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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

どんぐりと山猫

2012-06-09 08:13:23 | 薔薇のオルゴール

今日の画像は、オイルパステルで描いてみました。まだ下手ですけど、オイルパステルもなかなかに面白いですね。これからもいろいろと試してみたいです。テーマはもちろん、宮沢賢治の「どんぐりと山猫」です。

要するに、みんなの中で誰が一番偉いかというどんぐりたちの裁判を、山猫と一郎さんがいっしょにするという話なんですけれども。

   *

 一郎はわらってこたえました。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」
 山猫はなるほどというふうにうなずいて、それからいかにも気取って、繻子のきものの
胸(えり)を開いて、黄いろの陣羽織をちょっと出してどんぐりどもに申しわたしました。
「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」
 どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。
(『どんぐりと山猫』 宮沢賢治)

   *

一郎さんの聞いたお説教というのは、多分聖書に書いてあるこれに関してのことじゃないかと思うんですが、前にも似たようなのを出したことがありますが。

   *

彼らはカペナウムに来た。家の中に入った時、弟子たちに尋ねられた。
「道中、何を議論していたのか」
彼らは黙っていた。道中、誰が偉いか論じていたからである。イエスは座ると、十二弟子を呼んで、彼らに言われた。
「誰でも人の先に立ちたい者は、みなの後になり、みなに仕える者になりなさい」
イエスは幼子を受け取り、彼らの中に立たせ、また抱きかかえられ、彼らに言われた。
「わたしの名のゆえに、このような幼子の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。また、わたしを受け入れる者は、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わした方を受け入れるのである」
(『マルコによる福音書』9 33-37)

   *

偉いってことは、一体どんなことでしょうね。

人は自分自身であるというだけで、限りない幸福を得られるものだから、特に高い地位を得て偉くならなくたっていいのですけど。もちろん、社会にとって大切な仕事をするために、自分の力を必要とされる役割を与えられる人もいることだろうけれど、まあそれを地位という人もいるんだろうけれども、それは自分を偉くて良いものにするためにやることではない。と、思う。

それがみんなのためになることなら、やるべきことはやるけれど、偉い人になるためにやるのじゃない。なぜやるのかと言ったら、それは、愛がそれをせよというからだ。そういう人は偉い人というより、その人、という強い感じがする。

人間はいろんな目的のために、偉くなりたがるけれど、それは本当は、かなり滑稽なことだ。だって、本当に幸福だったら、地位だとか名誉だとかそんなものは全然要らないから。これ前にも言ったけど。つまりは、そういうものがないと、自分がいなくなるような気がしてさみしい人が、それを欲しがる。偉い人になりたいという人は、本当の自分の幸福を知らない。だから、時には悪いことをしてでも、偉くなりたがる。それが幸せだと信じて。でもそれは、悲しい。だって本当は、そういう人には、なんにもないんだ。どんなすばらしいものを得ても、なんにもないんだ。つまりはそういう人たちにとって、「偉い」ということは、なんにもない自分を立派に見せるためのきらびやかな衣装のようなものなんだ。

「誰でも人の先に立ちたい者は、みなの後になり、みなに仕える者になりなさい」
本当に偉い人は、いつも見えないところで、みんながよいことになるように、一生懸命に働いている。愛だけを理由として、ひそやかにやっている。それがとても幸せなんだ。本当に、幸せなんだ。だから、できる。

本当に偉い人は、全然偉くない人だ。



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段階

2012-06-08 07:10:35 | 詩集・貝の琴

人間もそうですが
花や木や動物などにも
魂の段階というものが ありましてね
要するに 魂として
何年生くらいかなという感じのものです

段階の違いというものは
どういうものかと申しますと
例えば これはとてもつらく苦しい例ですが
ある人が 誰かに自分の子供をさらわれ
殺されてしまったとします
ほんとうに 悲しいことです

人間は 自分の子供を殺した人を
激しく憎みます
心も魂も割れそうなほど悲しみます
それほどに つらいことなのです
子を持つ人間なら だれしもわかることでしょう

けれども
段階をすすんだ人ならば
自分の子供を殺した人を
許すことができるのです
なぜなら 愛する子供を
無残な悲劇で失ったという経験をしたということは
それは自分が持っていた罪の浄化であるか
あるいは神によって自分に与えられた
魂の試練という愛であるかもしれないということを
わかっているからです

