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What’s ノーマリゼーション?

福祉について考えるUMEMOTOのブログ

どこへゆく?障害者自立支援法案

2005-08-09 21:35:52 | 福祉雑記録
遂に、というかとうとう衆議院が解散してしまった。小泉総理が「郵政解散」が言っているように、郵政改革関連六法案が目玉だった今延長国会。しかし、その影で障害者自立支援法案も着々と審議されていたのである。
法案の中身は是非はともかく、ゆくゆくは介護保険との一体化という規定路線に乗った法案は、さまざまな反対運動をも飲み込んで成立目前まで漕ぎつけていた。しかし、たった一人の政治家の一言で今国会での成立はもうない。

衆議院を通過してはいたものの、まだ参議院を通過していなかった法案は、次の国会でまた最初からのやり直しになるとのこと。障害当事者からはあまり望まれていなかった法案ではあったが、これまで必死になって成立のために努力してきた厚労省の官僚にとっては、相当のショックらしい。障害者のことを自分のこととして捉えられない議員先生のために、必死に根回しをしてきた官僚の努力は水の泡になってしまった…。そんな泣き言まで聞こえてくるほどである。来期の国会で再度法案を提出しても、根回しは最初からなのだから。

9月11日の投票日、私たちにできることは、障害者のことを自分の問題として捉えることのできる人へ投票することぐらいかもしれない。

ホスピスの現場から ―山崎章郎氏の話を聞いて―

2005-07-20 21:53:23 | 福祉雑記録
先日、『病院で死ぬということ 正・続』の著者でもある山崎章郎(やまざきふみお)氏の話を聞く機会があった。

話はホスピスに入院してくる患者の余命を把握するところから始まった。余命が「あと何ヶ月―」という具合に、月単位でみることができる患者。それが週単位になり、最後は日単位になっていくという。大きく3段階で患者を診ていくのは、それぞれの段階により患者自身・家族からのニーズが異なるからだそうだ。それに合わせて、医師、看護師が協力し患者や家族をサポートしていくのである。
認知症の診断にも共通の部分が多い。一概に認知症といっても、さまざまな種類があり、それに伴い経過も変わってくる。老人性認知症という曖昧な診断では、今後どのような経過をたどるか判断できないが、正しい診断名があると経過をある程度予測することができる。それにより、さまざまな症状が表出してもケアをする側は冷静に対処することができるのである。

ホスピスとは、癌の病に侵された患者が治療の術がなく、痛みを取り除く緩和ケアを中心に余命を過ごすための専門の病院である。山崎氏が声高に言っていた「私たちは患者が死を受容するのを手助けするのが仕事ではない。一瞬一瞬の受容を手助けすることが仕事である。その積み重ねの先に『死』がある」という言葉が印象深い。一見似ているようなことを言っているように感じるが、前者と後者には大きな隔たりがある。前者のほうは、死そのものが前提にあり後ろ向きなイメージがあるのに対し、後者はその時一瞬の受容の後には、自ずと希望がみえてくる前向きの姿勢なのである。

また、癌の患者に対しておこなわれている『告知』についても示唆に富んだ話を聞くことができた。私たちは告知と聞くと、医師から患者本人または家族に対しての一方的な情報伝達というイメージを持ってしまうが、山崎氏が言う告知とは『情報共有』ということであった。医師と患者、そして患者を支える家族と看護師が同席し、現在の状況や今後想像される経過などの情報を4者が共有し、今後の治療方針を定める場が告知であるという。そのうえで病院側として次なる道を示し、最後まで同行するという安心感を与える場でもあるとのこと。
これがすべての癌患者に対しておこなわれているわけではないが、私たち福祉の現場でもどれだけ同じようなことができているだろうか。ケアマネージャーが訪問した先で…、施設に入居する際の契約の際…、ケアプランを作った後…、さまざまな機会のなかで、私たちももう一度『情報共有』のあり方を見直すべきかもしれない。

最後にこんなことも言っていた。「今後、日本はアメリカ同様“訴訟社会”になっていくだろう。そうなると、否応なく患者本人に対して告知がおこなわれるようになる。そのとき、告知された人をどのようにサポートしていくかも、これからの大きな課題です」。

