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What’s ノーマリゼーション?

福祉について考えるUMEMOTOのブログ

脳死に対する議論再燃?

2005-04-23 00:10:17 | 福祉雑記録
脳死の状態であっても、本人と家族の同意があれば臓器移植が可能になった「臓器移植法」が1997年(平成9年)10月に施行されてから、7年半が経過した現在、脳死に対する議論が再び燃え上がろうとしている。

発端は、脳死状態での臓器移植が少ない現状において、本人の意思さえあれば、家族の同意なくして移植できるようにする、という話が出始めたことによる。それに対して、実際の臓器提供者の家族や関係者からは、脳死を人の死とすることに対して改めて疑問が投げかけられている。
実際、この7年半の間で脳死状態による臓器移植は36件(2005年3月9日時点)となっている。この数を多いとみるか少ないと見るかは、立場によって異なるのであろう。2001年の調査によると、「脳死、心停止状態において臓器を提供してもいい」と思っている人は3割程度で、実際に臓器提供カードを持っている人は1割弱だったという。それから4年あまり経っているが、広報の状態や認知度からみると、現在もあまり数字の変化はないように思われる。
この状況において、臓器移植の関係者が焦りを持ったかもしれないことも理解できる。それが、今回の議論につながっているのであろう。
しかし、まだ議論が白熱しているとはとても言いがたい。1997年時点では、連日のように紙面やテレビにおいて議論されていた。そこまでとはいかないまでも、7年半経った今、もう一度見つめ直すいい機会ではないだろうか。

臓器移植における基準を話し合う際、よく引き合いに出されるのは欧米の基準である。特にアメリカでは人口が多いのも影響しているが、臓器移植が盛んに行われており、昨年一年間で約2万7,000件、脳死・心臓死における臓器移植も約7,000件(増加率11%)となっている。実際、日本から移植の為に渡米するケースも後を絶たないという。
臓器移植を待っている人やその家族にとってみれば、助かる見込みがあるならば、藁にもすがる思いで臓器移植に期待するだろう。しかしその対岸には、自分の子どもの体が臓器移植のために切り刻まれるのを目の当たりにする親もいるということである。
脳死による臓器移植とは少し違うが、中絶胎児を医療に利用するケースも出始めている。実際に中国のある病院では、積極的に中絶胎児の細胞を筋ジストロフィーなどの神経系の病気の治療に用いているという。そこまであからさまではないにしろ、以前から中絶胎児の細胞を化粧品に使用していることなどが指摘されている状況でもある。

医学的、倫理的に何が正解で、どうしたらいいのか私には分からないが、脳死に関しては、現在の基準が妥当のように思われる。生前の本人による同意、そして家族の同意。どちらも必要不可欠な要素であろう。人は自分一人だけでは生きていないことを考えれば。移植を受ける側にとってはもちろんのこと・・・。

人口減少社会の到来 ―社会保障の早急な整備を―

2005-02-27 18:54:19 | 福祉雑記録
2月23日付け朝日新聞(朝刊)に、人口増加率の落ち込みに関する記事が載っていた。人口増加率が0.05%まで落ち込んでおり、出生児数から死亡者数を引いた自然増も10万2千人と戦後最低になっている。つまり、まもなく人口が減り始める「人口減少社会」が到来するということだ。現在の人口は1億2768万7千人(04年10月1日)。

人口問題は、社会全体に大きな関わりを持っているが、特に社会保障に対する影響は大きいものがある。身近な問題としては年金がある。年金は、現役世代(20~70歳未満)が高齢者世代(65歳~)を支える世代間扶養の考え方で運営されている。そのため、人口問題とは切り離せない問題なのである。
このままでは年金制度が立ち行かなくなるとして、昨年より年金制度改革の論議が本格的に始まったのは記憶に新しいところである。その結果、年金給付金を現役世代の収入の50%以上を確保するとして、保険料を上げ、給付金を下げることにして年金改革法案が成立したのである。しかし、今年に入ってからは野党である民主党が審議を拒否しており、改正論議は始まっていない。
国立社会保障・人口問題研究所によると、少子高齢化は予想を上回るスピードで進んでいるという。これをうけ、総務省は「出生率が低調なうえに、平均寿命が延びているため」と分析している。このままいくと、年金制度を改正する前に制度自体が立ち行かなくなってしまうというのも大げさな話ではない。

