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福祉について考えるUMEMOTOのブログ

グループホーム新たな課題 ~長崎グループホームの火災より~

2006-01-09 17:04:49 | 認知症
長崎県大村市のグループホームで8日未明に起きた火災での犠牲者が7人になってしまった。亡くなった方々にはご冥福をお祈りしたい。

8日午前2時25分ごろ、鉄筋一部木造平屋建て約280平方メートルが全焼し、約2時間半後に鎮火した。焼け跡から5人の遺体が見つかり、1人が運ばれた市内の病院で死亡を確認され、また重体だった1人も病院で亡くなった。
出火当時、施設内には入居者9人と当直者1名がおり、休憩室で寝ていた当直者が「パチパチ」という音で目が覚めた時には、居間のソファあたりから火の手が上がっていたという。グループホーム内の台所はすべて電化されており、ガスは使っていなかった。入居者のうち1名だけ喫煙者がいたが、屋内は禁煙にしており喫煙所は屋外のデッキになっていたようだ。(asahi.com)

火災に見舞われたグループホームは2年半前に開設され、外部評価(WAM NET)ではよい評価を受けていたようだ。しかし、外部評価の項目には非難訓練などの防災に関する項目は見当たらない。大型施設においては、防火管理者のもと防災訓練の実施が求められているが、グループホームではどうなのだろうか。

長崎県の認知症高齢者グループホーム協議会長の話によると、グループホームでは、認知症の入居者を混乱させる可能性があるとの理由で、避難訓練もほとんどしていないのが現状だという。また、グループホームにスプリンクラーの設置義務はなく、今回の施設にも設置されていなかった。
高齢者施設において、避難訓練をする難しさはあるだろうが、入居者を非難させることを想定した職員だけの模擬訓練をおこなうことはできるだろう。また、夜間の対応を繰り返し確認することだって難しくないはずだ。

火災の原因はまだ解明されていないが、喫煙をしていた入居者のタバコや火の管理がどうだったのかが気になるところだ。また、夜間の災害を含めた緊急時の対応がどうなっていたのかも、今後クローズアップされるだろう。今回の火災は全国にあるグループホームにとって、決して他人事ではない。
何かを防ぐごうとするとき、100%ということはない。火災に限らず事故に関しても、100%に近づけるように日々の対応が必要になってくる。そして、起こってしまった時の対応をどうするかが、被害の拡大を最小限に抑えることにつながってくる。グループホームにとっては、新たな課題がつきつけられる。

今後、地域密着型サービスとして、小規模施設の増加が予想される。これまでも宅老所やグループホーム等で、民家を改造してサービスを実施しているところも多くある。民家のほとんどは木造であり、火に対して非常に弱い。また、新設しても小規模であれば一部に鉄筋は使用しても木造になることが多いのではないだろうか。コスト面からしても、その方が安くなる。
今回の火災は多くの課題を赤裸々にした。しかし、その課題は乗り越えられないものではないし、乗り越える必要があるものだ。今後、地域密着型サービスの指定・育成は市町村の権限になる。その際、防災意識を問うことがこれから必要になるだろう。また、グループホームの外部評価においても、ぜひ一項目増やしてほしい。

認知症予防には?

2005-12-03 19:08:28 | 認知症
認知症の予防は可能なのか?

現在、65歳以上の高齢者の15人に1人は認知症といわれており、それが85歳以上にもなると4人に1人くらいの割合になるともいわれている。
その程度の確立なら、自分は関係ないと思うかもしれないが、例えば夫婦の両親が全員85歳以上になると、そのうちの1人は認知症になるかもしれない。乱暴かもしれないが、自分が認知症にならなくても、関係する誰かは認知症になる可能性が高いのである。

