「なんですか?ややこしい罪びとができたら、ぼくのとこにもっていけとでもいう道理でもできてるんですか?」竪琴弾きは、日差しのように月の明るい林の中を速足で歩きながら、少し怒ったように言いました。青年がひとり、彼を小走りで追いかけながら、言いました。「いや、そんなことではないですよ。ほら、この前、あなたの担当していた人がひとり、圏外の地獄に落ちてしまったじゃないですか。それで空きができたからだと思うんですけど」
それを聞くと、一瞬、竪琴弾きの目に青い悲哀の影がさしこみました。「…そうですね、多分そのとおりだ」竪琴弾きは、ずれた帽子をなおしつつ、小さな声で言いました。脳裏に、ある女性の面影が浮かび、竪琴弾きは悲しげに目を伏せました。
竪琴弾きの後ろを追いかけている青年が、ふっと息を吐いて、手の中に書類を出しました。それを読みながら、彼は言いました。「たしかに、難しい罪びとですね。これはどうやって導いたらいいんだろう」竪琴弾きも、歩きながら青年から書類を受け取り、それを読みました。「…かなりいい人ですね。この人は、二千年は月の世に来ていない。このたびの人生でも大過なくやり過ごして、ほとんど罪らしい罪は犯していない。なぜ月の世に来たのか、自分でもさっぱりわからないでしょう」
「ええ、普通なら、この手の罪は、浄化することは今の人間には難しいからと、彼らが成長するまで待ってもらえるはずなんですが。なぜか今回、許してもらえず、まっさかさまに月の世の地獄に落ちてきている。原因はお役所でもわからないそうです。上部にお伺いしているところなんだそうですが」青年は腕を組んで歩きながら言いました。そして、ため息とともに付け加えました。「…人間は、何も知らないまま、物事をいとも簡単にやりすぎてしまうからなあ…」
竪琴弾きは書類を手元から消すと、言いました。「さて、どうするべきか。どこまで彼に話したらいいと思います?」「難しいですね。事情を全部説明したら、人間にはまだ教えてはいけないことまで教えなくてはならなくなる」青年は、困ったように頭をかきました。竪琴弾きは木々の間を縫うように歩きながら、木漏れ日のように足元に揺れる月の光を見つつ、考えていました。そうしてしばらく、白い月の光に目を浸していると、ふと、光る小魚のように、何かの直感のようなものが彼の頭の中を横切りました。竪琴弾きは言いました。
「…うん。これはもう、全て話すより仕方ないかもしれない」「すべて?」「ええ、確証はありませんが、神の御計画の流れの中で、何かが変わってきているのではないでしょうか」「ふむ…」「とにかく本人に会って話してみましょう。多分、何かの神の導きがあるでしょう」「そうですね」
ふたりは、無数の光りながら踊るこりすのような明るい月光の木漏れ日を浴びながら、林の中をどんどん進んで行きました。
やがて、月の光はだんだんと暗くなり、林も鬱蒼と濃い森に変わってきました。どこからか水の音が聞こえ、ふたりは、暗い森の中を流れる一筋の川のところまで来ました。青年がポケットから月珠を取り出し、あたりを明るく照らしました。すると、川向うの岸辺に立っている木々に、何千羽もの鴉が、闇を切り取って無数に貼りつけたように、とまっているのが見えました。鴉たちは、月珠の光に驚いて、がやがやと騒ぎだしました。竪琴弾きは竪琴を鳴らし、鴉たちに鎮めの魔法をかけました。すると鴉たちは騒ぐのをやめ、代わりに、ふたりをちらちらとみながら、何かひそひそと話をし始めました。竪琴弾きは鴉の群れる向こう岸の森に向かって、罪びとの名を呼びかけました。しかし答えはありませんでした。竪琴弾きは何度も彼の名を呼び、二十ぺんも呼んだところで、ようやく小さな声が返ってきました。
「…はい、おります。ここです」
すると、黒い森の奥から、青い羽根をした鴉が顔を出し、それはよろよろと飛んで、森の木々の中から向こう岸の川べりに降りて来ました。竪琴弾きは少し安心して言いました。
「やあ、出てきてくれましたか。お会いするのは初めてかな。ぼくが今回からあなたを担当することになったものです。月の世に来るのは、ほんとうに久しぶりでしょう」
竪琴弾きが言うと、青い鴉は、悲しげな顔できょろきょろとあたりを見回し、言いました。
「わ、わかりません。どうしてわたしは、月の世にきたんですか。悪いことなどした覚えはありません。辛い失敗をしたこともありましたが、ちゃんとそれも謝ってお返しもしているはずです」
「ええ、あなたは、人間的にはほとんど、罪らしい罪を犯してはいません。おっしゃるとおり、一度だけ女性とトラブルがありましたが、ちゃんと悔いて、お詫びをしている。本来なら、日照界にいくはずなのですが…」
