世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-09-13 07:29:29 | 月の世の物語・余編

果てしない砂漠と、墨のような空に浮かぶ、白い月がありました。砂漠の砂は、細やかな石英の砂であり、月に照らされて、砂丘は緩やかに波打ちながらどこまでも続き、けば立つようにかすかな白い光を放ちながら、彼の黒い目に焼きつくようにしみ込んでいきました。

彼は、まるで頭に藁がつまっているかのように何も考えることができず、ただ、ぼんやりと、風景を見ていました。自分が誰なのかも、なぜここにいるのかも、今はわかりませんでした。ただ、記憶というものは、透明な見えない風となって、時々自分の背中をひっそりとなでにきました。彼はそれを感じると何か恐ろしいものを見るような予感がして、震えながら身を縮めるのでした。

世界は静寂に満ちていました。彼の体はミイラのように干からびており、悲哀のかげが頭の中をよぎっても、流す涙もありませんでした。胸の重い虚ろが、内臓にこびりついた癌塊ように痛みました。それでも彼は、痛みに苦しむ声すら上げることができず、ただ、砂の上にじっと座っているばかりなのでした。

「やれやれ、やっと下りて来れた」ふと、後ろの方から声がしました。しかし彼は、そちらを振り向くことすらできませんでした。声の主は足音をたてて、ゆっくりと砂の上を歩いてくるようです。「やあ、ひさしぶりですね」なつかしさを感じる声が聞こえたかと思うと、声の主は、彼の視界に入るところまで歩いてきて、そこにゆっくりと座りました。その人は背中に負うていた竪琴を膝に乗せ、彼をやさしく、少し悲しげな目で見つめ、微笑みました。

「ずいぶんと長くここにいるような心地がしているでしょう。ここでは時を長く感じますから。でもほんとは、三日ほどしか経っていないんですよ。あなたが死んでから」
竪琴弾きが言いました。男は、砂の上についた自分の手を震わせ、動かそうとしました。彼に、抱きついて、泣き叫んでしまいたいほど、さびしかったからです。でも、手は動いてくれませんでした。竪琴弾きはまた微笑み、一息の優しい呪文を言いました。すると、男の目から涙が流れました。竪琴弾きは、目を閉じ、しばし沈黙して、ただ微笑んでいました。やがて彼は目を開け、彼に言いました。
「苦労したんですよ。ここに来るまで。ほんとはもう、あなたには会えないはずだったんだが、お役所に何度もお願いして、特別に、会いに来てもいいというお許しを頂いたんです。どうしても、お別れする前に、一度だけ、お話がしたくて」

「は、はな…し…」男は、言いました。竪琴弾きの魔法で、少し、しゃべることができるようになったからです。竪琴弾きは、胸の中に愛の痛みを感じつつ、微笑みを変えずに彼を見つめ、言いました。
「あなたとは、長い付き合いでしたね。いつも、いつも、同じことを、わたしはあなたに、言っていました。あなたはそのたび、うるさそうに横を向くだけで、何も聞いてはくれなかったけれど、わたしは、いつかきっと、あなたが分かってくれるときが来ると信じて、言い続けてきた。様々なことが、ありましたね。あなたは泥蛙になって臭い泥沼に沈んだり、猿になって永遠の行列について行ったりしたこともあった。時々わたしはあなたに会いに行って、よく言ったものだ。『少しはわかりましたか』と。あなたはいつも、わたしを邪魔者扱いして、いやな顔をするばっかりで、はやく帰れとでも言いたげに背を向けましたね…」そこでしばし、竪琴弾きは目を固く閉じてうつむき、しばし何かをこらえるように唇を噛んでいました。肩が少し震えています。男は、きょとんとした目で竪琴弾きを見ていました。

やがて竪琴弾きは顔をあげて、静かに言いました。「あんなことも、こんなことも、今思えば、いい思い出だ。苦しかったこともあったが、わたしたちは決して憎み合っていたわけじゃなかった。あなたがいた。わたしがいた。そしていろいろなことがあった。でも、こんな形で、お別れする時が来るとは、思いもしませんでした。…どうです?今でもあなたは、思っていますか?地上で悪いことでもずるいことでもなんでもして、人を馬鹿にして、自分が一番にして、金持ちになって偉い人になって、なんでも自分の好きなことをやれるようになるのが、一番の幸せだと」

