だいぶ前に描いた絵ですが。説明するまでもなく、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」から。
いつもの、一枚にふたりを描く構図です。ふたりの真ん中に見えるのは、一応、「さそりの火」のイメージ。
「月の世の物語」に、水晶球を地球各地に埋めに行くと言う話がありますが、実はあれは、この「銀河鉄道の夜」にあった、ある一節がヒントだったりします。こう言ってすぐにわかる人はいるかな?
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さきに降りた人たちは、もうどこに行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩を並べて行きますと、二人の影は、ちょうど四方に窓のある室(へや)の中の、二本の柱の影のように、また二つの車輪の輻(や)のように幾本も幾本も四方へ出るのでした。そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。
カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌(てのひら)にひろげ、指でぎしきしさせながら、夢のように云っているのでした。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。」
「そうだ。」どこでぼくは、そんなことを習ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
(「銀河鉄道の夜」宮沢賢治)
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なぜかしら、この一節が、昔から忘れられず、何となく、いつの間にか、月の世の物語に忍び込んできました。
宮沢賢治には、今もいろいろなことを学んでいます。一番大事なことは、自分の好きなように書くのが一番いいことだと、習ったことかな。
上手に書くよりも、自分の気持ちに快い言葉で書くのが、一番いいことだと。
賢治の童話の文章は、美しいけれど、上手い、というものではありません。文章の上手な作家はほかにもたくさんいる。技術の長けた人は、たくさんいる。でも、賢治のことばの美しさには、上手さとか、技術ではない、何かが、まさに、水晶の中の火のように、灯っている。
大切なのは、その光なんだ。
水晶の砂の中に燃えている火は、何の火でしょう? わかるような気がする。でも今は、言わないでおきましょう。いつかきっと、誰にでもわかる日が来ると思うから。