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古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

古典の季節表現 夏 祈雨/雨乞

2015年06月29日 | 日本古典文学-夏

天平感寶元年閏五月六日以来起小旱百姓田畝稍有色至于六月朔日忽見雨雲之氣仍作雲歌一首 [短歌一絶]
天皇の 敷きます国の 天の下 四方の道には 馬の爪 い尽くす極み 舟舳の い果つるまでに いにしへよ 今のをつづに 万調 奉るつかさと 作りたる その生業を 雨降らず 日の重なれば 植ゑし田も 蒔きし畑も 朝ごとに しぼみ枯れゆく そを見れば 心を痛み みどり子の 乳乞ふがごとく 天つ水 仰ぎてぞ待つ あしひきの 山のたをりに この見ゆる 天の白雲 海神の 沖つ宮辺に 立ちわたり との曇りあひて 雨も賜はね
この見ゆる雲ほびこりてとの曇り雨も降らぬか心足らひに
 右二首六月一日晩頭守大伴宿祢家持作之
賀雨落歌一首
我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ
 右一首同月四日大伴宿祢家持作
(万葉集~バージニア大学HPより)

 日のてりはべりけるに、あまごひの和歌よむべきせじありて
ちはやぶる神もみまさば立ち騒ぎ天のとがはの樋口(ひぐち)あけ給へ
(小野小町集~日本古典全書)

四十六番
 右 祈雨 僧宗久
天雲のはやたちなひく水主の神に手向を猶やかさねむ
 (略)右祈雨といふは。雨の御祈也。大かた雨ごひをする社。おほく延喜式に見え侍内。水主神も有にやとぞ覚ゆる。
(年中行事歌合~群書類従6)

ひをへつつたみのくさはのかれゆくにめくみのあめをいかてそそかむ
(慈鎮和尚「南北百首歌合」~校註国歌大系21巻)

筑前守にて国に侍けるに、日のいたくてりけれは、雨の祈りにかまとの明神に鏡を奉るとてそへたりける 藤原経衡
雨ふれと祈るしるしのみえたらは水かゝみとも思ふへきかな
(新続古今和歌集~国文学研究資料館HPより)

高倉院御時、炎旱年をわたりけるに、承安四年内裏の最勝講に、澄憲法印御願旨趣啓白の次(ついで)に、龍神に訴申て、忽(たちまち)に雨をふらして、当座に其賞をかうぶりて、権大僧都にあがりて、上臈権少僧都覚長が座上につきけり。其時の美談此事に有けり。俊恵法師、喜びつかはすとてよみける、
 雲の上にひゞをきけば君が名の雨と降ぬる音にぞ有ける
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)

能因入道、伊予守実綱にともなひて、彼国にくだりたりけるに、夏の始日久くてりて民のなげきあさからざるに、神は和歌にめでさせ給ものなり、こころみによみて三島にたてまつるべきよしを、国司しきりにすゝめければ、
 天川(あまのかは)苗代水にせきくだせあまくだります神ならば神
とよめるを、みてぐらにかきて、社司して申あげたりければ、炎旱の天、俄にくもりわたりて、大(おほき)なる雨ふりて、かれたる稲葉おしなべてみどりにかへりにけり。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)

保延五年五月一日、祈雨奉幣有けり。大宮大夫師頼卿奉行せられけるに、大内記儒弁さはり有てまゐらざりければ、宣命を作べき人なかりければ、上卿忍で宣命をつくりて、少内記相永が作たるとぞ号せられける。此宣命かならず神感あるべきよし自讃せられけるに、はたして三日、雨おびたゝしくふりたりけるとなん。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)

 長和五年の夏、炎旱旬月に渉(わた)りて、人民之(こ)れを愁ふ。仍(よ)りて公家旁(かたがた)祈祷を致さると雖(いへど)も、其(そ)の験(しるし)無き処に、深覚僧都六月九日の暁、祈雨の為(た)め独身にして神泉苑に向ふ。内府此の事を聞き及びて、使を遣はして制止して云はく、「若(も)し其(そ)の応無くは、世の為(た)めに咲(わら)はるるか。尤(もっと)も不便(ふびん)なり」と云々。僧都云はく、「深覚田畠を作らず。全く炎旱を愁ふべからず。但(ただ)し国土の人民を思ふが為めにする許(ばか)りなり。試みに祈請せむと欲(おも)ふ」と云々。香炉を執(と)りて、乾麟閣壇上において苦(ねんごろ)に祈請する間、未(ひつじ)の刻に及びて陰雲忽(たちま)ちに起こり、雷電声有り。暴風頻(しき)りに扇ぎ、雨脚沃(い)るが如しと云々。時の人之(こ)れを随喜す。
(古事談~岩波・新日本古典文学大系)