日本人は、税金や社会保障に対する関心が薄いと言われている。特にサラリーマンにとっては、給料から天引きされており、数字のうえでしか確認しないため、実感を伴わないという現実がある。そのためこのような状況になっても、私たち国民はあまり騒ぎ立てることはない。そのためだろうか、国会議員があまり危機感を持たずにいるように思えてしまう。
生活大国であるスウェーデンでも02年に年金制度改革を行っている。しかし、こちらの場合は人口推計予想を基に、10年以上の歳月を掛け話し合われた結果によるものである。つまり、現在の日本のように逼迫した状況ではないが、100年先を見越しての制度改革なのである。日本で言っている「100年」とは重みが違う。

なぜこのような違いが出てくるのだろうか。
年金制度が生まれたのはヨーロッパからである。そもそも年金は起源は、兵隊が貰う糧からきていると言われている。除隊した後でも、その保障としてお金を貰えるように運動を起こした結果、現在の年金制度の原型ができたのである。民主主義が発達しているヨーロッパにおいては、自ら勝ち取り作り上げた制度として年金制度が成り立っている。そのため、ヨーロッパ諸国では社会保障に関するデモにおいても、とても大規模なものになってくる。
一方、日本においては国が整備し国民に強制加入させるという方式をとっている。そもそも、年金制度成立の背景がまったく違っているのである。そのため、税金や社会保障に対する関心に違いが出てくるのである。

今回の年金制度改革では、抜本的な改革を期待したい。今最も国民が関心のあることとして、年金の問題が挙げられている。それだけ注目されているにも関わらず、国会においては実のある論議はされていない。国会議員のつまらないプライドや私欲のために、私たちの将来を間違った方向に持っていってほしくはない。法案を成立させるのを急がず、じっくりと論議し本当に「100年」継続できる制度を作り上げなければ、私たちのみならずこれから生まれてくる子どもたちにも大きな負担を負わせることになってしまうだろう。本当に国民が納得できる制度であれば、保険料アップも年金給付のダウンも受け入れることができるはずである。そのような年金制度を望みたい。

「ありがとう」の先にあるもの

2005-02-17 23:26:30 | 福祉雑記録
私の勤めている特別養護老人ホームでは、面会後の家族に対して「ありがとうございました」と言っている。別にそう決まっているわけではないが、職員のほとんどがそうだ。
私はいつもそれを聞きながら違和感を感じている。なぜ「ありがとう・・・」なのか。

少し乱暴かもしれないが、私は家族が面会に来るのは当たり前だと思っている。顔を見に来るだけではなく、ケアをしていってくれてもいいとさえ思っている。だから、なぜ面会に来た家族に対して「ありがとう・・・」と言うのかがわからないのだ。ホームヘルパーが訪問中に、そのお宅に遊びに来た家族に向かって「ありがとうございました」と言うだろうか。
そこで暮らしている入居者にとっては、施設であっても“住まい”である。そして、そこで働くスタッフは何らホームヘルパーと変わりがない。そういう共通理解がない施設は、生活の場にはなり得ない。

私が言いたいのは、介護は家族がやるべきだということではない。高齢者に限らず、障害者、子どもなどのサポートは社会全体で取り組む必要があると思っている。
「家族の介護」と「家族の支え合い」は別問題なのだ。
よく親を老人ホームに預けてしまってから、かかわりを持たなくなってしまう家族がいる。預けてしまえば、後は施設の仕事だからと手を出さない。ケアは身体的なものばかりではない。家族には最期まで精神的なつながりを持っていてほしいと思う。

「ありがとう」の先には何も見えない。そこでぷつりと終わってしまうような気がする。もっと家族に対して求めてもいいのではないか。求めるということは、私たちもそれだけのことはしなくてはならない。それが対等な関係であり、相互作用の中からよりよい関係が生まれるのではないだろうか。

介護職の専門性とは?

2005-01-18 22:08:53 | 福祉雑記録
私たちが取り組んでいる『若手の福祉会議』という団体で、研修活動がいよいよスタートします。
今回のテーマは、「介護の専門性とは?」「それを身につけるためには?」です。興味のある方は是非一度ホームページをご覧ください。

さて、今回は専門性に関連した話。
まだまだ、介護の仕事は誰でも出来るし、誰がやってもよいことになっている。しかし、徐々にではあるが介護福祉士に限定しようとする動きや、ホームヘルパーにおいてはヘルパー2級ではダメで、さらにある一定の研修期間を設け専門性を高めようとする動きがみられる。
専門性を高めるというのは必要なことで大切なことでもあるから賛成だが、何が専門性であるのかはあまり焦点が当てられていない。これから、利用者のニーズがさらに多様化してくることが予想されるなか、現状の介護福祉士のカリキュラムだけでは充分ではないだろう。その議論を同時にしていかなければ、近い将来すぐに計画が暗礁に乗り上げてしまうことも考えられる。

