種々雑多な音楽環境で育った自分もベトナムに移り住み「ようやく自分好みの音楽にいそしむようになった気がする」
*小学校で最初に買ったレコードは「鉄人28号」のソノシート(片面は主題歌が入っており、もう片面は物語が入っていた)
*友達の「お兄さんたちの影響」で次に買ったのは「ビートルズのレット一トビー」だった。
*そしてそれからはフォーク、ロック、ニューミュージック、歌謡曲高校まではそんな生活だった。
そして「自分にとっての音楽志向の大きな転機は大学の時の友達だった」
名前は「丸山君」自分の出た大学は「幼稚園から大学まで同じキャンパスでキリスト教に基づいた教育をしていた」そして
自分などのように「大学から入った者」でなく「幼稚園からずっとこの学校に居た者は【付属】と呼ばれた」
相当の学費を払ってずっとこの学校で学んだ「資産家の家のお子さんたちだった」自分はこのまさしく【バリバリに付属】である丸山君から
大きな影響を受けた。
・まずは「ダサい田舎のファッションのダメ出し」を受けて、「最初からファッションはメリカントラディショナル」にしなさいと
強引に指導された。「JPRESSの紺ブレとWのスラックスを丸井のクレジットで買い」シャツは必ずボタンダウン、そしてネクタイは
地味なレジメンタルタイ」だと教えられた。そして「聞く音楽に関しても」丸山君は「これ聞いてみな」と渡されたのが
「山下達郎」だった。そのころ発売されていた「最新の【FOR YOU】と言うアルバム」・・・・大きな衝撃を受けた。それから
大学時代は「山下達郎一色に染まった」こんなおしゃれな音楽に出会ったのは「丸山君のおかげだった」
(しかし、ギターをそこそこやっていた時分だったが山下達郎の音楽は難解すぎてついてはいけなかった、だから彼の曲は聞くだけだった)
そして「大学を卒業」し、次に巡り合ったのが「角松敏生」だった。そのころ「高校の後輩が地元で貸レコード屋さん」を
やっていて、時々立ち寄っていた。ある時「店内でかかっていたメロディが山下達郎を聴いたときまではいかないが?
自分にとっては【垢ぬけた、海を感じられるメロディーだった】」その時の曲は「Still im in love with you」と言う曲だった
チケットを取るのが異常に難しい「山下達郎」に代わり「角松敏生のコンサートには出かけた」・・・
そしてその後は「山下達郎」「角松敏生」に傾倒していった。
それから現在まで
この2名に出会ったときのような「ときめき」は残念ながら感じていない。しかしそれに近い「ときめきは」
*大瀧詠一、佐野元春、風、吉田拓郎 などに感じはしたが?・・・
結局はもう年金をもらう歳になっても「一番多く聴いているのはこの2名の曲に間違いない」
しかし、最近TIKTOKを見ていると「ませた小学校の時に聞いたアメリカンポップや大学の時のディスコの曲、
そして自分でギターで弾けた曲、あたりが紹介され
その時代を思い出し「きゅんとなることも有ったりする」・・・
そんな時、「あーもうこういう曲はこんな時でないと一生聞かずに思い出さずに終わるのかもしれない」などと感じる。
今は家に帰れば「相棒ミッ」と過ごすだけで「自由な時間は多い」だからこそ、これからは「良い曲」「思い出の曲」を
時間の許す限り「聞いてきたいな」などと思う今日この頃である。
(出来れば計画している移住先の海辺か、海の近くの一軒家の借家の軒下で相棒ミッとのんびりしながら「片岡義男の益にも毒にも
ならない雰囲気だけのかっこいい小説」を読みながらそしてビールでも飲みながら「好きな曲」を聴きたいものだ。その時のために「MY BEST」のファイルを作ろうか?
などと考えている)
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