10年後 労働力は410万人減・・・ ヘルパーも・・・

2005-07-14 21:15:17 | 福祉雑記録
このまま少子化が進み、出産後の女性の職場復帰が難しい現状がこのまま続くと、10年後の労働人口が約410万人減るとの推計が厚生労働省の雇用政策研究会の報告で明らかになった。それに伴い、経済成長率も年率0.7%程度下がっていくという。

来年か再来年をピークに日本の人口は減少に向かっていく。少子化、高齢化、人口減少・・・ 当然労働力も減少し、経済も活性化せず社会保障のシステムも根本からの変化を迫られる。「人口減少社会」はもうそこまで来ていることを改めて感じさせる数字である。
研究会はその対策として、フリーターやニートの常勤雇用化や、出産・育児による離職者への再雇用の強化などいくつかの提言をしている。どれもが私たちがこれから直面しなければいけない課題である。

この労働力減少には、当然ヘルパーを含め福祉の現場で働く人も含まれている。ある試算では、日本の後期高齢者(75歳以上)が2千万人を超える2025年に、全国のホームヘルパーが12万人(パート換算)不足するという。現在115万人の訪問介護利用者に対してのヘルパーの人数は34万人(パート換算)。それが20年後には、利用者が156万人になり、必要なヘルパーが12万人増加するという。

大幅な人手不足が心配される背景には、介護事業者が安く人手を確保しようとするため、仕事としての魅力がない、という事情がある。現在、介護に携わるヘルパーの大半は、仕事ができる時間を事前に登録して、介護事業者から派遣の紹介を受ける「登録ヘルパー」だが、毎月の労働時間は短く給与も安定していない。労働力が社会全体で不足している20年後に、何人の人が収入の不安定な登録ヘルパーを選ぶだろうか。
パートのヘルパーにしたところで、現状の時給(平均1200円)のままでは、12万人を増やすのは難しいだろう。この試算では、40代から50代の女性をターゲットに絞って分析したところ、時給を1500円に引き上げれば12万人の雇用が新たに生まれるとみている。しかし、給料を25%アップするためには、毎月91億2千万円が新たに必要だとされている。
しかも、これは賃金の面からしかみておらす、ヘルパーという仕事をやってみたいという意欲や資質はまた別の問題でもある。単純に労働力が確保されたからといって、質がそれに伴うとは限らない。そして、福祉分野全体で見ると、さらに大きな労働力不足が懸念されるのである。すでに、現在フィリピンからの看護師や介護士の受け入れも始まっている。厳しい条件をクリアしたフィリピンからの人材は、否応なく必要とされる時代が来ているのである。今後は、フィリピンだけに限らず、さまざまな国から労働力を受け入れる状況になるかもしれない。私たちは近い将来、もしくはすでに現在、大きな課題に直面することになるのである。

グループリビングという考え方

2005-07-04 23:15:50 | 福祉雑記録
最近、「グループリビング」という言葉が流行のように言われ始めている。何をもってグループリビングとするのか明確な規定はないようだが、主に高齢者の共同生活の形態として使われているようだ。
認知症高齢者が共同生活をする場としてのグループホームとは違い、認知症ではない元気な高齢者がプライバシーや自主性を重んじつつ、支え合って生活する共同住宅で、現代の「長屋」と評する声もある。日本での普及のきっかけは、95年の阪神・淡路大震災。その頃はグループリビングという言葉はなかったように思うが、そこには仮設住宅のなかで支え合って生活する高齢者の姿があった。その仮設住宅の取り壊しなどに伴って、各地に広がりをみせた。

かつて「隣三軒両隣(となりさんげんりょうどなり)」という言葉があったように、喜びも悲しみも分かち合うコミュニティーが存在していた。隣近所の心配をし、思いやり、助け合い、祝い事も近所ぐるみで祝っていた。しかし、核家族が急速に増え、現在では隣近所との交流が希薄になったところが多いだろう。
こうした中で、高齢者に限らずグループリビング的な住まいが各地で見受けられるようになっているようだ。
まだ元気なうちに自分たちでグループリビングを設計し、気の合う家族同士が共同生活を送る。そんな光景もみられる。それぞれが独立したプライベートなスペースを持ち、いつでもお互いの顔を見ることができる共同のリビングを有する中での生活。

