この映画、今日二回観て、二度目に観たときに、
ここの台詞がどんなに大きな意味を持つかに、
初めて気づいたわたくしでした。
初赴任先の教区となった村から出て行くことになった神父が、領主の娘の従兄にあたる男(ここで初登場)に
バイクで駅まで送ってもらうことになったとき、
その後部座席で神父が自らに語る言葉。
何て迂闊なわたくしだったことか。
駅についてからの二人の会話、
そこで交わされたこの会話でも、
気づかなかったわたくし。
この外人部隊に入っているという男との会話が、
ここまで進んだとき初めて、
そう初めてここで、
わたくしはこの映画の神父の立場を理解したのです。
出発までのわずかな時間に交わされたこの会話で、
わたくしは神父が神に祈れなくなるほどに悩んでいた苦悩が何であったのかを、理解し、その苦悩に慄然とした思いになりました。
神に仕えるあなたも、「まかり間違えば」われわれ外人部隊の兵士と同じ兵士になっていたかもしれないと苦笑しながら語る男。
けれど、信仰を持つものにとっては、ましてや聖職者にとっては神にその存在を問わずにはいられないかもしれない。神が禁じた行為なのか、教会が禁じた行為なのかは不明ながら。
この男が語る「兵士」という立場を神父が苦悩する存在を問う言葉に置き換えたとき、神父自身は、「仕方がないことです」と言えない自身と対峙することになる。
かつて、司教が神父の健康を案じて神の愛を説教したときに、無意識に神父の頬を伝って流れた涙、神に祈れなくなるほどの苦悩とは、身もだえするほど神に祈りたい苦悩でもあります。だからこそ、「仕方がないことです」とは思えない神父なのではないか。
この神父を演じているのは、
クロード・レイデュという俳優です。
映画のラスト近くで
死を前にした神父が見せた表情・・・
あのジェラール・フィリップが見せた表情と同じなので、当時、こうした苦悩の表情が映画では評価されたのかなとちらっと思いつつ、兵士と神父との会話に戻ると、
この「取るに足らぬ石ころ」という言葉に、
神父は目を見張ります。
この後はネタバレとなりますので、
お嫌な方はここで、
お読みになるのはお止めくださいね。
神父は胃がんであることを知り、
命がもはやそう長くはないことを悟りますが、
まだ死を受け入れる準備は出来ていません。
自らが自らに問い神に祈ることができなくなったほどの苦悩の源を、見据えるという仕事が残っている。
訪ねた先は、
神学校時代の仲間であった男のところ。
男は≪病気≫が原因で病院に長く入院していたらしい。
退院後、聖職者たることをやめ肉体を酷使する仕事を探したという。人には言えないような根性の要る仕事もしてきたと。いまは身の回りの世話をしてくれる≪知的生活とは無縁≫の女性がいて、薬の販売の仕事をして儲かっているらしい。
彼は、語る。
神父は、もしかしたらここで初めて
自分の意思での言葉を語ったのではないでしょうか。
映画は、最後に、
この神父がどのような状況でどんな死に方をしたか、
この神学校時代の仲間として登場した男の口を通して(彼が司教に当てた手紙で)語られて終わりますが・・・・・神父の最期の言葉をお知りになりたい方は、このロベール・ブレッソン監督の映画、ぜひご覧ください。万人向けの映画とは言えない映画だと思いますので。
ブログで個人的な宗教心情を吐露する趣味はないわたくしなれど、正直申して、わたくしはキリスト教というもの、
あの宗教会議で成立したともいえるこの世俗宗教の原理主義的かつ禁欲精神の欺瞞には、少なからぬ抵抗感を抱いている一人なれど、映画を観終えた後、何だか無性に聖書を読みたくなり、しばらくぶりに聖書を開いて読みたくなりました。
この神父の秘めた愛、同性愛と神への愛の狭間で苦悩した人間への、追悼の気持ちからかもしれません。