日本列島旅鴉

風が吹くまま西東、しがない旅鴉の日常を綴ります。

活動回顧録 2018 - 風雪の日本海

2019-01-22 22:40:29 | 旅日記
去年の活動を振り返るにあたって特筆すべきことといえば、何といっても北陸がいの一番に挙がります。新幹線の開業前に足繁く通った当時、これほどのことは後にも先にもなかろうと思っていました。ところが去年、記録的な大雪に見舞われた北陸へ、残雪を見に行くつもりが長期化し、花見をしてから帰るという、新幹線開業前をもはるかに超える長旅となったのでした。一連の旅としての長さ自体、それまでの大規模活動と比べても突出していたわけではありません。しかし、雪解けから桜が咲くまでの一部始終を見届けられたことは、自身にとって何物にも代え難い経験となりました。
しかし、年初の時点ではいずれそうなることを知る由もありません。北陸への汽車旅に始まる、風雪の日本海を旅した一月後半の活動を振り返ります。

・汽車旅in北陸 2018(1/20-22 3日間)
新幹線の開業により、北信越の在来線は分断されて、見るも無残な姿に変わり果てました。唯一の救いだったのは、金沢を境に分断されたことです。これにより、北陸を周回して戻る一筆書きの経路が俄に有用となりました。右回り、左回りのいずれでも、金沢以西に残った北陸特急に乗車できるだけでなく、金沢にも寄れて一石二鳥という寸法です。新幹線開業後初となった三年前の汽車旅が、思った以上の成功を収めたことから、以来冬の恒例行事の一つとなったのでした。
本活動の特徴として、三年にわたってほぼ同じ行程を繰り返してきた点が挙げられます。これは、元々の行程が理にかなっていたということでもあります。週明けを休み、左回りに周回していくことにより、呑み屋の定休日をかいくぐりつつ、富山、金沢、名古屋の三都市を渡り歩けるという寸法です。宿替えをしつつ、金沢に連泊できるという点でも理想的でした。
しかし、理想的な状況も何度か続くとありがたみが薄れてきます。自分にとっての例を挙げれば、高遠の桜と仙台の「光のページェント」です。高遠では満開かつ快晴、仙台では適温無風という好条件を何度も経験した結果、多少のことでは驚かなくなりました。この活動についても、過去二回が出来過ぎだったこともあり、今になって振り返ると印象としては若干弱いものがあります。金沢の雪景色を眺められたのはよかったものの、乾いた雪が舞い降りてきた前年には及びませんでした。当然ながら、印象の鮮烈さという点では初回を超えることもありません。今回北陸に車を置いて一旦戻り、週末に再開するという方針に転換したのも、趣向を変えたいという考えがあってのことなのです。
もっとも、趣向を変えること自体を目的化するつもりはありません。どのみちあと何回も繰り返せるものではないからです。新幹線が敦賀に延びる数年後には、このような工夫の余地すら無効化され、北陸は新幹線で直行直帰するだけの不毛地帯に成り下がります。今しかできない活動なら、やれるだけやっておくのも一興でしょう。今年については試しに趣向を変えるものの、来年からは元々の行程に回帰する可能性もありそうです。

・風雪の越後を行く(1/27-28 2日間)
常々申している通り、往生際の悪い性分です。その気質を見事に発揮し、またしても115系の惜別乗車を名目に新潟へ旅立ちました。
撮影についてはその前々年の秋をもって潔く切り上げました。その時点では、乗車についても遅かれ早かれ潮時だろうと思っていたのです。ところが、これが最後といいながら、さらに何度も「惜別乗車」繰り返してきました。これは、本数の大幅な減少により、一日中撮り続けることはできなくなったものの、数少ない運用を捕まえれば、依然として一日中乗り続けることはできると気付いたからです。同じ編成で行ったり来たりするしかなくなったという点で、いよいよ後がなくなってきた感はありながらも、雪中の力走を今一度見届けるべく旅立ったのでした。
こうして出発したところ、初日については惨敗でした。そもそもの発端は、信越本線に不通区間が出てしまったことです。ただし大雪、強風のためというありがちなものではなく、「線路の安全確認」なる名目であり、何が原因なのか、いつ復旧するのかも未知数でした。しかも不運だったのは、運行状況を念入りに確かめてから出発したにもかかわらず、その直後に不通の知らせが入ったことです。今更引き返すこともできず、どうにかなると高を括ってそのまま強行したところ、まさしく踏んだり蹴ったりの散々な結果となってしまいました。
まず、上越妙高から新潟まで、今はなき「くびき野」の流れを汲む快速列車で下ろうとしたところ、依然復旧しておらず、直江津で運転打ち切りとなってしまいました。やむなく柏崎まで安普請の新車で下り、115系で運用される越後線の列車に乗り継ごうとするも、強風やら分岐器の不転換やらで難航し、結局逃してしまいました。またもや新車で後を追いかけ、折り返してくる115系を待ったところ、今度は運用の変更により新車で運転されているという誤算が。これにより打つ手がなくなり、投宿地となる長岡へ移動してあえなく終了という顛末ですorz
今になって振り返ると、よくもまあこれだけの不運が重なったものだと思います。それにもかかわらず、敗北感がほとんど残らなかったのは、その不運を翌日に引きずることなく、よい形で活動を終えられたためでしょう。少なくともその時点では、有終の美を飾ったつもりだったのです。ところがさらなる往生際の悪さを発揮し、年末には性懲りもなく再び乗車することになります。
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