そこまで言ったところで、竪琴弾きは隣の青年と目を合わせました。青年が片眼を歪めて、苦しそうな顔をしました。空を見ると、群青の空に雪のように白い月がかかっています。川の上を吹く風は何やらねばついて生温かく、どこかに何か、とても汚いものがあるような気配がしました。向こう岸の鴉たちは、青い鴉を見ながら、何か面白げに、くっくっと笑い始めました。鴉たちの笑いは木々をざわめかせ、暗い森が揺れて一斉に、青い鴉を嘲笑し始めました。竪琴弾きは、苦しげに目を閉じました。青い鴉は森や鴉が一斉に自分を責め立てる声を浴びて、石のように凍りついてそこで動けなくなりました。何が何やらさっぱり分からない様子で、青い鴉は助けを求めるように、震えながら竪琴弾きの顔を見上げました。
「どう、どうして、こうなったのです。ここの鴉は、みんなでわたしをいじめるのです。わたしは毎日、鴉にひどい悪口を言われるのです。森も鴉も、みんな、わたしの悪口を言うのです。なぜこのような目に会うのですか?わたしは」
青い鴉は竪琴弾きに訴えました。竪琴弾きは、目を開けてしばし鴉をまっすぐな目で見、少し考え込んだ後、もう一度月を見上げました。そして、心の中で神に祈り、竪琴をぽろんと鳴らしました。すると、弦の一本が、悲鳴を上げるように、ぴんと音をたてて切れました。竪琴弾きは驚いて、竪琴を顔の前に持ち上げて見つめました。切れた弦は引きちぎれた月光の糸のように、風の中を揺れながら、蝿の羽音のようなかすかな音をたてていました。驚いて声を失った竪琴弾きに、青年が小声でささやきました。
「それは、何かのおしるしなのではありませんか。あなたの琴の弦が切れるなど、滅多にないことだ」竪琴弾きは、竪琴を背中に回し、しばし沈黙の中に考えつつ、青い鴉を、見つめました。その間も、向こう岸の鴉や森は、しきりに青い鴉を汚い言葉でののしり、その故に風が汚れて、森の方から、何やら腐ったゴミのような臭いがただよってきました。
竪琴弾きは、やがて何かを決心したかのように深いため息をついて、言いました。
「…そういうことですね。これはたぶん、神よりの何かのおしるしでしょう」竪琴弾きは、身を引き締めて神に導きを願ったあと、真剣なまなざしで青鴉を見ながら、言いました。
「…青鴉さん、あなたは、多分、人間の中で、初めてこれを知る人になるでしょう。人間は、ほとんどみな知らないことですが、地球世界には、人間の知らない、『絶対にやってはいけないこと』ということがあるのです。あなたは、今回の人生で、それをやってしまったのです。普通なら、この罪を浄化するには、人間はまだ若すぎるので、それができるようになるまで、待ってくれるはずなのですが、なぜか今回は待ってくれずに、あなたはここに落ちてしまった。そして罪を償わねばならない」
「ぜ、絶対にやってはいけないこと? それはなんです?」青烏が羽を震わせながら言いました。
「あなたは生前、狩猟が趣味でしたね」
「ええ、それは好きで、犬をつれて、よく雁やウサギなどを撃ちにいったものでした」
「あなたは一度、その猟銃で、一羽の鴉を、気まぐれに撃ち殺したことがあるでしょう?」
「鴉を?さあ、あったかな。覚えていない。でもその鴉が、なんだというのですか?」
青年が苦しげに目を閉じ、小さく清めの呪文を唱えました。竪琴弾きは少し目を青鴉からそらし、眉間に苦悩のしわを寄せました。竪琴弾きは厳しい目で青鴉に向かって言いました。
「青鴉さん、それが、『絶対にやってはいけないこと』だったのです。鴉という鳥には、時々、特別な鴉がいましてね、その鴉は、絶対に殺してはいけないのです。あなたの殺した鴉は、その絶対に殺してはいけない鴉だったのです。なぜならその鴉は、森の天然システムを管理していた精霊の魂を持っていたからです」
青い鴉はきょとんとした顔をして竪琴弾きを見つめました。何のことやら、さっぱりわからなかったからです。天然システムという言葉さえ、彼は知らなかったのです。竪琴弾きは続けました。
「あなたがその鴉を殺してしまったために、精霊が人類を愛することに疲れ、森を放棄して、地球世界を離れてしまったのです。精霊がいなくなると、森の天然システムはバランスを崩し、次第に荒野と化していきます。木がそこに生えるのをいやがるようになるからです。森は少しずつ消え、そのおかげでたくさんの生命がそこで生きられなくなり、ある特別な種族の鼠が絶滅してしまいます。それは人類の運命にとても重い荷を負わせることにもなりかねないのです。つまり、その鼠がやっていた天然システムでの仕事ができなくなり、地球の天然システムのバランスの一部が崩れ、砂漠化が始まります。つまり…」