そうなってくると、認知症予防よりも治療する方法が望まれるが、残念ながら認知症の根本的な治療方法はまだ開発されていない。一部の認知症は手術や治療により治るものもあるが、多くの認知症(特にアルツハイマー型や脳血管型、前頭側頭型)は治ることなく、徐々に進行していってしまう。
遠くないうちに、アルツハイマー型認知症(以後、アルツハイマー)の治療薬(ワクチン)が開発されるのではないかといわれているが、それもあと何十年後というレベルの話である。
アルツハイマーの場合、早期に発見することにより『アリセプト』という薬を服用することで、進行をかなり食い止めることも分かっている。早期発見、早期診断は大切であるが、多くの人は、まずは認知症にはなりたくないと思っているだろう。

認知症に予防方法はあるのだろうか?
最初の問いに戻るが、答えは「まだない」ということになっている。
さまざまな研究がなされ、認知症の予防によいのではないかといわれるものはいくつかあるが、まだ確実な方法としては立証されていない。

しかし、最近出された米国の論文のによると、おもしろい結果が導き出されている。その研究は、体を動かすことが認知症の予防によいのではないかと、5千人くらいを対象に数年間にわたって、どんな運動(家事や車の運転なども含む)を週に何回、何時間、集中してやったかなどの項目で調査したものである。認知症になった人とならなかった人で何か違いが出れば、その運動をすれば認知症の予防になるということになる。

結果は、週に何回という回数では違いがみられなかった。
また、何時間おこなったかという長さにおいても違いはなかった。
集中しておこなったのか、ダラダラとおこなったかについても違いはない。
何が違うのかというと、認知症にならなかった人はさまざまなことをおこなっていたのである。つまりいくつもの家事や運動、運転などをおこなっていた、というのである。
これによって何が言えるのかというと、脳のさまざまな部分を上手に使うことが重要だということである。一見、運動というと脳をあまり使っていないように感じるかもしれないが、実は人間は動作ひとつをとってみても脳を常に使っているのである。一生懸命やろうが、長時間やろうが、脳の働きはあまり変わらないのかもしれない。

最近、大人の計算ドリルや漢字の書き取りなどが認知症予防として流行っている。しかし、それだけおこなってもあまり意味がないといえる。脳の計算する部分のみを鍛えても、他の部分の萎縮は止められないかもしれない。そして、そのドリルが好きではなかったら、ストレスを感じてしまい、他の弊害も心配される。

アルツハイマーは異常なたんぱく質が、脳に何十年もかけて溜まってなる病気である。病気になる人とならない人の違いは、そのたんぱく質が溜まるか溜まらないかによるので、すでになる人は決まっているともいえる。そんな中、少しでも認知症予防をするためには、『さまざまなことを、楽しくおこなう』のがコツのようである。

早期診断と確定診断の必要性

2005-09-21 22:45:16 | 認知症
後期高齢者、特に85歳以上になるとその4人に1人が認知症になる可能性があるなか、認知症はもう他人事ではなくなってきている。
自分がならないにしても、自分の両親がなるかもしれないし、結婚相手やその両親がなるかもしれないことを考えると、誰もが認知症にかかわる時代がすぐそこまで来ている。

そんな中、先日、国立長寿医療センターの遠藤英俊医師の話を聞く機会があった。
講演の中で強調していたことは、認知症には早期診断がとても重要であるということだった。長谷川式などの心理学的テストからCT、MRI、SPECTといった画像診断や総合的な判断などさまざまな診断方法があるが、おかしいなと思ったらまずは病院に行ってみることが大切だという。
遠藤氏が言うには、70歳を過ぎてからの物忘れは病院に行ったほうがよい、とのこと。高齢になってからの物忘れはそれまでのものとは質が違うことが多いのだという。今は、画像診断で初期の段階からかなりの確立で診断が可能だということだ。
日本老年精神医学会のホームページに、認知症の専門医として認定された医師が紹介されているので、参考にするのもいいだろう。自分が認知症になったとしても、できれば専門の医師に一度は診てもらいたい。