それを聞いた男は、竪琴弾きの顔から目をそらし、何か言いたいのを我慢しているように、ふう、と深い息を落としました。竪琴弾きは静かな目で彼を見ていました。彼の手にはいつしか白い書類がもたれており、彼はそれを読みながら言いました。

「あなたのためにこの仕事をするのも、これが最後です。いつものとおり、まずは反省してみましょう。あなたは、このたびの人生で、詐欺をやりましたね。それも、とても大きな詐欺を」竪琴弾きが言うと、男はぎろりと目をむいて竪琴弾きをにらみました。彼は邪気を放ちましたが、竪琴弾きは竪琴を弾き、それを清めました。竪琴の音は、砂漠の中でまるで一つの光の流れのように、どこへともなく響き去っていきます。
「毎度のこと、あなたはいつも、人をだまして金をとることばかりの人生を送ってきましたが、今回はひどかった。ここまでくると、もうぼくの手には負えません。それどころか、月の世の地獄の手にさえ、負えません。どういうことかは、これから説明します。いいですか、驚かないで下さい。あなたはもう、この月の世にも、いることは、できません。地球にも、生まれることは、できません。ここは、あなたが、次の世界に行くための、準備の場所なんです。ぼくが来なくても、誰かが教えに来てはくれるのですが、特別に、ぼくがそれを説明しにくることを、許してもらいました」

そういうと、竪琴弾きは、ほろりと、頬に涙を流しました。目の前の男は、信じられないという顔をして、震えて竪琴弾きを見つめていました。「な、なんで…」と男が言いかけたとき、竪琴弾きはそれに声をかぶせるように、言ったのです。

「なぜ人は、人を侮辱することを、やめないのですか!」その声は、何もない砂漠の空気を、一瞬、ガラスのように割りました。「あなたは、自分を偉くするために、何人もの人を侮辱し、あるいは、卑怯な手を使って殺しました。その中に、決して侮辱してはいけない人がいたのです。その人を侮辱してはおしまいだと言う人を侮辱したのです。いいですか、その人は…」
竪琴弾きは、真実を男に教えました。男は、まるまると目を見開き、首を振りながら、言いました。「う、うそだ、あ、あんなやつが…!」

「いいですか。もうそれをやったら、おしまいなのです。あなたは、地球と人類を破滅させたと同じことをしたことになります。しかも、永遠にここからいなくなれとまで、彼に言ったのです。その言葉はあなたに返ってきます。いなくなるのは、彼ではなく、あなたです。あなたは、人をだまして金と権力を得、まるで神のようにふるまい、あるはずのないところから金を魔法のようにひねり出しては、それで様々な事業をなし、自分のなしたことを誇りながら、造化の神、創造の神とはおれのことかとさえ言った。誰も聞いてはいなかったと思ったでしょう。でも神の耳は聞き逃さなかった。あなたは神のようになりたかった。最高のものになりたかった。だから自分より美しいと感じた彼を、いかにも卑怯な方法で罠に落とし入れ、破滅のふちまでおいこんだ。彼は精神を患い、孤独の苦悩の底をのたうちまわり、一時は自殺まで考えた。そしてあなたは、彼の苦しみを嘲笑い、頭の悪い奴は死ねばいいと言ったのです」
竪琴弾きの頬は涙でぬれていました。男は、重い手を砂から引き抜き、それを上にあげようとしましたが、できずに、手をまた下におろしました。彼は竪琴弾きを、殴ろうとしたのです。

竪琴弾きは、罪びとから感じた邪気を、竪琴を鳴らして清めました。そして深く息を吸って、吐くと、また竪琴を鳴らして、自分を落ち着かせました。そしてさだめられた呪文を唱え、小さく神への儀式をした後、ふうと、息を吐き、罪びとを真剣な目で見つめて、言いました。

「これからは、わたしは神の代行としてあなたに言います。あなたに定められた運命を告げる、これは儀式です。あなたはそれに、否と言うことは、できません。否と言っても、それは無効になります。願わくは、あなたが、これをあなたに言わねばならぬものの苦しみを、わかってくださるように。…罪びとよ。あなたには、神によって、新しき名が授けられます。その名を、『エロヒム』と言います。万物創造、唯一絶対の神」

男はそれを聞いて、一瞬呆けたような顔をしました。神?自分が、神になるのか?
それは、生きていたとき、男が考えていたことを、神がかなえて下さったかのようにも思えました。しかし、彼には、どうしても自分を神と思うことができません。そんなことができるものか、絶対にできはしない。生きているときはともかく、死ねばだれもが神を知っている。あのすばらしい神を知っている。

