では、この日記をつづる若き司祭にとって、
つづることの出来ない≪秘密≫とは何だろう。
映画を見始めたとき、
一瞬そんなことを思ったわたくし・・・・・
フランスの片田舎の小さな教区に赴任してきた神父。
なぜかいつも沈鬱な表情で、胃の調子も悪く蒼白な顔は貧血のせいか。食欲もなく口にするものといえば、ワインと固いパンとほんの少しの果物。
神父の表情から苦悩の影は消えません。
電気も通っていない教会ながら、隣家の議員の家では、夜毎大盤振る舞いながら、教会に電気を通すのに数ヶ月もかかると言う。腹を立てつつも反論しない神父はすっかり舐められているようです。貧しい村人は妻の葬儀代を支払うのにも文句を言ってくる。
聖体拝領の意味をすらすらと答える小悪魔的な少女にはこんな風にあしらわれ、ポットの水にクスリも盛られ、悪口を言いふらされ、
家族の心になど関心のない領主である父を憎み、
その父親と愛人関係にある家庭教師を憎み、
自分に何の関心も持たない母を憎む少女。
人生の秘密は何かとまるで神に問うがごとき質問をして神父を悩ませます。そんな少女の淡い思いに気づかず、このままでは自殺する恐れがあると案じ、教区内の神父として働くべく出かける神父。
なのに、信仰に揺るぎのない神父という感じもなく、相変わらず顔面蒼白で病気のようです。
溺愛していた息子を亡くしてからは、神を憎んで家族をも省みない領主の妻。夫が愛人を囲って家政を切り盛りしようとしていても、それを屈辱と頭では思っていても引きこもって無関心のまま。愛する息子を奪った神など恐れるに足るぬと心を閉じたまま。悩む神父・・・・・
周囲が期待するように世俗の権力者である領主との関係も築けないまま、教区の司祭として勤めていこうとすれど、
相談に行く先の司教さまは、
この司祭さまの助言、お年寄りのそれと侮っては惜しいものがあるので、ちょっとご紹介させていただくと、
何だかマキュアベリが納得しそうな統治論ですが、教区における司祭の立場に求められるものは、教区の村人の心の救いとか祈りへの指導といったことよりも、そういったものだったのかもしれません。
領主の妻が自殺した夜、神父宛に彼女から感謝の手紙が届きますが、神父から傲慢の罪を指摘され、死の直前に癒しを得たという彼女の言葉。
この映画、こんな風に淡々と続いていくのですが、この段階ではまるで、若い神父の成長の姿を描いた映画かと勘違いしてしまいます。が、どうも、そういったものではないらしい。
領主の妻が亡くなる前夜に神父と口論をしていたという噂(娘が誤解から流した噂)から、神父は教区内の村人から疑惑の目を向けられ、領主は神父を他所の教区に移動させてしまおうと画策。神父を取り巻く状況はかなり悪くなります。が、鈍感なのか関心がないのか、神父には分かっていません。状況を打開しなければいけなくなった司教がやってきます。
こんな風に司教に理解を示される神父ですが、身の潔白を明かすべく「実は・・・」と言うこともない。領主の妻からの手紙のことは語ろうとはせず、沈黙したままです。
確かに、司教の言うとおりの神父です。
けれど、どうでしょう。
嘘をつかないからといって、秘密がまったくないということにはならない。嘘をつけないからこその、苦悩というものもある。
教区の村を出て行くことになる神父。
この村に赴任して来たときと変わらない顔。
神父が夜も眠れず、とうとう「祈れない」と言って苦悩する。いったい、神父が祈れなくなるほどに抱えている苦悩というのは、何なのか。
今日観た映画『田舎司祭の日記』ですが、このブログ(1)は、映画のご紹介の導入としてアップさせていただきました。
映画『田舎司祭の日記』のご紹介は、
次回のブログでしたいと思います。