また、早期診断とともに重要なのが確定診断である。認知症になったとしても、種類によっては治療できるものもあり、早期に分かればそれだけ回復も早まるのである。また、その病気に合わせたケアも必要になってくる。例えば、レビー小体病という認知症は、アルツハイマー病や前頭側頭型認知症などとは異なり、後頭葉の血流が悪くなるためアルツハイマーの10倍は転倒の危険性がある病気である。いわばパーキンソンとアルツハイマーの中間のような病気で、それを知っていると知らないとでは、ケアの方法もその後のリスクもまったく違うものになってしまう。

早期診断によって、まだ認知症とは判断できないが、今後認知症になる可能性が高い状態をMCI(軽度認知機能障害)と言っている。今後は、このMCIのレベルの人の対応に焦点を当てた医療の方法に注目が集まっている。薬にしても、環境的な要因にしてもMCIの状態からの対応が重要になってくるのである。
早期診断も確定診断も、認知症になった人の周りにいる人が知っていればおこなわれる可能性が高くなる。福祉サービスの利用者が、または自分の家族が認知症になった後の人生をどのように過ごすかは、あなたにかかっているのかもしれない。

ほっと・安心(徘徊)ネットワーク

2005-09-05 22:11:36 | 認知症
8月31日にNHK教育テレビの福祉ネットワークという番組で、福岡県大牟田市のひとつの学区“はやめ”地区で取り組まれている「ほっと・安心(徘徊)ネットワーク」が紹介された。
認知症のある人が安心して徘徊できるまちづくりのため、7月に地域住民参加のもと「ほっと・安心(徘徊)模擬訓練」がおこなわれ、それが取材された。

このネットワークを主催したのが、従来の住民組織(老人クラブ、公民館など)を中心に組織された「はやめ人情ネットワーク」である。もともと人情の厚かった地域で、さまざまな活動を通して「誰もが安心して暮らせるまちづくり」を目指している。
今回は、住民組織に消防署、警察署、市役所、地域商店、民生委員、介護サービス事業者、介護支援専門員、社会福祉協議会、在宅介護支援センターなどが協力し、模擬訓練がおこなわれた。
徘徊する高齢者役の人が誰にも行く先を告げずに家を出た後、連絡を受けた地域住民が近所を探していく。今回が2度目の模擬訓練だったため、より充実した訓練にはなったがその分課題も多く見つかった。

ひとつは、連絡方法。電話連絡を基本とし、連絡網に沿って伝言ゲームをしていったが、時間がかかってしまううえに、その家の人がいなければ次に回らず、最後まで伝言が行く間に徘徊する人が遠くまで行ってしまう可能性もある。また、伝言が途中で変わってしまう可能性もある。
ふたつめは、可能性のある人が目の前を歩いていても声をかけられなかったことである。普段から地域の中で、声を掛け合えるような環境をつくっていなければ、なかなか他人に声をかけるのは難しい。「どこに行くんですか?」「どうしたんですか?」その一言がなかなか出てこないのである。まさに地域づくりの課題を突きつけられる結果となってしまった。

テレビの中でも言っていたが、人情ネットワークの人たちにとって衝撃的なことが4月にあった。それは、実際に徘徊した人が行方不明になり、なかなか見つけることができなかったのである。結局3日目に衰弱した姿で見つかり、後1日遅れていたら命にかかわる状態だった。
もし、徘徊のうえ行方不明になってしまったという相談が私たちの勤める福祉施設にきたらどうだろうか。福祉の専門職である私たちに何ができるだろうか?ぜひ考えてもらいたい。
実際に相談を受けた人は、何もできなかったという。もちろんなじみの場所などから徘徊しそうな場所を警察に情報提供したり、ネットワークに情報を流して捜索は続けたが、結果は芳しくなかった。そこで唯一できたのが、家族のサポートであったという。不安に思う家族の側にいて不安を和らげたり、逐一情報を家族のもとに連絡することに力を注いだという。結局、無事発見され事なきを得たが、地域住民にとっては大きな衝撃であった。

