少し前になるが、5月23日、日本を訪問中だった呉儀副首相が小泉首相との会見を急にキャンセルして帰国する事件が起こった。呉儀ドタキャン事件として知られ、BBSでは早速「呉儀る」などという単語も作られた。ここで訳がわからなかったのは、中国側の理由説明が一貫せず、そもそもドタキャンを極度に嫌がる日本人の憤激をさらに強めたことであった。
「急な公務が発生したため」という中国政府の当初の釈明以降、一連の話を見て、わたしはフランス語でいう「un scénario chinois」という言葉を連想した。直訳すると「中国の台本」、実際には「わけのわからない言葉、でたらめな言葉」を意味するらしい。本来は典型的なオリエンタリズムの表現であるが、最近の中国の状況を見ていると、まさにぴったりだという気がする。ただ、このフランス語のイディオムはフランス人でも普通は知らないようだ。中型辞典にも載っていない。わたしがこの言葉を知ったのは、フランスのポップス歌手パトリシア・カース(Patricia Kaas、名前で見られるようにドイツ系)のヒット曲「Mon mec à moi(わたしのあいつ)」の歌詞に出てくるからなのだ(歌詞では定冠詞複数形)。
ただ、ドタキャンそのものは、別に中国の十八番ではない。いや逆に中国政府はかつてならやらなかったのではないか。むしろ私は台湾では日常茶飯事だし、フィリピンでもよく出くわした。台湾についていえば、これまで台湾人の政治家の何人かが(現在政府上層部も含まれる)日本を訪問した際、突然理由もなく、予定をキャンセルして顰蹙を買ったらしい。台湾の政治家が頻繁にドタキャンすることが、台湾と日本との関係の阻害要因になっているという見方もあるくらいである。
もっとも、台湾人の場合は、悪気がないというか、そのときの気分でまったく何の悪意もなく、屈託なくドタキャンしてしまう。理由はあまり説明しないが、もし説明されたらもっとむかつく理由だ。私が経験した中でも「今日は行けない。明日別の友人が来るから」と関係ない理由を言うのでさらに問い詰めたところ、何のことはない、気分的に行きたくなくなったというだけのことなのである。ただ、悪意はなく善意でやってしまうから、こちらも怒りようがない。もし怒っても、逆に「あなた、どうしてそんなに機嫌が悪いの?」と逆に慰められるだけである。日本人にとっては許しがたいが、それでも悪意がないことだけは伝わる。それが台湾人、あるいはフィリピン人の場合である。
ところが、今回の呉儀ドタキャン事件では、中国には明らかに悪意があることがわかる。「緊急の公務で帰国した」というわりには、訪日後に予定されていたモンゴル訪問は着実に実行されたし、事前の要人との会食の場で北京から帰国命令を受けた呉儀は「急に戻ることになった」といっていたという話もあるから、明らかに小泉首相の顔に泥を塗る目的で行われたことは明白である。
そもそもわたしは呉儀という人物は、虫が好かない。かつて大阪APECで会見があったときに貿易大臣だったかで来ていたが、態度が倣岸だったため、難詰した覚えがある。
善意で屈託がないのも始末に終えないが、しかし悪意でやってしまう神経もまた救いがたい。
日本のマスコミの報道で推定されている本当の理由は、どうも小泉首相の靖国神社参拝発言への面当て、特に呉儀との会見で靖国参拝継続発言が出ると面子がなくなるからそれを避けるためのドタキャンということらしい。
私自身は中国が反対しているかに関係なく靖国神社参拝は反対であり、靖国神社廃止論者ですらある。ただ、靖国神社をどう処理するかは優れて日本人内部の問題だとも一方では考えるから、中国が執拗に反対することも内政干渉で不当だと思う。これは反対する中国だけが不当なのではなく、積極的に賛成して靖国神社に参拝した台湾の右派独立派政党・台湾団結聯盟のような行動も内政干渉だということを意味する。
それはともかく、結論からいえば、中国がそんなに靖国神社に言いたいことがあるなら、正々堂々と主張すればいいのであって、何もドタキャンという幼稚な手段をとる必要がない、ということである。