「まって、まってください! そんな、そんなことに、なるんですか?鴉一羽殺しただけで?」
竪琴弾きはしばし青鴉を見つめながら、苦しそうな顔をしました。ちぎれた琴糸の音が自分の身の痛みのように感じられ、彼は瞬間悲哀に溺れそうになりましたが、再び口を開きました。それはまるで、誰か自分とは違うものが自分の口を使ってしゃべっているかのようでありました。
「人間は、なんでも知っているつもりで、地球の秘密について、何も知らないのです。どれだけのたくさんの愛が、地球世界を支え、美しく維持管理しているか、人類が何も知らずにやってしまったことの後始末を、どれだけの間、どれだけたくさんの愛が辛抱強くやっているのか、…全く知らないのです。あなたが殺した鴉の管理していた森は、今、神と数人の若者が管理していますが、もうすぐ、新しい精霊がやってくることになっています。それで、何とか森の砂漠化を防げることは防げるのですが、決して元の森には戻りません。新しい精霊は、前の精霊と同じことはできないからです。鼠も滅びはしませんが、かなり数が減ると予想されています。…以上が、あなたの犯した罪のあらましです。わかりましたか?」
「そ、そんな、そんな、そんな…」青鴉は、ふるふると羽根を震わせながら、岸にへたりこみました。「…そ、そんなこと、ぜんぜん知らなかったんですよ。か、鴉が精霊だなんて…」
竪琴弾きは鴉の動揺の仕方を見て、胸の奥で、やはりまだ教えるのは早すぎたのではないかと、後悔しましたが、彼の口はその彼の気持ちを無視して、勝手に言いました。
「残念ですが、あなたは、その罪を、浄化しなくてはいけません。それは大変な苦労ですが、人間の段階に合わせて簡略な形にはなっています。あなたは今、鴉を殺して森を消滅させるという罪を犯したために、一羽の青い鴉となって、森やほかの鴉の罵倒を浴びていなければなりませんが、森の管理を引き継ぐ精霊が決まったとき、ほかの地獄に移されます。多分そこであなたは、数百年の長い月日を、森林浄化の石となって、ある森の地中深くにじっと埋もれていなければならないのです。そして、人間の無知が起こしたことを日々浄化している人たちと同じ苦しみを味わい、学ばねばならないのです」
青鴉は目を見張り、あっけにとられて、しばし息をすることさえ忘れていました。何か言おうと、くちばしをパクパク動かしましたが、声は何も出ませんでした。
竪琴弾きは岸辺で茫然としている鴉に向かって言いました。
「大丈夫です。神のお導きがありましょう。ぼくも時々、あなたを訪ねて様子を見にゆきますから。ひとりぼっちではないですよ。これも勉強と思って、どうか強い気持ちになってください」
竪琴弾きは言いましたが、青鴉はもう何も聞こうとせず、ふらりと背中を向けたと思うと、よたよたと森の中に帰って行きました。森の奥から、一言、刺のように痛い鴉の罵声が、聞こえました。
「竪琴、直さなければいけませんね」帰り路、明るい林の中を歩きながら、青年が言いました。竪琴弾きは黙ったまま、うなずきました。彼らの背中を照らす白い月の光が、弦の切れた竪琴を憐れむように触れていき、かすかに風に溶ける音を鳴らしました。
「おっと」いきなり青年が言ったので、竪琴弾きは振り向きました。見ると青年の手の中には一枚の黄色い紙が持たれていて、青年がそれを読んで少しびっくりしているのです。
「ああ、やっぱり。わかりましたよ。一部地域の人間はもう、地球天然システムについての勉強を始めなければならなくなったんだ。だから、ある程度自分に力がある人は、払える罪は払わされることになったんだ」竪琴弾きは、青年から黄色い書類を受け取ると、それを読みました。そして、文字の列に目を走らせながら、小さく、ひゅう、と口笛を鳴らしました。
「始まったんですね。でも早すぎやしませんか。まだ人間は知らないことが多すぎる」
「逆ですよ。本当は、遅すぎたくらいなんだ」
「…ええ、そうですね。人間は、地球天然システムに関して、無知に過ぎる。知らないということさえ知らないほど、無知にすぎる。これは、もう少しすると、大変なことになりますね」
「多分。人間は、苦しいことを味わうでしょうね」
「ええ、神の助けもありましょうし、多くの人は、きっと耐えて乗り越えてくれるでしょうが…」
二人が林の中を歩きながら、会話をしている頃、青い鴉は、黒い森と黒い鴉たちに周囲を囲まれて、ひそひそと虫のように耳の中に流れてくる汚いののしりの言葉に、青い翼で耳を覆いながら、必死に耐えていました。