そんなことがあった後の模擬訓練ではあったが、課題や限界ばかりがクローズアップされる結果となってしまった。しかし、課題がみつかるということは、とても大きな前進である。何もしなければ課題もみつからないのだから。
その課題を糧に、次なる取り組みはすでに始まっている。徘徊死が問題になってきている今、国はモデル事業として全国10ヶ所の地域で徘徊模擬訓練をおこなうという。すでに取り組み始めている地域はいくつかある。その地域が少しずつ広がり、いつの日か日本全国どこでも安心して徘徊できるまちになっていることを願うばかりである。

認知症か痴呆か

2005-08-21 10:54:45 | 認知症
昨年12月に“「痴呆」に替わる用語に関する検討会”が痴呆に変わる言葉として、「認知症」という新たな言葉を提示した。これは、痴呆という言葉自体に侮蔑的な意味があったからで、その経緯はこれまでもさまざまなところで紹介されているので、ご存知の方も多いだろう。そして、今年4月からは行政用語としても「認知症」で統一されることになった。これからは、法律からはじまりすべての書類が認知症と記載されることになったのである。

しかし、その裏で今だ「痴呆」という言葉が横行している世界があることをご存知だろうか。それは学術会である。
もともと認知症ということばが行政用語になる時に、但し書きとして学術用語としては別であることが明記されている。つまり、学術用語としては「痴呆」という言葉を使い続けてもよい、ということである。
なぜ、そうなっているのかはいくつかの理由がある。そのひとつが「症」という使い方にあるという。これまで「症」と使う時は、「高血圧」⇔「高血圧症」、「脳血栓」⇔「脳血栓症」などと「症」付けても付けなくても同義語として理解されるというルールのうえで使われていた。しかし、「認知」という感覚機能と「認知症」という言葉はまったくの別ものになってしまい、これまでの医学会のルールを完全に無視しているのだという。そのため、「認知(機能不全)症」として読み替えることができるならば、その短縮形として「認知症」でもよいのではないかという意見もあるようだ。
また、もうひとつの理由として、検討委員会の中に老年精神医学会や日本痴呆学会などの学術会からの参加がなく、事前にどのような言葉がよいかの聞き取りもなかったことがあるらしい。簡単に言ってしまえば、ないがしろにされプライドを傷つけられたということだろう。

ケアの現場に働く私たちにしてみれば、大したことではないように思えてしまうが、“先生”方にとってみれば重要なことなのかもしれない。しかし、学術会でも痴呆という言葉自体は相応しくないという意見は一致しているようで、それでも新しい言葉を考えてこなかったことに怠慢を感じてしまうのは私だけだろうか。
しかし、学術会の中でも変化はあるようで、老年精神医学会では今年度中に「認知症」で言葉を統一することになるという。その他の学会でも随時検討していく動きにあるようだ。

認知症の患者を真っ先に診断する医師が、学術用語として「痴呆」という言葉を使い続けていると、患者と接したときにも痴呆という言葉を話してしまうのではないか。そして、言葉自体に侮蔑の意味があることを理解しているのであれば、その時に患者に少しでも不快感を与える可能性はないのだろうか。人間と向き合う職業としての判断を期待したい。

