球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

時の洗礼

2008-01-18 | たぶん難解な話
まだ生きている作家には、価値がない。

十年、二十年…
時の洗礼を生き残ったものこそ、本物だ。
と20代の男が語り、そこに淡い憧れを抱いた世間知らずの少年がいた。



あるいはそれは10年後や20年後でも支持され続けることを指すのだろうか…
簡単に人々の記憶から色あせないことを、"時の洗礼を生き残る"と呼んだのだろうか。
少年はそのように解釈した。

いずれにせよ、少年はそういった作品に触れることが
自分を少し粋な大人に見せてくれるような気がして、嬉しくて仕方がなかったのである。

少年は青年になった。
"12年か…"
そう、青年はふと思い出した、時の洗礼という言葉を。
青年がまだ少年と呼べる時分、周りの皆がとある"対象"についてよく話していたことを思い出した。
少年は黙ってにこにこしながらその"対象"を見つめた。
でも、そこまで興味がわかず結局触れずにしまったのだった。

そして12年経ち… 青年は"対象"に対峙する。
洗礼を受けた"対象"が、産み落とされたときとはまた別の
細く強い光を放つことを期待した。
…勿論、産み落とされたときの光など、彼には知る由はないのだが。

そして、触れた"対象"は…
懐かしく甘く少し官能的で、陳腐化した奇妙さを内包していた。
『この年でのめりこむというのは、皆より12年命が遅れているということではないのか…』
という不安が急に頭をよぎった。

あはは、今なら、僕だって、みんなの話に混ざれるんだ、はは、は…

別に彼は気が狂ったわけではない。
ただ、とても粋な気持ちになれると思っていたものが、
想像よりも"恥ずかしい"気持ちで満たされてしまっていることに気がついてしまったのだった。

彼は、"時の洗礼"について、10年や20年では足りないことを
今後の人生で吹聴するのだろう。
コメント
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