しかし、このような状況に疑問を抱いてしまうのは私だけだろうか。お互いが都合のいい時だけ人のぬくもりを求める擬似家族のように思えてしまうのである。いくらプライベートなスペースがあるとはいえ、共同生活である。いいことだけあるとは思えない。ましてや、大家族の形態を捨てて核家族化してきたことを考えると矛盾を感じてしまう。また、現状のように安易にグループリビングという言葉だけが先行してしまう状況では、本来の目的とは関係ないところで形だけが広がってしまう危険性もある。まるでグループホームのような形を取りながら、名前はグループリビングとしているところもある。営利目的のところも増えてくるだろう。
せっかくよい効果も報告され始めてる住まいのスタイルである。しかし、ひとつのスタイルでしかないことを忘れてはいけない。よくも悪くも、これからの舵取りで決まる。

九州発!育児保険構想

2005-06-20 17:22:15 | 福祉雑記録
『1.29』という合計特殊出生率(女性1人が一生涯に産む子どもの数の平均)を受けて、一昨年から九州知事会で「育児の社会的支援」の議論が進められてきた。その中で、特に力を入れてきたのが『育児保険構想』だという。議論の結果が昨年10月に知事会報告書の中にまとめられた。
その『育児保険』とは何なのか。詳しく見ていきたい。

年間約80兆円の社会保障費のうち、育児関係の費用の割合は年間3.2%(02年度)。年金に5割、医療に2割、福祉に3割の配分の中で、ほんの隙間に存在しているかのようだ。少子化問題が何年も前から叫ばれてきた割には、育児に対する保障は限りなく少ない。社会保障費の6割弱が高齢者関係に使われているのが現状だ。
確かに、年金や医療費の問題など、給付費が伸びる一方で財源の不足はかなり深刻な状況だが、このまま少子化が進んでしまうようでは、社会保障自体が成立しなくなる可能性があり、本末転倒になってしまう。

そこで、全国的にみても出生率の高い九州の特性を生かそうと考えられたのが『育児保険』というわけだ。
介護保険と同様に、一定年齢以上の国民と事業主から、子育て支援を目的に保険料を徴収し、税金と組み合わせて財源とする。税源は消費税の増税を検討する。受けられるサービスとしては、教育費の所得控除や奨学金の無料貸し付け、乳幼児医療助成の拡充など、家庭での子育て負担を軽くするメニューを想定している。
しかし、子どもを持たない人や、すでに子育てを終えた人からの保険料徴収は難しい、という根強い反対論もある。消費税の増税という、所得が少ない人にとっては重い負担を強いることにもなってしまう。

金銭的な保障をすることは、とてもわかりやすく、子育てをする側にとっては非常にありがたいものである。子育てにおいて最もお金が必要な教育費への補助は歓迎されるだろう。
保険料の負担に関しても、子どもが増えることで将来の年金制度が支えられることを考えれば、他人事とは思わずに払うことができるのではないだろうか。所得が少ない人や限定されている人には、保険料徴収を免除するなどの救済措置を検討する必要もあるだろう。
今年度の政府の規制改革・民間開放推進会議では、今年度の重点検討課題29項目に『育児保険』の導入も盛り込まれている。構想への関心の高さがうかがえる。ぜひ実現してもらいたい。

先に九州の出生率が高いと述べたが、02年度の統計では、1.51で全国平均の1.30を上回っている。最高は沖縄の1.76。また、鹿児島の離島「沖永良部島」では、2.3~2.4という高出生率が今も続いている。そこでは、主な産業は農業で、決して収入も多くはないが、島民全員で子どもを支える光景がみられるという。安心して子どもを育てられる環境があるのだろう。本当に必要なのはお金ではないのかもしれない。
ちなみに都道府県別で最低の出生率は、東京の1.02でダントツの最下位。

参照:朝日新聞

“介護福祉士”の犯罪

2005-06-09 23:17:21 | 福祉雑記録
京都の介護福祉士の男が、UFJ銀行コールセンターに数ヶ月の間で計4000回以上の無言電話をした疑いで逮捕された。容疑者の男は「日々の平凡な暮らしと老人介護という仕事上のストレスを晴らすためにやった。若い女性の声を聞きたかった」などと供述している。【毎日新聞】