地域認知症ケア教室

2005-07-30 19:39:03 | 認知症
今日、地域の在宅介護支援センターで地域認知症ケア教室があったので参加をしてきた。
以前は、家族介護教室という名前で3ヶ月に1回の割合で市内の在宅介護支援センターが順番におこなっていたものを、名前を変えると共により認知症についての理解を広めることになり、地域認知症ケア教室ということになった。主催は市と持ち回りの在宅介護支援センターで、あとは各事業所からも応援が駆けつける体制。
地域住民の方が30名以上集まり、2時間にわたっておこなわれた。
内容は、主催する施設の紹介に続き、各事業所のスタッフによる認知症のロールプレイ(寸劇)、その後にお茶を飲みながら普段の悩みを話し合う“茶話会”という三本立てであった。
認知症のことをよく知らない人には、ロールプレイは効果的で、スタッフのアドリブ盛り沢山の寸劇に笑い声も起きていた。その後の説明として、認知症が特別な病気ではないこと、誰にでも起こりうることを説明すると、聞いていた人は真剣に頷いていた。
この教室は、厚労省が今年度から進めている認知症市民サポーター養成研修とは別のもので、以前から取り組まれていたものである。お茶を飲みながら気軽に、というコンセプトであるため、認知症初級編といった感じ。おそらく各市町村で同様の取り組みがされていると思われるが、この間の「認知症になっても安心して暮らせるまちづくり100人会議」
でも、川崎市の取り組みの紹介として、地元の劇団による認知症劇が取り上げられていた。
方法はどうであれ、認知症について広く知られるようになり、少しでも偏見がなくなることを望むばかりである。

ケア教室には民生委員の人も参加しており、今回は直接話を聞くことができた。民生委員として地域住民にかかわることは、簡単なことではないことが話からも容易に想像できた。外から見ていて、家族による介護が悲惨な状況いなっていても、直接訪問すると「うちは何もありませんから!」とドアをピシャリと閉められたりすると、それ以上なかなか中には入り込めないという。民生委員といっても普通のおばさんなわけで、それでもボランティアで困っている家を訪問して相談に乗っているのである。そんなことも、直接民生委員と話さなければ分からなかった。
民生委員は最初に相談に乗る存在であり、いろいろなところに橋渡しをする役も担っている。そのため勉強もしており、さまざまな知識を持っている。認知症に対しても、施設職員よりも詳しかったりする人もいるのである。
そんな民生委員は介護サービスを利用するまでの間のさまざまなケースを目にすることになる。認知症の家族を抱えて、家庭自体が崩壊するようなことも珍しくないという。「そんなところに今の福祉があることを忘れないでください」という民生委員の言葉は、サービス事業者に勤める私の胸に深く響いた。

第1回 認知症になっても安心して暮らせる町づくり100人会議

2005-07-11 07:12:26 | 認知症
7月8日に霞ヶ関東京會舘にて、「認知症になっても安心して暮らせる町づくり100人会議」が開かれた。
100人会議とは、厚生労働省が提唱する「認知症を知る1年」キャンペーンの趣旨に賛同し、その推進を応援する民間の個人や団体を中心とした運動体である。具体的な役割は、メンバーそれぞれの立場を活かしながら認知症に関する知識や情報の普及、認知症になっても暮らし続けられる地域づくりを応援することとなっている。
そのため、第1回の会議のメンバーとして、幹事である医療や看護・福祉分野それぞれの第一人者や団体、有識者として作家や俳優、映画監督、タレントなどの個人が参加している。そして特徴的なのは、今後さまざまな分野での支援が必要だとして、地域生活関連企業・団体、例えば学校関係や飲食店関係、博物館協会、石油商業組合なども参加していることである。合計82の個人・団体がメンバーに名を連ねており、そうそうたる顔ぶれであった。

このような豪華な顔ぶれ、幅広い企業や団体への参加への誘いは意味があって、まずは各界のトップが意識を共にし、その影響力をもって実際の活動につなげていこうという意図がある。
100人会議の今後の構想としては、2005年から10年後の2014年までを「認知症を知り地域をつくる10ヵ年」として、今年度、5年後、10年後と到達目標を決めて取り組むとしている。
5年後までに最も力を入れて取り組むものに、「認知症サポーター100万人キャラバン」がある。これは、キャラバンメイトと呼ばれる認知症について正しい理解・知識を持っている人が、住民や職域の集まりや学校などに出向いて認知症に関するミニ学習会(=認知症サポーター講座)を開催し、地域の認知症サポーターを育成する活動で、受講者にはサポーターの印として、オレンジのリストバンドが配られることになっている。