(長和五年五月)二十九日、壬申。
(略)この日、丹生・貴布禰両社に黒馬を奉献した。神祇官の者を使者とした。
(長和五年六月)八日、庚辰。
内裏に参った。昨日と一昨日が、天皇の御物忌であったことによるものである。また、方忌(かたいみ)が有って参らなかった。この何日か、炎旱であった。そこで輔親を召して、神祇官において御祈雨を奉仕させた。
九日、辛巳。
朝から雨気が有った。申剋の頃から、風雨が有った。天雲の陰気が広がった。異雨のようであった。電雷が有った。丑剋の頃、雨が止んだ。月光が明晴であった。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(長和五年六月)○九日辛巳。権大僧都深覚於神泉苑被修請雨経法。依炎旱也。然間。未剋。大雨降。
(日本紀略~国史大系11巻)

承和六年四月戊辰(十七日)
勅により、松尾・賀茂上下・貴布禰・丹生川上雨師・住吉の諸社に奉幣して、祈雨を行った。また、七日間『仁王経』を十五大寺で読み、あわせて平安京外の崇められ霊験のある山寺で同様に転読させることにした。ともに春から本日まで、雨が降らないことによる。
辛未(二十日)
もっぱら七道諸国の国司に命じて、名神に幣を奉り、よき雨を祈願させた。
壬申(二十一日)
従五位下高原王らを遣わして、伊勢大神宮に奉幣して祈雨を行った。
本日、祈雨のための使を山城国宇治・綴喜・大和国石成・須知等の社に遣わした。他の諸国では国司に祈雨を行わせた。
戊寅(二十七日)
百人の僧を八省院に喚んで、三日間、『大般若経』を転読し、祈雨をした。このため諸司では精進食をとった。本日、夕刻から雨が降り出し、終夜続いた。
(続日本後紀~講談社学術文庫)

承和十二年四月癸卯(二十七日)
畿内の名神に奉幣して、祈雨(あまごい)をした。
承和十二年五月丁未朔(一日)
百人の僧を大極殿に喚んで、三日間、『大般若経』を転読し、よき雨を祈願した。
己酉(三日)
雨が降らないので、さらに読経を二日間延長した。
辛亥(五日)
五月五日節(端午節)を停止した。またさらに読経を二日間延長した。
壬子(六日)
よき雨が降った。
癸丑(七日)
雨がなお、降り続いた。読経が終了して、僧たちは退去した。差をなして布施を賜った。
丙辰(十日)
天皇が次のように勅した。
 この頃十日間も雨が降らず、稲の苗が枯れかかり、田植えの時期に当たって農業に被害が出るのではないかと恐れていたが、今、適切な雨が降り、村々では農作業に赴いている。しかし、畿外の諸国では水が十分であるか不明である。そこで、五畿内・七道諸国に命じて、名神に奉幣し、併せて神社ごとに祈雨(あまごい)をし、よき雨が降るよう祈願すべきである。もし雨が降りすぎると水害が発生するので、奉幣して、祈雨の時と同様にして止雨を祈願せよ。
(続日本後紀~講談社学術文庫)