ただし、私が最近とみに感じることには、中国の最近の日本や台湾に対するやり方がどんどん荒っぽく幼稚になっていて、これではわざわざ反感を強めることをしているようなものである。
日本に対しては、江沢民時代に江が訪日の際、天皇との会食の場で歴史問題を執拗にあげつらったことから始まって、沖ノ鳥島周辺海域で海洋調査船などによる経済水域侵犯、それに対する「沖ノ鳥島は島ではないから経済水域は設定できない」という強弁、東シナ海における天然ガス田採掘、しかも日本側経済水域直下からの吸い上げ、原潜の沖縄領海侵犯、それに対する開き直り、反日暴動における在外公館や日本人関係建物への被害、それに対する正式の謝罪拒否など、あまりにも常軌を逸した言動が多い。
私が属する左派陣営の間では、中国への幻想を抱いているものが多いから、こうした中国の荒っぽい挑発行為について「もとはといえば靖国参拝が悪い」とする見方もある。ただし、わたしは靖国神社廃止論者ながら、やはり中国には悪意があると考えるほうなので、中国が靖国ばかりをあげつらうのは、「A級戦犯合祀」という比較的まともな問題が重点なのではなくて、何か別の意図や企みがあると考える(中国内部の矛盾の転嫁、あるいは援助額の増額への駆け引きなど)。だから、中国側がいっている額面通りに「靖国が悪い」といっている左派の仲間たちは、あまりにもナイーブで、こんなことだから日本で左派はどんどん衰退する一方なんだろうと思うほうである。
もっとも、日本政府も、タカ派や極右傾向が強まっているのは事実で、どうも中国を意味もなく挑発しようとして、靖国参拝に固執している部分もあると思う。中国と喧嘩し、中国を批判することはどんどんやるべきだと思う。しかし、どうせ中国を挑発するなら、チベット独立運動にもっとコミットするとか、あるいは台湾を目標としたミサイル配備への批判、中国国内の人権弾圧中止要求など、もっと人類全体の発展にとって意味のある、より普遍的な議題で挑発し、喧嘩を売るべきであって、たかだか明治になって作られた靖国神社(しかも日本近代国家建設に功労があった西郷隆盛すら祀られていない)を後生大事にしているのは焦点がぼけているとしか言いようがない。そういう意味では、日本のタカ派も、中国の一党独裁の統治者も、ピンボケでずれているという意味ではどっちもどっちだといえる。
日本でも、台湾でも、このごろめっきり反中派が増えた。親中派は少数である。しかも反中の中身は、中国が共産党だから嫌いというよりも、むしろ中国政府の大人げなさやお粗末さに呆れている、というのが動機になっているようだ。
私自身は反中派を自他ともに認めているわけだが、だが歴史を振り返った場合、これだけ反中が増えて、しかも中国が尊敬されず馬鹿にされるようになったというのは、珍しいことだと思う。
わたし自身は昔から親中派は好きにはなれない(かといって親台派なら無条件に好きなわけでももちろん、ない)。しかし、かつて1970-80年代の日本には親中派とされる人がかなり多かったという記憶がある。それは日本人自身が中国社会の実態に無知だったということもあろう。80年代以前の中国は今よりももっと閉鎖的な社会だったから、実態をありのままに理解できなかったのは事実だ。しかし、真の問題は中国政府上層部の質が低下したことが大きいのではないか。
そう思って、よくよく毛沢東、周恩来、あるいは80年代のトウ小平にいたるまで、日本の親中派から賞賛され、尊敬された人物と、その後の江沢民と現在の胡錦涛などとの顔つきを比べると、どうも根本的に違うことがわかる。あるいは日中関係で中国側の窓口には、かつては長い日本留学経験を持ち日本をよく理解していた廖承志、郭沫若(周恩来自身もそうだ)らがいた。わたしは全体主義国家の権力層など好きになれないが、しかし、当時あれだけ多くの日本人が彼らの虜になったことにはそれなりの理由があったのかも知れない。廖承志、郭沫若の日本留学時代の学生服姿の写真を見たことがあるが、彼らには日本人の心を魅了する何かがあったのに違いない。今の台湾の李登輝が日本人を虜にしているのと同じ、いやそれ以上の魅力があったのではないか。ひとことでいえば人物だったということだろう。