火の玉のような憎悪を飲み込み 頬を涙で洗いながらも
自分の荒ぶる感情と戦い それを耐え忍び
殺意にさえ染まった肉塊のような感情を
自ら引きちぎり 血まみれの心になりながら
すべてを愛の中に帰し
もっとも憎いはずの人間を 許すという
魂の勉強をしたのです その人は
そして罪を犯した人の その浄化の苦しみを思い
その苦しみを自分の苦しみとして味わうこともできる

子を失った悲しみは同じでも
人間には これはまだ できません

これが 段階というものなのです


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野菫

2012-06-07 07:04:11 | 詩集・貝の琴

愛だけで ただすきだというだけで
ものごとをやっていると
なんともすがすがしくて 気持ち良い

まるで透明で清らかな流れの中に生きている
水晶のような魚のきれいなここちがして
気持ち良い

生きることや 自分として在ることが
それはそれは 快い
薄紫の菫が お日様をいっぱいにあびて
やわらかい土から しっとりとした水をのみ
闇に埋もれた 小さな鉱石の甘い雫を食べて
体中に歓喜が満ち足りて
あふれんばかりに うれしくて
ああ 涙がとまらない
幸福に弾けそうになる

ただちょっと残念なのは
ひとりぼっちだということだけかなあ
幸せなことを 誰かと分かち合いたくても
君はわたしのそばにいないから
君ならば どういうふうに
この幸せを歌うだろう
きっとそれは美しく歌うだろう
そしてそれは わたしと全く違う歌だろう
君はこの幸せをどんなふうに歌うだろうか
聞いてみたいけれど

野菫のように小さくなって
青い野の隅に隠れて
わたしは静かに歌を歌っている
ああ今日も 神様に向かって
まっすぐに額をあげて
挨拶をすることができる
なんて幸せなんだろう



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Le Petit Prince

2012-06-06 08:01:43 | 薔薇のオルゴール

タイトルはフランス語で気取ってみましたが、ル・プティ・プランスと読みます。直訳すれば「小さな王子」。それを「星の王子さま」というかわいらしい名前の本にしてくれたのは、内藤濯です。
「大切なものは目に見えない」という胸にしみる有名なことばと一緒に、長く読み継がれているこの本、最近は新訳本や絵本なども出ていますですが、わたしは何となく、古い訳の方が好きです。2冊ほど、違う人の訳した本も読んでみましたけれど。

冒頭の切り絵は一応、てんこが描いた王子さまです。小さな薔薇も添えてみました。なんだかこのカテゴリには、薔薇がよく出てくるな。オリヴィエじゃないですよ。ちょっと似てるけど。マフラーと言うか、スカーフみたいなのを首に巻いている、星の王子さまです。

以下は引用。多分読んだことのある人はこのシーンを誰もが覚えていることでしょう。

   *

 王子さまはくたびれていました。腰をおろしました。ぼくはそのそばに腰をおろしました。すると、王子さまは、しばらくだまっていたあとで、また、こういいました。
「星があんなに美しいのも、目に見えない花が一つあるからなんだよ……」
 ぼくは、〈そりゃあ、そうだ〉と答えました。それから、なんにもいわずに、でこぼこの砂が、月の光を浴びているのをながめていました。
「砂漠は美しいな……」と、王子さまはつづいていいました。
 まったくそのとおりでした。ぼくは、いつも砂漠がすきでした。砂山の上に腰をおろすと、なんにも見えません。なんにもきこえません。だけれど、なにかが、ひっそりと光っているのです……
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ……」と、王子さまがいいました。
 とつぜん、ぼくは、砂がそんなふうに、ふしぎに光るわけがわかっておどろきました。ほんの子どもだったころ、ぼくは、ある古い家に住んでいたのですが、その家には、なにか宝が埋められているという、いいつたえがありました。もちろん、だれもまだ、その宝を発見したこともありませんし、それをさがそうとした人もないようです。でも、家じゅうが、その宝で、美しい魔法にかかっているようでした。ぼくの家はそのおくに、ひとつの秘密をかくしていたのです……
「そうだよ、家でも星でも砂漠でも、その美しいところは、目に見えないのさ」と、ぼくは王子さまにいいました。