今年度は「認知症を知る1年」として認知症の知識の普及・啓発。2009年までの目標は、認知症について学んだ住民等(認知症サポーター)が100万人程度まで達すること。また、認知症になっても安心して暮らせるモデル的な地域が全国各都道府県でいくつかできていること。
2014年の最終の到達目標は、すべての町が認知症になっても安心して暮らせる地域になっている、という壮大な目標であるが、100人会議のスタートでその口火を切ったことになる。
何をもって認知症になっても安心して暮らせるのかというのは、以下の通り――
・ 認知症であることをためらいなく公にできる。(早期発見・早期対応)
・ 住民や町で働く人々による(ちょっとした助け合い)が活発。
・ 予防からターミナルまで、関係機関のネットワークが有効に働いている。
・ かかりつけ医を中心とした地域医療ケアチームがきめ細やかに支援している。
・ 徘徊する人を町ぐるみで支援している。

このようにある程度指針となる項目をまとめたことで、今後の町づくりに取り組みやすくなるだろう。10年後までにすべての町が認知症になっても安心して暮らせるようにするようにするのに、具体的なプロセスが明確になっていないことが気になるが、目標自体の方向性は間違っていない。少しでも達成に近づくためには、今回の参加者が率先して何らかの活動をおこなっていくことだろう。参加者はボランティアであるにもかかわらず、今回集まったのだから、これをただのポーズで終わらせないようにしてもらいたい。
また、今回の会議には尾辻厚生労働大臣や聖路加病院の日野原先生なども参加し、マスコミに対してのアピール度も十分であった。これまでの福祉分野では、プレゼンテーションの部分が不足していた感があるが、これで少しでも一般人の興味が引くことができれば今回の会議は成功したといえるだろう。
今後の予定としては、「認知症でもだいじょうぶ町づくりキャンペーン」として、全国から活動事例を募集・選考し、2月の第2回の100人会議の場で授賞式をおこなうことになっている。数多くの事例が集まり、その波が全国に普及していくことを願うばかりである。

グループホームの危機

2005-04-16 13:28:33 | 認知症
認知症ケアの切り札と注目されてきたグループホームが、そのお粗末なケアとずさんな運営体制を指摘され始めている。

今や全国に6,000ヶ所以上もあるグループホームだが、その実情は一握りの素晴らしいグループホームとその対極にある粗悪なグループホーム、そして残り大半の本来あるべき姿には程遠いグループホームとに分けられる。
グループホームは、特別養護老人ホームや老人保健施設等よりは比較的規制も少ないため、利用料などの差が表れやすい。1ヶ月10万円前後~20万円後半までとさまざまである。居室の広さや立地条件、スタッフの人数などの影響があるので一概には言えないが、これだけの差ほど現状のケアは差があるわけではないだろう。むしろ、利用料が安いほうが良いケアを提供していることもある。では、その違いはどこから出てくるのだろうか。

「理念」である。「理念」があるかないか。また、その「理念」が運営理念だけではなく、入居者の権利、地域との関係、その他十分な内容であるかどうか。「理念」がしっかりしていなければ、内部のケアも同様にしっかりしていないだろう。その逆は難しく、「理念」がしっかりしているからといって、ケアがしっかりしているとは言い切れない。しかし、目指すべきもあるとないとは大きな違いで、良いケアを目指す姿勢となって表れてくるはずである。

こんなグループホームもある。
○ 入居者を選別し、軽度の認知症の高齢者しか入居させないところ。
○ そもそも認知症をもつ高齢者を受け入れず、認知症になった時点で退居させてしまうところ。
○ グループホームの理事長が、入居者に猥褻行為をはたらいたところ。
○ 入居者全員に、自分の支持する議員に投票させるところ。              
・・・etc 
冗談のようで、どれも実在するグループホームでの話である。
グループホームは規模が小さいため、その中で何が行われているか周囲からは見えにくくなってしまう。そのため、情報を開示したり、地域に出て交流を持つことが求められているのだが、実践しているグループホームはまだ少ないのが現状だ。
小規模で家庭的というメリットの裏には、閉塞感があり馴れ合いになってしまう危険性があるというデメリットもあることを忘れてはいけない。

