今日の画像は、オイルパステルで描いてみました。まだ下手ですけど、オイルパステルもなかなかに面白いですね。これからもいろいろと試してみたいです。テーマはもちろん、宮沢賢治の「どんぐりと山猫」です。
要するに、みんなの中で誰が一番偉いかというどんぐりたちの裁判を、山猫と一郎さんがいっしょにするという話なんですけれども。
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一郎はわらってこたえました。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」
山猫はなるほどというふうにうなずいて、それからいかにも気取って、繻子のきものの
胸(えり)を開いて、黄いろの陣羽織をちょっと出してどんぐりどもに申しわたしました。
「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」
どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。
(『どんぐりと山猫』 宮沢賢治)
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一郎さんの聞いたお説教というのは、多分聖書に書いてあるこれに関してのことじゃないかと思うんですが、前にも似たようなのを出したことがありますが。
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彼らはカペナウムに来た。家の中に入った時、弟子たちに尋ねられた。
「道中、何を議論していたのか」
彼らは黙っていた。道中、誰が偉いか論じていたからである。イエスは座ると、十二弟子を呼んで、彼らに言われた。
「誰でも人の先に立ちたい者は、みなの後になり、みなに仕える者になりなさい」
イエスは幼子を受け取り、彼らの中に立たせ、また抱きかかえられ、彼らに言われた。
「わたしの名のゆえに、このような幼子の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。また、わたしを受け入れる者は、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わした方を受け入れるのである」
(『マルコによる福音書』9 33-37)
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偉いってことは、一体どんなことでしょうね。
人は自分自身であるというだけで、限りない幸福を得られるものだから、特に高い地位を得て偉くならなくたっていいのですけど。もちろん、社会にとって大切な仕事をするために、自分の力を必要とされる役割を与えられる人もいることだろうけれど、まあそれを地位という人もいるんだろうけれども、それは自分を偉くて良いものにするためにやることではない。と、思う。
それがみんなのためになることなら、やるべきことはやるけれど、偉い人になるためにやるのじゃない。なぜやるのかと言ったら、それは、愛がそれをせよというからだ。そういう人は偉い人というより、その人、という強い感じがする。
人間はいろんな目的のために、偉くなりたがるけれど、それは本当は、かなり滑稽なことだ。だって、本当に幸福だったら、地位だとか名誉だとかそんなものは全然要らないから。これ前にも言ったけど。つまりは、そういうものがないと、自分がいなくなるような気がしてさみしい人が、それを欲しがる。偉い人になりたいという人は、本当の自分の幸福を知らない。だから、時には悪いことをしてでも、偉くなりたがる。それが幸せだと信じて。でもそれは、悲しい。だって本当は、そういう人には、なんにもないんだ。どんなすばらしいものを得ても、なんにもないんだ。つまりはそういう人たちにとって、「偉い」ということは、なんにもない自分を立派に見せるためのきらびやかな衣装のようなものなんだ。
「誰でも人の先に立ちたい者は、みなの後になり、みなに仕える者になりなさい」
本当に偉い人は、いつも見えないところで、みんながよいことになるように、一生懸命に働いている。愛だけを理由として、ひそやかにやっている。それがとても幸せなんだ。本当に、幸せなんだ。だから、できる。
本当に偉い人は、全然偉くない人だ。