さらに、女性(特に主婦)が多く働いているホームヘルパーにおいて、ハードルを高くすることは新たな人材の確保に影響を及ぼすおそれがある。今現在働いている人たちには、仕事を続けながら研修を受けれるなどの配慮が必要なのは言うまでもないが、新たに介護の仕事につく人たちにとっては、高いハードルを越えるほどの賃金の魅力がないのが現状である。ヘルパーはパート扱いされることが多いうえに、神経を使うことが多い仕事である。国は、私たちに専門性を要求すると同時に、労働者の生活の保障も見直してもらいたい。

しかし、要求ばかりしていても何の解決にもならない。介護職の専門性が低いことは、実際に現場で働いている私たちがよく分かっている。その私たちができることは、専門性とは何かを考え、そして高めていくこと。そして、それを体系化し実際のケアに生かしていくことではないだろうか。
では、介護職の専門性とは何か。それを研修を通して考えていけたらと思う。

最期にスウェーデンでの例をひとつ。
スウェーデンでは、市(コミューン)によって福祉行政が異なった取り組みをしている。それぞれの市(コミューン)で決定し、財政を動かしてニーズに合わせている。それだけでも日本とは大きく異なるが、ある市(コミューン)では、高齢者にひとりずつ専門のヘルパーをつけている。ただの担当とは異なり、利用者とヘルパーがお互いに契約を交わし(契約書にサインして)、より良い生活のためにお互いの意見を交換してケアを決める制度がある。例えは、週に4時間の契約であれば、その4時間に何をしてもらいたいかを利用者が希望し、それに合わせてヘルパーがスケジュールを組み立て、お互いに納得したうえでケアをするのである。そこには日本のように、「草むしりはダメなの。そういう決まりだから」という言葉はない。利用者が望むことに対してヘルパーが援助することがケアなのである。当然だが、ヘルパーにはそれなりの権限と責任が与えられており、そのための研修も行われている。その市(コミューン)では、賃金も上げたそうだ。当然、皺寄せがいった分野もあるが。

このような状況は理想であり、目標でもある。しかし、私たちに権限があるということは、責任も発生することになる。その責任を負うためには、それ相応の知識や技術が求められることになる。
しかし、近い将来必ず日本でも近い形のケアが出来るようになると信じている。その時に、私たち介護職に求められるのは、幅広い視野と知識、そしてその中でもひとつ秀でる専門性なのではないだろうか。

槍玉にあげられた高齢者施設

2005-01-11 14:00:09 | 福祉雑記録
高齢者施設での集団感染のニュースが連日メディアをにぎわせている。発端は広島県福山市の特別養護老人ホーム『福山福寿園』での集団感染で、その結果7名の高齢者が亡くなることになった。その後も神奈川の老人保健施設、千葉県の特別養護老人ホームと相次いで死亡者が出ている。

今回の原因はノロウイルスであることが判明したが、全国的に蔓延しているという。
ノロウイルスとは、SRSV(小型球体ウイルス)の一種で、人の小腸でしか増えない特殊なウイルス。ウイルスに感染された生ガキなどの二枚貝や、これらを使った食品などから感染し、食中毒の原因となりやすい。感染力は強いが、通常は2、3日で回復するという。ただ、抵抗力が弱い乳幼児や高齢者だと悪化し、死亡する場合もある。主症状は吐き気、嘔吐、下痢、腹痛であり、発熱は軽度。感染者の嘔吐物や便を処理する際にウイルスが付着し集団感染する例があり、手洗いやうがいを念入りにすることが予防策となる。

このノロウイルス、今年だけが特別に蔓延しているわけではなく、毎年一定数の人が発症しているもので特別なウイルスではないという。ではなぜ今年は連日メディアに取り上げられているのか。
それは、福山市の『福山福寿園』の対応のまずさが大きな原因であろう。同じ症状で6日間で6名の死者を出しておきながら、「病気か自然死かわからなかった」と市町村に届出ることを怠っていた。対応をしっかりとしなかったために被害が拡大したのでは、と言われるのも無理はない状況を自分たちで作り出してしまったのである。また発覚したのが、おかしいと思った関係者からの匿名の通報だったことも不信感をあおる要因となっている。
この一連の不祥事ともいえる対応のまずさが、今回の高齢者施設での感染症にスポットを当てることになったといえる。普段ではニュースにならないと思われる死亡の事実を、施設名を出され毎日のように報道される結果になってしまった。まるで、高齢者施設が槍玉にあげられているかのようにみえてしまう。