それに引き換え、今の中国側のいわゆる知日派の顔ぶれを見ると、なるほど日本語はぺらぺら話せるに違いないが、何か根本的で決定的なことが欠けているように思える。たとえば駐日大使の王毅。外務次官時代にはそれなりに開明的な人物との評判があったが、中日大使になってからこの人の評価は「頭の回転は速い」という以上のものを聞いたことがない。李登輝が昨年末に訪日した際に、「李登輝は戦争メーカー」などと発言して顰蹙を買った。最近では靖国問題に関連して「首相などが参拝しないという君子(紳士)協定があった」と中国語そのままの表現を使って、日本語能力の限界を見せ付けた。
また、参事官の黄星原も反日暴動に対する日本の右翼のこれまた幼稚な報復のいたずらに対して「これはテロ」などと偉そうにまくしたてて顰蹙を買った。
最高指導者の胡錦涛そのものがまた、小物ぶりが否めない。顔つきは普通の小役人の顔つきである。もちろん、あの顔で「チベット自治区」書記時代にはチベット僧侶を多数串刺しにしたほか、チベット人を数万人虐殺したという図太い神経の持ち主なのだが、しかし米国資本に対しては媚を売り、笑顔を振りまいているのを見ていると、単に弱いものいじめしか能がない小心者であることがわかる。
毛沢東は専制君主であったし、大躍進や文革などで大量虐殺を行った人物であったが、それでも長征、国共内戦では国民党ファッショ勢力と戦ったし、朝鮮戦争などでは米国相手にも戦う姿勢を示したわけで、「弱いものいじめ」ばかりが能ではないことはわかる。気迫や気概のようなものがあったのだろう。
もちろん、日本でも台湾でも韓国でも、政治家はどんどん小粒になっている。だが、それは民主主義国家ではおかしなことではない。主権在民で国民に決定権がかなりゆだねられている国家であれば、英雄は必要ないし、政治家はむしろ小粒のほうがいい。
ところが中国は民主主義国家ではない。だが、政治家だけはどんどん小粒になっていく。そうした齟齬が、中国政府がどんどん幼稚になっている原因になっているのではないか。
しかも人間が小粒で小心者であるということは、政策もどんどん硬直化し、創意工夫にあふれる斬新なアイデアや政策は出てこないことを意味する。中国にも海外留学帰国組は増えていて、日本や台湾に対してもそれなりにまともな思考ができる人間がいるだろうに、それがまったく政策に反映されない。官僚化が進み、大胆かつ新たな発想が通用しないのだ。
だから、日本と台湾に対する政策がどんどん融通が利かず、時代錯誤かつ硬直化したものとなる。しかもやはり停滞気味の日本はともかく、台湾はどんどん進歩し、人民が賢くなっていく一方だから、中国の硬直した政策と発想を続ければ続けるほど、中国はますます台湾住民から嫌われ、嘲笑されることになる。これは、台湾ネーションおよびナショナリズムの形成にはきわめて有利な加速要因となって私のような立場(台湾建国左派)としてはある面では喜ばしいが、しかし、アジア太平洋の地域の安全と繁栄という側面で見ると不幸なことなのである。
台湾の民主化の定着と人民の意識の高揚を見れば、もはや中国に台湾を併合する能力と可能性はまったくないと言ってよい。台湾は今後このままの方向に進み、独立国家らしい中身を充実させ整えていけば、早晩国際的に認知されるであろう。
中国は本来なら、台湾の発展の成果を評価し、積極的に国家として承認し、友好関係を結び、ひいてはチベットなどにおける高度な自治や自決権を認め、さらに日本や韓国などと共同で、アジアの平和と安全を目指すようにするべきなのだ。また、そうしてこそ中国はますます繁栄しそうなものなのに、今の中国政府はどうしてもそうした前向きな発想に立てないようだ。実効支配している中国大陸すらも満足に繁栄させられないで、歴史や面子にこだわって台湾に執着する発想を持っているようでは、中国は早晩アジアの中で孤立し、自滅するだけだろう。
