われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず。(為政)
わたしは、十五歳のときに、学問を志した。三十歳になって、一人前に立つことができた。四十歳になると、仕事に迷いや失敗がなくなった。五十歳になり、何をするために自分が生きているのかを、知った。六十歳になると、人の意見に素直に従えるようになった。そして七十になると、自分の自由に振舞うことが、そのまま愛になった。
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このことばは、作りすぎの感じがあるので、孔子本人のことばではないと思います。けれども、人の人生を総合的に考える上で、とても参考になると思い、取り上げてみました。
多分、後世の儒学の徒が、自分の人生を振り返って語ったことばを、きっちりとしあげて、孔子にさしあげたのでしょう。堅苦しいですが、生真面目な人が作ったんだなという感じです。若い頃から一生懸命に勉強して、仕事もなんとか勤め上げ、年をとって、いいおじいちゃんになったんだな、という感じ。幸せな人生だったのでしょう。
こんな人生が送れたら、ほんとうに幸せだと、わたしも思います。
しかし、現代の人間は、ほとんど、学問の道を志す寸前の、15歳で、成長をやめます。それ以上、勉強することをやめてしまうのです。その理由は、前にも言いましたが、高校の教育課程で、世間の実態を、子供たちが知るからです。
まじめにやる人間はバカを見る。それが当たり前になっていることを、はっきりと知る。そしてそれから、人は学ぶことをやめてしまう。
もちろん勉強はしますが、それは人格を豊かにするための学びというより、人生をうまくやるために知識を吸収するという程度のものです。それでは、人間の人格は成長しない。要するに、ほとんどの人は、大人にはならない。幼児性を残したまま年齢だけが成熟し、「うまくやる」人間だけがのし上がれる社会に適応するために、バカばかりやるようになる。
それが正しい、になってしまっている。そういう現実の中で、自分の人格を肥やすための勉強を続けることは、至難の業です。よほど環境に恵まれているか、本人に強さがなければ、続かない。
まじめに勉強しようとするものは、徹底的につぶされる世界。自分よりよくなるものは、絶対だめだという人々が、社会の偉いところにいるという世界。だから子供たちはおとなしく、自己主張を極力せず、自分はバカですよという顔をして、何とか生きしのぐことを覚える。
子供たちが成長しない、あるいはできない世界。これは本当に苦しい。
勉強をして、自分を豊かにしたい人はたくさんいる。それをまっすぐに表明できない世界で、人々は今、どんな風に学んでいるのでしょう。
荒れ野にも咲く花はある。彼らはどこで、いったいどんなことを学んでいるのか。きっと苦しいことはたくさんあるだろう。でも、きっと、生きているだろう。
生きているでしょう。