しかし、原因はどこの施設にも多かれ少なかれある閉塞感にある。地域に開かれていなかったり、情報が開かれていないことが今回の不祥事に繋がっていることを考えれば、私たちも今一度身を引き締めなければならないだろう。
また、一度感染症が発生した時に、今の大部屋、大規模施設では感染が広がりやすい事実もある。衛生管理が行き届きやすいという面からも、これからの施設の小規模化が望まれることも頭に入れておく必要がある。

デイサービス(高齢者施設)における「しつらえ」について考える。

2004-11-12 21:25:19 | 福祉雑記録
今日、街中を歩いていると平屋のデイサービスセンターがあったので中をちょっと覗いてみました。そこは、市が運営しているデイ単独の施設で、時間が遅かったため利用者は誰も中にはいませんでした。
窓から見えたホール(日中利用者が居させられる場所)には、天井に色とりどりの万国旗が飾ってありました。おそらく、運動会シーズンということで、日中はデイ利用者の運動会でも中で行っていたのかもしれません。そして、1週間は同じ「しつらえ」で同じ運動会をしているのかもしれません。「運動会なんかしたくない」と思っている利用者や、週何回も利用している利用者はたまったものではないでしょう。何と言っても、逃げ場がどこにもないのですから・・・。しかしどうでしょう?多くのデイサービスが同じような「しつらえ」、サービスをしているのではないでしょうか?

もちろん入居施設においても同様の「しつらえ」をよく見かけます。どう見ても幼稚な飾り付け。しかし、デイサービスにおいてはその色が濃いような気がしてなりません。これは独断ですが・・・。また、通所施設ということで、入居施設に比べて生活感などは作りづらいということもあるかと思います。
今日見たデイサービスは幼稚園のように見えました。万国旗に限らず、季節感を出そうとして職員が描いたつたない絵、折り紙を壁に貼った飾り付け・・・。わざわざ季節感を絵で出そうとしなくても、ちょっと外に散歩に行けば済むことだし、そもそもデイサービスは送り迎えで街の様子が季節の移り変わりとともに見ることができると思うのですが。
どれも職員の「なんとかしよう」という想いから来ていることはとてもよくわかりますが、他に方法がないのか考える必要はあると思います。

「利用者それを望めばいいじゃない」という意見もあるかもしれません。でも、何でもいいというものではないでしょう。環境によって利用者の行動は大きく左右されます(これはグループホームや逆デイサービスの取り組みで実証済み)し、何よりケアをする職員の行動も影響されます。幼稚園のような環境で高齢者をケアすると、自然と子ども扱いしないとも限りません。
現に千葉県のあるデイサービスでは、『老稚園』という表現を使っているところがありました。実際の施設やサービスを見たことはありませんが、この名前を見ただけで高齢者を子ども扱いした施設やケアが目に浮かびます。この『老稚園』の管理者は、堂々とこの名前を使っていて少しの疑問も持っていないのです。皆さんはどうですか?自分の親に対して「お父さん、今日は老稚園に行く日だよ」と言えますか?

福祉施設はとかく内弁慶になりやすい体質といってよいでしょう。知らず知らずのうちに働いている私たちも周りが見えにくくなっているかもしれません。身の周りを見渡した時、これは・・・と思う「しつらえ」はありませんか?もし分からなければ、最近利用し始めた利用者に聞いてみるといいかもしれません。きっと当たり前の感覚で感想を言ってくれるでしょう。その言葉は何より大切にしなければならない言葉かもしれません。

介護と看護について考える。

2004-10-26 00:08:50 | 福祉雑記録
介護職と看護師の対立というか、仲の悪さはどこにでもある問題ですよね。本当によく耳にします。特に福祉施設というのは、その問題が起きやすい環境なんでしょうか。皆さんも自分の施設のことを考えてみてください。
今回は、高齢者施設(主に特養)を舞台に少し考えてみたいと思います。

本来、介護と看護は、利用者や患者を一個人としてサポートしていく、という同一線上にいる存在であるはずです。つまり、視点は違えど同じ目的のために協力していく関係。少なくとも私たち介護職は学校でそう習いました。
でも実際はそうではなく、力関係というかバランスが崩れ、看護師の意見が強くなっています。というか、看護師が強く意見を言っているのが現状のような気がします。

