譬えば山を為るがごとし。いまだ一簣を為さざるも、止むはわが止むなり。譬えば地を平らかにするがごとし。一簣を覆すといえども、進むはわが往くなり。(子罕)
(たとえばやまをつくるがごとし。いまだいっきをなさざるも、やむはわがやむなり。たとえばちをたいらかにするがごとし。いっきをくつがえすといえども、すすむはわがゆくなり。)
例えばそれは、山を作るようなものだ。もっこ一杯の土も運ばなかったのも、やらなかったのは自分がやらなかったのだ。例えばそれは、平地を作るようなものだ。たった一杯のもっこを運んだのも、それは自分がやったのだ。
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今日は、昨日と同じく、絵を紹介しようと思ったのですが、今朝方写真に撮ったその絵を見て、あまりに苦しそうな顔だったので、やめてしまいました。また、次の機会に紹介したいと思います。気のせいか、絵を紹介したときは、閲覧の回数が多いような気がするので♪
さて。孔子のことばがすきなのは、それが実際、とてもわかりやすい、やりやすい、というところにあります。当たり前のことを、当たり前に書いてある。本当に、ただそれだけ、ということを、すんなりと書いてあるのが、とても心地よい。
この世に苦しみを感じる人は、厭世的な宗教や思想を採用して、やたらと大きなことを考えたがり、この世を越えたがるのですが、わたしはそれは、害はあっても、あまりいいことはないような気がするのです。
人間は人間で、すばらしいことがたくさんできるのですから、それをやったほうがいいのではないかな。それは、人間を越えた神様や天使みたいになりたい、と願う人の気持ちはわかりますが、阿呆のように大きすぎることを考えても、どうにもならない。人間には、地球を創ったり月を創ったりすることはできません。空よりも大きな鳥や、海よりも大きな魚を、想像の中でもてあそぶことは面白いですが、それはそれで、想像力を遊ぶ、というだけで、やめておいた方がいいと思うんですよ。
実際にやろうとすれば、むなしさが広がるだけです。できないことをやろうとすれば、自分にはなにもできない、という感じになり、生きることは苦しいだけになってしまう。できることはいっぱいあるのに、それをやろうともしなくなる。みんなつまらない、くだらないことになってしまう。
自分に備わっている二本の手、二本の足、想像力と知恵の詰まった頭、悲しみも喜びもすべて感じる心、なにもかもを自分で決める自分。それら、実在の自分を、今使ってできること。目の前の一山の土を、一籠はこぶ。それだけで、できることがある。そのほうがずっとすばらしいし、楽しい。
この世界には、面白いことがいっぱいあるんですよ。楽しいことがいっぱいあるんですよ。あらゆる美しいものが、あふれるほど存在している。掘っても掘っても掘りつくせない宝物が一杯ある。人間には、それがすべてわかる。それをなぜ、やろうとしないのか。もっこひとかつぎ、するだけで、この楽しい「自分」をやることの幸福が、わかる。
阿呆みたいに難しいことを考えてもしょうがない。とにかく、今、目の前にある一山の土を見てごらん。できることがある。それをやってごらん。おもしろいったらないんだよ。できるんだよ、それ。おまえは、やれるんだよ。
それをやるのも、やらないのも、すべては、「自分」なのだ。
自分、こそが、すべてなのだ。
君はそんなにも、すばらしいものなんだよ。
もっこ一杯の土、運んでみなさい。できるんだよ。見上げるような高い山も、広やかな田園も、すべては、そこから始まるんだよ。