(「星の王子さま」アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ作、内藤濯訳)

   *

大切なものは、目に見えない。にんげんはまだ、その大切なものが見えないから、まちがったことをしたり、ほんとうに大切にしなければならないものを、平気で壊したり、汚したりしてしまう。それで、とてもつらいことになってしまう。大切なものがないと、人間は何もかもを失ってしまうのだ。だって大切なものがないと、ほんとうに、何もないんだよ。それがないと、何もかもが嘘になってしまうから。
でもきっといつか、にんげんにも、大切なものがわかるようになる。それをどんなにか大切にしなければいけないかってことも、勉強してわかるようになる。そして、いろんなものを愛して、大切にして、一生懸命、みんなのために働くようになるだろう。ああ、どんなにすてきだろうね。そんなことになったら。みんなが幸せになる。

大切なものは、大切にしなくてはいけないんだよ。それは目に見えるお菓子やお金や素敵な首飾りや服や大きな家だとか車だとかじゃない。今の人間はそんなものがそれは好きだけどね。それはさびしいからなんだ。寒いからなんだ。見えないから、大切なものが、わからないから。

大切なものは目に見えない。けれど、感じることはできる。その幸せと言ったら、魂が割れるほどうれしいのだ。自分として生きること、それだけで満たされすぎるほど、満たされてしまうのだ。

大切なものは、本当に大切なのだ。その大切なものって、なんだろう?
それは、「ほんとうのこと」という名前のかわいい星なのだ。それは自分の胸の中で、不思議な軌道を回りながらくるくる自転している。ときどき小鳥のようにさえずって、魂を揺さぶる時がある。

愛しているよ。いつもいっしょにいるよ。








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その奥に媚びんよりは

2012-06-05 07:29:51 | てんこの論語

王孫賈問いて曰く、「その奥に媚びんよりは、むしろ竈に媚びよとは、何の謂ぞや」。子曰く、「然らず。罪を天に獲ば、禱るところなし」(論語・八佾)

王孫賈が孔子に尋ねた。「奥の座敷でわけのわからぬ天の神に祈るより、むしろ、飯をたいて食わせてくれる竈を大事にしろということわざがありますが、どう思われますか」
すると孔子は答えた。「それは間違いです。天の下にいて天に恥じるようなことをすれば、他に祈るところなどどこにもありません。」

   *

資料によると、「その奥(おう)に媚びんよりは、むしろ竈(そう)に媚びよ」、というのは、衛という国の形式的な王である霊公にとりいるよりは、むしろ実権を握っている重臣(王孫賈)の方に媚びた方がいいのではないかという謎かけだそうです。
でもまあ、そんなことはおいといて。ここでは、奥座敷で高き理想の神に祈るよりは、ものを食わしてくれる台所の竈を大事にしろという意味にとります。つまりは、仁や義や礼などの人として生きるための大切な徳目を大事にするよりは、食うために必要なものやお金を大事にしろということです。

確かに生きるためには食べることも必要なことですが、人間としてより高く、平安に豊かに生きて行くためには、人としての、愛ややさしさという美徳を持っていることが必要だ。高くものごとを学んだ人は、一杯の粥にも神の愛があることを知っていて、人やものを大切にするということが、どんなに大事なことであるかがわかる。なにごとにつけ、本当に大切にすべきものを大切にするということが、とても大切なのだ。それを仁といったり、礼といったりする。

竈もなくてはそりゃこまりますが、それもまた愛が人に与えてくれたもの。人間はやはり、仁や義や礼などの、人が人として生きるために本当に大切な徳目を深く学び、それを自分の友として大切に心の中に持って、生きて行かねばならない。そうでなければ、嘘や悪いことが世の中にはびこって、社会に乱れが生じ、人々が生きることが、本当に苦しくなってしまう。ひどいことになれば、竈でたく飯すら、人々は得ることができなくなってしまう。

罪を天に獲(え)ば、禱(いの)るところなし。

大切なのは、もっとも大切なものが何なのかと言うことだ。この世界のすべては愛なのだ。天とは全ての存在が愛そのものであるということの孔子なりの表現でありましょう。孔子は愛たる実在の真実を、高き愛なるものの実在を、天と言うことばに感じ、表現したのだと思う。その真実よりも目先の食べ物の方が大事だと言ってしまえば、もはや祈るところもない。天を侮辱してしまえば、天の下のどこにもいくところがない。