その理由はいくつか考えられますが、まず大規模な高齢者施設が病院をベースに作られているという歴史が考えられます。自然、業務の組み方が病院的であり、看護師と介護職の関係も、看護師と看護助手という上下関係が持ち込まれたように思います。
もうひとつは、資格の問題です。看護師の資格は介護福祉士などの資格と比べて歴史もあり、かつ資格があることでしか出来ない業務というものが明確に位置づけられています。一方、介護職は誰でもできる仕事(本来はそうではないと思うけど・・・)として位置づけられているのです。専門的な知識の量も違うし、今の介護職がどれだけ独自の専門知識を持っているかというと首をかしげざるをえません。自分自身の反省も含めてですが・・・。
この差が、看護師から強く言われてしまう現状を作り出しているように思うのです。

されにあげれば、“高齢者の生活を支える”ことと“その施設”のことを理解できていない看護師が多すぎます。(もちろんそうでない看護師もいますが)
急性期の患者ではない高齢者が求めているのは、治療ではなく生活だということです。
“生活”ということを考えずに、「医療的に必要だから」といって時と場合を考えずに処置を行う様子からは、本当に利用者個人をみているのかと感じてしまうこともあります。その人が生活を送るために必要なことを、生活の流れに合わせて行う。それだけでいいのですが・・・。

以前、初めて特養で働いたという看護師が言っていたのは「病院ならもっといろいろ(処置を)してあげられるのに・・・」ということでした。病院と施設の違いに相当悩んだいたようで、目の前にいる利用者に対して歯がゆい思いをしていました。最終的にその看護師は「私には(施設は)向いていない」と口にするようになりました。
今は人員配置基準により看護師という資格で採用しているところが多いでしょうが、実際は人間ですから“合う合わない”という問題もあるでしょう。教育の現場で、もっと高齢者の生活を支える看護、そしてその現場で働くということを教える機会もつくるべきだと思います。これからは、介護職も看護師も人間性が問われてくる時代になってくると思います。そうなる前に、私たちが出来ることはまだまだあると思います。お互いを知り、尊重し、自分自身をより高めていくことが急場できることなのではないでしょうか。

高齢者の身体拘束について考える。

2004-10-23 17:43:42 | 福祉雑記録
19日の朝日新聞【朝刊】の生活面に、群馬県の特養で身体拘束が行われていた記事がありました。
http://www.asahi.com/national/update/1015/020.html

記事によると、職員の少ない時間帯に、徘徊する入居者の胴体を車椅子ごと手すりやベッドに縛りつけたりしていたようです。また、つなぎ服を着せられ寝かされっぱなしにされていたことを家族に指摘されると、「便利だから・・・」と受け流されたり。
身体拘束だけでなく、プライバシーも守られていなかったようで、入浴の際は浴場のカーテンは開けっ放しでいつも廊下から見える状態。男性入居者が入浴中に、女性入居者を裸にして脱衣室に待たせることもあったといいます。
入居者からは「私だって人間ですからね・・・」とつぶやく声が聞かれたり、入居者の居室からは「私も人間として生きてみたい」というメモ書きが見つかったりしているとのこと。

少し前にも虐待をしている特養が内部告発されたことがありましたが、今回のことも人権侵害という虐待だと思います。おそらく、これらも氷山の一角に過ぎないと思ってしまいます。
なぜそう思ってしまうのかというと、自分自身も同じような施設で働いている身として、こういう記事を読むと少なからずドキッ!としてしまうものです。ここまで露骨な人権侵害ではないにしろ、知らないうちに「自分もしているのかも・・・」という不安があるからです。もちろん常に注意はしていますが・・・

身体拘束の問題を単純に「許すことができない!」と片付けてしまうのは、安易だと言わざるをえません。今回の記事からはどうかはわかりませんが、身体拘束をしている施設はやむをえない状況があるのかもしれません。もちろんそれで正当化できるものでもないし、頑張っている施設は同じような状況でも身体拘束ゼロで努力しているのですから。
しかし、人員配置や無理な勤務体制、ずさんな組織体系などシステムに問題がある場合も多く見られます。こうなると、いちケアスタッフの責任というより、管理者の責任が多いでしょう。施設の管理者はもう一度自分の施設を見直す必要があります。そして、現場のスタッフは無知・無関心でいることなく、自分の施設が置かれている状況を社会全般から見た広い視野で見極める必要があります。いつの日か、自分の親や自分が入るかもしれない施設なのですから・・・