最近の中国政府指導部のていたらくを見ると、フランス語の「un scénario chinois」はまさにぴったりだといえるだろう。
「急な公務が発生したため」という中国政府の当初の釈明以降、一連の話を見て、わたしはフランス語でいう「un scénario chinois」という言葉を連想した。直訳すると「中国の台本」、実際には「わけのわからない言葉、でたらめな言葉」を意味するらしい。本来は典型的なオリエンタリズムの表現であるが、最近の中国の状況を見ていると、まさにぴったりだという気がする。ただ、このフランス語のイディオムはフランス人でも普通は知らないようだ。中型辞典にも載っていない。わたしがこの言葉を知ったのは、フランスのポップス歌手パトリシア・カース(Patricia Kaas、名前で見られるようにドイツ系)のヒット曲「Mon mec à moi(わたしのあいつ)」の歌詞に出てくるからなのだ(歌詞では定冠詞複数形)。
ただ、ドタキャンそのものは、別に中国の十八番ではない。いや逆に中国政府はかつてならやらなかったのではないか。むしろ私は台湾では日常茶飯事だし、フィリピンでもよく出くわした。台湾についていえば、これまで台湾人の政治家の何人かが(現在政府上層部も含まれる)日本を訪問した際、突然理由もなく、予定をキャンセルして顰蹙を買ったらしい。台湾の政治家が頻繁にドタキャンすることが、台湾と日本との関係の阻害要因になっているという見方もあるくらいである。
もっとも、台湾人の場合は、悪気がないというか、そのときの気分でまったく何の悪意もなく、屈託なくドタキャンしてしまう。理由はあまり説明しないが、もし説明されたらもっとむかつく理由だ。私が経験した中でも「今日は行けない。明日別の友人が来るから」と関係ない理由を言うのでさらに問い詰めたところ、何のことはない、気分的に行きたくなくなったというだけのことなのである。ただ、悪意はなく善意でやってしまうから、こちらも怒りようがない。もし怒っても、逆に「あなた、どうしてそんなに機嫌が悪いの?」と逆に慰められるだけである。日本人にとっては許しがたいが、それでも悪意がないことだけは伝わる。それが台湾人、あるいはフィリピン人の場合である。
ところが、今回の呉儀ドタキャン事件では、中国には明らかに悪意があることがわかる。「緊急の公務で帰国した」というわりには、訪日後に予定されていたモンゴル訪問は着実に実行されたし、事前の要人との会食の場で北京から帰国命令を受けた呉儀は「急に戻ることになった」といっていたという話もあるから、明らかに小泉首相の顔に泥を塗る目的で行われたことは明白である。
そもそもわたしは呉儀という人物は、虫が好かない。かつて大阪APECで会見があったときに貿易大臣だったかで来ていたが、態度が倣岸だったため、難詰した覚えがある。
善意で屈託がないのも始末に終えないが、しかし悪意でやってしまう神経もまた救いがたい。
日本のマスコミの報道で推定されている本当の理由は、どうも小泉首相の靖国神社参拝発言への面当て、特に呉儀との会見で靖国参拝継続発言が出ると面子がなくなるからそれを避けるためのドタキャンということらしい。
私自身は中国が反対しているかに関係なく靖国神社参拝は反対であり、靖国神社廃止論者ですらある。ただ、靖国神社をどう処理するかは優れて日本人内部の問題だとも一方では考えるから、中国が執拗に反対することも内政干渉で不当だと思う。これは反対する中国だけが不当なのではなく、積極的に賛成して靖国神社に参拝した台湾の右派独立派政党・台湾団結聯盟のような行動も内政干渉だということを意味する。
それはともかく、結論からいえば、中国がそんなに靖国神社に言いたいことがあるなら、正々堂々と主張すればいいのであって、何もドタキャンという幼稚な手段をとる必要がない、ということである。
ただし、私が最近とみに感じることには、中国の最近の日本や台湾に対するやり方がどんどん荒っぽく幼稚になっていて、これではわざわざ反感を強めることをしているようなものである。