天長九年五月戊申(十七日)
百人の僧侶を八省院に喚んで、『大般若経』を読んだ。祈雨(あまごい)のためである。また使人を行法に習熟した僧の居住する山に遣わして、読経させた。
己酉(十八日)
天皇が次のように勅した。
 去年の秋稼(しゅうか)が稔らず、諸国から飢饉が報告されている。今年は疫病と日照りが続いて起こり、人も物も失われている。さらに各地で火災が発生して、民は住居を失っている。五畿内・七道諸国で七日間『金光明最勝王経』を転読し、禍いを転じて福とすべきである。
五畿内諸国に指示して、『大般若経』『金剛般若経』を転読し、この間殺生を禁断させることにした。
庚戌(十九日)
八省院で読経したが、適雨は降らず僧侶たちは中庭で身を陽光に曝して、心をこめて祈願した。午の刻が過ぎるころ、微かに雨が降った。大和等四畿内の国司に命令して、神社ごとに幣料(みてぐらりょう)として五色の絹各一丈・名香一両、竜形料として調布五段を充て、祈雨をさせた。
日照りを内裏で卜(うらな)ってみたところ、伊豆の神が祟りをなしているとでた。
辛亥(二十日)
卯の刻に雨が降ったが、すぐに止んだ。
(日本後紀~講談社学術文庫)

大同三年五月壬寅(二十一日)
黒馬を丹生の雨師神に奉納した。祈雨(あまごい)のためである。
(日本後紀~講談社学術文庫)

天長四年五月辛巳(二十一日)
使人(しじん)を畿内・七道諸国に遣わし、奉幣して祈雨(あまごい)を行い、百人の僧を大極殿に招いて三日間『大般若経』を転読した。
丙戌(二十六日)
祈雨のため少僧都空海に仏舎利を内裏へ持ち込ませ、礼拝して香水(こうずい)をかける灌浴を行った。亥の刻が過ぎると空が曇り、雨が降りだし、数刻後に止んだ。地面が三寸ほど潤ったが、これは仏舎利の霊験の感応によるものであった。
(日本後紀~講談社学術文庫)

霊亀元年六月十二日
 太政官が次のように奏上した。
 日月の運行が普通でなく、日照りが旬日にわかっています。恐れますのはこのままでは春の耕作ができず、収穫にも損害が出るでしょう。昔、周の宣王は旱にあって雨を祈り、「雲漢の詩」をのこしました。また漢の武帝は雨を乞うために、年号を天漢(天の河)と改める詔を出しました。人に君たるお方の願いは、天帝をも感応させます。どうか諸社に幣帛(みてぐら)を奉って祈り雨を降らせ、人民に稔りを得させるならば、聖天子尭にも比すべきお力をお持ちになると知りましょう。
六月十三日
 詔があって、諸社に幣帛を奉る使者を遣わし、名山・大川に祈らせた。すると数日を経ずして時節にかなった雨がたっぷり降った。時の人々は、天子の徳に天が感応してこうなったと思った。そこですべての官人たちに身分に応じて禄を授けた。
(続日本紀~講談社学術文庫)

(長保二年六月)二十一日、丙寅。
今日、丹生・貴布禰二社の祈雨使(きうし)を定められた。「蔵人を使とする。明日の巳・午剋」と云うことだ。(略)
二十二日、丁卯。
今日、右大臣が祈雨使発遣の上卿を勤めるということを奏上された。丹生使は蔵人右衛門尉(菅原)高標〈検非違使〉、貴布禰使は蔵人右衛門尉(源)兼宣である。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

慶雲二年六月二十六日
諸社に幣帛を奉って雨乞いをした。
六月二十七日
太政官が次のように奏上した。
 このごろ日照りが続き、田や園地の作物は葉が日焼けしてしまっています。長らく雨乞いをしてみても、恵みの雨が降りません。どうか京・畿の行ないの清らかな僧たちに、雨乞いをさせると共に、南門を閉じて市の店を出すことをやめ、慎みたいと思います。
奏上は許可された。
(続日本紀~講談社学術文庫)

