連想される思考、記憶がふと蘇る瞬間を捕まえること。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