去年の夏の、カマキリの幼生です。大人っぽいけど、翅がないので、子供だってわかる。夏のカマキリはいとおしいですね。いっぱしに、獲物はとるけれど、どこか苦しい。残酷になりきるに、ためらいがあるような。がんばって、男になろうとしているかのような。
愛することだけで、生きていけたら、どんなにか幸せだろうと、よく思います。愛だけでは、生きていけない世界。苦しいこと、痛いことをせねば生きていけない世界。けれど、だからこそ、ここで愛が滅びてしまったら、あまりにもむごいことになる。ひどく愚かなことが生じてしまう。
昨日は、少々きついことを言いましたが、それはそれで、必要なことだったと思っています。言わなければわからないということもある。今の世界では、愚かなことが当たり前のように行われている。正しいことを言ったり、やろうとすれば、それだけで阿呆呼ばわりされて、阿呆に作り上げられる。そして殺される。
それが当たり前になってしまえば、あまりにも阿呆なことをやっても、何もわからずに、ずっとやりつづけて、とうとう歯止めがきかなくなり、ひどすぎることになってしまったりする。そういう実例が、昨今、たくさん出てきました。人々は、人間はもともと愚かなものだと決め付けて、いいことをしようとするものを、阿呆と決め付けて、やめろ、やめろ、とあざ笑い続けて、とうとう、愚か者だけが正しいという世界にまでしてしまった。これは大変なこと。阿呆でなければ、生きていけないのです。
痛いことをやり続けて、周りを苦しめ続けていれば、やがてとてもひどいことになって、それでもごり押しで、周囲の口をふさぎ、無理やり自分が正しいにして、もっとやり続けた。そしてもっとひどいことになっても、その現実にふたをし続け、もっともっとやり続けた。そして、あまりにふくれあがって、ひっくりかえって、あふれかえって、溺死状態になっても、まだやろうとしている。
なぜやるのか。それは、自分がまちがっていたという事実が、大嫌いだからです。それがいやだから、自分だけが正しいという世界を仮構の島に作り続け、気がついたときには何もない、という現実が開けても、目をつぶりつづけ、やってきたことのすべてが、痛い請求書になってつぶてのように返ってきはじめても、ありもしない夢の隠れ家にかくれて、まだ王侯のようにふんぞり返ろうとしている。
いやだ、いやだ、いやだ。すべていやだ。なにもかも、阿呆だ。こんなのはすべて夢だ。
これが愚かさの結末です。実際にこういう例はたくさんあります。過去にもいっぱいありましたが、現代は、すさまじいことになっている。あまりにもひどいことになりすぎている。
もともとの発端は、いとも簡単なことでした。他人よりも、自分がバカなんだってことに、がまんがならなかった。だから、自分以外の人間はみんなバカにしてやろうと、ひどいことを始めた。みんな、自分が大嫌いだったから、ほかのやつが、自分ではないってだけで、すごくうらやましかった。だから、あまりにひどいことをして、自分ではないやつはみんなバカだにした。それでなければ、自分が自分であることに耐えられなかった。なぜなら、自分は、あんまりにバカなことをするから。こんなやつ、大嫌いだから。
バカなんだ、自分は。そう思った人間は、苦しさのあまり、愚かなことをし続ける。自分が、ひどいやつだということが、苦しすぎるから、ずっとやりつづけてしまう。すべてがくだらぬ愚かなものでなければ、生きていけないほど苦しい。辛い。おれはなんでもやって、ずるいことでもなんでもやって、えらいいいものになる。苦しいほどすごいものになる。そして君臨してやる。すべて阿呆だ。俺様に従え。俺様が偉いんだ。
こうして、人間は、絶対の神にさえなる。いえ、要するに、絶対の神というのは、自分がいやになった人間がつくりあげる、究極のエゴの姿なのです。それにはだれも逆らえない。自分がいやな人間は、絶対の神になれば、永遠に安らげると思う。しかしそれは、永遠の死にほかならない。虚無以外のなにものでもない。
自分がいやだ。ただそれだけで、おそろしいほどひどいことが起こる。それが真実なのです。愚か者はこの真実に目をふさぎ続け、永遠に自分を攻撃し続ける無間地獄に陥ってしまう。一昔前は、詩人のレトリックのように思えたこのことが、恐ろしい現実となって眼前に現れ始めている。それが今。
さて。
どうするべきですか。