(貞観三年五月)十五日戊子、使者を京に近き名神七社に遣り、幣を奉りて雨を祈りき。告文に曰(い)ひけらく、
「天皇が詔旨と掛けまくも畏き八幡大菩薩の廣前に申し賜へと申さく。此者経日(ひあまねく)雨ふらずして、百姓(おほみたから)の農業(なりはひ)枯れ損ふべし。掛けまくも畏き大菩薩の恵む矜(めぐ)み賜はむに依りてし、甘(よ)き雨普く降りて、五穀(いつくさのたなつもの)豊に熟(みの)るべしと念行(おもほしめ)してなも、散位従五位下和気朝臣彜範(つねのり)を差し使して、禮代の大幣帛を捧げ持たしめて奉出(たてまだ)す、此の状(さま)を平(たひらけ)く聞し食(め)して、甘(よ)き雨忽(たちまち)に降らしめて、天の下豊年に有らしめ賜ひ、天皇が朝廷を、寶位(あまつひつぎ)動くこと無く、常磐堅磐(ときはかきは)に護り賜ひ矜(めぐ)み賜へと、恐み恐み申し賜はくと申す」と。自餘の社の告文此れに准(なら)へ。
十六日己丑、諸大寺の僧六十口を御在所に請じて大般若経を転読せしめ、三箇日を限りて訖(をは)りき。甘雨を祈りしなり。
(訓読日本三代実録~臨川書店)

(貞観十七年六月)三日甲寅、(略)。是の日、使者を山城国賀茂御祖、別雷、松尾、稲荷、乙訓、貴布禰、大和国丹生川上の七社に分ち遣りて、幣(みてぐら)奉り、丹生川上には黒馬を奉りき。以て嘉■(さんずい+「樹」のつくり)(あめ)を祈りしなり。
八日己未、従四位下行左馬頭藤原朝臣秀道を春日の神社に遣り幣(みてぐら)奉り兼ねて祷(いの)らしめき。斎女(いつきめ)を奉りて甘雨を祈らむとせしなり、告文に曰ひけらく、「天皇が詔旨と掛けまくも畏き春日の大神の廣前に、恐(かしこ)み恐みも申し賜へと申さく。近来(このごろ)経日(ひまねく)渉旬(ながきにわた)りて、雨澤(あめ)降らずして、百姓(おほみたから)の農業(なりはひ)枯れ損ふべし。仍りて茲(こゝ)に卜(うら)へ求めしに、皇大神の斎女奉らざるに依りて、此の災(わざはひ)を致し賜へりと卜(うら)へ申せり。是故の怠(おこたり)に非ず。今必ず卜(うら)へ定めて、奉(つか)へ仕(まつ)らしめむ。仍りて且つ其の由(よし)を祷(いの)り申さしめむとしてなも、従四位下行左馬頭藤原朝臣秀道を差使(つかひつかは)して、禮代(ゐやじろ)の大幣帛を捧げ持たしめて奉出(たてまだ)し賜ふ。此の状(さま)平けく聞(きこ)し食(め)して、甘雨(よきあめ)忽に降し、五穀茂く熟(みのら)して、天皇が朝廷を常磐堅磐(ときはかきは)に、夜の守(まもり)日の守に、護(まも)り奉り賜へと、畏(かしこ)み畏み申し賜はくと申す」と。左衛門佐五位上藤原朝臣利基を山城国大原野の神社に遣りき。其の祷(いのり)春日の社と同じ。告文に曰ひけらく、云々、春日の神社に准(なら)ひき。
九日庚申、従四位下行大舎人頭有佐(ありすけ)王を遣りて、伊勢の大神宮に向(おもむ)きて幣(みてぐら)奉らしめきい。以て甘雨を祈りしなり。
十三日甲子、使者を十五大寺に分ち遣りて、大般若経を転読せしめ、寺毎に新銭を充(あ)つること或は二貫、或は三貫なりき。雨を祈りしなり。
十五日丙寅、六十の僧を大極殿に屈(ま)せ、三箇日を限りて大般若経を転読せしめき。十五の僧、神泉苑に大雲輪請雨経法を修(ず)しき。竝びに雨を祈りしなり。
参議正四位下行勘解由長官兼式部大輔播磨権守菅原朝臣是善、従四位上行左京大夫輔世(すけよ)王を遣りて、深草山稜に向(おもむ)き、過(あやまち)を謝して恩(みめぐみ)を祈らしめき。神祇官の雨ふらざる祟(たたり)は山稜の樹を伐りしに在りと言(まを)せしを以てなり。
十六日丁卯、申の時、黒雲四合し、俄(しばら)くして微雨あり、雷数声、小選(しばらく)にして開霽(は)れ、夜に入りて小雨ありて、即ち晴れき。是より先、山僧有り、名は聖慧(しゃうゑ)、自(みづか)ら言ひけらく、雨を致すの法有り」と。或る人右大臣に言(まを)す。即ち須(もち)ゐる所の用度(ようと)、紙一千五百張、米五斗、名香等を給(きふ)しき。聖慧受け取りて将(も)ち去る。大臣の家人津守宗麻呂に命じて、聖慧の修(ず)する所を監視せしめき。是の日、宗麻呂還(かへ)りて言(まを)しけらく、「聖慧西山の最頂(いたゞき)に紙米を排批(はいひ)し、天に供へ地を祭り、體を地に投げて慇懃に祈請す。此の如くにして三日、油雲石に触れて山中に遍(あまね)く雨ふりき」と曰(まを)しき。
十七日戊辰、未の時雷電微雨し、食頃(しばらく)して乃(すなは)ち霽(は)れき。
十八日己巳、大極殿の読経、神泉苑の修法、更に二日を延(のば)しき。未だ快■(さんずい+「樹」のつくり)を得ざればなり。
廿三日甲戌、雨ふらざること数旬、農民業を失ふ。経を転じ幣を走(はしら)し、仏神に祈請すれども猶未だ嘉澍を得ざりき。古老の言に曰(い)ひけらく、「神泉苑の池中に神龍有り。昔年炎旱(えんかん)して、草を焦(こが)し石を礫(くだ)きき。水を決(ひら)きて池を乾(ほ)し、鍾鼓(しょうこ)の声を発せしに、時に応じて雷雨しき。必然の験(げん)なり」と。是に勅(みことのり)して、右衛門権佐従五位上藤原朝臣遠経を遣り、左右衛門府の官人衛士等を神泉苑に率(ゐ)て池水を決出せしめ給ひき。正五位下行雅楽頭紀朝臣有常、諸楽人を率て、龍舟を泛(うか)べ鍾鼓を陳(つら)ねて、或は歌ひ或は舞ひ、聒(かまびす)しき声天に震(ふる)ひき。
廿四日乙亥、寅の時雷細雨あり、須臾にして乃(すなは)ち霽(は)れ、未の時雷数声にして雨を降らしき。但し京城の外(ほか)は塵を湿(うるほ)すに及ばざりき。
廿五日丙子、申の時、電雷小雨あり、少時(しばらく)して天晴れき。
廿六日、丁丑、廿四日より今日(このひ)迄、神泉苑に池を乾(ほ)し楽を挙げて昼夜輟(や)まず。是(こゝ)に至りて楽人衛士等に禄を賜ひて罷(や)めき。
廿九日庚辰の晦、雷雨、小選(しばらく)して乃ち止(や)みき。
秋七月辛巳の朔、午の時、雷数声にして小雨し、食頃(しばらく)して晴れ、申の時、雨を降し、夜に入りて乃ち霽(は)れき。
二日壬午、使を遣りて幣(みてぐら)を賀茂御祖、別雷、松尾、稲荷、乙訓、木島、貴布禰、丹生川上の八神社に班(わか)ちき。雨を祈りしなり。
三日癸未、従四位上行民部大輔潔世(きよよ)王、散位従五位下有能(ありよし)王を遣りて、楯列山稜に向(おもむ)き百姓(たみ)の陵の中の樹を伐りしことを申謝(ことわりまを)し、兼ねて甘雨(あめ)を祈らしめき。
(訓読日本三代実録~臨川書店)

