世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-09-14 07:24:29 | 月の世の物語・余編

什の住んでいる町には、広い川があった。いつもの散歩道から、少し遠くに足を伸ばすと、緑の草に覆われた古い土手があり、その上に細い散歩道がある。

その日、久しぶりに長い休憩を得ることができた什は、いつもより長い散歩をするつもりで外に出た。

季節は春だった。道の隅に咲いている花は、什を見るといつも同じ顔で笑ってくれた。同じ場所には、毎年違うが、毎年同じ花が咲く。それに什が気付いたのは、最近のことだ。気がおかしいと思われるので、誰にも言ってはいないが、たとえば近くの空き地の隅には、いつもきれいな露草が咲くのだが、その花の中にいる魂は、毎年同じ魂なのだ。この花は、いつもこの場所で、毎年花を咲かせているのだ。他の花も、ほとんど同じようだった。

だから、近所に咲く道端の花は皆、什の知り合いのようなものだった。みな、什のことを知っている。そしてかなり、特別な友達と思ってくれているらしい。什はそれがうれしかった。什がひどい孤独の病の中にあった頃、慰めてくれたあの林檎の木は、もう枯れてしまって、今はもういないが、友達はまだ、たくさんいた。

「什さん」後ろから声をかけられたので、振り向くと、るみがいる。什は微笑んで、「やあ、るみちゃん、仕事は休みなのかい?」と言った。るみは高校を卒業してから、小さな広告代理店に勤めていた。「今日は日曜よ。什さんカレンダー見てないでしょ」るみがそう言うと、什は明るく微笑み、「ああ、そうだった」と言った。

るみは周囲の目をちょっと気にしながらも、うれしそうに什の横に並び、散歩道を歩き出した。「ねえ、什さん、川の土手の方にいかない?ちょっと遠いけど、今、タンポポがいっぱい咲いているの」るみが言うと、什は少し考えたあと、言った。「ふうん、タンポポか。いいね」彼はいつもの自分の習慣を崩すのはあまり好きではなかったが、るみが、こうして時々、自分の殻を壊してくれるのは、なかなか心地よいことだと思っていた。新しいことは、いつもこういう形で、思いがけなくやってきたりするものだ。

いつもの角を逆に曲がり、少し遠い道を、二人で歩いて、彼らは川沿いの土手に向かった。るみの言っていたとおり、緑の草に覆われた土手には、黄色い星のようなタンポポが無数に咲き乱れている。什は、ほう、と感慨の声をあげた。タンポポはすばらしい。その美しい黄色と聞こえない愛の歌で、世界を賛美している。愛がしみこんでくる。こんな美しいものは見たことがないとさえ、彼は思った。

「やあ、きれいだな。なんだかとてもいい詩がひとつできそうだ」什が言うと、るみはうれしそうに微笑んで尋ねた。「どんな詩?」「…いや、まだ形にはならない。なんと言うかな。生まれてくる前の赤ちゃんの、たましいのようなものが、自分の中に入ってくるような感じだ。タンポポがなにかをわたしにくれて、それをわたしの魂が育てて、それがいつか詩になって生まれてくる」「ふうん」「…るみちゃんはどうだい?ずっと文芸部で詩や短編小説など書いていたろう?」「わたしが書くのは、そんなたいしたものじゃないから」「一回くらい、見せてくれないか。そうしたら、いろいろ教えてあげられるのに」「だめ。見せられない。だって…」と、るみはそこで言うのをやめた。そして什より先に、堤防を上り始め、その上にある散歩道に上がった。什もその後をついていった。土手の上に上がると、向こうに青い川の風景が見え、川風が什の長い髪をゆらした。るみはそんな什を見ると、少しはにかむ表情を見せ、くるりと背を向け、土手の上の道を、什より先に歩きだした。

るみの部屋の本棚には、少女の頃に書いた詩のノートが今も残っている。鍵つきの日記帳で、中学生くらいの娘が好きになりそうな、薄紅のかわいい花模様の表紙をしていて、同じ模様をしたきれいなケースに入っていた。中には、什への思いばかりを書いた幼い詩がいっぱいつまっている。誰にも見せられない。死ぬ前には燃やさなきゃ、と思いつつ、るみにはそれができず、詩はあのノートの中で彼女の気持ちと一緒に眠り続けていた。

「什さんの詩集、この国より、外国の方でよく売れてるんですってね」どこからそんな話を聞いてくるものか、るみは歩きながら言った。什はその後を追いながら、「ああ」と言った。「外国の出版社が、なんでかわたしの詩集を気に入ってくれて、本を出してくれるんだ。それがなかなか売れてるらしい。もっとも、そこが出しているレインウォーターの小説の人気の勢いに乗って、わたしの詩集もついでに売れてるような感じなんだけど」
「あ、知ってるわ。向こうの国では、もう新作出てるでしょう。レインウォーターのファンタジーはこっちでも人気あるから。早く邦訳がでないかしら」
「『燃える月』はおもしろかったね。わたしも読んだ」