「奥」で祈るもの。それは人として守るべき正しい愛の行ない方、表現の仕方を教えてくれる神なのです。人はこの大切なことを学んでいかねばならない。良き書を読み、良き師に習い、様々に行動し、失敗を繰り返しつつ改めつつ、体験を積んで、自分の心を豊かにし鍛え、それをしっかりと心につかまねなりません。
「仁」というものが何であり、それがとてもすばらしいものだとわかるには、それがあると、ほんとうに幸福で良いことが起こるということがわかるには、人間はまだ、若すぎる。もう少し、勉強しないと、多分、わからないと思う。

人は、人として守るべき徳目を大事にして、生きていかねばならない。人を愛し、正しいことをし、きちんとした礼儀を守って、本当に大切にしなければならないものを大切にせねばならない。人が、本当に大切にするべきものが何であるかをわかり、それを大切にできるようになれば、生きて行くことはだいぶ楽になるし、社会は美しく整えられて、みんなが暮らしやすくなるでしょう。

人として生きること。それは仁を心に灯し、義を友とし、礼に己を整え、真実に頭を垂れて、人生を学びながら、まじめに、正直に生きること。それが、自分の真の心に、最も心地よい、生き方であるとわたしは思う。

「まじめに、正直に。」愚直というかまるで馬鹿みたいに聞こえることばですが、今この言葉が、人間に一番必要なのではないかと感じています。

まじめに、正直に、生きていますか。みなさん。


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流れ星

2012-06-04 06:39:34 | 薔薇のオルゴール

遠い空から野原一面に降りしきる
光る流れ星を追って
ぼくは大慌てで落ちてきた星を拾う
片手に大きな籠を持って

一つ拾って 二つ拾って
あ 三つ目も拾って 急いで籠に入れよう
どんどん どんどん 落ちてくるよ
白いのや 少し青いのや 黄色いのや 緑のや
おや? これなんてすごいや
まるで芯に火をともした林檎のようだ
丸くて赤くて澄んだ甘い香りがする
耳を近付けると 中で何かが動いているよ

籠が星でいっぱいになったから
少し休んで ぼくは野原の隅っこに座って
広い野原に降りしきる流星雨を静かに見ていた
星は 琴をかきならすような音をたてて
つぎつぎと落ちてくるよ 
透き通った音楽はひそひそと風に何かを教えると
銀河の滝の向こうに登って消えて行く

流れ星は早く拾って籠に入れないと
みんな土に溶けて消えてしまうんだ
きっとそんなことも
不思議な星の秘密なんだと思う
いっぱい拾えてよかったなあ
帰ったら オレンジのジャムに少し入れておいて
明日の朝は透き通った星の香りのパンを食べよう

ともだちに分けてあげるものには
紙につつんでリボンをつけないといけないね
ああ なんて幸せなんだろう
きっと喜んでもらえるだろうな

楽しいことを考えるのはうれしいね
ぼくの胸に棲んでいるやわらかい小鳥が
ぼくの小さな心臓を 卵のように温めてくれる
籠の中の星は きのこみたいに
小さくふくらんだりしぼんだりして
かすかな声で こおろぎのような歌を歌う
ああ 秘密を教えてあげたくて たまらない
星はそんなことを 歌ってるみたいだ
秘密ってなんだろうって聞いてみると
星はただ ふふって笑うだけなんだよ

ああ まだ星が降っている
雨のように空から降り続いている
銀色の尾をひいて
どんどん どんどん降ってくる
野原はまるで 光る金平糖のような
不思議な魚が跳ねる 白い湖のようだ


(オリヴィエ・ダンジェリク詩集『空の独り言』より)



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弥勒菩薩立志歩行像2

2012-06-03 08:28:48 | 画集・ウェヌスたちよ

少し前に描いた、「弥勒菩薩立志歩行像」を大きめの紙に描いて、切りなおしてみました。サイズが大きくなると、またなかなか立派に見えます。弥勒は半跏思惟の姿勢のまま、長いこと凍りついたように動きませんでしたが、ここにきて、ようやく目を開いた。