(寛仁二年五月)二十一日、壬午。
(略)内裏、および中宮の許に参った。土御門第に行って、造営を検分した。「先だっての朔日(ついたち)の頃、雨が一、二日、降った後は、久しく降らなかった。そこで神祇官の御祈、および七大寺の御読経、竜穴社(りゅうけつしゃ)の御読経を行なうという宣旨が下った」ということだ。
(寛仁二年六月)三日、甲午。
「大極殿において、百口(く)の仁王経御読経を修(しゅ)せられた。摂政は、これに参った」ということだ。「内裏に帰り参った際、御前の儀は無かった」ということだ。
四日、乙未。
左右の獄の未断の軽犯者二十一人を赦免された。これは炎旱によるものである、また、今夜、請雨経法を始めた。仁海が修した。また、五竜祭(ごりゅうのまつり)を行なった。(安倍)吉平が行なった。
八日、己亥。
「大極殿の御読経が結願した後、また、僧網(そうごう)が申請していた無供(むく)の御読経を始めた。五百口の僧を招請した」ということだ。この日、雨が降った。未剋から戌剋に及んだ。二つの御読経に、感応が有ったのである。また、仁海の御修繕の効験である。(藤原)家業を遣わして、夜に入って、仁海の許に慶びを伝えた。「百口の御読経に度者を賜った」ということだ。「摂政は、大極殿に参った」ということだ。
十一日、壬寅。
「祈雨の奉幣使を定めた」ということだ。
十三日、甲辰。 請雨経法結願
未剋から雨が降った。仁海の請雨経御修繕が結願した。最も感応が有った。
十四日、乙巳。
夜通し、雨が降った。辰剋に大雨となった。一日中、天が陰(くも)って、時々、小雨が降った。この日諸社に奉幣使を発遣した。丹生・貴布禰両社は、蔵人が使者となった。
(寛弘元年七月)十四日、丙申。
一日中、陰(くも)っていた。時々、小雨が降った。夜に入って、大雨が降った。右頭中将が天皇の仰せを伝えて云ったことには、「(安倍)晴明朝臣が五竜祭を奉仕したところ、天の感応が有った。被物(かづけもの)を賜うこととする」ということだ。早く賜うべきである。雷声は小さかった。
一六日、戊戌。
天が晴れた。大外記(滋野)善言(よしとき)朝臣を召した。明日、議定する事が有るので、諸卿にその事を申すよう命じた。夜に入って、内裏に参った。候宿した。(藤原)説孝(ときたか)朝臣に命じて、竜穴社の御読経をまた奉仕させた。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(安貞元年四月)十八日。天晴る。(略)僧正祈雨、結願を致し了んぬ。僧正正に申すと雖も許さず。追ひて申し請ふべきの由仰せらると云々。御拝賀後の事不功といへり。来たる廿三日遂げらるべしと云々。
廿一日。天晴る。夜半許りに大雨忽ち降る。二の長者僧正来談さる。祈雨四箇日にして雨降る。賞を申すと雖も(正僧正)、又以て許さず。結願退出し了んぬ。又僧綱二人を申す。猶許すと仰す語無し。此の験已に三度。此の如き事、今世更に優劣の沙汰なし。只懐旧の思ひ有りと云々。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