犯行の理由に「老人介護という・・・」という特殊な言葉がでてきたため、男の職業が会社員ではなく、『介護福祉士』として報道されたように思われる。しかし、よく理由をみてみると、「日々の平凡な暮らし」と「老人介護」と「若い女性の声」には何の関連性もなく、多分に個人的な動機があったように思われるが、言葉にするとこうなってしまうのかもしれない。
理由の意味不明さと、稚拙な犯行自体にはあまり興味は惹かれないが、『介護福祉士』という言葉が当たり前のように使われていることにはかなり驚かされた。
少し前まではほとんど認知されていなかったはずの言葉が、今回は当たり前のように使われている。各社さまざまな報道機関が同じように使っているということは、警察からの発表時に『介護福祉士』となっていたのだろうが、それにしても『介護福祉士』という言葉が一般市民の耳にも馴染み始めているのだろう。それだけ、高齢者介護のことが注目されているのかもしれない。

今回は、思いもかけず『介護福祉士』という言葉が全国に向けて報道されたが、次回は犯罪ではなくよいイメージのもと広がることを願いたい。また、私たちも改めて自分自身の行動を見直し、エリを正したい。

福祉問題は人口問題

2005-06-04 16:27:54 | 福祉雑記録
6月1日に厚生労働省による人口動態統計の発表があった。
その結果は、子どもの数が減り、死亡者が増えているという人口減少がまた一歩進んだことを示すものであった。

人口動態統計によると、04年の出生数が過去最少の111万人となり、合計特殊出生率も1.29と昨年と同じであることがわかった。合計特殊出生率とは、日本人女性1人が一生涯に産む子どもの数の平均を示すもので、2.1を切ると人口が減少していくといわれている。昨年は初めて1.2台になったとして『1.29ショック』などと騒がれ、大きな社会問題となった。それまで何年もかけて徐々に下降してきたのだから、急に大騒ぎするのもおかしなものだけど、今年の発表後は慣れてしまったのか大きな問題とはなっていないのだから不思議なものである。
原因の大きな1つに挙げられているのが晩婚化・晩産化である。平均初婚年齢は夫が29.6歳、妻が27.8歳と前年より0.2歳ずつ遅くなっている。そして、近年大幅な増加をみせているのが生涯未婚率である。女性は1995年の5.1%から2000年の5.8%まで5年間で0.7ポイントの増加であるのに対し、男性は1995年の8.9%から2000年の12.5%まで3.6ポイントと大幅な増加をみせている。少し前にニュースに取り上げられていた、市町村主催の合コンパーティなどは、目の前の数字だけをみた結果、まずは結婚させようという取り組みだったのだろう。しかし、結婚しない人が増えているのには、結婚にメリットを見いだせなかったり、生き方の多様化、不況、不安定な社会状態など、さまざまな要因があるため、そもそも簡単な解決方法はない。いかに安心できる社会をつくっていくかにかかっている。

一方、死亡数も着実に増えている。前年より1万3千人増えて102万8千人。2年連続で100万人を超え、出生数から死亡数を引いた自然増加数は8万2千人となり、初めて10万人を切った。死因の6位である自殺3万277人という数字も、不安定な社会状態を反映しているといえる。98年から3万人前後という状態が続いており、不況との関連性も否定できない。このままの状態が続けは、50年後には人口が1億人弱、100年後には6千万人強になってしまうとされている。さらに状態が悪化すれば100年後には、4千万人強という試算まである。

これらの数字は、主要先進国ではそれほど珍しくはない数字ではあるが、高齢者を現役世代が支える社会保障においては大問題であることには変わりがない。まずはしっかりとこの数字を受け止める必要があるだろう。そして、国には縦割りな対応ではなく、横断的かつ総合的な対策を期待したい。私たちにできることは、現状を理解し、真剣に受け止めることだろう。そうすることが、国の対策の理解につながり、支援にもつながっていくに違いない。


新しいデイサービスのかたち ― ボランティアデイの提案 ―

2005-05-23 23:47:02 | 福祉雑記録
介護保険の改正により、新たに要支援1、2という要介護度の区分が設けられることになった。それに伴い、これまでの給付体系とは別に「予防給付」という形でサービスが位置づけられることになる。実際、要支援の人や要介護1の人の中には、サービス利用量が減ってしまうのではないか、これまで通りのサービスを受けることができなくなってしまうのではないかという不安が広がっている。
しかし、このような利用者の不安は今に始まったことではない。これまでの要介護度の区分においても、介護度が軽くなることでサービス利用量が減ってしまい、実際に困っているケースはある。