彼は唇から手を離し、組んでいた足をほどき、立ち上がり、歩きだした。なぜか右手には薔薇を持っている。その意味は要するに、たぶんもう、嘘の時代はおわり、真実の時代が来ると言うことなんでしょう。

今はまだ、嘘が上手につける人ばかりが、うまくいうという時代ですけれどね、それはだんだんと変わってくる。なぜならもう、嘘は行き詰まり、真実との矛盾の前に立ちつくしていることしかできず、もうそれ以上一歩も進めないからだ。一歩進むと、もうそこには何もなく、果てもない奈落に落ちて行くよりほかはない。彼らは、その真実の前に、一切を放り出して逃げたいのだが、そういうわけにもいかず、絶望的な目をして、同じことを繰り返している。

そのような人々を救う弥勒とは誰か。もちろん弥勒菩薩は知っている。それは自分自身だと。

すべての人が、自分の真実の姿に気づき、自分自らを救ってゆく。それが弥勒の救いというもの。要するに弥勒とはすなわち、人類全員という意味だ。

この図はまた、何かの思いを感じた時にまた描いてみようと思っています。まだ不満足な点がいくつかあるので…。そのときはまた、見てください。



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双子の星

2012-06-02 07:29:19 | 薔薇のオルゴール

宮沢賢治の童話「双子の星」から、ポウセ童子とチュンセ童子です。色鉛筆とパステル。まあ、わたしなりのイメージで描いてみました。童子というと、何となく東洋的なイメージがして、黒髪に、きれいな着物のような服を着せてもよかったのだけど、なぜか、頭の中に、薄い黄色の髪をした目の青い少年が現れてきて、描いてみたらこうなりました。
でも、こうして、そっくりな顔を二つ並べてみると、二人が違う人物とは思えませんね。なんだか同じ人間を二つ並べて合成してるみたいだ。

月の世の物語・余編、「繭」で、二つ頭の虎というのを出してみましたが、ちょうどその逆だなあ。あれはひとつの体に頭が二つあって、そのどちらにも人格が備わっていましたが、この双子のお星様は、一人の人格が、ふたりの人間を同時に生きているという感じだ。双子とは不思議だなあ。もちろん現実の双子には、そんなことはありませんけどね。姿かたちはそっくり同じでもそれぞれに違う人格を持っている。

まあとにかく、賢治の美しい言葉から、少し引用しておきましょう。

   *

王が云いました。
「いやいや、そのご謙遜は恐れ入ります。早速竜巻に云いつけて天上にお送りいたしましょう。お帰りになりましたらあなたの王様に海蛇めが宜しく申し上げたと仰っしゃって下さい。」
 ポウセ童子が悦んで申しました。
「それでは王様は私共の王様をご存じでいらっしゃいますか。」
 王は慌てて椅子を下って申しました。
「いいえ、それどころではございません。王様はこの私の唯一人の王でございます。遠い昔から私めの先生でございます。私はあの方の愚かなしもべでございます。いや、まだおわかりになりますまい。けれどもやがておわかりでございましょう。それでは夜の明けないうちに竜巻にお供致させます。これ、これ。支度はいいか」

(『双子の星』宮沢賢治)

   *

双子のお星様のお宮がある空には、大切なことや美しいことを教えて下さる、美しい王様がいるのでしょうな。その方はお空のどこにいらして、どんなことをなさっているのでしょうな。賢治がこの美しい童話を書いてから、何年経ったかはしりませんが、もうそろそろ、いろんな人が、一体だれが王様だったのか、わかっているでしょうね。そんな気がします。

あと、これも好きなので、「星めぐりの歌」も引用しておきましょう。美しい歌です。これ確か、曲がついていると思う。Youtuveで検索すると、出てくると思いますよ。

   *

あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あおいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。

オリオンは高く うたい
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。

大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ。
小熊のひたいの うえは
そらのめぐりの めあて。

  (『星めぐりの歌』宮沢賢治)

   *

きれいですね。透明な水晶でさえ、自分を濁っていると恥じるほど、透き通った風が吹いていそうだ。美しいことばで、賢治も本当に大切なことは何なのか、本当の幸いとは何なのかを、懸命に言おうとしている。
昔から、賢い人たちは、どんなにかたくさんの苦労をしながら、地上にその真実の言葉を記そうとして生きてきたのです。以下は論語ですが。