もし、グループホームに家族の入居を検討している時は、見学に行った際に理念を確認することや、なぜその値段に利用料を設定したのかを聞いてみると良いだろう。説明の姿勢から、そのグループホーム全体の姿勢が分かるに違いない。
また、厚労省がおこなっているグループホーム外部評価の情報がインターネットで見ることができるため、参考にしてみるのもよいかもしれない。

ケアプランについて考える

2005-04-10 22:58:21 | 認知症
“認知症を知る1年”が始まり、国の広報活動もスタートしている。朝日新聞と認知症介護研究・研修センターが協力し、認知症の質問を受け付ける取り組みも始まっている。
認知症高齢者を対象にしたケアプラン、「認知症の人のためのケアマネジメントセンター方式(センター方式)」にも注目したい。
介護保険法により介護サービス計画も位置づけられており、各施設内においても介護サービス計画を作成し、計画書に則ってサービスを提供することが求められている。現在、多くの施設で使われている書式は、国の指定を受けている「包括的自立支援プログラム(包括)」や「MDS方式(MDS)」と呼ばれるもので、それに伴いコンピューターで管理するソフトウェアも普及している。しかし、これまでケアプランに対する議論も多くされており、様々な問題点も挙げられている。そのような状況の中で、新しい視点から作られたのが「センター方式」と呼ばれるケアプランなのである。

現在、施設におけるケアプランの使用状況は大きく分けて3通りに分けることができる。まず1つ目は、前述した国の指定を受けたケアプランの様式でおこなっているところ。2つ目は、その他の開発されたケアプランの様式で行っているところ。3つ目は、既存のケアプランでは満足できず、独自のケアプランを開発し取り組んでいるところ、と大きく分けて、このような状況になっている。
なぜ、このような状況になってしまうのか。それは、国指定のケアプランのデメリットが大きいからであろう。
そもそも、ケアプランとはその書式だけ見れば、介護サービスの計画書ということになるが、期待できる役割としてはそれ以上のものがあるし、また望むことができるのである。その最も重要な部分が、“教育”である。多くのケアプランは作成する際、書式に沿って記入していくが、その作業自体に充分“教育”の要素が含まれることになる。記入の指示に、ケアの視点を散りばめることにより、自然とケアの視点が養われていく。逆に、「包括」や「MDS」のように、認知症高齢者の周辺症状を“問題行動”と捉えるような記述になっていると、そのプランに接している人は周辺症状を“問題行動”としか捉えられなくなってしまうのである。また、全体的な方向性として、高齢者の「問題点を挙げ、それを解決していく」というプロセスになってしまっているのである。これでは、正しいケアの視点は養うことはできない。上記のことがデメリットとなり、2つ目、3つ目のような施設の状況が生まれてくるのである。
2つ目の、その他の開発されているケアプランを使うことのメリットは、同じ様式でおこなっている施設同士、意見交換をおこなえることである。ひとつの施設だけでは事例も限られ、本来のケアプランを100%活かしきれないかもしれない。しかし、他の施設と事例検討をおこなえれば、その問題も解決しやすくなるのである。
3つ目の、施設独自のケアプランを開発・使用することのメリットは、既存の様式にはない要素を盛り込めオリジナリティ溢れるプランができること。そして、作成する段階で多くの職員がかかわることで、ケアプランの意図を認識しやすいことが挙げられる。デメリットとしては、前述の事例検討などができないため、行き詰ったときに自分たちで解決しなければならないこと。また、作成するために多くの手間暇がかかることである。