十六日 甲申。快晴 去ヌル月ヨリ今ニ至ルマデ一滴モ雨降ラズ、庶民耕作ノ術ヲ失フ。仍テ雨ヲ祈ル事ヲ鶴岡ノ供僧等ニ仰セラルルノ処ニ、江島ニ群参シ竜穴ニ祈請スト〈云云〉。
(吾妻鏡【承元二年六月十六日】条~国文学研究資料館HPより)

十四日 *(*辛卯)甘雨*(*降)終日休止セズ。日来炎旱、三十余日ニ及ブ。仍テ鶴岡ノ供僧等、雨ヲ祈リ奉ル事、第三日ニ当ツテ、此ノ雨有リ。法験掲焉タリ。万人感嘆スト〈云云〉。
(吾妻鏡【貞応元年六月十四日】条~国文学研究資料館HPより)

【天福元年六月二十五日】二十五日。戊戌。晴。炎旱已ニ三旬ニ及ブ。州民皆西収ノ儲ヲ失フ。仍テ弁僧正定豪并ニ鶴岡ノ供僧及ビ大蔵卿法印良信等ニ仰セテ祈雨ノ御祈ヲ始メラル
【天福元年六月二十七日】二十七日。庚子。申ノ刻ヨリ亥ノ四点ニ至ルマデ、雷鳴甚雨。上綱已下御巻数ヲ捧ゲ、周防ノ前司親実之ヲ執進ス。先ヅ御馬御剣ヲ以テ、両人ノ宿坊ニ送遣セラル。藤内ノ左衛門ノ尉、信濃ノ左近将監御使タリ。
(吾妻鏡~国文学研究資料館HPより)