   *

子曰く、政をなすに徳をもってす。譬えば北辰のその所にいて、衆星のこれに共かうがごとし。(論語・為政)
先生はおっしゃった。政治というものは、決して変わることのない美しいまことの愛の心によってするものだ。たとえば北極星が動くことなく空にあり、星々がそれを目当てにして動いていくように。

   *

オリオンは高く うたい
つゆとしもとを おとす…






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詩三百

2012-06-01 07:15:57 | てんこの論語

子曰く、詩三百、一言をもってこれを蔽う、曰く、思い邪なし。(論語・為政)

先生はおっしゃった。詩経三百篇、言葉や表現は様々にあるが、全ては同じことを言っている。それはただ一言、「心を正しくしていなさい」、ということだ。

    *

ずいぶんと私流の訳ですが、そこはご勘弁を。

「正しいことをしなさい。悪いことをしてはいけません」と、小学校では良く習いますね。だいたいの先生は、子供たちにそういうことを教えると思います。でもおとなになると、なんだかみんな、小学校で教わったことを忘れるみたいなんだ。どうしてかな。小学校の先生なら、きっと目をとがらせて怒るようなことを、人は大人になると、いろんな巧みな技術を使って、とても上手にやるようになるみたいなんだ。一体、どこでそういうことを習うんだろう。

本当に、多くの人は、おとなになると、上手に、悪いことやずるいことが、できるようになるようなのだ。それはどこで習うんだろう。学校や塾でもあるんだろうか。そんなところがあるのなら、ぜひに一回訪ねてもみたいものだ。どんな教科書を使って、どんな授業をやっているのやら。きっと面白いことを教えているのに違いない。

まあ、冗談はこれまでにして、久しぶりの論語です。

今の世は、真っ正直に正しく生きることよりも、裏でずるいことを賢くやって、よく言うように、「うまくやって」自分を得させることが、頭のいいかっこいい人のすることのように考えている人が多いそうです。みな、裏で、人にばれないようにやれば、なんでもしていいと思っているかのようだ。本当に、自分のやったことが、誰にも知られなければ、それでいいと思っているかのようだ。でも、誰も知らなくても、自分だけは、自分のしたことを知っている。人にばれたら恥ずかしいようなことを自分がやっている、ということを、自分は知っている。それは恥ずかしくないのだろうか。自分が苦しくないのだろうか。自分のやっていることを、自分で恥ずかしいと思うことはないのだろうか。

聞いてみたい。本当に、それをやって、自分は苦しくないのか。平気なのか。何の呵責もなく、そんなことをすることが、できるものなのでしょうか、人間は。
人間は知らないのだろうか。裏で自得のためにずるいことをできるということが、頭のいいって意味ではないことを。本当に頭のいい人、論語では知者と言いますが、そういう人は愛を裏切りません。愛を裏切ればどういうことになるかを知っているからだ。

「正しいことをしなさい。間違ったことをしてはいけません」

自分の本当の心が本当に喜ぶことをしなさい。愛を基本にして、世の中のためにも自分のためにも、正しいことをする。そこに幸せを見いだせる人間は仁者というものだ。自分の得ばかりを考えて、ずるいことばかりしてはいけない。その行為の醜さが、自分をどれだけ汚くして、苦しめてしまうものか。後々の自分の運命に、どれだけ暗い影を落とすものか。人間はまだそれがわからないか。

正しいことをしなさい。正しい心で、自分にも他人にも恥ずかしいことをせずに、詩経のような良い本を読んだり、良い師について学んだりして、人生をもっとまじめにやりなさい。それが当たり前のことにやれて初めて、人間は少し大人になれる。

人によっていろいろと表現の仕方は違うでしょうが、太古の昔から、賢い人々は常にこう言ってきたはずだ。
「正しいことをしなさい。嘘のないきれいな心で」

それが本当にいいことなのだと、心にしっかりとわかるまで、人間はどれだけの失敗をし、どれだけの月日を費やしてきたか。もう一度繰り返して言います。

「正しいことをしなさい。間違ったことをしてはいけません」



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