言いながら、什は空を見た、青菫色の空に、白すぎる雲が流れている。それが目に痛いほどしみ込んでくる。什は少し悲しみを含んだ目でそれをみあげながら、かすかに、ああ、とため息をついた。もう少しだ。もう少しで、帰れる…と什は思った。なぜこんなことを考えるのか、わからない。だが、帰ろうと考えると、空を流れる雲は、静かな聞こえない声を、彼の中にささやくのだ。

まだ帰ってきてはいけない。

なぜですか?と彼はたずねる。すると空の雲は、また静かな聞こえない声で、彼の中でささやく。

まだ、おまえにはしなければならないことがある。

什は微笑み、ただそのことばをうけいれ、わかりました、とだけ、心の中で答えるのだ。もうわかっている。あれは、父だ。わたしの、本当の、懐かしい、天にいる父なのだ。

るみは、鼻歌を歌いながら、什の前を静かに歩いていた。そしてふと、後ろの気配が冷たいような気がして、振り向いた。すると、そこに什の姿がなかった。るみは驚き、慌てて叫んだ。

「什さん! 什さん!!」

「え?なんだい」と什は答えて、るみの方を見た。その時初めて、什の姿が、るみの目に見えた。るみは目から涙をぽろぽろ流した。きっと什は知らないだろう。自分の姿が、時々こうして、人の目に見えなくなることを。什は昔から、物思いにふけるとまるで消えてしまいそうに見えることがあったが、このごろは、時々本当に見えなくなってしまうことがあった。これに気づいているのは、るみだけなのか、什のおかあさんや他の人は気付いているのか、それは知らない。でもるみは知っていた。什はときどき、心が別世界に行ってしまうと、ふと姿が見えなくなるのだ。なんでこんな不思議なことがあるのか、るみは、わからないようで、どこかわかるような気がしていた。

「どうしたんだ?何かあったの?」るみの涙がとまらないので、什は心配そうに言った。るみはポケットから出したハンカチで顔をふくと、しばらく顔を背けて、涙が止まるのを待った。什はその間、どうすることもできずに、足元のタンポポの方を見た。タンポポは微笑み、彼に言った。もういいでしょう。素晴らしい方よ。幸せにしてあげなさい。

るみは十六の時に什にプロポーズのようなことをしたときから、一切彼に結婚の話をしたことはなかった。十六のときに自分がしたことを思い出すと、今でも恥ずかしくてたまらなくなる。でも、るみはまだ什が好きだった。什はもう四十を過ぎて、五十になろうとしている。それでも什は若々しく、見ようによっては二十代にも見えた。無精で伸ばした髪も、白くて細い顔も、明るすぎるほど澄んだ瞳も、まるで子供みたいだ。この人には、わたしがいなくちゃいけない。るみはそう思う。その自分の思いが変わらないのは、やはり、やはり、自分がこの人を、…愛しているからだ。

そう、出会ったあのときから。ずっと、ずっと、好きだったのだ。

るみは涙を止めようとしたが、どうしてもできなかった。涙は次から次とあふれてくる。什は困り果てた。こんな場合どうしたらいいのかということを、彼は何も知らない。ただ、泣いている女の前に、茫然と突っ立っていることしかできない。それはわかっている。男と言うものはだいたいそういうものだが、什はもっと幼稚なのだ。

風が吹いた。タンポポが笑い、世界への賛歌をうたう。空を見あげると白い雲の中に神がいる。一瞬、るみの目に、また什の姿が消えかけて行くのが見えた。るみは大声で叫んだ。

「什さん!結婚して!」
え?と言う顔をして、什の姿がもどってきた。什はるみの顔を見て、笑いながら言った。「るみちゃん、もうそれは…」「わたしは本気なの。ずっと什さんといっしょにいる。什さん、結婚しよう。子どもの頃、約束した通りに」

什は目を見開いて、るみの真剣な顔を見た。「わたし、もう子供じゃないから。自分の気持ちくらいわかってる。什さんのことも、よくわかってる。什さんは、女の子を好きになるような人じゃないの。知ってる。でも、結婚しよう。わたしがいないと、什さんはこの世界からいなくなる」
「るみちゃん…」什は茫然とるみの話を聞いていた。タンポポがまた笑い、幸せにしてあげなさい、と言った。風が吹いた。るみはもう涙を止めようともせず、什に駆け寄って、その胸に飛び込んだ。