竪琴弾きは、感情を奥にしまい、事務的に続けました。「あなたは、神になりました。よって、これからあなたは、あなた一人の力で、世界を、新しい世界を、創造しなくてはなりません。よって、あなたは、既存の世界である、地球にも、月の世にも、もちろん日照界にもいることはできません。『あるところ』としか今は言えないところに、これから行かねばなりません。そこがどこなのかは、行けばわかります。あなたは、永遠にここから去ります。戻ってくることは、できません。もう一度言います。あなたはそこで、神のように、自分だけの力で、世界を創造しなければなりません。自分の創った世界では、きっとあなたはたったひとりの神としてたいそう敬われ、拝まれることでしょう」

竪琴弾きはすべてを言い終わると、呪文を唱え、小さな儀式をし、神に祈りました。

男は、茫然と、聞いていました。何かを言おうとしましたが、喉に何かが詰まっているように、声を出すことができませんでした。ただ、涙が流れて、ほたほたと砂に落ちました。

「唯一にして孤独なる永遠の神エロヒムよ、あなたの世界は、幸福に満ちているでしょうか」竪琴弾きは、悲しく言いました。

ふと、何かの音に気付いて、竪琴弾きは空を見上げました。すると、白い月が何かを言いたげに、かすかに揺れています。竪琴弾きは目を細め、静かな声で言いました。「ああ、もうすぐだ。残り時間は少ない。もうあなたとは会えない。せめてもの、ことばです。どうか、聞いてください。これしか言えることはない。わたしは、あなたを、愛していました。深く、愛していました。信じてくれなくてもいい。ただ、ずっと、愛していました。そしてきっと、これからも、愛することでしょう」そう言うと竪琴弾きは、柔らかな指を躍らせて琴糸を弾き、この上なく美しい旋律を奏でました。アメシストの上で踊る光の群れのような清らかな涼しい音が砂漠を流れました。月が、最後の別れを言うように、一筋の水晶の光を、男のそばに落としました。

風が吹きました。男は急に寒さを感じ、「ああ」と言いました。竪琴弾きは目をつぶりました。見たくはなかったからです。月の光が、男に布のようにおおいかぶさり、その身にしみ込んでいきました。そして、だんだんと男の姿は、光に溶けていきました。まず、指がなくなりました。そして、腕がなくなり、足がなくなりました。臍の方から始まって、だんだんと胴体もなくなってゆき、最後は首だけになりました。鼻が、消えました。片目が、消えました。そのときになって、初めて、男は、はっきりと何かがわかり、まだ残っていた口で言ったのです。

「あ、あああ、あああ、に、にいさん、愛してる。おれも、愛してるよ!」

彼の頭が消えたのは、そのすぐ後でした。竪琴弾きは、男の気配が砂漠から消え去っても、竪琴を弾くのをやめませんでした。閉じた目から滂沱と涙が流れました。彼の指は狂ったように速く流れ、激しい音楽は、喉を切る叫びのように割れて、一瞬風のように砂漠の砂をふきあげました。

どれだけ時間が経ったか。いつしか竪琴弾きはぼんやりと砂漠の上に座って、男がいなくなった砂の上を見ていました。そこにはまだ、彼が座っていた跡の小さなくぼみが残っていましたが、それも風に吹かれて、やがて消えていきました。

彼は、一息呪文を歌い、悲哀を清めると、立ち上がりました。そして月の空を見あげながら、言いました。「神よ。どんな無駄だと思える努力でも、未来を信じてなしていくことを、わたしはやめません。わたしは、すべての人を、幸せにしたい。それは決してかなうことのない夢かもしれない。けれどわたしは永遠にその夢を追いかけてゆく。神よ、わたしは、そういう者です」どこからかやわらかな風が吹き、くっきりと光る彼の頬の輪郭をなでてゆきました。
竪琴弾きが、足元を見ると、彼が最後に残していった愛のかけらが、砂の上に残っていました。竪琴弾きはそれを拾い、呪文をかけて小さな水晶の玉にすると、自分のポケットにしまいました。そして彼の代わりに、彼のさみしい愛を、美しい歌にして、歌ったのでした。

ああ いかないでおくれ
消えないでおくれ
おまえが いないとさみしい
おまえが いないとくるしい

でもそれが くるしくて
わたしはいつも おまえをいじめるのだ
おまえがいると くるしいのだ
だって
おまえがいないと くるしいから

ああ いかないでおくれ
いとしい いとしいひとよ…


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