そのような状況のなか作られた「センター方式」は、“教育”の要素がふんだんに盛り込まれている。その特徴的なものとして、“利用者本位”の視点が養われることである。ありとあらゆるところに、「私は~してほしいと思っています」「私の好きなものは~です」など、利用者の目線になることが求められている。そしてもう一つの特徴が、高齢者の問題点ではなく、良いところ、本当に求めていることに焦点を当てていくプロセスである。このとても大切な視点を養うことができる様式となっている。これは認知症の高齢者に限らず、すべての高齢者にとって共通する視点であり、適用できる様式であるといえる。
デメリットとして上がっているのは、記入用紙が多いということである。ただでさえ普段の仕事で忙しい中、何枚もある用紙を記入していく時間と手間をどうするのか。現場としては切実な問題である。
しかし、よく考えてみたい。何枚もある用紙をすべて使わなければいけないということはないのである。いくつも用紙の中から施設に合った用紙を選択し、負担にならない範囲から進めていくということもできる。物は捉えようではないだろうか。利用者をみる視点と同様に、ケアプランも良いところをみていくことはできないだろうか。

認知症を知る1年

2005-04-03 21:00:25 | 認知症
平成17年度は、介護保険の改正という非常に重要で変化の多い年になりそうであるが、「認知症を知る1年」という国の取り組みが行われることになっている1年でもある。
これは、昨年末に“「痴呆」に替わる用語に関する検討会”がまとめた報告書にも記載されており、これを受けて国は、これまで以上に強力かつ総合的に認知症対策を推進するとともに、平成17年度を「認知症を知る1年」と位置付け、関係機関・団体等と協力して、効果的な広報・情報提供を行うこととしている。

この背景には、さまざまな要因があげられる。
まずは、認知症の人の増加がある。長寿化により、否応なく一定の割合の人が加齢とともに認知症になってしまう。もちろん加齢以外の場合もあるが。また、認知症の研究が進んだことにより、より正確な把握が可能になってことも原因のひとつにあげられる。
現在、我が国では、要介護認定者の2人に1人について痴呆の影響(「痴呆性老人自立度II」以上に該当)が見られ、その数は約150万人(2002年)にのぼっている(厚生労働省調べ)。高齢化の進展に伴って、このまま推移するとこうした痴呆性高齢者の数は、2015年には約250万人に、2025年には約320万人に増加すると予測されている。
それを受けて、高齢者介護研究会が2003年にまとめた『2015年の高齢者介護』でも、認知症高齢者の尊厳の保持を掲げていおり、今後認知症高齢者の介護が重要なものであることを明確にしている。そして、「認知症ケアモデルの構築」が必要だとして、認知症専門医を含めた人材の育成や予防・早期発見、ケアプラン、権利擁護などの取り組みが必要だとしている。
また前述したように、認知症の研究が進んできたことも大きな要因のひとつであろう。

昨年を思い返してみると、認知症高齢者が小規模単位で生活するグループホームが一年を通して話題になっていたし、10月には京都において国際アルツハイマー病協会国際会議が開催され、認知症の人本人が自らの言葉で語ったことに大きな衝撃を受けたことがあった。
これらの大きな流れを考えると、関係者の努力が実り、機が熟した結果であろうし、必然であったのかもしれない。今は、その流れがさらにさまざまな取り組み・実践を飲み込み、大きなうねりになっているように思える。

国は、認知症の人の尊厳を保持するために10ヵ年戦略を立てて行動していくことにしており、まずは今年度1年を「認知症を知る1年」として各地でさまざまな広報・取り組みを行っていく。
そのひとつに、認知症高齢者のケアプラン「センター方式」の普及がある。昨年1年かけて全国16ヶ所でモデル事業をおこなった結果、認知症高齢者のケアの視点が養われるとの評価を受けている。
また、グループホームも含めた認知症の研修が本格化していくなど、私たちが認知症という言葉を目にする機会も増えてくるだろう。その時は、ぜひ私たちも傍観者になることなく、積極的に認知症に対して向き合っていきたい。今後、介護に関わる職業においては、間違いなく必要な専門知識のひとつになるだろう。