【延応二年六月二日】二日。乙未。炎旱旬ヲ渉ル。祈雨ノ法事、日来若宮ノ別当法印ニ仰セラルト雖モ、効験無キニ依リ、今日、勝長寿院ノ法印良信ニ仰セ付ケラルト云云。
【延応二年六月九日】九日。壬寅。良信法印祈雨ノ法ヲ奉仕スト雖モ、今ニ其ノ験無シ。仍テ今日、永福寺ノ別当荘厳房僧都ニ改メ仰セラルト云云。
【延応二年六月十一日】十一日。甲辰。前武州ノ御亭ニ於テ臨時ノ評議有リ、三个条ノ事ヲ定ム。(略)
今日、晴賢ノ朝臣、師員ノ朝臣ニ属ケテ、申シ入レテ云ク、後三条院ノ御当年ノ星令日曜ニ当リ御フノ時、天下炎旱ナリ。関東ハ又、貞応年中、故禅定二位家日曜ノ星ニ当ラシメ給フノ間、鎌倉旱魃ス。時ニ属星、日曜、七座、泰山府君等ノ祭ヲ行ハル。并ニ霊所ノ御祓、十壇ノ水天供訖ンヌ。今年御所ノ御年二十三。日曜ノ星ニ当ラシメ給フ。例ニ任セテ御祈祷有ルベキカト云云。早ク其ノ沙汰有ルベキノ旨、仰セ下サルト云云。
【延応二年六月十五日】十五日。戊申。祈雨ノ為、日曜ノ祭并ニ霊所七瀬ノ御祓ヲ行ハル。泰貞、晴賢、国継、広資、以下平、泰房、晴尚等之ヲ奉仕ス云云。
【延応二年六月十六日】十六日。己酉。祈雨ノ為、安祥寺ノ僧正孔雀経ノ御修法ヲ始行セラルト云云。
【延応二年六月十七日】十七日。庚戌。酉ノ刻俄ニ雨降ル。程無ク晴ニ属ク。地ヲ湿スルニ及バズ。
【延応二年六月二十二日】二十二日。乙卯。鶴岡ノ宮寺ニ於テ、最勝王経ノ御読経ヲ行ハル。夜ニ入テ属星ノ祭ヲ始行ス。権ノ暦博士定昌ノ朝臣奉仕ス。是レ皆祈雨ノ為ナリ。佐渡ノ前司基綱、兵庫ノ頭定員等奉行タリ。
【延応二年七月一日】七月小。一日癸亥。将軍家御不例ノ事、昨日ヨリ御減ト云云。今日、炎旱ニ依リ水天供ヲ行フベキノ旨、鶴岡ノ供僧等ニ仰セラルト云云。出羽ノ守行義之ヲ奉行ス。
【延応二年七月四日】四日丙寅。祈雨ノ為、別ニ十壇ノ水天供ヲ始行セラル。法印定親、良信、良賢等之ヲ修ス。
【延応二年七月八日】八日。庚午。夜ニ入テ雨少シク降ル。地ヲ湿ス能ハズ。
【延応二年七月九日】九日。辛未。雨下ル。水天供ノ験徳カ由沙汰ニ及ブ。但シ猶滂沱スル能ハズ。今暁、六波羅、越後ノ守時盛帰洛ス。匠作ノ事ヲ作リ参向スル所ナリ。今日ニ於テハ、関東祗候ヲ聴サルベキノ由、此ノ間頻ニ愁ヘ申スト雖モ、恩許無シ。去ヌル五日進発スベキノ由、四日、前武州平ノ左衛門ノ尉盛綱ヲ以テ、度度相ヒ催サル。然レドモ五日ハ太白ノ方ノ由、申シ請ケ延引スト云云。
【延応二年七月十一日】十一日。癸酉。水天供。昨日七个日ニ満ツト雖モ、猶延引セラルト云云。
【延応二年七月十三日】十三日。乙亥。辰ノ刻甚雨。巳ノ時晴ニ属ク。水天供ノ間、数度ノ甚雨有リ。仍テ奉仕ノ僧各御剣一腰ヲ賜ハル。又御剣ヲ鶴岡ニ奉ラル。神馬ヲ二所三島等ニ送リ進ラルト云云。
(吾妻鏡~国文学研究資料館HPより)