中人以上は、もって上を語ぐべし。中人以下は、もって上を語ぐべからず。(雍也)
(ちゅうじんいじょうは、もってかみをつぐべし。ちゅうじんいかは、もってかみをつぐべからず。)
それなりの素養をもっているものでなければ、心の話はできません。
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少々我流の訳ですが。要するに孔子は、それなりに基礎ができあがっているものでなければ、難しいことを教えることはできないと言いたかったのでしょう。まだ段階の幼いものには、心の難しい問題は、理解ができないからです。
もっともこんなことを今言えば、差別発言ととられて、世間から抹殺されかねません。とにかく現代は、何でも差別発言になるのではないかというくらい、それに敏感です。それで返って、面倒なことになっている。
もちろん、卑劣な差別は悪ですが、なんでもかんでも差別だということにして、よいものまで悪いものにして、つぶしてしまうという現実がある。勉強の進んだものにたいして、あまり進んでいないものが、差別だから勉強をやめろ、という現実があるのです。これはあまりに愚かです。
難しい問題を解決できる才能と力量を持っているものが、力を発揮しなければならないところで、することができず、事態が難しいことになりきる、ということがある。それはそれは大変なことになるのです。
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君子は義に喩り、小人は利に喩る。(里仁)
勉強の進んだものは、義を先に考え、まだ進んでないものは、我利を先にする。
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心の問題をまだ理解するのが幼い段階の小人は、利を先に考えてはばかりありません。それをすればだれが困るなどと、まだ考えられない。まずは自分を生かすのが先。それはすなわち、子供の段階です。子供は何よりも、自分が生きることが真っ先ですから。だれよりも多く食べようとする。
自分がいちばんいい、でなければ、苦しすぎるから、なんでも自分のためだけにやってしまう。それが小人です。彼はまだ小さい。
その小人が、大きなことをしなければならない役を、ただかっこいいからというだけでほしがる。そのために、その仕事ができる勉強の進んだ人を、排斥し、つぶしてしまう。自分よりいいものがいると、困るから。それで、相当に困ったことになる。
孔子の発言は、差別発言ではなく、才能を持ったものを掘り起こし、よい教育を施し、多くの人間をよくするための仕事をする人材を育て上げたい、ということだったのです。そういう人が育ってこそ、まだ段階の進んでいない人たちも、それぞれにあった勉強が安心してできるようになる。
人々のために、社会のために、私利を考えずに、ただ「義」のために行動することのできる人間、それを育てたい。そのために彼は、よい人間を探していたのでしょう。
「義」によって行動すること。それは、この「心」の存在を感じ、その苦しみを理解している人間でないとできないのです。