日本に対しては、江沢民時代に江が訪日の際、天皇との会食の場で歴史問題を執拗にあげつらったことから始まって、沖ノ鳥島周辺海域で海洋調査船などによる経済水域侵犯、それに対する「沖ノ鳥島は島ではないから経済水域は設定できない」という強弁、東シナ海における天然ガス田採掘、しかも日本側経済水域直下からの吸い上げ、原潜の沖縄領海侵犯、それに対する開き直り、反日暴動における在外公館や日本人関係建物への被害、それに対する正式の謝罪拒否など、あまりにも常軌を逸した言動が多い。
私が属する左派陣営の間では、中国への幻想を抱いているものが多いから、こうした中国の荒っぽい挑発行為について「もとはといえば靖国参拝が悪い」とする見方もある。ただし、わたしは靖国神社廃止論者ながら、やはり中国には悪意があると考えるほうなので、中国が靖国ばかりをあげつらうのは、「A級戦犯合祀」という比較的まともな問題が重点なのではなくて、何か別の意図や企みがあると考える(中国内部の矛盾の転嫁、あるいは援助額の増額への駆け引きなど)。だから、中国側がいっている額面通りに「靖国が悪い」といっている左派の仲間たちは、あまりにもナイーブで、こんなことだから日本で左派はどんどん衰退する一方なんだろうと思うほうである。
もっとも、日本政府も、タカ派や極右傾向が強まっているのは事実で、どうも中国を意味もなく挑発しようとして、靖国参拝に固執している部分もあると思う。中国と喧嘩し、中国を批判することはどんどんやるべきだと思う。しかし、どうせ中国を挑発するなら、チベット独立運動にもっとコミットするとか、あるいは台湾を目標としたミサイル配備への批判、中国国内の人権弾圧中止要求など、もっと人類全体の発展にとって意味のある、より普遍的な議題で挑発し、喧嘩を売るべきであって、たかだか明治になって作られた靖国神社(しかも日本近代国家建設に功労があった西郷隆盛すら祀られていない)を後生大事にしているのは焦点がぼけているとしか言いようがない。そういう意味では、日本のタカ派も、中国の一党独裁の統治者も、ピンボケでずれているという意味ではどっちもどっちだといえる。
日本でも、台湾でも、このごろめっきり反中派が増えた。親中派は少数である。しかも反中の中身は、中国が共産党だから嫌いというよりも、むしろ中国政府の大人げなさやお粗末さに呆れている、というのが動機になっているようだ。
私自身は反中派を自他ともに認めているわけだが、だが歴史を振り返った場合、これだけ反中が増えて、しかも中国が尊敬されず馬鹿にされるようになったというのは、珍しいことだと思う。
わたし自身は昔から親中派は好きにはなれない(かといって親台派なら無条件に好きなわけでももちろん、ない)。しかし、かつて1970-80年代の日本には親中派とされる人がかなり多かったという記憶がある。それは日本人自身が中国社会の実態に無知だったということもあろう。80年代以前の中国は今よりももっと閉鎖的な社会だったから、実態をありのままに理解できなかったのは事実だ。しかし、真の問題は中国政府上層部の質が低下したことが大きいのではないか。
そう思って、よくよく毛沢東、周恩来、あるいは80年代のトウ小平にいたるまで、日本の親中派から賞賛され、尊敬された人物と、その後の江沢民と現在の胡錦涛などとの顔つきを比べると、どうも根本的に違うことがわかる。あるいは日中関係で中国側の窓口には、かつては長い日本留学経験を持ち日本をよく理解していた廖承志、郭沫若(周恩来自身もそうだ)らがいた。わたしは全体主義国家の権力層など好きになれないが、しかし、当時あれだけ多くの日本人が彼らの虜になったことにはそれなりの理由があったのかも知れない。廖承志、郭沫若の日本留学時代の学生服姿の写真を見たことがあるが、彼らには日本人の心を魅了する何かがあったのに違いない。今の台湾の李登輝が日本人を虜にしているのと同じ、いやそれ以上の魅力があったのではないか。ひとことでいえば人物だったということだろう。