介護保険のサービスのひとつであるデイサービス(デイケア)では、利用者に介護度の軽い人が多いこともあり、その悩みは深刻である。デイサービスの主な役割は、食事や入浴、リハビリなどであるが、それ以外にも引きこもり防止という側面も強い。デイに通うことで友達ができ、その友達同士の他愛もないお喋りが楽しみになり、引きこもり防止に役立つのである。介護度が軽い人たちにとっては、むしろお喋りのほうが主な目的になっているかもしれない。
しかし、介護度が軽くなり要支援や認定外になってしまうことによって、その楽しみもなくなってしまうのである。体が動くようになり、要介護でなくなるのは嬉しいはずなのに、残念がる利用者は多い。実際、そのような不満の声は、認定調査の窓口にも多く寄せられている。

そのような人たちの新たな活動の場として、ボランティアとしてデイサービスに参加してもらうことはできないだろうか。
これまで通い慣れ、友達もいるデイサービスにボランティアとして通うのである。職員の補助としての仕事をしてもらってもいいし、特技を生かしたサークル活動を主催してもらうのもいいかもしれない。特技など何もなくても、ただ利用者と同じ時を過ごしお喋りをすることも立派なボランティアである。同じくらいの年齢で、病歴もあり、障害も利用者と重なる部分が多い人たちが、話し相手だと利用者も安心して話すことができるだろうし、勇気付けられることもあるかもしれない。これは、立派なピアカウンセリングにならないだろうか。
ボランティアで参加する人たちにとっても、必要とされ、そこで役割を見出せば、生活に刺激も生まれ介護予防につながるかもしれない。

参加定員や費用の問題はあるかもしれない。しかし、ボランティアで来る人たちはケアが必要なわけではないので、利用者として数える必要はないだろう。また、費用は食事代など実費だけ貰えばいいのではないだろうか。その他にも細かい調整は必要だろうが、実際に困っている人たちが多いことを考えると、どうにかできないものかと考えてしまう。
ぜひ市町村単位でこの問題を真剣に考え、新しい制度として活用してもらいたい。

ユニットケアの明日を考える会

2005-05-10 22:28:31 | 福祉雑記録
先週の土曜日(5月7日)に、『ユニットケアの明日を考える会』という催しを行った。“ユニットケア”とは、5年半ほど前から言われだした言葉で、主に高齢者の入居施設において生活単位を小規模に区切り、より家庭的な生活を送れるように環境やシステムを工夫し、ケアをおこなうことである。簡単に言えば、大規模な施設の中でグループホーム的なケアをしていこうというものである。まだ、これだけでは正確ではないが、ご了承していただきたい。

その“ユニットケア”は、施設ケアの革命として、取り組み始めた施設が増え始めている。そのきっかけは、厚生労働省が“小規模生活単位型指定介護老人福祉施設(以下、新型特養)”の普及に力を入れ始めたことによる。“新型特養”とは、全室個室でユニットケアを取り入れた施設のことで、一昨年度から施設長や現場のリーダーを育成する研修事業も始まっている。
既存の施設でも、これまでの閉塞感を打ち破るべく、また介護保険の導入により介護サービスを意識することにより、“ユニットケア”が取り組まれ始め、今では“ユニットケア”という言葉が独り歩きしている感すらある。
入居者一人ひとりに向き合い、その人らしい生活が施設の中だけにとどまらず、その人の望む形(例えば、地域)で生活できるようにサポートすることが目的であるが、実際にそれができている施設はあまり多くはない。この5年半の間に、言葉だけが独り歩きし普及してしまったことで、ただ施設内を細かく区切り、生活感のあるような環境づくりに取り組むだけ、という施設が多くなってしまっているのである。その先にある本来の目的を忘れ、“ユニットケア”自体を目的になってしまっているのだろう。

そこで、ユニットケアの実践者が集まり、もう一度「ユニットケアは目的ではなく手段のひとつである」ことを再認識し、今後のユニットケアの“流れ”をつくるような指針となるものを、具体的な形でまとめようというのが今回の趣旨であった。
会場は、“ユニットケア”の本来の目的のひとつでもある“地域”ということを意識し、街の中心部にある商店街の一角で行った。この商店街は、最近の都市郊外化のご多分に漏れずシャッターが下りている店が多いようなところで、そこの空き店舗を使ってNPO法人が高齢者が集まれる溜まり場を作ろうと、障害者の作業所で作られた品物のアンテナショップや、生きがいデイが行われている場所を会場とさせてもらった。
そこに、“ユニットケア”の先駆的推進者でもある武田和典氏(きのこ老人保健施設 副施設長)をお迎えし、“ユニットケア”の先に何を見据えるのかを話し合う予定であった。しかし、予定では参加者が30人程度であったのが、当日までには50人以上が集まり、まだこれからユニットケアを取り組むという施設も多かったことから、“ユニットケア”の本来の目的を確かめるにとどまった。