「一緒にいたいの。死ぬまで!」るみの叫びが、什の胸に熱く響いた。


その頃、地球の周りの軌道上を回る青船の中では、不思議なものが観測されていた。
「おや、なんだろう」と最初に言ったのは、観測機をのぞいていたガゼルの青年だった。ガゼルの青年は観測機を調整し、地球の一点に咲く渦の中心の映像を拡大してみた。そしてあっと息を飲んだ。「蝶だ。白い蝶。それも、ものすごい群れだ!」ガゼルの青年が、叫ぶように言うと、隣にいて、同じように観測機を見ていた月の世の青年が言った。「第一の渦の中心から白い蝶の大群が噴き出ている!記録と、分析を!」すると知能器の前にいた青年がキーボードを打ちながらすぐに言った。「もうやってる!」
ガゼルの青年は、白い星のかけらのような無数の蝶の群れを見ながら、イエス、と胸に割れた小さな亀裂のような思いをささやいた。「…なんて、美しいんだろう。でも一体なにが、起こっているんだ?」渦の中心から吐き出される白い蝶の群れは、そこから地球の上を這うように四方に散って飛び始め、まるで地球全体を覆ってしまいそうなほどの勢いで、広がっていった。各地に埋めた水晶球の光が、点滅のリズムを微妙に変え、地球上の風にまた新しい音楽を織り込んでゆく。

開いた青船の扉から、白い髪の聖者がそれを見ていた。そしてふと目を細め、かすかに笑った。彼の目にはもっとくっきりと、その真の姿が見えていた。白い蝶は、まるで、桜の花びらのように、かすかに紅を帯びていた。その白い蝶の何億と言う群れが、赤い嵐の渦の中心から噴き出てくる。それはなぜだか、赤い花のような不思議な火山の、音もなく真珠を吐く奥ゆかしい噴火のようにも見える。

やがて、三十分ほど時が経つと、白い蝶の群れは、雪が解けて行くかのように、青い地球の色の中に消えて見えなくなった。青年たちが記録映像を何度も見直し、暗号カードを持って船内を忙しく動き回っていた。聖者はただ、扉のそばに立ち、地球の渦を見下ろしていた。彼は思った。白い蝶の群れを吐く火山か。神の御言葉は、美しくも、難しく、そしてあまりにも簡単だ。

ふ、と聖者はかすかにささやいた。…もう全ては変わっている。

聖者は、目を地球上の第二の渦にやった。その渦は、第一の渦より少し色が薄かったが、予想以上の速さで大きくなり、西方大陸の全体をもうほとんど覆いつつあった。

「わたしは、オメガであり、アルファである」聖者は什のことばをつぶやいた。
人類よ、おまえたちが、どれだけたくさんの者に、どれだけ愛されているか、おまえたちはいつ知ることができるのか。彼が、自らの氷を溶かすような優しげな笑いをすると、その金の目の奥で、深い愛を語る小さな光の虫がうごめいた。愛よ、おまえはすべてをやっていくだろう。ただ愛する、それだけのために。そして人類よ。おまえたちも、これからやっていくのだ。あらゆることを。あらゆるもののために。
聖者はすぐに元の冷厳な表情を取り戻し、口から呪文を吐くと、青船の入り口からふわりと身を躍らせた。そして地球に向かってまっすぐに下りて行った。自らのやらねばならぬ仕事を、なすために。


河原の土手の上では、るみと什が並んで歩いていた。まだ自分にはしなければならないことがある。什は心の中で繰り返した。るみはだまっていた。什は隣を静かに歩いている、るみのことを思った。るみに出会うまで、自分の人生が、氷のようにさびしかったことを、彼は思った。人に裏切られ、奈落をのたうった日々があった。心がばらばらになるかと思うほど、ひどい罵倒を受け、精神を病んだ。木や花と心を交わし、孤独を埋めた。植物の愛は彼の冷えた心を温めてくれた。しかし、それでも、補いきれない何かを、るみは補ってくれた。るみは確かに、什の人生に暖かい一つの火を灯してくれたのだ。什はまた空を見あげた。

空の雲が白い。白すぎる。

世界の裏で、もう一つ別の世界が、できている。

「人類は助かるよ」什は空を見ながら、るみに、ぼそりとつぶやいた。るみは意味はわからなかったが、什を見て微笑んだ。什は、結婚の話に、イエスともノーとも言わなかった。ただ、笑っていた。るみが自分と一緒にいて、幸せになれるのか、彼には判断できなかったのだ。るみにも什の気持ちはわかった。でもるみは思った。こうして、いつまでも、いっしょに歩いていこう。ずっと、この人の、そばにいる。わたしは、きっとそうする。ただ、わたしがそうしたいから。ただそれだけで、いいから、わたしは…。

るみは什といっしょに空を見た。白すぎる雲が流れている。どこまでも、どこまでも、流れて、広がっていく。愛が、広がっていく。るみは体中に満ちてくる幸福に、たまらなくなった。

愛しているわ!

るみは胸の中にあふれてとまらぬ思いを、唇をかみしめたまま、心の中で、自分の身も割れんほどに、叫んだ。それは隣の什の胸に響き、什が自分の口から吐いた白い蝶の群れに溶けて、ともに世界中に流れてゆく。愛が、流れてゆく。すべてを、変えてゆく。

アルファ。

ここから、始まる。


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