それに引き換え、今の中国側のいわゆる知日派の顔ぶれを見ると、なるほど日本語はぺらぺら話せるに違いないが、何か根本的で決定的なことが欠けているように思える。たとえば駐日大使の王毅。外務次官時代にはそれなりに開明的な人物との評判があったが、中日大使になってからこの人の評価は「頭の回転は速い」という以上のものを聞いたことがない。李登輝が昨年末に訪日した際に、「李登輝は戦争メーカー」などと発言して顰蹙を買った。最近では靖国問題に関連して「首相などが参拝しないという君子(紳士)協定があった」と中国語そのままの表現を使って、日本語能力の限界を見せ付けた。
また、参事官の黄星原も反日暴動に対する日本の右翼のこれまた幼稚な報復のいたずらに対して「これはテロ」などと偉そうにまくしたてて顰蹙を買った。
最高指導者の胡錦涛そのものがまた、小物ぶりが否めない。顔つきは普通の小役人の顔つきである。もちろん、あの顔で「チベット自治区」書記時代にはチベット僧侶を多数串刺しにしたほか、チベット人を数万人虐殺したという図太い神経の持ち主なのだが、しかし米国資本に対しては媚を売り、笑顔を振りまいているのを見ていると、単に弱いものいじめしか能がない小心者であることがわかる。
毛沢東は専制君主であったし、大躍進や文革などで大量虐殺を行った人物であったが、それでも長征、国共内戦では国民党ファッショ勢力と戦ったし、朝鮮戦争などでは米国相手にも戦う姿勢を示したわけで、「弱いものいじめ」ばかりが能ではないことはわかる。気迫や気概のようなものがあったのだろう。
もちろん、日本でも台湾でも韓国でも、政治家はどんどん小粒になっている。だが、それは民主主義国家ではおかしなことではない。主権在民で国民に決定権がかなりゆだねられている国家であれば、英雄は必要ないし、政治家はむしろ小粒のほうがいい。
ところが中国は民主主義国家ではない。だが、政治家だけはどんどん小粒になっていく。そうした齟齬が、中国政府がどんどん幼稚になっている原因になっているのではないか。
しかも人間が小粒で小心者であるということは、政策もどんどん硬直化し、創意工夫にあふれる斬新なアイデアや政策は出てこないことを意味する。中国にも海外留学帰国組は増えていて、日本や台湾に対してもそれなりにまともな思考ができる人間がいるだろうに、それがまったく政策に反映されない。官僚化が進み、大胆かつ新たな発想が通用しないのだ。
だから、日本と台湾に対する政策がどんどん融通が利かず、時代錯誤かつ硬直化したものとなる。しかもやはり停滞気味の日本はともかく、台湾はどんどん進歩し、人民が賢くなっていく一方だから、中国の硬直した政策と発想を続ければ続けるほど、中国はますます台湾住民から嫌われ、嘲笑されることになる。これは、台湾ネーションおよびナショナリズムの形成にはきわめて有利な加速要因となって私のような立場(台湾建国左派)としてはある面では喜ばしいが、しかし、アジア太平洋の地域の安全と繁栄という側面で見ると不幸なことなのである。
台湾の民主化の定着と人民の意識の高揚を見れば、もはや中国に台湾を併合する能力と可能性はまったくないと言ってよい。台湾は今後このままの方向に進み、独立国家らしい中身を充実させ整えていけば、早晩国際的に認知されるであろう。
中国は本来なら、台湾の発展の成果を評価し、積極的に国家として承認し、友好関係を結び、ひいてはチベットなどにおける高度な自治や自決権を認め、さらに日本や韓国などと共同で、アジアの平和と安全を目指すようにするべきなのだ。また、そうしてこそ中国はますます繁栄しそうなものなのに、今の中国政府はどうしてもそうした前向きな発想に立てないようだ。実効支配している中国大陸すらも満足に繁栄させられないで、歴史や面子にこだわって台湾に執着する発想を持っているようでは、中国は早晩アジアの中で孤立し、自滅するだけだろう。
最近の中国政府指導部のていたらくを見ると、フランス語の「un scénario chinois」はまさにぴったりだといえるだろう。