その中で、いくつかの大切なキーワードがあり、“ユニットケア”に限らず今後の施設ケアの指針となるべきものがあったので紹介したい。

○ お年寄りが主体性を持ち、中心にいるケアができていますか?
○ 職員一人ひとりが責任をもって働けるような構造になっていますか?
○ より困っている人に目を向けることができていますか?
○ 利用者の家族の顔(どんな人で、どんな意見をもっているのか)がみえていますか?
○ 職員同士、利用者の笑顔やその日あった出来事を共有してますか?
○ その人の生活や人生のためのケアプランになっていますか?
○ 入居者は地域の中で暮らしていますか?

どれも特別なことは言っていません。本当に当たり前のことですが、あなたの施設では出来ているでしょうか。
最期に―

○ 今の施設にあなたは入りたいですか?

小規模多機能ホームへ取材に行く。

2005-05-03 00:15:22 | 福祉雑記録
先月の上旬、桜が散り始めた頃、千葉県にある小規模多機能ホームに取材に行ってきた。知り合いが立ち上げ、運営しているところで、今回初めてお邪魔させてもらった。

取材の内容は「若手の福祉会議」ホームページに、訪問レポートとして掲載中。

以前、建築会社の事務所であったところを改築し、グループホームとデイサービスを運営している。外見は鉄筋2階建ての事務所そのまま。お金をかけずに改築しているため、内部はお世辞にも素晴らしいとは言えない。県の指導により、デイサービスとグループホームは壁で閉じられてしまっているし、なぜかグループホームの入り口が隣同士2つ並んでいる。壁紙や床の素材にこだわっているわけでもない。建物だけみれば、取り立てて見るべきところはないようにみえてしまう。

新しく周りに建つ施設は、デザインも機能も素晴らしいところが多い。というか、そういう方に目を奪われてしまうのかもしれない。それは当然大金をかけているからで、実際は施設を経営する人すべてがお金を持っているわけではない。
その点、建物が小規模になると、コストも低くなり大規模な施設よりは手をつけやすいのかもしれない。それでも工夫が必要で、民家を改修したり、以前商店だったところを改修したりする所も多くみられる。

「ハード(環境)が持つ介護力」はとても大きい。機能性など物理的な面でもそうだし、“なじみ”など精神的な面でも同様である。その両方を兼ね備えた環境が望ましいが、大抵自宅には障害に応じた機能性には限界がある。施設においては“なじみ”に限界があり、自宅に勝るものはない。
それでも、せめて住み慣れた地域で暮らし続けたいと望む時に、小規模施設はその可能性を広げてくれるだろう。ハードも色々あるので、自分(もしくは家族)に合ったものを選ぶことができる。

しかし、ソフト(人)は簡単に選ぶことができない。そして、ハード以上にソフトの介護力は大きく、またその影響力も大きい。
私が訪問したのは、ソフトが素晴らしいからだ。何が素晴らしいのかというと、まず理念がしっかりしていること。当たり前のように聞こえるかもしれないが、理念を定めずにただなんとなく運営しているところもまだまだあるのである。例え理念があっても、現場の職員が誰も知らずにいては絵に描いた餅になってしまう。次に、その理念の旗振り役がいること。そして、その理念を実行できるスタッフが揃っていること。この3つが揃っていれば、正しい方向に進んでいくだろう。
現場の職員が、どのように考えているか生の声を伝えたいので、インタビューという形式をとった。普段、あまりクローズアップされることのない現場の職員に焦点を当てている。
例え、素晴らしいハードがあっても、ソフトが悪ければ意味がない。グループホームも新型特養も、使い方を間違えると監獄になってしまう恐れがある。それ程、ソフトつまり人は大切なのである。そのため、どこの施設もそこで苦労している現状がある。

施設に入居している人はなぜ入居しているのか、私たちは考えなくてはいけない。
入居せざるをえず、そこにいることを忘れてはいけない。
そんな中で、なぜさらに押さえつけるようなことをされなくてはならないのか。
そこは刑務所ではないことを忘れてはいけない。